「名前で呼んで?」
……いつからこうなってしまったんだ。
我が校の誇る期待の受験生が書いた期末の答案用紙と睨み合いながら心中でぼやく。赤で大きく『0』と記されたそれに俺は深く溜め息を吐いて、ある一つの意を決した。
──説教してやらなければ。
そうして現代文の夏期補習を計画し、一人の女子生徒含めた補習対象者に必ず来るよう通達するのであった。
テスト期間が終わり、答案の返却が翌日に迫った時のことだ。
それからしばらくして一学期の終業式が終わり、夏休みが始まった翌日。
俺一人しかいない朝九時の(蝉が鳴いていることを除いて)静かな職員室に扉を叩く音が響き、即座に開かれたそこから例の女子が入室した。
「失礼します。三年六組の土田です。東先生はいらっしゃいますか」
そう、土田芦花。彼女が学年成績トップレベルの赤点保持者である。……この表現は駄目だな。学年一を争うほどの赤点保持者だと誤解を招いてしまう。正しくは学年一を争うほどの好成績を収めながら、現代文だけ零点を取ってしまった指導が難しい生徒が適当だろう。
三つ編みの黒いお下げに黒縁の眼鏡。垂れた目に端が吊り上がっている口元、小さめの鼻、日焼けも出来物もない白い肌。学校指定の制服を校則通りに着用していて、ブラウスの第一ボタンの上に留められたリボンのせいで蒸し暑そうだ。ベージュのベストと灰色のスカートも相まって彼女に地味の印象を与えるが、それでも他の生徒や教員から厚い信頼を得ているのは彼女の柔らかな物腰と機転の良さに起因しているからだろう。
……だが何しに来たんだこいつ。
椅子に腰掛けている俺を見つけてはテコテコ歩み寄ってきた彼女に言葉少なに訊ねる。
「どうした? 補習は昼からだぞ?」
「補習だと他の人もいますから」
ニコニコと笑みを絶やさない土田が何を言っているのか理解できない。
反応に困っていると彼女は隣の席の椅子に座って俺と肩を並べだした。
「……」
「ふっふふーん」
しかも鼻歌まで始める始末。本当に何しに来たんだこいつ。
そう思っているのを余所に土田が自分の頭を俺の肩に乗せてきた。すると香料のものだろうか。彼女のミルキーな甘い香りが鼻をくすぐる。
パソコンでの作業の最中、その空気で一息に肺を満たした後、口から大きく息を吐く。そういえば土田の奇行はいつから始まったのだったかと現状に嘆くばかりだ。
その奇行とは、既にやらかしたものもそうだし、いつからするようになったかはっきり覚えていないが俺に構ってもらおうとしたらしき行動の数々を指す。例えば、
・わざと罰点を取る
・一人の時を狙って近寄る
・二人きりの時に限ってボディタッチを図る
という点は察している通りだが、他にも
・答案に自分のメールアドレスを書き記す
・朝と夕方にわざわざ職員室に訪れては俺の元へ挨拶しに来る
・休日での遊びに誘おうとする
などが挙げられる。
何故そんなことを彼女はするのか皆目見当が付かない。だがこのまま放ってしまえば問題になりかねないし、そうなると彼女の将来と俺の教員生活が危うくなる。
何としてもこれを防がねばならない。そうするには彼女とよく話し合う必要がある。そして、彼女に教師と生徒間の距離感を理解してもらって実践させるしかあるまい。ならば、
──丁度良い機会だから今話してしまおうか。
「ところで土田」
「なんでしょうひろみやセンセ」
「距離が近すぎだ」
「触れ合ってるんですから当然ですよね?」
「一方的に触れているの間違いな」
「ひろみやセンセが離れれば良いじゃないですか」
「補習用プリント作ってんの見て分かるだろ?」
「分かりません」
「……」
うん、怒りたい気持ちは分かる。だがここは抑え時だ。
「そもそも何故こんなことをしているんだ」
「こんなことって?」
「くっついていようとする理由は何だと言っている」
「好きだからに決まってるじゃないですか」
「その感情は教師にじゃなくて男子に向けるべきだが?」
「男子で良いならひろみやセンセも良いんじゃないですか」
「前言撤回。こういうのは教師相手にするものじゃない」
「私の知ったことじゃありません」
「……」
……。
……前置きが長いのが良くなかったな、うん。よし、本題に入ってしまおう。
「分からなくとも知らなくとも、教師と生徒の関係は絶対に守らないといけないな」
「嫌だって言ったら?」
「他の高校に異動する。本当は全教科満遍なくそつなくこなせるのに俺が原因で現代文だけ〇点だなんて君自身や親御さんに申し訳が付かないし、今のこれが他人に知られたら君も俺もただじゃ済まないのが目に見える」
