8 『意味のない現実』
PCの不調が続いてこの様でございます。かなり久しぶりの投稿になりました。
最近は別名義で活動して製本するまでに漕ぎ着けようと執筆をしています。
多分また投稿は再開しますが受験も控えているのでだんだんとペースは落ちるかと思います。
それでも支えて下さる皆様方に感謝を……。
茉稠惠という人間の日常を語るに置いて、もう一人説明しなければなるまい。
四条告紀。惠にも近しい人間だ。
惠は自身を、笑顔を振りまくだけの道化師となった。
ならば四条告紀は、差し詰め芸風を変える道化師なのである。
その短い人生のなかで彼は十一も性格を変えてきた。それこそがその所以である。
十一という数字は彼が演じてきた醜い四条告紀の数で、延いては彼の人生を大きく変えた人の人数でもあった。
つまり、四条告紀の人生は十一人の干渉によって変遷を繰り返していたのだ。
そしてその最後を飾っているのは、笑顔の絶えない変わり者、藤咲瑛那だった。
「おっはよー!! 告紀くん元気?」
教室に瑛那の声が響く。挨拶だけならいざ知らず、そこに個人名が加わることで教室はざわついた。
それもそのはずで、やはり藤咲瑛那の人気は一クラスに留まらないほど。
校内のアイドル、のように扱われるほどの彼女の口から特定の男子に挨拶する言葉がでれば、こうなるのも当然ではあった。
加えて惠にも繰り出したチョップもしたため、もうそれはえらい騒ぎようになっている。無論、当の本人は何とも思ってないらしいが。
「痛っ……何すんだよ瑛那」
反対に、攻撃をされた方の男子──四条告紀は、少し迷惑だっていたように惠には見えた。
座って音楽を聴いていた彼は、唐突な襲撃をされ、というより突然の襲来に遭い身体を負傷した。惠も瑛那の攻撃で首が痛いのだが、そこはぐっと我慢する。
「おっはよー!! 告紀くん元気?」
どこかから「無限ループって怖くね?」と声がしたのを惠と告紀は聞き逃さなかった。共感せざるを得ないというのはこういうことかと納得する二人。
そう、どう聞いてもついさっきの瑛那の台詞は一言一句抑揚すら違わず一致しており、さながらRPGゲームで『いいえ』を選んでも『はい』を選ぶまで同じ台詞を繰り返すアレだ。
「おっはよー!! 告紀くん元気?」
「…………」
「おっはよー!! 告紀くん元気?」
「いや、あの」
「おっはよー!! 告紀くん元気?」
その精神の強さは何由来のものだろうと、惠と告紀だけでなくその場にいた全員が思った。見習いたいかと問われれば、そうでもないと答えそうなものである。
「おっはよー!! 告紀くん元気?」
「……四条さん、応えないと精神にキそうなんでちょっと」
懇願する惠だった。いや、クラスメイト他数人の切なる思いの代弁でもあっただろう。というよりそうだった。
「よく言った惠くん!」「ナイスプレー!」なんて歓声すら聞こえた。
いや、自分で言えよ。なんて口にはださないが、惠はそう思っていると彼らは思わないだろう。
「おっはよー!! 告紀くん元気?」
「ああもう元気だよおはようっ」
目立ちたがらない告紀だったが、当の本人も限界に達したらしい。恐らく日頃の鬱憤込みの叫びだった。
「よしよし。四条くん奇遇だねっ」
「奇遇の意味引き直してこいよ……」
惠と似たようで違う解答に瑛那はご満悦の様子。
また笑顔をこぼして告紀をからかい始めた。
「酷い! 冷たい! 鬼! 悪魔!」
笑顔で言われちゃ迫力も何もないなと思ったのは数多い。特に男性陣はのほほんと魅力に惹かれている様子である。
「いきなり罪なき人を叩く奴は何になるのかご教授願えますか」
「え? 私は天使だよ? あ、ごめんうそうそじょーだん私は女神! 君が言ったんだよ忘れたの?」
「もうやだこの人……」
そのやりとりを朝から見るこっちがもうやだっての……。
仮面の下では存分に感情豊かな茉稠惠だった。
