彼女の事情9
ヴィオレッタは結局、アシュレイとの婚約解消は出来なかった。その事実だけが重くのしかかる。
あの後アシュレイに渡された小さな箱の中身を確認したのだが、王家に伝わる琥珀の指輪が入っていた。琥珀は女神が地上に降り立ち、このウィステリアの地を創造した際に使用した石だと言われていて、王家の中でも最も重要とされているのがこの指輪だ。そんなものを渡されてしまったという現実に重く頭を悩ませながらも、いつか返す日のために自室の厳重な鍵が付いた箱に仕舞っておいた。
ここまででもかなり頭を悩ませているが、まだまだ問題が山積みだ。
その一つにアシュレイの婚約者兼夜会のパートナーという問題がある。
この国では女性のデビュタントは16歳で迎える。これから二年後の話だ。けれどヴィオレッタの体調不良は二年後も治る予定がない。
なのでいくら体調不良と言っていても、アシュレイの評判を落とさないためにも婚約者として最低限のパーティーにはでなければならないだろう。
最後に話した時、アシュレイはデビュタント後の夜会にも体調が悪いのなら出なくていいと言ってくれていたが、ヴィオレッタはそれだけはどうしてもしたくなかった。いくら体調不良で療養中だと言っていてもデビュタントを迎えたパートナーを伴わないなど、ヴィオレッタがダンスが下手くそなこと以上に王子としての彼の評判を貶めてしまう。
けれどヴィオレッタはあの未来視で視た自分の酷いダンスの事をどうしても忘れられなかった。夜会にパートナーとして伴うのはいいが、あの様な醜態を晒したくはない。
取り敢えずは最低限、未来のヴィオレッタの目も当てられなかったダンスをどうにか人並み程度には踊れるようになりたいと思う。
だがもう、王宮のダンス講師に習うことはできない。休養ということで、それまでヴィオレッタが教えを乞うていた教師たちは暇を出されているのだ。
それに今までも苦手だからと特にそのダンス講師を避けていただけに、今更真面目にやりたいと言って公爵領まで呼び出して頼ってしまうのは申し訳がなく、出来なかった。
しかし、自分を連れて帰ってきてくれた両親にはこれ以上負担をかけたくはない。けれど、何の伝手もないヴィオレッタに講師を呼び出す事など不可能だ―――それも表面上一応は療養中ということになっているので、秘密裏に。
そこである言葉を思い出した。
”私は今日から休暇を取る。だから困ったことがあったらすぐに頼るんだよ”という兄・ロベールの言葉を。
今の自分にはなにもない。だから素直に兄に甘えてみることにした。
***
「……ということなのです。兄様、頼らせて頂けますか?」
「勿論だよ」
部屋を訪ねて、事情を話す。ヴィオレッタの言葉にロベールは驚くくらいに即答した。
了承した後はそのまま様々な場所に送るための手紙を書き始める。やはり兄に頼んで正解だったなと思いながらもその様子を見守ったのだった。
そうして数日後には新しいダンスの講師が公爵家に呼び出された。その講師は王都の中でもかなり腕がいいと評判で、それと同時に厳しいと有名な年配の女性だった。
「貴女は全くと言っていい程にテンポをとれていないのですよ」
そのダンス教師にパートナーをしてくれている兄とのダンスを見せた直後にそう言われた。彼女曰く、音のテンポを掴めなければ、音に合わせて踊れるわけがない、だそうだ。
テンポをつける為にも楽器の一つでも習得してから出直してこいとハッキリと言われた。そんな事実に少し傷つきながらもロベールと顔を突き合わせて相談する。
ヴィオレッタは音楽にも音感にも自信がない。それは幼い頃に起因するものだった。
実は昔、貴族令嬢らしくピアノを習っていた時、指を無理矢理開きすぎて指を痛めたことがあった。それからピアノ……というか音楽はあまり好きではない。なので、ピアノは出来れば嫌だ。ヴィオレッタがそう言うと、ロベールは少し考えてからある場所に連れて行ってくれた。そこには床にはハープやピアノなどの様々な楽器が所狭しと楽器が置かれ、それでも置く場所が足りないのか壁にまでヴァイオリンやオーボエ……他にも何かわからないような楽器まで大量に置かれていた。
「――――すごい数の楽器」
「ああ。ここは私お勧めの楽器店だよ。楽器の質は言わずもがな、店主も見立てが素晴らしいんだ」
昔からロベールはサックスという楽器を嗜む。その腕は今や様々な貴族に演奏して欲しいと呼ばれる程に有名だ。ヴィオレッタも彼の演奏を聴いた時、音楽が分からないにも関わらず、とても美しい演奏だと思った程だ。
「ロベール!久しぶりね!」
「ユーリか、丁度良かった。君に用があってね」
ロベールの説明をヴィオレッタが聞いているとユーリと呼ばれた快活そうな女性が声を掛けてきた。ロベールは ”ユーリは楽器の見立てがすごいんだ。その人の姿や手を見ただけでどの楽器が一番向いているか分かる。実は私もサックスは彼女に見立ててもらったんだ”そう小声で解説してくれた。
(私に向いている楽器ってどんな楽器だろう…!?)
ヴィオレッタはそれに少しワクワクするのが自分でもわかった。
「えっと、ヴィオレッタ。じゃあよろしくね?」
そう言って、何だかよくわからない質問をされながら手を握ったり開いたりさせられたり、握力を測られたり、指や腕をまじまじと撫で繰り回されたり、それだけでなくお腹や脚だったり色々触られたり測られたりしたため、少し緊張しながらも素直に従った。
そうして一つの楽器を渡される。これは――――
「ヴァイオリン……?」
「そう。貴女は、握力もそんなに強くないし何より手の大きさはあるのに親指から小指までの指の幅が少し狭い。だからオクターブも弾くのはつらいでしょう?ピアノ系は向かないわ。それに肺活量もあまり自信がないでしょう?聞いている限り運動もあまり得意じゃないみたいだし、よっぽど演奏したいという楽器がないなら私はまずはヴァイオリンを勧めるわ」
「……弾いてみてもいい?」
「ええ。勿論」
ヴァイオリン。ヴィオレッタはそれを今まで見たことはあったが弾いたことはなかった。けれどユーリに勧められて、何となく弾いてみたいと自分でも思ったのだ。
ユーリが試し弾き用の弓に松脂を軽く擦り、差し出してきた。弓の方はそれなりに使い古してあるようで所々に細かい傷があるが、大事にされているようで持ちやすく、良く手入れが行き届いていることが分かる。
ヴァイオリンを持つため、かつてクラシックの演奏会などで見てきたヴァイオリンの演奏者を思い出す。
(殿下とあの時行ったクラシックの演奏綺麗だったな)
演劇やクラシックの舞台には何度かアシュレイに連れて行ってもらったこともあるので思わずアシュレイの事を思い出してしまった。
ヴィオレッタは楽器のことでまでアシュレイの事を思い出してしまう自分を重症だと思いながらもかつて見たことを真似するように、左肩と左顎で挟むようにして本体を抑えながらも絃を指で押さえ、弾いてみる。その瞬間、ヴァイオリンが自分の体にこれ以上ない程馴染むのを感じた。
触れている部分に心地よい音が反響する。指と顎、肩を通して身体全体に伝わる心地よい音。胃の底をくすぐるように振動するその音にヴィオレッタはすぐに虜になった。
(なにこれ……すっごく楽しいっ!!)
「……決まったようだね」
周りが見えていない程ヴァイオリンに夢中になってしまったヴィオレッタを優しい瞳で見つめたロベールが嬉しそうに呟いた。