大いなる冬 ~【氷狼】ヘイル・ニーヴル~
街の片隅にある食堂。曇りがちとはいえ日は高く昇っており、街中も店も大いに賑わう時間帯。
しかし店内の様子はと言えば、非常に静かなものだった。
人がいないわけではない。席はほぼ満席だ。年若いカップルもいるし、普段なら酒を煽って談笑している大工の一団もいる。そんな彼らをして黙り込み、時折複雑な表情でテーブルの一つを見やる。
そのテーブルには、二人の男がついていた。まず目を引くのは、赤い髪をオールバックにした男。白のストライプが目立つ黒地のスーツに黒のシャツという出で立ち、半分ずり落ちたような格好で椅子に背を預け、木製のラウンドテーブルに革靴のまま足をかけている。
その男が組んでいた腕を解き、片手を差し出す。左に控えていた若者が懐から煙草を取り出し、その手に渡す。煙草を咥えると、指先に炎の魔法を灯して火を点けていく。
立ち上る紫煙。大きく吸い込み、満足げに吐き出す。独特の臭いが、鼻につく。周囲の顰め面を気にすることなく、赤髪の男が言葉を発する。
「おい、エール」
どすの利いた低い声。その言葉に対する反応は、静寂。誰も動かないのを見てとった若者が、さっと立ち上がって怒鳴りたてる。
「エールつってんだろうが早よ出せや!!」
「ひゃ、ひゃひっ!?」
声に驚き、給仕役の少女が慌てて厨房へと駆けていく。ややあって、小さい樽のようなジョッキを盆に乗せ、おぼつかない足取りでテーブルまで運んできた。
「おお、お待たせ、しました」
「おせぇんだよ!!」
チンピラの若者は、悪態をつきながらジョッキをひったくる。その剣幕に恐れをなした給仕は、脱兎のごとく逃げ出した。それを見送ると、若者は両膝を床につけて、赤髪の男へと杯を掲げた。赤髪の音の口の端が歪む。
「フン……ルディ、おめぇも中々面が出来てきたじゃねぇか。その努力に免じて、そいつをやろう」
「へっ、いいんですかバトラーの兄貴?」
赤髪の男バトラーの言葉に、チンピラの若者ルディが驚く。
「あぁ、たまにはいいだろ」
「ありがとうございます!! 頂きます!!」
頭を下げて、丁寧にジョッキを口に運ぶ。一口飲んだ瞬間、ルディは立ち上がり杯をテーブルに叩きつけた。
「何だこのクソ温いエールは!? エールは冷えたやつと相場が決まってんだろうが!! 喧嘩売ってんのか!? オイコラ、どう落とし前つけんだよ!!」
給仕が走り去った方向を睨み、ルディが吠える。誰もが口を噤む。下手に関わりたくないと視線を逸らす。
珍しいことではない。大抵の街で見かける光景だ。戦闘力、すなわち力を持つ連中が、持たないものを支配しているのだ。他ならぬその力を、内にも向けて。
気まずい空気が立ち込める店内。なおもルディが吠えようとしたところで、横槍が入った。
「……たく、下らん」
「アァ!?」
冷めたような声色の、小さな呟きが嫌によく聞こえる。それを聞き咎めたルディが目を向けると、そこには一人の少年がいた。関わり合いになりたくないのだろう、その周囲からは人が消えている。
白に近い灰色の髪に、琥珀色の目。髪と同じような色のマントを身につけたその少年は、無表情のまま、物怖じする様子も無くテーブルに近付いていく。
「何だテメェ?」
「そんなに冷えたエールが良いなら、俺が冷やしてやる」
ルディの訝しむ言葉には答えず、少年はエールに手を伸ばす。途端、彼の周囲の気温が下がる。ルディが身震いしているところに、少年が告げる。
「冷えたぞ」
相手の言葉に眉根を寄せつつ、ジョッキを手に取るルディ。
刹那、少年が動いた。
「まぁ――その前にテメェの頭冷やした方がいい」
ルディがジョッキを手にした瞬間、少年はルディの足を払った。とっさに足に力を込めるが踏ん張りが利かず、ルディは派手にすっ転んだ。手にしたジョッキの中身、よく冷えたエールを頭から被る。何が起こったのか分からず、呆然と眼前の床を見る。よく見てみれば、少年の足下から自分のいる辺りまで、床が凍りついていた。
慌てて立ち上がろうとするルディだったが、その時には少年の渾身の蹴りがその鳩尾を貫いていた。それが止めとなったのだろう、ルディの体から力が抜けていく。
「ガキ、テメェ自分が何してんのか分かってんのか?」
黙して立っているだけだったズィバルが、少年を睨む。バトラーも組んでいた足を下ろし、身を乗り出してくる。
