6 『白亜はただ紅く』
前話の後書きに記したとおり、今回は流血表現等がありますのでご注意ください。
食事は一人より大勢で食べるのがいい。世間一般が言うのはそういうことだった。
一人とは独り。孤独であって、それでいて自由で、だからこそ救われない。
もちろん彼の周りに少なからず人はいる。彼の面白さや頼れるところ、いわば人格者のような人柄に惹かれて人は集まった。
ではそのうちの何人が『彼が道化を演じていること』に気付けているだろうか? つまり、彼の本心に。
彼の本心に気付いている人間は、惠が知るなかでは二人だけ。正しくはただ一人のみ。
その一人だって会える機会は限られている。何ヶ月に一度だけしか会えないのだから、その期間中彼は間違いなく孤独だ。
そして孤独な彼には食事を一緒に摂る人もいない。親と食べる機会ですら少なかった。
そのため、誰かと共に食事を摂ったのは半年かそれ以上ぶり。
それが例え夢のなかであってもだ。
「言ったとおり、君が普段食べているような大した料理じゃないけれど……」
惠を家に招いた白髪の魔女、──リーシアが食卓らしき机に食事を運ぶ。
食卓らしきというのはつまり、食卓にしては小物や何かの書かれた紙、薬草を調合する乳鉢や乳棒などが散乱しているという意味である。
散乱と言ってもある程度は整頓されているが、食卓の両端には本と紙が積まれていたりする。
だからこそ、というのはおかしい話だが、惠には彼女の作った料理がとても映えて見えたのである。
「……いや、普段より凄いんだけど」
湯気と共に香りまで立ち上る黄金色のスープ。
色とりどりの野菜の盛りつけに、甘く灼けた黄色い果実。白いソースと細かく刻まれた香草がかけられている。
それから欠かせないであろう籠に詰められたパンには、なにやら種類があるようだ。
よくあるプレーンタイプのものから果実を混ぜたもの、黒い生地の固いものや、白い生地の柔らかいものまである。
しかしどの料理を見ても、タンパク質と脂質を豊富に含んだ肉料理はなかった。
「そうかい? ああ、それから申し訳ないのだけど、お肉の貯蔵がないから野菜や果物ばかりになってしまった」
「兎とか狩ったりはしないんだな」
「血が苦手なんだ……。僕の職業柄、慣れるべきことなんだけどさ?」
「なるほど。職業、ね」
リーシア・エメレイルドは自らを魔女と名乗った。
それがどういう意味をもつかはこの際関係がなく、またどうだっていいことに違いない。
何故なら『夢』の一言で片づけられることだから。
だから深く考えても仕方がない。実際にあるわけじゃなくて、これは茉稠惠が九年ぶりに見た『夢』の話なのだから。
ではこんな他愛もない『夢』の話だというのに、何故これだけ現実味を帯びているのだろうか?
もちろん九年前に見た夢の内容なんて惠は覚えていなかったが、これだけは感覚として身体に残っていた。
夢はどこか欠けていて、何かおかしいものだ。
なのに、この夢はどこも欠けておらず、何もおかしくない。違和感はあるのに、その違和感の正体がこれといって浮かばない。
そこにあるのになく、また、ないのにある。
繰り返し考えて思いつく全てを論理的に説明しようだとか、論じようだとか、そんなことは一切考えていないのに。
さも哲学のようなこの問いは、解けそうで、そして解けない。なるほど哲学らしい。
曰く、夢は欠けているべきだと惠は思う。だが本当に欠けていて、そしておかしいのは、きっと他ならぬ自分だというのに。
考える葦は考えることしかできない。
夢と現の違いすら理解できない、哀れな道化にすぎなかった。
「さて、じゃあ食べようか」
リーシアの一声に賛同し、短く返事をする。ただそれは返事のみで、今の惠に食欲はない、というのは食欲なんて夢のなかにあるわけがない。そういう思考だったからだ。
もし空腹を感じるのなら、それは現実の自分が眠っている間に腹を空かせているだけだろう。横になっているし、脳を快復させるのに栄養が必要なのだから。
しかしどういうわけか、徐々に食欲や空腹を感じていく。夢のなかだというのに。
理由は明らかだった。目の前にある見事な料理の数々が惠の眠ったはずの食欲を呼び覚ますのだ。
さて、どれから手をつけたものか。
