Ⅰ. コーヒーの飲めなかった僕へ
――それは、予想をはるかに上回る衝撃だった。
「……!」
最初の一口、その衝撃的な味わい。ぼう然としながらも、つい反射的に飲み下したそれは、気のせいか、喉をすべり落ちていく感触までわかるような気がして。
(――待て。ちょっと待て、俺)
俺は心の中で、必死で自分に語りかける。
(耐えろ。耐えろ耐えるんだ俺。出すな。……絶対、顔に出すんじゃねえ!)
目の前では、文字通り「最愛」の、てかもうそんな言葉じゃ伝えきれない「超最愛」「人類最強に最愛」の、わが娘・ひなた六歳が、立ったまま俺を見守っている。
「……おいしい? パパ」
妻に似た柔らかな声。直後に近づいてきた、こちらは俺そっくりの奥二重の目に、至近距離から顔をのぞきこまれる。
ああ、なんて澄み切った瞳。ふわふわのほっぺ。
――ムギギ、と、俺は全力で口角を上げた。
「……すっげーうまい。ありがとな、ヒナ」
さすが一年生。
そう言って頭をなでると、愛娘は嬉しそうに笑って、スキップしながらテレビの前に戻って行った。
手のひらに残る、猫の毛みたいな細い髪の感触。
……くー! ああもう、一体全体どうすりゃいいんだ。ひなたのやつ、どこもかしこもめちゃくちゃかわいいじゃねーか!
ムリ! 俺もう、かわいさで! 殺される! サンキュー神様!
(……じゃなくて)
俺は深い息をはくと、娘の愛らしさはさておき、まずは自分の演技力を神に感謝した。
(――さて)
テーブルの上、水色のマグカップの中には、一口分しか減っていないコーヒー。
妻の出かけた土曜日の朝。一緒に留守番中の最愛の娘(大事なことなので二回言う)が、「初めてひとりで」「大好きなパパに」淹れてくれた、インスタントとはいえ涙の出るほど嬉しい一杯。ではあるのだが。
俺は小さくため息をつく。ただでさえなで肩の肩がさらに落ちて、後ろ姿はきっと、椅子に座った矢印みたくなっちゃってることだろう。
カップの中のコーヒー。
残念なことに、これが、びっくりするほどの薄さで。
……まずかった。味といい、香りといい、そりゃもう、カフェインとは別の意味で、目が覚めるほどに。
いわゆる「泥水みたいなコーヒー」って、こういうことなんだろうな。って俺、飲んだことないけど、泥水。
まあ、考えてみれば、仕方ないことなんだ。ミルクと砂糖にちょっとだけコーヒー、っていうカフェオレしか飲んだことのないヒナに、コーヒーの濃さなんてわかるはずがないんだから。
とはいうものの。
「……参ったな」
俺は片手で顔を覆った。
参った。
さっきの衝撃。
あれは、薄すぎるコーヒーのせいだけじゃない。
――思い出してしまったんだ。黒歴史。こっぱずかしい、あの頃の自分。
「……どっこいどっこいだったかも。俺の、あれも」
動揺で、心の声が思わず口からもれた。
俺は慌てて、背後の娘の様子をうかがう。幸い、父親のうかつな発言は、アニメに夢中のヒナの耳には届かなかったらしい。
(あのコーヒー……よく飲んでくれたもんだよな)
思い出すだけで、冷や汗が出る。
ほんと、素敵な人だった。あの人は。
大学三年の頃。同じ研究室にいた、院生の先輩。
長い髪、傍らには煙草とコーヒー。いつも夜遅くまでパソコンに向かってた、細い後ろ姿。
なにかと教授にしごかれていたのは、きっと期待の裏返し。自分の論文はもちろん、飲みでも共同研究でも大活躍で。社会人の彼がいるって噂だったけど、ゼミの内外を問わず、彼女のファンは大勢いた。
先輩より二歳も下で、ゼミの発表も語学もパソコンスキルもぱっとしない、ついでに身長もちょっと負けてる俺ができることなんて、夜中の作業中、コーヒーを淹れることくらいで。
でも、悲しいことに、その頃の俺は飲めなかったんだ、ブラックコーヒー。実家じゃ特売で買ったインスタントに、砂糖とミルクをがっつり入れたやつが定番で。大学に入って一人暮らしを始めてからも、丁寧に淹れられたコーヒーを飲む機会はなく。砂糖もミルクも入れないコーヒーの美味しさなんて、知らなかった。
あれは確か、共同研究の締め切り前のことだった。
部屋のあちこちの灰皿にたまった吸い殻。余裕のないやりとり。疲労のピーク。
あの頃は、今ほど喫煙に厳しくなかったから。ヘビースモーカーだった教授の部屋の中は、深夜になるといつもうっすら煙って見えた。
俺は、先輩の身体が心配だった。あんな細い身体で、ろくに食べずに煙草の本数ばかり増えて。
せめて、カフェインは減らせたら。
いつものインスタントコーヒーの瓶を片手に、ふと思って。ほんとはミルク入れたいとこだけど、あの人、ブラックしか飲まないし。
(――これくらいの量でも、いいんじゃねえの?)
そんな、思いつきで淹れたコーヒーを皆に配った後、冷蔵庫からミルクを出して自分のカップに入れる前に、一口だけ味見してみたら。
――吹き出した。マンガみたいに。
「おい、これ淹れたやつ!」
「んだよ、罰ゲームかよ!」
直後に、部屋中から殺到する苦情。ていうか悲鳴。
そりゃそうだよな。淹れた俺自身がびっくりするような、酷い味。
なのに。
すいませんすいません。ひたすら先輩たちに謝りながら、おそるおそる視線を向けた先で。
あの人だけは、黙ってカップを傾けてくれてたんだ。苦笑しながら。
めいっぱい砂糖入れた俺でも、飲めなかった代物だよ? 味がなくて。
なのに。
それからというもの、俺は真面目にコーヒーと向き合うようになった。
……いいんだ。何も言わないでくれ。努力の方向性が間違ってることなんて、わかってる。
おかげで、あれから十年以上たった今では、すっかりブラック派。豆から挽いてネルドリップでいれるまろやかな味は、妻にも好評。
あの人も今頃、どこかで美味しいコーヒーを飲んでいるのだろうか。
ちょっと悔しいけど、彼女にお似合いの素敵な人と一緒にいてくれたら、と願う。
「よし」
思いついて、小鍋を火にかけた。ゼラチンと砂糖も用意して。
証拠隠滅。じゃなくて、有効活用だ。これは。
作業を終えたら、娘と出かけよう。お昼は公園のホットドッグ。帰り道のスーパーで、忘れずに夕飯の食材を買わないと。
今朝早く、用事があると出かけた妻は、最近仕事が立て込んでいるのか、いつも眠そうだ。
たまには一人で、帰りにゆっくりお茶でも飲んでおいでよと言ったのだけど、少しはリフレッシュできているかな。
今夜は、彼女の好きなビーフシチューにしよう。
いたずらっ子のようなまあるい瞳と、きゅっと口角の上がった口元。どこか小動物を思わせる妻の笑顔を思い浮かべたら、自然と頬が緩んだ。
冷蔵庫にそろりと耐熱ガラスの容器を並べて、揺らさないよう静かに扉を閉める。
「ヒナー。公園行くぞー」
呼ぶと、俺と妻の「超最愛」が、とびきりの笑顔で駆けてきた。