焼肉中の襲撃
お前が目を覚ましたのは、腹が減っていたからだ。それはお前にとって、いつものことだった。
そも、文明と切り離された生活を送るお前にとって、考えるべきことといえば空腹のことくらいだ。
お前は、お前の住む小さな部屋の周りに転がる骨みたいに痩せこけた体を、ゆっくりと起こした。それから全身についた土ぼこりを払って、歩き出す。お前がかろうじて通れる程度の穴が、この部屋の入り口だ。
真っ暗な道を裸足で歩く。赤く錆びたようなにおいが鼻につく。これは血のにおいだ。恐らく、何かしらの生き物が、また別の生き物に狩られたのだろう。もし死体が残っていれば、狩りをせずに食事にありつくことができる。お前は走った。
社会性のないお前という生き物は、靴を履いていない。そもそも服すら着ていない。全裸だ。お前は、お前が人間でないことに感謝した方がいいだろう。否、人間であればもっと良い生活が送れていただろうか。なんにせよ、現状お前が素っ裸で走っていることには変わりがない。それを恥だと思う価値観も、お前は持っていない。
暫くの間、巣の中で群れはぐれたアリのような動きで迷宮をさまよっていたお前だったが、ついに神も同情したか。お前は生き物の死体を見つけた。お前が小さな腕で抱き抱えられる程度の大きさの、白い毛むくじゃらの生き物だ。コイツのことを、お前は知っていた。といってもお前には文字という概念がないので、この生き物の名前や、動物学的にどう分類されるのかなどということは全くわかっていない。動物学、なんて存在さえ知らないだろう。お前がこの生き物について知っていることはシンプルだ。つまり、これはほとんどなにも手を加えなくても食べられるものだということである。
お前は、転がっていた石を拾って、その鋭く尖った切っ先を、死体に迷わず突き立てる。小さな体を切り開くと、赤黒い中身が出てきた。手を加えずに食べられるといっても、やはり一切なにも処理しなくていいわけではない。ここでの長い生活の中で、お前はそれをようやく学んだ。お前の小さな手は、もたもたとその動物のはらわたを取り除いていった。
何度やっても覚束ない手つきでようやく作業を終えたお前は、握りこんでいた石に視線を落とす。お前はこの石についても、大したことは知らない。ただ、ここらで拾える石は、お前がじっと見つめてやると、ゆっくりと熱を発するのだということは解っていた。
お前が石に視線を注ぎ続けると、それはじわじわと赤みを帯始める。やがて、持っていられないくらいに熱くなってきたので、お前はさばいたばかりの死体のなかにその石を突っ込んだ。じゅうじゅうと焼ける音がして、こんがりとしたにおいが漂う。こうすれば死体を食べても腹を壊さないのだと、お前は知っていた。学んだのだ。もうあんな思いは二度としたくないものだ、と思う。
死体の肉が真っ黒になるまで焼いた加減知らずのお前は、ただちに食事にありつこうとした。しかし、そんなお前の耳に、ふと足音が届いた。お前はすぐさま振り返った。
――そこにいたのは、お前の見知らぬ生き物であった。相手はけむくじゃらの獣ではなく、二本足で立っていた。腕が体の半分くらいある。あまり食べるところはなさそうだが、胸部に奇妙な二つの塊が確認できた。もしかしたら、そこなら食べられるのかもしれない。しかしそれ以外は、このあたりにうろついている白いけむくじゃらよりも肉付きが悪かった。
お前は食事を放って身構える。この生き物と会うのははじめてだ。そしてお前は、このあたりにいる生き物は、お前にとって食う側か食われる側かのふたつにしか分かれないことを知っていた。お前は生きるため、食われないために全身を強ばらせて警戒している。なんて滑稽なのだろうか。目の前の生き物の形はお前にそっくりだというのに、お前はそれに気付いていないのだ。
相手側は、どうやら何か困っている様子だった。お前が警戒態勢をとかないでいると、相手は口を開いた。
「△$♪×¥●&%??」
何を言っているのか、まったく解らない。けれど、発音はやけにハッキリしている。そういうふうに鳴くのが特徴の相手らしいとお前は判断する。が、現状お前がどうすればいいかの結論はまだ出ていなかった。勝てると判断して攻撃を仕掛けるべきなのか――それとも、死ぬ前に逃げるべきなのか。
「+◇※▲∴÷;¥!”#$」
相手がまた鳴いた。高い声は特に聞き慣れないもので、お前は緊張した。相手は、指先を自分の腰元に伸ばす。何か、曲がった棒みたいなものを掴んでいた。――否、棒というより筒だ。曲がった筒。その先端は、相手の視線と共にまっすぐお前に向けられている。お前は、その不思議なものが何なのか解らなかった。だからお前は、ただそこで構えたままだった。
相手の指が、わずかに動いた。瞬間、鼓膜が割れるんじゃないかと思うくらいに大きな音がした。気の小さいお前は心底仰天した。普段のお前だったなら、べそをかきながらその場を遁走したところだ。お前がそうしなかった理由は単純だ。お前はその音と同時に、意識を失ったのである。もっとも、完全に気絶したわけではない。失神寸前、というやつだ。
足音が聞こえる。お前の全身はどうしてか痺れていて、指先ひとつ動かせやしない。相手は捕食者だったのだと、お前は先程すぐに逃げなかったことを激しく後悔する。しかし、いくら悔やんだって体はびりびりとしたままで、近づいてくる足音から逃れることは出来ない。意識はますます遠のいていく。どれだけ抵抗しても、お前のまぶたはおりていく。
――さて。お前がこれからどうなるのか。実のところ、私には大体の想像がついている。それどころか、お前がどうしてこんな湿っぽい洞穴で一匹で暮らしていたのかも知っているし、お前を攻撃してきた生き物が人間と呼ばれる生物であることもわかっている。が、それは私が語るべきことではないだろう。どうせお前も、すぐに知ることになるのだ。それに、ここから暫くはお前の物語だ。だったら語るのは、お前であるべきだ。
しかし――お前の意識は、もう限界のようだ。お前はこれから、それなりの苦労を背負うことになるだろう。だが、耐えろ。いずれは必ず解放される。
ただ、私は今、ひとつお前に嘘を言ってしまったことに気付いた。どうせお前は聞こえていないことだが、一応訂正しておこう。
お前が先程食事にありつこうとした時、私は「ついに神も同情したか」と笑った。
だが、この世に神などいないのだ。言うまでもなく、お前がこれから先、身をもって知ることである。