そう悩ましく思う折り、リーシアはあるひとつの疑問を問いかける。もっと訊くべき案件があるように思えるのだが。
「──お祈りはしないのかい?」
単純な疑問だったのだろう。口をついたのがそれだったというだけかもしれない。
「……いただきますとかなら、もちろん礼儀だし言うけど」
「ああ、いや、そこは気にしなくていいのだけどね? ほら、てっきりメグミは隠形の宗徒さんかとおもったから」
「さっきも言ったけど無宗教家だぜ? 俺の地元じゃいろんな神様がそこいらにいるからね」
リーシアは惠が無宗教家だと言ったのを忘れていたわけではなかった。単にそれを疑っていたのである。無論、お祈りを真っ先にしなかったことから疑いは晴れたが、そこまで気にするようなことでもないのにと惠には思えた。
「へぇ……そうなんだ。というか、そうだよ。メグミは何処のご出身なんだい?」
続いてごく自然に質問が投げかけられる。
「えー……何処だろうな。湖で頭打ってから曖昧なんだよな」
嘘だった。実際は事細かに覚えている。自分が何者で、何処の出身かなどは特に。
しかしどうしてか、言う気が起きなかったのだ。いや、何故だか条件反射のように自然と口が動いたと言うべきか。
「もしかして記憶障害かな? 曖昧程度なら軽度だろうからゆっくり思い出せばいいね。っと、質問はまた明日にでも。今は食事をしよう」
スープも冷めてしまうものね、と付け足すリーシア。そう言われて食べないわけにはいかなかった。
「そうだな。じゃあ改めて、いただきます」
丁寧に手を合わせて言葉を唱える。
ある意味この言葉もある種お祈りに近いものではあったが、惠にしてみれば神への感謝云々より、食材と、料理を作ってくれたリーシアに対する感謝の意味合いの方が強い。というかそれ以外がない。
夢のなかでまで律儀にこなす理由はないのだが、やはりこれも癖である。
まず惠は、湯気を揺らめかせる黄金色のスープに口を付けた。
香りはさることながら、食材の味が濃縮された風味は彼の喉を唸らせる。これで肉の類を使ってないと言うのだから驚きだ。
たった一口。一口であったが、リーシアの技量を測るには充分すぎるものだった。
「美味しっ! え、本当に肉使ってないのこれ!?」
現実なら何があってもでない素が表れた瞬間である。
もしこの場に彼の親や友達がいたのなら、本人かどうかを疑うほどのリアクション。恐らく感嘆符が二回ぐらい使われるんじゃないだろうか。
そんなレアな姿を見たのは、惠が夢のなかで出逢った目の前の彼女ぐらいなもので。
「あ、ああよかった! お口にあって嬉しい限りだよ!」
そして冷静を『装って』いたマシゲ・メグミしか見ていなかったリーシアは、自分の料理でここまで表情を変えてくれるとは毛頭思っていなかったので嬉しさをひしと感じたのである。
それをどんなに嬉しいと感じているかは、彼女の表情や身振り手振りを見れば一目瞭然。
そんな互いに互いの知らない表情を見て、少しの間をおいた後、彼らは互いに笑いあった。
「……凄いな、リーシアは。俺も自炊ぐらいするけどこんな美味しくは作れないって」
「メグミってば、お世辞が上手いんだね! ふふ、料理を作ってこんなに嬉しく感じたのは久方ぶりだよ。さ、よかったらもっと食べてほしいな」
きっと文末には音符の記号があるに違いなかった。
惠のリーシアへ対するイメージは、世間が言うクールビューティーというやつで、およそ文末に音符の記号が付くような魅力とは別物だ。
なのに、ああこれがクラスの誰かが言ってた『ギャップ』ってやつなんだ、と理解する。
──そうなると、余計にこれが夢だとは思えなくなっていた。
「パンは自家製でね? 作るのには時間がかかるけれど石窯がいい仕事をするんだよ、これが」
時間がかかる自家製のパンがこんなにも。流石は……その、夢だな。やっぱり都合がいい。
それとも、俺の前に来てたらしい客がそこまで食べなかったか……リーシアが作りすぎたか。
「それからね、あの湖の畔に生えてるミュルの果実をソテーにしてみたんだ。デザート寄りだけど、気に入ってくれるといいな」
見たことも聞いたこともない食材だよ。全く、本当に頭のなかじゃこんなことばっかり考えてたか、俺は。