これは警告だからな、の一言も付け足して補習用プリントを仕上げる。それを受講者数の分だけ印刷し、出来を確認するため席から立ち上がった。
袖が掴まれ僅かに引っ張られたような気がした。
「……どうせバレないんだから良いじゃないですか」
横を見下ろすと土田が上目遣いで袖の端を引っ張っているのが目に入った。先ほどのニコニコ顔とは打って変わり、彼女の表情には何も浮かべていない。ただ雰囲気からしていかにも甘えたそうな様子をしており、声も囁いているように小さい。
「その自信はどこから来るんだか」
掴まれた手を振り払うでもなく気にするでもなく印刷機に向かう。袖を摘まんでいた指が自然と離れ、「ひろみやセンセの意地悪」とぼやく声に「何とでも言え」と返した。
印刷機が全て刷り終えた合図のピー音を鳴らし、出来たものを手に取り不備がないか確認する。げ、肝心な部分が誤字ってる……。
人数分無駄にしてしまった落胆とボケが始まったことへの焦燥感を抱え自席に戻り修正作業に移る。
隣席に居座っている土田の甘えたな様子は今でも変わらず、「ひろみやセンセの意地悪」と言って俺の肩に頭突きし始めた。
「土田」
「何ですか東先生」
「仕事がしにくい」
「ひろみやセンセなんて補習の時に遅刻しちゃえば良いんです」
左右に揺れる視界の中で打ち込むのはかなり難しく、しかも明確な悪意によって妨害されているときた。これでは流石に邪魔だし本当に補習が遅れかねない。
息を長く吐き出し、作業の手を止め隣の土田を見やる。すると視線に気付いたのか頭突きの嵐が止み、のっそり上がった眼と目が合った。彼女の鼻の天辺から口元に至っては、俺の肩に押し付けているせいで見えない。
「土田」
「その呼び方は正直好きじゃないです」……その割には俺の腕を思い切り抱きしめてないか?
「……下の名前で呼ばないからな?」
そう返した途端、土田の目尻がより垂れ下がり、
「あ、ひろみやセンセ今動揺しましたよね。口の端っこがピクッて」
肩の陰から彼女の顔が飛び出しこちらへと近づけてきた。「ひろみやセンセてば意外とムッツリですもんね?」とニヤニヤしながらだ。
それを押し返して「邪魔をするならもう出て行ってもらおうか」といい加減職員室から追い出した。
その道中にて、ニヤついたまま押されている彼女が「ひろみやセンセの意地悪」なんて楽しそうにほざくものだから「何とでも言え」と溜息混じりに返した。
「あ、そうそう。実はひろみやセンセにお願いしたいことがありまして」
「ちょ、いきなり止まるんじゃない。というか本当に用事あったのか君」
「えへへ、今思い出しまして」
いつの間にか普段のニコニコ顔に戻っていた土田。俺の方へ振り返り、「ひろみやセンセに名前で呼んでほしいんです。下の」「は?」
「だって私がいくらひろみやセンセって呼んでも私のことちっとも芦花って呼んでくれないじゃないですか」
「君さっきの話聞いていたか? 教師と生徒の距離感を考えろ」
「考えてますー。私はちゃんと二人っきりの時と人がいる時と呼び方使い分けてますー」
「……」
頭が痛くなってきた。
まさかこの女子生徒には説教したところで何にも通用しないことが判明してしまうなんて。「ひろみやセンセも二人っきりの時に呼んでくださいよ、芦花って。それ以外は普通に土田で良いですから」なんてそんな話ではないだろう。
「駄目なものは駄目だ」
「せめて一回だけでも」
妥協しすぎだ。……危うく口に出して調子に乗らせるところだった。
「良いからもう行け」
「もう……諦めませんからね?」
そう宣言して扉を開けて退室していった土田を見送ってまた嘆息する。
何か用事があったのかと思いきやただ単純にじゃれに来て、一通り弄んだ後名前呼びを要求しだすとは一体どういうことなのか。加えて彼女に教師と生徒の関係性について説いたところで世間体に対して喧嘩を売る始末だし、このままでは俺も彼女も不幸になりかねない。
いっそのこと教頭に相談を持ちかけるかどうかを頭に巡らせながら、重い足を引きずって修正作業を再開した。
気付けばもうすぐ十一時半になる。補習まであと一時間半だ。
片腕に残った彼女の身体の、あの包み込むような柔らかい感触は、今なお俺を苛んでいる。
「補習受講者、全員集まっているな。それでは今からこの補習プリントを配布する。これは教科書と資料集、それから今までに配った復習プリントをよくよく確認すれば全部埋めることができる。だから分からなくとも諦めずにしっかりと読み込んでほしい。俺は職員室に戻るから、終わったら俺のところまで来て提出するように。不備がなければプリントを返却して補習は終了だ。それと二学期の頭にやる課題考査では一学期の中間・期末に出した問題を中心に出題するので、そのプリントはもちろん夏休みの課題をきちんとこなしテストに臨むように。質問ある人はいるか? ……いないようなので、それでは各自始めてくれ」