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「はあああああ…………疲れた」
陰鬱、躁鬱、憂鬱、鬱鬱。どれでも当てはまるので好きなようにトッピングすればいいのだが、とにかく告紀の様子はそんな感じだった。
告紀は瑛那が嫌いなわけではない。多分相思相愛ではないだろうか。それだけが仲睦まじく、周りに嫉ましいと思われている。
しかし告紀は目立つことが嫌いなので、どうしても過度で目を引くスキンシップが苦手なのであった。
「お疲れさまです四条さん」
席が左後ろの惠は、告紀の右隣に席を構える鬼がいない間に労いの言葉をかけることにした。ちょっとした気遣い、といったら少しニュアンスが変わるだろうか。
「うん……うん……ありがとな惠」
机に肘を突いて頭を支える告紀。顔を上げる余力もなさそうである。
元々身体が弱いためあまり騒げない体質らしく、そういう点も惠に類似していた。
「……毎朝アレ相手に奮闘してると思うと、そっちもお疲れさまなんだな」
お返しの労い。『自分が一番辛いと思う奴にはならない』という歌詞を思い出した惠は、「四条さんほどじゃ」と言って告紀の肩をとんっと叩いた。
「……そういえばさ、昨日見た夢の話なんだけど」
席に戻ろうと踵を返した惠だったが、すぐに引き留められてしまった。
「夢……夢ですか」
……何、昨日見た夢の話だって? と興味を惹かれてしまったのだから、惠はもう一度踵を返すしかない。今は『夢』の一文字でも気になって仕方がないのだから。
夢。夢が何か関係しているのは確実。
だがその具体的な干渉のされ方が分からない。一体夢のなかで何があったのか。些細でもいい。手がかりがどうしてもほしかった。
もちろん、他人からそんな情報を得ることができるとは思っていない。ただ、何かしら思い出したり、或いは違和感を感じたりする程度である。だから誰かと干渉していたのを踏まえると、何かあるかも期待したのだ。
「そうそ。惠がタメ口で喋ってくれた夢でさ、その惠から伝言頼まれて」
せいぜい淡い期待。そうであったからこそ、告紀の口から飛び出した言葉の意味を理解したときの驚愕は群を抜いたものだった。
……つまり、何だ? 他人の『夢』のなかで俺が俺に宛てて何か言ったと?
偶然なわけがない。瑛那に言わせれば必遇。必ず遭遇することに違いない。
「伝言? そういうのも律儀に通す方だったんですね……」
夢の話。普通なら笑って流してもおかしくない世迷い言のようなものだ。
しかし忘れずに、こうして手間を惜しまず伝えてくれたことにちょっとした違和感があった。きっと自分ならしないだろうと思ったからである。
だから、単純に聞き入れるには、少しすぎる話なのだ。
「まあ、夢にしちゃちょっと……ま、それはいいから」
誤魔化すのが下手だなと思う。
嘘を吐くことを演じることと言ったのはこの四条告紀だったが、四月の初め辺りで昏睡状態に陥って以来、彼は大きく変わっていた。
前に尋ねたことがあった。昏睡している間はどんな感じだったと。
告紀も仮面を被る人間だったが、そのときだけは臆面のない笑顔で言ったのだ。
『とても有意義で、とても大事な、意味のない現実だった』と。
暗に非日常を体験してきたと、そう笑って言ったのだ。
そんな彼が言うことだから、確証無き信頼が生まれる。
騒音の中で、惠は告紀の言葉に耳を傾けた。
「伝言はこう。『醒めぬ夢なら、それは夢って言えるか?』だってさ。どう思う? それは現実か、それとも夢か」
────夢でいい。夢がいい。夢だから、夢だからこそ、夢なのだから。
────あんな現実なんかよりも、安らかな夢に。
「っ……何でそんな夢を見たんだと思いますか?」
目論見どおり、フラッシュバックが起こる。
その内容は今の惠からすればあり得ないようなことだった。