別に、俺のつまらない妄想だとしても。
「そのスープはね、薬膳なんだ。一応メグミは風邪をひいてるから身体にいいはずさ]
まだ俺のこと気にかけてくれてんだ。てか、風邪なんかどうってことないからな。寒気も頭痛もないんだから。
「……メグミ?」
「──」
「ね、ねぇ?……メグミ? 聞いてるかい?」
「────」
「メグミってば! 聞いてるのかい! ねぇ!」
「うおあ!? すまん聞いてなかった!」
思いに耽る。少しずつ明晰を揺らがせる惠。
ここが夢であれ、事実は事実。虚空から落ちたことも、溺れ苦しんだことも、荘厳な景色も、柔らかい膝枕も、この家も、食事の暖かさや味も、ここにある何もかも。
──他ならぬ、リーシア・エメレイルドも。
「もう、ほら食べよう?」
「──おうっ」
夢でいい。夢がいい。夢だから、夢だからこそ、夢なのだから。
茉稠惠は拭えない違和感をそのままにすることを享受する。夢は夢のままでなく、感じるままのことが経験として積まれ、そしてそれこそが現実であるべきとした。
「美味しいよ、どれも。その腕が羨ましいな」
「そうかい? ああ、作った甲斐があるよ」
いや、もっと単純な理由だ。
何も考えず、このまま過ごしていたい。醒めなきゃいい。このまま、死ぬまでいつまでも。
「……いいとこだな、ここは」
九年の年月は長いものである。人を変えるには充分な年月で、そして充分すぎる年月だ。
堅く、厚く、そう自身を塗り固めた茉稠惠の心は、間違いなく九年の年月が助力したのだから。
それが、たった一度見た夢で。
体感にして数時間程度のそれで彼の心を揺り動かし、変えた。
夢でいい。夢がいい。夢だから、夢だからこそ、夢なのだから。
あんな現実なんかよりも、安らかな夢に。
「……ずっとここにいたいよ」
始まりにしては、充分すぎるプロローグだった。
▽ ▼ ▽ ▼ ▽ ▼ ▽ ▼ ▽ ▼ ▽ ▼
魔女との夕食は有意義なものであった。
数ヶ月ぶりに誰かと食べた食事は、きっとリーシアの料理の味に相乗効果を施したことだろう。
話は弾んだ。何を話したのかなんて思い出せないほど多くを語り合った。盛り上がりは留まるところ知らず、互いが互いを知り合い、親交は深まりの一途を辿る。
変哲なき夜半はさらに帳を下ろす。
明るく世を照らす太陽は地平線の彼方へ落ち、白くぼやけた優しい光を漏らす月が昇る。今夜は朧月夜だ。
食後、惠は風邪をひいているからと湯に浸かるのを止められ、横になることを勧められた。
そのリーシアはというと、さきほど入浴を済ませ、今は蔵書を読んだり何かを記したりしている。
「リーシア、何書いてるんだ?」
覗き込む惠。背後から近づく惠の顔は蝋燭の火影に揺れた。
それに振り向くリーシアの黒い瞳も、光を揺らめかせ潤ませる。彼女の服は、明るく淡いオレンジの光を投影していた。
彼女の装いは昼間のものとは全く異なり、白いワンピース形式の服に替わっている。
袖や裾には青色と紫色で刺繍が施されており、また違った美しさを醸し出す。
白に白を重ねた、白亜の魔女。目を奪われたのは言うまでもない。
「ちょっと、盗み見とはいい趣味だね?」
むすっと顔を顰め、唇を尖らすリーシア。ぷんすこなんていう擬音があるならこういうときに鳴るのだろう。
これなら怒られてもあんまり怖くないな。ちょろいもんだ。
惠の内心は『リーシア可愛い』の文字に支配されつつある。ちょろいのは、実は惠というオチだった。
「あ、いやそんなつもりじゃ。それに字も読めないし」
「……あれ? 確かメグミ、読書する人だったよね?」
リーシアが訝しむのは当然である。あれだけ読書をすると言っていた惠が字を読むことができないというのは、それは些か矛盾があるのだ。
「ああ、そりゃもうたくさん読むけどさ。でもそんな文字は見たことない。それ何語?」
惠自身、このことについての違和感は抱いていた。
つまり意味不明な文字列が読めないのに、言葉は通じるという状態についてだ。
「クウォール語さ。君も話してるじゃないか?」
クウォール。フクロネコという動物の別名がそれだが、恐らく関係はない。関係があったとしても深い意味はなさそうだ。
「クウォール語?……ああ、記憶障害で読めないのかもな」