冷房をガンガンに効かせた教室にて指示を出し、すぐに職員室へ戻る。ずっとあそこで涼んでいたかったが夏季休業明けのテストを早めに完成させたいのもあったためだ。
「……あー……」
かと言いながら、いざ自分の席に着いてみてもまず腕が動かない。両腕はくたりと肘掛に横たわり、普段使わない背もたれに思い切り身を預けてしまっている。視界に映る景色は一面の天井と規律よく並んでいる蛍光灯だ。
こうなってしまっているのは当然さっきのことに関係する。もちろん電気代の都合で扇風機しか使えず日光による暑さでやられているのもあるが、やはり土田がやらかした一連のアレの比ではない。確かにボディタッチは日常的にあったもののいつもはアレほどではなかった。精々肩と肩がくっついたり向こうが俺の手をベタベタ弄ったりする程度だ。
それが今回ではどうだ。あいつ、思いの外着痩せするタイプじゃないか。
……教師としても大人としてもアウトだな俺。今まで生徒たちにとって最善の結果になるような選択をしてきたというのに、感情を上手く表せないなりにそれとなく彼らを支えることで働き甲斐を見出していたのに……女性の、しかも年端のいかない少女にすっかり弄ばれているではないか。これではムッツリと言われても否定できないし、このままでは俺を構成するモノが音を立てて崩れてしまいそうだ。
『好きだからに決まってるじゃないですか』
『……どうせバレないんだから良いじゃないですか』
『ひろみやセンセに名前で呼んでほしいんです。下の』
「……なーんで俺が好きなんだか……」
流石に今朝のは強烈すぎたせいか土田の声が繰り返し脳内再生され続けている。その一言一言がアイスクリームを舐めるように甘く加工され、じわじわと心を蝕む錯覚へと変貌してしまっている。
「……顔、洗うか」
気休め程度の無駄な抵抗だとどことなく察していながら重たい腰を上げる。向かうのは職員室前の水飲み場だ。
そこに彼女はいなかったのは幸運だと思ったが、何となく何かが引っかかっているような気がした。
「うん、不備なしだな。お疲れ。次は赤点取るなよ?」
「ありがとうございます! 失礼しました!」
顔を洗ってから一時間半ほど経ち、プリントの空欄を全て埋めた生徒たちが五分に一人のペースで来るようになり、さらにそれから約三十分過ぎた頃。
一人を除いたすべての生徒が補習を終え帰っていったが、その肝心の一人が来ない。もちろん土田のことだ。
彼女は入学当初から機転が利く割にどうも鈍いところがあるらしく、彼女を知る生徒や他の教師が言うには今でもしょっちゅうあたふたしている……とのことだが、いかんせん最近のことでそんな印象は持っていない。思っていたより彼女と二人きりになる機会が多かったためだろう。ともかく、もしかすると補習課題に手こずっているのかもしれない。……流石にそれはないな。
そうそう。あたふたしていると言えば、お互い名前を知っていなかった時はよく俺にぶつかって謝り倒していたんだったか。その度に『周囲に気を付けて歩くように』と注意してやったが。ただ、それが数を重ねるごとに件の奇行の頻度が多くなっていったような気がする。
最後に生徒が来てからかれこれ三十分。課題テストを作るモチベーションが付いてきたところでとうとう来てしまった。もちろん土田が、だ。
「ひろみやセンセ、差し入れ持ってきましたよ?」
「補習課題はどうした」
「後で出しますよ」
……最早怒る気すら湧かんな。
ノックせずに入ってきた彼女の手には小さなビニール袋が下げられており、そこから取り出された物を見てみるとそれは少年時代に口にした何とも懐かしいラクトアイスだった。
「おっぱ「それ以上はいけない。これはたまごアイスだ」……ひろみやセンセの意地悪」
不貞腐れながら鋏を借りてゴム容器の先端を切る土田。
そんな彼女からアイスを受け取り、「頂きます」と伝えてゴムに口を付けた。
ゴム特有の何とも言えない臭いと程よく溶けたミルクアイスの甘ったるい味がする。
「じゃあ私も」
そう言って当然のようにまたもや隣に腰掛ける土田。もう一つのゴム容器を切り取り、中身を啜りだした。
そのまま二人揃って黙々とアイスを吸っているのだが、相も変わらず肩に頭を乗せられてしまっている。当然彼女のミルキーな匂いに意識せざるを得ない。
正直言って崩れてはならないモノが溶けてなくなりそうだ。アイスで冷却固定しなければやっていけない程に。