「そいつに手ぇ出すってことは、俺に手ぇ出すのと同じだ。その意味が分かるか?」
短くなった煙草を吐き捨て、踏みつけて問うてくる。強面の男にガンつけられてなお、少年の表情は変わらない。
「誰だかは知らんが、何となくは分かってた。その上で言った。下らんとな」
「フフフ……なるほど。それなら話は早い。表出ろ!! 〈血塗れの猟犬〉若頭補佐、バトラー・ハーネスが相手してやる」
店を出て少し歩くと、未だ開拓中なのだろう、何も無い平地が広がる一角があった。日中故に作業をしている者は多くいたが、バトラーの一喝により蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「ここなら、余計なもんは何もねぇ。きっちり締めてやる」
バトラーが脅し文句と共に、少年へと睨みを利かせる。そんな彼らを前に、少年は僅かに眉根を寄せるのみ。
「出来るなら、な」
「ハッ、減らねぇ口だな。ボウズ、名前は?」
「ヘイル・ニーヴル」
「そうか、ならその名置き土産に死にさらせ!!」
バトラーが吠えると同時、その右足を振り上げる。魔法で生み出された火の玉が、ヘイルめがけて飛んでいく。
対するヘイルは、前傾姿勢を取りつつ魔法を発動させる。二つの魔法陣から出現したのは、氷でできた狼型のゴーレム。二体の氷狼は時間差を置いて、火球へと駆けていく。
炸裂音が響く。火球と氷狼が衝突し、相殺された音だ。黒煙が浮かぶ中を、もう一体の氷狼が飛び出していく。バトラーは目を見張ったが、すぐに炎を纏った足で蹴り払い粉砕する。二体出してきた時点で、この二段構えは予想できたことである。
そうして油断しかけたその時、男の前にヘイルが現れた。氷狼を囮に飛び掛かってきた彼の手には、逆手に氷の刃が握られている。振り抜いてがら空きとなっている背に突き立てられればひとたまりもない。しゃがみ込むような体勢から前に飛び出し、距離を取って体勢を整える。
その間に、ヘイルは次の一手を打つ。冷気を辺り一帯に放出、その地面を完全に凍結させた。バトラーが驚く間もなく、ヘイルが尋常でない速度で距離を詰めてくる。懐に入ろうかというところで、横に身を捻る。直感的に危険を感じたバトラーが、悪い足下ながら後ろへ仰け反る。
その勘は正しかった。ヘイルの後方回転脚。その足裏に生成されていた氷の刃が、バトラーの喉元ギリギリを切り裂いていった。
身に走る戦慄を振り払うように、火球を投げつける。相手が引いた隙をチャンスと見て、続々と火球を生み出してはむやみやたらと投げ続ける。だが凍った地面を自在に滑り移動しているヘイルには、どれ一つとして当たらない。
「チィ、なんてやつだ。この地面か!!」
凍った地面が原因と気付いたバトラーは、炎の出力を上げる。人間松明となった男は、自らを弾丸と化してヘイルへと突進していく。高熱で地面を融かしながら、バトラーはヘイルを追う。始めは調子よく滑走していたヘイルだったが、時間が経つにつれて凍っているところとそうでないところがまばらになっていき、引っかかりやジャンプなどのタイムラグが増えてきた。その度に距離が縮まっていく二人。気付けば、バトラーが手を伸ばせば届きそうなほどにまで近付いていた。炎の中で、バトラーは笑みを浮かべる。
「ハッハァ!! ここまでだ!!」
「まだだ!!」
ここぞとばかりにスピードを上げ、掴みかかろうとするバトラー。それを横目で捉えたヘイルは、自身を中心に吹雪を巻き起こす。
バトラーが、派手な衝突音を響かせる。その感触に違和感を覚え、バトラーは火を消し立ち止まる。瞬間的に湧き上がる湯気。彼の眼の前にあったのは、穴が開いた氷の壁。バトラーの攻撃はこれを砕き、そしてその熱量で一気に蒸発させてしまったらしい。
ハッと気付き、ヘイルを探す。だが遅い。既に視界は真っ白だった。まずい、と思った、その時。
「終いだ」
冷徹な呟きと共に、ヘイルがバトラーの背後を取る。間髪入れず、逆手の刃を首に食い込ませる。白霧の中に、赤い華が舞う。
鮮血の中に崩れ落ちていくバトラー。ヘイルはそれを、冷めた目で見やる。用は済んだとばかりに、ヘイルはその場を去っていった。感慨など無い。義侠を演じたつもりもない。孤高の少年が纏う雰囲気は、酷なまでに冷え切っていた。