とにかく、発音や言葉の意味、ニュアンス等々は惠の母語である日本語と変わらず、文字だけが異なるらしい。コミュニケーションに関しては問題ないだろう。
とりあえず誤魔化す惠。仕方がない嘘だと言い聞かせてリーシアを納得させにかかる。
「でも、記憶障害って読み書きとか呼吸の仕方は覚えてるものだけど……。いや、深くは聞かないよ」
嘘が見破られたときほど心臓に悪いことはない。何よりばつが悪くて仕方がない。
惠は申し訳のなさを感じて顔を伏せる。リーシアに小さく謝った。
「……ごめん、ありがとう」
「気にしないでいいよ。言ったでしょ? 僕もよく嘘を吐くってさ」
「……そうだったな」
慰めるにしては粗末な諭し方だなと惠は思う。
反面、実際に立場が変われば自分もそうするだろうと納得する。そう思うと自然に顔が綻んだ。
「でも、できるだけメグミのこと知りたいから嘘はあまり……というのは、ちょっと卑怯かな?」
「そう言われると困るぜホント……」
その返し方気に入ったんじゃないかな? と痛いところを突かれた惠はもう一度同じ返しをした。
「これは日記だよ。毎日湖に行くから辺りの様子とか、あとたまに来る来客とかについて書いたりね。一応これでも薬師だから治療目的の来客は来るんだ」
「毎日? あの湖に毎日ってこと?」
「そうさ、日課なんだよ。僕は家に篭りがちだから健康面を配慮してお散歩するんだ。それでお昼すぎに紅茶を嗜むのさ。あの景色を臨みながら飲むと格別でね? ふふ」
答えながら、再び筆を進めるリーシア。
その姿を見て、今時日記を書く人なんていないだろうな、と惠は思った。
自身、数年前までは書いていたのだが、ある日気付いてしまったのだ。
『この日を生きたのは茉稠惠ではなく、羊の皮を被った狼であり、そしてその皮を被った道化に他ならない』ことに。
今じゃその日の記録なんて意味がないと知ってしまっている。これは極端な話で、きっと茉稠惠だけの話だ。
だから日記という言葉を聞いて頭に浮かんだのは、日記を欠かさず書いてるという親友のことだった。
「じゃあ今日の内容はいつもの何倍も書けるわけですねリーシアさん」
親友とリーシアを重ね合わせてみる。
別人ではあるが、日記を書いてるときの表情だけは似ている気がした。
「ふふっ、そうだね。空から落ちて湖に沈んだと供述している男の人について、たくさんね」
「その言い方されると俺ってば不審者だな……」
思えば自分の素性は明らかでなく、それは不審者に他ならないのだが。
しかし、それでも介抱してくれたり泊めてくれるというのだから、リーシアは本当に人格者らしいと思える。
夢に出てきたのが気持ち悪い輩や生き物じゃなくてよかったと心底思った。
「なあに、魔女の名前には叶わないさ」
そのリーシアは微笑みながら惠をフォローするような言葉をかける。
自身の肩書きを、少なくとも恨んではないそれを卑下してまで諭すのだから、惠は申し訳ない気分になった。
そんな折、リーシアは羽ペンをペンスタンドに戻し息を吐いた。どうやら日記を書き終えたようだ。
相も変わらず意味の分からない字が並ぶ紙。しかし何となく字は綺麗なんだろうなと感じた。
ぐーっと伸びをするリーシア。艶めかしい声を漏らす彼女から目を逸らすのはそうおかしいことじゃなかった。
リーシアはもう一度息を吐くと、小洒落た装飾入りの椅子から立ち上がって惠の方へ向く。
「……さて、そろそろ眠ったらどうだい? 僕はちょっと外に行くけど」
「こんな時間に? 今じゃなきゃ駄目なのか? なんだったら着いていくけど」
夜に出歩くことの危険性について、惠は知っているつもりだった。
以前夜にコンビニに行った際、大量の猫集団に囲まれたことがあったのだ。
惠は別段猫が嫌いというわけではないのだが、昼間は数匹しかいない場所だったので恐怖は倍増。
気付くと、帰る頃には汗で濡れていた服が乾くほどの速さで駆けていたのである。
「なに、ちょっと外の様子を見るだけさ。それにちょっと冷え込むからメグミの身体に障る。お客人にはくつろいでもらいたいんだよ」
気遣いの極み。何故ここまでしてくれるのかが全くもって分からない。そんな義理はないはずなのに、本当に優しすぎないか。