現実から逃げようとするなんてことを茉稠惠が考えるはずがない。そうでなければいけないと、理由もなく言い聞かせた。
フラッシュバックの衝撃は何れも強い。どうにか平静を装って、惠は質問で返す。
「そりゃ、お前が望んだからだろ?」
即答。迷いなどない返答で、困惑は仕方なかっただろう。
自分が望んだから、他人である四条告紀の夢に現れた惠は伝言を託したというのだからお笑い草だ。
普段ならば、そう思うのだが。
「……面白いこと言いますね」
面白いというより興味深い。夢繋がりの話が四条告紀から聞けたことはそれに違いない。
これは偶然でなく必然。往々にして巡り会うべき何かしら。運命とでも形容されるべきものなのだ。
やはり無視できたものではない。事々しく扱うべき、使命感のようなもの。
彼は一体何者なのかを考える必要は大いにあるが、今は後回しでいい。
だが、どうか気に掛けていることだけは知っていてくれ。そんな意味を込め、また皮肉も込め、惠は意趣返しの言葉を告紀に送った。
「瑛那には負けるよ……。さ、笑えよ惠」
──とびきりの仮面は、どこかに捨て置いて。
「は?……あ、いや」
はたと気付くが、体裁を繕うには些か遅い。
笑って、笑って、笑って。九年も、いや十年もこびりついて剥がれない仮面が外れることなんてあるはずが──
「舞台の上なら演じきる。シェークスピアに申し訳が立たないって思わないか?」
シェークスピアを引き合いに出すとは卑怯極まりないなおい。
「顔に出てる。卑怯だと思うことがないように笑ってくれや」
告紀の言葉に惠は恐怖した。その言い草は、まるで今まで見透かしていたかのようで。
もしそうなら、四条告紀は規格外で特殊ということになる。恐らく惠では扱えないだろう。
「……とびきり笑ってみせますよ」
ならば言われたとおり演じるしかない。笑って、笑って、笑って。
惠は思った。これほど笑顔でいることが不快で気持ち悪い瞬間はないと。今まで生きてきた人生で、ここまで笑顔でいることが苦痛なときはなかったと。
仮面の下を見透かされているのに装っているなんていう滑稽な姿を思うと、殊更に吐き気がした。
それでも、笑って、笑って、笑って。
「うん、上出来。……俺の前なら仮面外してもいいんだからな」
惠は今まで四条告紀のことを、藤咲瑛那の尻に敷かれる哀れな男としか思っていなかったが、違う、そうじゃない。
自分と対等か、それ以上の化け物。手に負えない道化師。
──人間失格。
「じゃ、また伝言あったら夢のなかでな」
互いに笑顔で接するが、それが演じているもので紛い物だと分かるのは彼らと藤咲瑛那だけ。
今まで大した関わり合いはなく、上手く一線を引いて遠ざけてきたというのに、何がここまで日常を変えたのだろうか。
案外大した理由はなかったのかもしれない。いや、そうだろう。
この内面性と外面性は紙一重で接していて、その表裏を垣間見る機会は今までにだってあったはずなのだから。
それが今まで偶然にも見ることがなく、そして明くる日、何の変哲もない日に偶然見ただけであって。
いや、或いは必然性の塊なのだろうか。
茉稠惠が夢を見たのは十年という年月が経ったことによる必然であって、故に必然として彼と彼女に一歩踏み込んだ何かを知ることになったのかもしれない。
それこそ神のみぞ知ることで、解答はないのだろう。神様もきっと惠を嘲笑っているはず。
それに対して業腹なのは珍しいことだった。
────ましてや神に祈っても無駄と分かっているのにも関わらず、それでも都合よく縋るだけで人が救われるわけがない。
「っ……ぐっ」
いや、珍しいことじゃない。仮にそうでも、神様という異形にして畏敬の存在に業腹したのは少なくとも二回目じゃないか。
忘れたことだが、それでも確実にあったこと。
──何かを失った? 何か、物を……違う、者を亡くした?