貪るように中身のアイスを頬張ってはアイスクリーム頭痛に襲われ、心の中で悶絶する。
「あっ」
何とか無事に吸いきった頃、隣の声に反射して土田の方を見てみると彼女の顔や手にミルクアイスの残滓が掛かっていることに気付いた。ゴムの圧力で残り少なくなった中身が飛び出してしまったらしい。
「もったいないなぁ……」
そう独りごちた彼女は指に付着した白液を舌で舐めとり、こちらの視線に気付いたらしく……照れたように眉を八の字にして笑みを俺に向けた。
……。
「変な姿勢で食べるからそうなる。服は汚れてないか?」
「あ、はい。大丈夫です」
机上にあったティッシュボックスから数枚取り出し彼女に手渡す。「ありがとうございます」と彼女が顔と眼鏡を拭いているのを余所に二つのゴム容器をビニール袋に詰めてから屑箱に入れた。
「ひろみやセンセ」
「うん?」
ゴミを片付けて一息の間に、「さっきの私、どうでした?」と訊かれた。肩から土田の頭が離れているものの、俯いて眼鏡を拭いているせいなのか前髪が垂れて彼女の表情が読み取れない。
「ドキリと、しちゃいましたか」
「……何に」
「何にって、とぼけるなんてひろみやセンセらしくないですね。もしかして図星だったりしますか?」
……。
「ああ、君が言っているのはアイスを零した時のことか。なんだか懐かしい気持ちになったよ。君が入学してからしばらくはあんな感じで慌てふためいていたんだったなって」
「……」
眼鏡を拭き終えた土田が前髪を手で払い除け顔を上げる。レンズ越しの垂れている目は細くなっていて、一文字の唇はやがてVの字になった。これが意味していることはつまり――
「そう言っている顔には見えませんね。また口の端っこがちょっとだけですけど上がってますよ?」
やってしまった。あまり気にしないようにしていたが、反射でそう連想してしまったのは否定できない。
口端を人差し指で横に引っ張り元の横一線に戻す。「まあ、そんな目で見てもらっても構いませんし、むしろひろみやセンセには意識してほしいですから」の声を聞いて、目を瞑り深く息を吐いた。
「土田。君は何故そこまでして俺の気を惹きたがる? ……いや、好きだからって言っていたんだったな。ならなんで俺なのかを、どうか教えてほしい……駄目だろうか」
「なんでって……やっぱり、自分じゃ分からないんですね」
……?
彼女は何を言っているのかが理解できない。「ひろみやセンセって、私がぶつかるとその度に注意してくれましたよね?」確かにそれはそうなんだが。
「その時、自分がどんな顔をしていたか覚えてますか?」
「……。いや、そもそもそんなこといちいち覚えはしないだろう」
「そうですもんね。でもあの時のひろみやセンセ、注意している癖に私のお母さんみたいな笑顔でしたよ?」
「……は?」
「そうそう。何回かぶつかってしばらく経った時に、一緒に進学した同じ中学の友達から聞いた話なんですけどその友達の担任の表情筋が死んでるっていうのがありました。名前と特徴を訊いたらひろみやセンセのことだったからびっくりしましたよ」
「……俺が笑っていたからってことか?」
「……正直、一目惚れでした。普通は呆れるのに、ひろみやセンセてばいっつも私に怪我はないか訊いて……しかも傍から見たら仏頂面なのに、私の時だけ、笑ってて――」
――なんだか、私だけをちゃんと見てくれているような気がするんです。
「あとは下の名前で呼んでくれたら完璧なんですけど、ね?」
……参った。普段から笑ったり怒ったりだなんてしないから感情を上手く顔に出せなくて、それが周りからは不評で気にしていたのに、まさかこんな……世話を焼いている時に限って表情筋が仕事していたなんて。
これはもう彼女を更生するにも俺の心情的にも手遅れなのかもしれないなと遠い目をしつつ、元のニコニコ顔へ戻った土田に「それは良いから補習課題を出してくれ」と溜め息交じりに促した。
彼女からプリントを受け取り、記入欄に間違いがないか目を通していく。
不備はどこにもなく、空欄ももちろん見当たらない。それはもう完璧な出来栄えだった。用紙の右下にOKを書き入れて彼女に返す。
「はい、お疲れ。もう帰って良いぞ」
「……それだけですか?」
「……名前では呼ばないぞ」
言うと途端に彼女の顔つきが変わり、真顔になる。そうして小首を傾げて「名前で呼んで?」と耳元で囁かれた。
――もう、バレなければそれで良いか。
土田の両肩に手を置き、お互いの目を合わせる。そうして肩を離してから一息に、
「気を付けて帰って、また、二学期に会おう。芦花」
「……大好きです。また、会いに行きます。ひろみやセンセ」
口にして、笑顔で口を付けられた。