よくもまあ荒んでいるであろう俺の夢だというのに、怪物やら異形がでなかったもんだよ。珍しくツいてる。
こういうのは相手の意志を尊重すべき。そう思い、惠はリーシアの気持ちを汲み取ることにした。
「……そっか。じゃあお言葉に甘えて眠らせてもらうよ」
「そうしてくれると嬉しいな。あ、あとベッドだけど窓際の……」
「ああ、俺が寝てたの使えばいいんだな」
「や、ちが……まあいいか、うん。あんまり匂いはかがないでね」
「?」
重大な勘違いに気付けなかった惠だった。あとあと後悔することになるだろう。ざまあみろ。
「さ、おやすみメグミ。いい夢を」
小さく手を振るリーシア。微笑みは絶えない。
惠はというと、やけにその情景が目に残って不思議な感覚を感じている。
白亜の魔女、リーシア・エメレイルドが儚く感じた。
それでも送り出すべきだと、できるだけ自然に見える作り笑いを顔に纏って、
「ああ、おやすみリーシア」
茉稠惠はひとつ業を背負った。
▽ ▼ ▽ ▼ ▽ ▼ ▽ ▼ ▽ ▼ ▽ ▼
「そもそも夢のなかで寝れるわけないわな……」
そう呟く一方、それは違うのかもしれないと思っていた。
惠は今までの夢のなかで眠ったことなどなかった。寝ようという意志を夢でもったことがないのだから当然である。
だから経験がないので確言などできない。頑張って疲れれば或いは眠れるかもしれない。頑張って疲れるって何だ。
どうであれ今夜は寝れそうにない。昼間に四口飲んだ薬煎茶の効力のように思える。きっと覚醒効果でもあるのだろう。
「こういう寝れない夜は本を読むに限る……けども、生憎こんな字読めないし」
考古学教師の父をもつ惠だが、その父自慢の蔵書にも見かけない文字。しいて言うならギリシャ文字の造形に似ていなくもない。
もし夢から醒めることがあれば、父に訊いてみてもいいかもしれないと留めておく。
「他にやることなんてないし、暇の極みだな」
いつもなら何をするだろうと考えたとき、一番初めに浮かんだのは勉強で、二番目に読書、三番目は運動だった。
もし今勉強したなら、これが本当の睡眠学習だなと思い、そんなことを思った哀れな自分に対して笑った。自嘲だった。
もちろん読書をしようにも対応言語が全く異なる。
リーシアは英語も使っていたので、もしかすると英語の本ぐらいあるかと思ったが、あの背が高い本棚には、愛し恋しのアルファベットの背表紙などない。
じゃあ運動でもしようかと起きあがるが、いや待てと自身に制止をかける。
ここは人の家で、暴れるのは人として恥ずかしいし、埃がたったり散らかせば怒られるのは必至。
何より、机の上にある得体の知れないアンティークに何か起きたらただでは済まないと本能が囁きかける。
従って、惠は上半身を再びいい香りのするベッドへと沿わせた。
そして、なんとなく。なんとなく、何もしなくていいことの幸せを噛みしめた。
「……でも夢、なんだよな。これ全部、いやだけど」
だけど、別にそれは問題じゃない。
『事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである』
ドイツの哲学者であるフリードリヒ・ニーチェはそう言った。
深く残る言葉。こういうときに引き合いとして出されるそれは、大変便利なものである。
解釈の仕方によれば、もしかすると『今まで現実だと思ってきたことが夢』かもしれないし、或いは『実は白日夢を見ている』のかもしれない。
『実はこの全てが誰かの想像にすぎず、夢物語』という解釈もまた可能だ。クローズストーリーと言うには曖昧さが多いのだから。
だから、こう解釈することで惠は納得する。
『これは夢かもしれない。でも、醒めなければ現実に相違ない』と。
「ここにいる間は、茉稠惠をやめられる……」
ここに留まりたい理由はいくらでもあった。考えるのも億劫なほどに。
その一つ。大して重要視もしてこなかった『慣れ』の果てである、茉稠惠を演じる必要性がないこと。
誰にでも敬語を使い、遜って、笑顔を絶やさず、人受けのよい性格で、多忙で、この世で最も醜い人間失格の『茉稠惠』を演じる必要がないのなら、仮面を外して素顔のままでいるぐらいの我が儘は許されるのではないだろうか?