いよいよもって輪郭を有し始めた存在形。
ぼやけた抽象像の曖昧さを払うには、あと一つか二つの断片で事足りそうなほどである。
しかし、フラッシュバックの度に加速する痛みが惠を確かに蝕んでいるのも確かだ。もしこのまま間を置くことなく断片を思い出そうとすれば、
「どうした? 顔色悪いけ……おい、鼻血出てるぞ?」
身体への負担も比例して大きくなるのはごく自然である。
「……本当だ。ちょっと、洗ってきます」
「あ……先生には言っとくから」
「すみません、助かります」
踵を返して向かう先は自分の席ではなく教室の扉になってしまった。
扉を抜けた先の廊下は生徒でごった返し、朝の満員電車を思い起こさせる。窮屈で、狭くて、暑苦しくて、色んな者が詰まっている場所。惠は嫌で仕方がなかった。
そんな人混みをかき分けて手荒い場を目指すが、足取りはふらつき覚束ない。風でも吹けば倒れそうなほど弱っていた。
それに、頭がぼうっとして、感覚が鈍るようで、少し息苦しいのが感じ取れる。
どうなっているのかは正直気にしていない。それよか気持ち悪さが引くのかが重要だった。
せめて病院で倒れたい。今は、まだ駄目だ。
「…………」
手荒い場に着いた惠は水道の蛇口を徐に開いた。それに反して水は勢いよく吐き出され、細かい水飛沫が飛び、少しずつ惠の制服を濡らす。その模様は、まるで血飛沫をあげたようだった。
銀色の流しには蒼白な顔をした惠の顔が揺らめいている。それでも、赤い筋を見つけるのは安易だった。教室で確かに拭ったはずなので、まだ血が流れているらしい。
惠はしばらく自分の揺らめく顔を眺め、それから手に水を溜めた。少しの隙間から水は際限なく漏れていくがお構いなしだ。
夏の暑さに温くなった水で顔を洗い、血を落とす。生温さが、今は心地よかった。
少し間を置いて目を開くと、再び銀に揺らめく自分を、顔を見た。
水を滴らせる姿は様になっている。水も滴る、とはこういうことだろう。もちろん、惠の漂わせている躁鬱さや憂いを含めて。そういう色気があった。
水を顔に受けたことで、冴えたような、寧ろ覚束ないような気分になると、惠は鼻を摘んで三度水面の銀を見た。
息が詰まる。気持ちが塞がった。気分が頗る悪い。頭痛が強まる。鼻血は止まらない。赤黒く染まる手がどこか懐かしくて、余計に、何かを、思い出してしまいそうで、もう。
思い出せば取り込まれるだろう。得体の知れない何かに奪われるだろう。違う自分になって、でもそれは等しく自分に相違ない。その状態がいかに不自然で排他されるべきことかは考える必要もない。
異常で、異状。
「……大丈夫。まだ俺は、僕はいける」
それでも押さえ込む。だからこそ抑え込む。今までどおり『装う』だけの簡単なことじゃないか。
気分が悪くたって、健常だと演じればいい。倒れそうでも、倒れないよう演じればいい。死にそうでも、死なないように演じればいい。
そうやって十年間生きてきたんだ。これからも同じだろ。変わらないんだ。代われないんだ。
互換性なんてない。俺は俺。僕は僕。どちらも自分で、どちらも他人。仮面であり、そして素顔。両極端であって、表裏である。
異常でも異状でも、得体のしれない何かになっても、違う自分になっても、不自然で排他されるべき存在になっても、やはりそれは自分に変わりない。
それは被る仮面が増えるだけのことなのだから、今さら増えようと大したことではない。
だから、迷うことはない。惑うこともない。俺は、僕は──
「僕は、茉稠惠」
────俺は、茉稠惠。
「っぐぅ!?」