なら、やはりこのまま醒めないでほしい。
眠れなさに託け、思案を巡らせて、そうして惠は切に願った。
瞼を閉じ、男にしては長い睫を震わせ、作り笑いや愛想笑いでない、自然な微笑みを浮かべながら。
「……流石に、遅くないか? 少し見て回るだけなら時間はかからないはず……よな」
はたと目を開く惠。リーシアの帰りが遅いということは、頭のなかを支配していたあらゆる思いを制して整理したからこそ気付いたことだった。
もうかれこれどれだけ経っただろうか。体感時間じゃ三十分も経った気がする。
シーツに寝転がり、見慣れていない天井を見上げながら時間の経過を気にする惠。
時間はまだ数分しか経っていないのだが、こういうときに限って時間の進みは緩まる。
時間は不可逆性。だが人の感性でその進みはいくらでも変わる。数分の時間でさえ不安に思えてしまうのは一人であるから、そして見知らぬ土地だからだろう。
夢のなか。現実にほど近い夢。不安感はより精神を貫き、毒する。腐らせ、朽ちさせる。
特異な状況下なのだからそう感じて当然なのだ。
であるのに、惠はどうにかこの不安感を拭おうとする。『装う』ことを躊躇わない。仮面を被ることを厭わない。
九年前から背負っている業だ。これ以上ないぐらいの、罪深き業。裁かれるべき、いや裁いてほしい業であった。
そんな業も享受する彼は、これから先数え切れない数多の業を背負うとは欠片も思っていない。
今まさに、その業を背負うときだ。
「探しに行くべき、だよな。そうしないと後悔す────あああああああああ!?」
裂ける裂ける耳が脳が痛い脳が裂ける耳が耳が裂ける痛い痛い脳が脳が痛い裂ける痛い脳が裂ける耳が耳が耳が脳が裂ける裂ける耳が脳が痛い裂ける耳が───
「うあああっあっぐっ……うう」
彼の意志を散り裂くような、耳鳴りか悲鳴かどっちともつかない劈く音が大気を震わす。
耳鳴りなのか、それとも、もっと違う何かなのか。その判断をする余裕など鳴り止まぬ奇音は作らせない。
耳鳴りは頭蓋を震わせ、脳を溶かすほどの激痛を与える。だがどうしようもない。
惠は耳を強く押さえ、鼓膜が破れないようにすることしかできなかった。
そうして瞬く間にその場へと蹲り、どうにか凌ぐことを考える。だが脳のほとんどを占めていたのは、堪えきれそうもない『痛み』。
激痛の走る脳内では何も術が浮かばない。なされるがまま、何もできないまま。
自分は何者で、自分は何で、それはアレで。コレガ彼女で僕は君デハなく俺ハ何処へ此岸はドチラああああああナニモカモ分からないワカラナイわからない無い亡いナいナイナイナイナイナイナイナイナイナイナイあああああああああああ──
────リーシア。
「──っしゃらあああああ!!」
轟哭、咆哮、絶叫、喚呼。どの表現も等しく相応しいものに違いなかった。
自我や理性など消え去って単純な感情だけが、特に恐怖だけが残る感覚。惠は脳を震わされ、溶かされかけ、犯されかけたのだ。もし端から彼を見ていた者がいたのなら、彼を狂人と思ってもなんらおかしくはなかったぐらいである。
では何が彼に自我や理性を取り戻させたのだろう? それだけの影響力を与えてくれた物は?
いや、物じゃない。者だ。だがそれは彼の父でも母でも親友でもない。
白髪で、肌も白くて、端正な顔立ちで、一人称が『僕』で、人に優しくて、笑顔が素敵な、夢に迷い込んだ哀れな道化師を助けた、魔女リーシア・エメレイルド。
彼女との出会いが、存在が彼に自我や理性を取り戻させたのだ。
「っはあ……っはあ……」
片膝を地につき、肩を上下に動かして喘ぐ惠。これだけ人体に影響するような原因不明の奇音が突如鳴るなんて。
それがもし自分だけでなく、彼女にも襲いかかっていたとしたら──?
「──リーシアっ!!」
家から飛び出す理由にしては、大変無謀で、急を要するものだった。
木製の年季が入った扉を壊れるほど強く開く。
濁流の如く、鉄砲水の如く飛び出したのは、危惧や焦燥を『装う』こともしない、道化を辞めたただの──ただの、マシゲ・メグミだった。
走れ、駆けろ。探せ、見つけろ。連れ帰れ。この途方もない心配が杞憂だと証明してみせろよ、道化師。
変哲なき夜半。そもそもそんなものなどなかったことにメグミは気付く。
虚空から落ちたことも、溺れ苦しんだことも、荘厳な景色も、柔らかい膝枕も、この家も、食事の暖かさや味も、他ならぬ、リーシア・エメレイルドも、全て大事な事実なのは確かだ。
だが、ここは茉稠惠の夢である。つまり変哲しかなく、異様で異端で異常なのがここだ。
あの奇音ですら自分の夢の産物で、ならその責任は他ならぬ自分にあり、であるからリーシアを助けるのは当然であり義務に違いない。
いや、そんな定義などなくともマシゲ・メグミは駆けだしただろう。
それでも理由付けで正当さを証明しなければ、臆病な自尊心と尊大な羞恥心の塊である彼はよしとしない。そういう複雑で面倒な人間なのだから。
「リーシア!! おい、大丈夫か!?」
メグミの生涯で、こんなに喧しくがなり立てて叫んだことなどあっただろうか? それこそ自尊心と羞恥心の塊が。
言うまでもなく彼は切羽詰まっていた。背水の陣で、頼れるのは自分なんかではなく運だけ。
この闇に包まれた夜半では辺りの様子など分かりやしない。
今夜は朧月夜だ。白く薄明かりを放つ銀の月は暗雲に遮られて顔を出さない。
返事もない。もしかしたらもっと遠くか、それともすれ違ったか。
ああ、頼む神様。こういうときだけ頼るなんて不躾だって承知してる。けど、どうかこの不安感を拭うために、ああ、もう、どうすりゃいい?
途方に暮れながらも歩みを止めないメグミ。肩で呼吸し、喘ぎは止まらない。
少し引き返すかと思い立ったとき、視界の端に白い何かが映った。
「──リーシア?」
「…………」
注視する。あの白亜の髪の色はどうしたって間違えようのないリーシアのものだ。
安堵の表情を浮かべるメグミ。装うことも忘れるほどの危惧。焦燥感、不安感は全てメグミの杞憂にすぎず、何もなかった。
とりあえず声をかけるメグミ。しかしリーシアからの返答はない。
……用事は? 何故そんなところに立っている? そんな疑問が積もるばかりだ。
「なあ、リーシア。なんともないか?」
「…………て」
「……え? ごめん、なんて言った?」
メグミには、リーシアが囁くように、掠れた声で何かを言った気がした。聞き取れなかったので気のせいかと思ったのだ。
依然こちらを向かないリーシア。確認のためもう一度尋ねる。なんと言ったのか。それとも言ってないのか。
顔をこちらに見せて、微笑みかけてくれ。柄にもなく焦って叫び散らしたのが徒労じゃなかったと思わせてほしい。
そんな願いが通じたのか、リーシアはこちらを向いた。
「に……て」
「──おい、おいおいちょ、リーシア!?」
──彼女の白亜のワンピースは、引き裂かれて、真っ赤に染まっていて、ぐちゃぐちゃで、めちゃくちゃで、止め処ない紅が溢れ出て──
「に……げて」
「リーシア!!」
駆け寄らないわけにはいかなかった。
逃げるったって、一体何からだろう。
それに君を置いて逃げるなんて絶対にしない。してたまるか。
どうするかなんて考える必要もなく、また身体は自然に動いていた。
これだけ暗くても見て分かることがたくさんある。目を逸らしても映り込む凄惨な姿には。
リーシアは俯き、喘ぎながらこちらへと歩む。一歩踏み出す度に動きは止まり、そして余計に彼女を苦しめていた。
何より目に付くのは、白亜にあるまじき色が薄ぼんやりと銀光に照らされていること。
リーシアの腹部からはどう見ても致死量の血液が流れ出していて、裂けたワンピースは元から紅色だったかのように染まっている。
服の切り目からは白い肌など見えない。
押さえても溢れる血、血、血。彼女の下半身は赤く、紅く、朱く。
────腹部が、裂けている。
焦燥、危惧、不安。何一つ杞憂ではない。揃って欠けずに現実になった。