────君が、君の嫌いなメグミなんだ。
「やめっ……行かないでくれ……」
────僕は。
「あ、あ……リーシ──」
「──思い出させない」
一時は止まった鼻血だったが、許容量のダムが決壊した今、鮮血は止め処なく流れる。不可逆のそれは、銀の水を薄く赤色に染め、排水溝へ真っ逆様に落ちていく。
やがて酷い頭痛も息苦しさも、嗚咽も嘔吐も、流血も倦怠感も消えた頃、惠は二、三滴の滴を頬から溢した。
何による強制力なのだろうか。何が自分に「思い出させない」と言わせたのだろうか。
あともう少しで思い出せるというのに。それでも思い出させてくれないだなんて。
それを思うと、よく分からない何かが溢れてしまって。
十年間抑圧してきた感情が溢れた瞬間だった。
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「すみません、遅れました」
授業開始の鐘が鳴っておよそ六分が経った頃、惠は教室の扉を開き戻ってきた。
告紀が一時間目の担任に遅れる旨を伝えていたので、遅れてきたことに怒号を鳴らしたり何をしていたかを聞いたりすることはなかった。が、代わりに惠を一目見た全員が驚愕した。
「惠……顔色酷いぞ? お前本当に大丈夫か?」
ざわめく教室。そのなかで誰より早く惠の身を案じたのは告紀だった。立ち上がって駆け寄ったのは瑛那だったが。
瑛那は惠の側まで行くとふらついている彼の身体を支えた。その形相は、彼女にしては珍しく笑顔は損なわれており、惠だけが瑛那の真剣で必至な表情を見ることができた。無論、当の本人にそれを楽しむ余裕はないようだが。
「ごめん、ありがとう」
だからこそ、無理して捻り出した、その囁くような言葉は瑛那の心を揺らがせるには大きいものになった。彼の丁寧な言葉遣いが、今朝の電車での出来事同様に丁寧さを欠いていたのはそれだけ衝撃的だったのである。
真剣な面持ちは、安易に驚愕へと変わった。
「茉稠、もしキツいなら保健室行くか?」
そう声を掛けたのは一時間目の生物担当の中川俊だった。恐らく学校で人気の高い先生一、二を争うだろう。
面倒見の良さや人当たりの良さが評価され多大な支持を得ている彼は、もちろん惠のことを聞いて不安になっていた。
そして蒼白い顔をした惠を見てこれは不味いと思い立ったのである。
しかし惠は瑛那の支えを押し退いて教卓にいる俊の元へと歩き出す。まるで体調に支障はないと言わんばかりに。
「大丈夫です。ほら、生きてる。さ、授業始めましょう?」
そんなことを簡単そうに、笑って言うのだから、俊は恐ろしいと思った。惠の内性を密かに感じ取っていた俊だったからこそ、辛さや苦しさすら平気だと演じてみせるそれを、心の底から恐怖したのだ。
それを妨げるのは教師として当然だった。無理して嫌われてでも、保健室に送るなり家に送るなり病院に連れるなり、教師ならすべきなのだ。
では何故そうしなかったのか。決して気迫に負けただとか恐怖に慄いたわけではない。
惠が、擦れ違い様に囁いたのだ。
「今日だけは勘弁してください」と、消え入りそうな声で。
「…………」
席に座るなり平然な様相で、細やかな笑みを浮かべ授業の用意をする惠。その表情を見て安堵し大したことはないのだなと思う者は少なくなかった。いや、このクラスの三人を除いて彼の辛苦を感じ取れる者はいなかった。
それでも三人もいれば充分だ。三人だけでも辛苦を抱えていることを知っていてくれるなら、このまま演じていられる。哀れな道化の茉稠惠を。
この、生きている意味のない現実でさえも。