血に塗れるのを厭わずリーシアを受け止めるメグミ。彼の青藤色のパーカーは黒ずんでいく。
抱き留めた身体はいつかのような暖かさなど失い、あの沈んだ湖の底のような冷たさになっている。
顔色は、青白いなんてものじゃない。血液が通っている様子など伺えない。唇は紫色に変わり、このまま事切れるまでさらに色を変えそうな勢いだ。
「……メグ」
「いいから喋るなっ!!」
抱き留めて、こちらに寄りかかるリーシアを草原に寝かせる。辺りを染める若緑も似付かわしくない赤黒く染まった。
腹部を押さえるが、傷口は予想以上に大きい。両手でも足りない。こんな状況にまで対応できるほどの知識はない。足りないものばかりだ。
このままでは、確実に彼女は、リーシアは死んでしまう。
「お、おい……おいしっかりしろ!! 一体何が、いやそんなのはどうでもいいから、待て、待て行くな行かないでくれ!!」
じゃあ何ができるだろう。お道化て何もかもを装うことしかできない無力な彼に、彼女の命を救うことなどできるのか? 否、言うまでもない。意味のない無慈悲は救われない言葉で励ましたって、人は負った傷を癒すことはできないのだから。
ましてや神に祈っても無駄と分かっているのにも関わらず、それでも都合よく縋るだけで人が救われるわけがない。もしできるなら今頃世界は人で溢れて互殺に興じているだろう。
もし可能性があるなら、リーシア自身だ。彼女がどうにか意識を保ち、メグミが家まで連れ帰ることができれば、或いは何でもありの力で──
頭を振る。一瞬、不明な何かが脳裏を過ぎったがどうでもいい。今はただリーシアを、でもリーシアにしてあげられることなんて。
「メグ……はやく……て」
依然として逃げろと警告を繰り返すリーシア。
こんな状況下でも自身の身体のことよりもメグミのことを優先することが業腹で、メグミは唇を噛みしめることしかできなかった。
「嫌だ嫌だ嫌だっ!! 頼むから気をしっかりもってくれっ……なあ目を閉じんなよ! 俺を見ろ!」
聞き分けのない子供のように駄々をごね、喚き散らす。やまない号哭をするその姿だけは、とても道化には見えなかった。
そして何もできないという無力感がメグミを一層のこと傷付ける。
憔悴しきったリーシアに声をかけることしかできず、痛みを和らげることもできない。
「……手……にぎ……って……?」
まるで宮沢賢治の『永訣の朝』ではないか。何もできない『わたくし』を気遣い、手を握ってくれと願う。
何故初対面の相手のためにここまでしてくれるのだろう。
ああ、情けない。その痛み全て代われればどれだけいいだろう。
「握る! 握るから、だから頼むから!!」
何故、自分でなくリーシアが死ななければならないのだろうか。
「……ごめ……ね」
元々冷然さを感じる声色だったが、同時に存在していたはずの暖かさはどこかへと消えている。
リーシアは、今ではもう凍てつく寸前で囁くような声しか出せないのだ。
痛いだろう。苦しいだろう。辛いだろう。なのに、命を削ってまでどうして謝る? 謝るべきなのは、他ならぬ何もできない自分なのに。
どうして、微笑んでる?
やがて潤んだ黒の虹彩は瞼に覆われていった。
体温はもう感じられず、溢れるだけの血液すらも失っている。
「リーシア? リーシア!? や……おい、待って……待ってくれよ。そんな、そんなのあるかよ……なあ」
嘘だ。これは嘘なんだ。現実なんかじゃなくてもっと違う、それだここは夢じゃないか。これは悪い夢で、目を醒ませば全て元通りに決まっている。
醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ醒めろ、醒めろ。
「目ぇ醒ませよ!! リーシ────」
──大きく肥えた果実が切り落とされ、それに伴って赤い果汁が辺りに汚らしく飛び散る。
僅かながら彼女に残った白亜すらも、夢に迷い込んだ男の赤黒い血液と鮮血に染まり、もうかつての面影を両人とも留めてはいない。
特にマシゲ・メグミだった何かは酷いモノになった。四肢をもがれ、背を切り開かれ、贓物を引きずり出され──考えたくもないようなあらゆる屈辱を与えられていた。
そこにあるのは見るも無惨な肉塊、だけである。




