4 『魔女の出すお茶にはご注意を』
「……魔女。魔女ねぇ」
白髪の女性、──リーシアの発言により、惠の夢に対する不信感、不安感はより一層増すことになった。
とりあえず自分の疲労困憊が甚だしいのだという形で割り切ることに。
夢から醒めたら、眠る以外で心身を休めることに決めた。
それも仕方がないことだろう。九年ぶりの夢で、見たこともない人物が、謎の設定をもちながら、魔女だと言うのだ。
信じられるだろうか? なんの脈絡も兆候もなく展開される、何やら細かい設定を孕んでいる世界が、全て夢だと。
「……魔女は、嫌いかい?」
リーシアは少し物悲しそうに惠を見つめた。
その悲愴さは、惠のもつ悲愴と変わらないように思える。なんならそれ以上の悲しさを醸し出していた。
「……いや、そんなことはないさ。俺が嫌いなのはこの世でたったの一人だけだからな」
惠は身体を伸ばしながら答えた。それも即答で。
自分が魔女だということにそこまで気にしていないような惠の様子を見て、リーシアはほっと息を吐く。
「それを聞いて少し安堵したよ。……よければ誰か聞いても?」
それは、ちょっとした好奇心だった。
リーシアからすれば、『魔女』という言葉で恐怖に慄いたり、嫌いだと言わない人間が珍しいのだ。
そんな珍しい人である惠の嫌いな人が誰なのかが知りたい、というのは道理ではないだろうか? 或いは人の性であり、心理的に分析すればカリギュラ効果が働いているのではないだろうか。
その好奇心を後押ししたのは、彼女が醸し出している悲愴に他ならなかった。
ただ、惠とリーシアの悲愴を比較したとき、惠には圧倒的な違いがある。
──それは自身の悲愴、或いは自己に対する皮肉、意趣返し、抑圧である。
惠は誰に何を言われても堪えない人間だ。
何故なら、言われてもしょうがない人間だと自負しているからである。そして何より自己嫌悪が甚だしい。
世間体のために笑顔を絶やさない。いい人間を演じる。
そんな人間が嫌いなのは、自分がそうであるからだった。自己嫌悪というやつだ。
さて、ここまでの話をまとめれば一体彼が誰を嫌っているのか気付くだろう。
そう、彼が嫌いな人間は他ならない、
「茉稠惠ってやつだよ」
──茉稠惠その人である。
「マシゲ・メグミ? へえ、珍しい名前だね」
リーシアはその男の名前を珍しいと言った。
確かに、『茉稠』などという名字は見かけないものだ。なんなら『茉』も『稠』も普段使わない漢字である。
しかし、リーシアの言う珍しいのニュアンスは少々違うようだ。恐らく英語圏で日本人が名乗ったときのような感じだろう。
今日では、日本人のファーストネームが後にくるという理解はあるらしいが、夢にまでは適応していないらしかった。
もっとも、惠はそれに気付いていない。
「名字は珍しいかもな。そいつ以外見たことないわ」
「名字も名前も珍しいけれどね? というか、名前と名字ってあまり言わない言葉だね」
「ああ、ファーストネームとかだっけ……。まあ名前は気に入ってるけどな」
一応言及しておくと、惠は「名前は気に入っている」とは言ったが、だからといって「名字は嫌い」とは言っていない。珍しい名字だからこそ気に入っているような節が伺える。
「嫌いな相手でも名前は好いているのかい? 変わってるね」
惠には素っ頓狂な返しに思えた。が、それは至って普通の反応でもあった。
リーシアは目の前にいる男の名前を知らないのだから当然なのだ。それを惠が知る由はない。
故に、初め惠は間の抜けたような、目が点になったような。それこそきょとんとした顔をしていた。
「……ははは、本当だ。俺もそう思う」
それから何回かリーシアの言葉の意味を反芻して、ふらついた身体を揺らしながら、のんきに笑ったのだ。
惠は、九年ぶりに、心から笑った。
九年の人生で、彼が心から笑えたときはなかったように思える。
お笑い番組を見ていても愛想の笑い。親友と話していても愛想の笑い。
それ以外の笑いは、というより笑顔そのものは、滅茶苦茶に固めきった彼の素の顔だったのだから。もっと正しく言うのなら、笑顔は彼の顔に張り付いて取れない『仮面』である。
夢のなか。夢のなかだ。
夢のなかであるが、それでも、ちょっとした幸福感が身体を駆けめぐって、意図せず笑顔が漏れる。
それがたまらなく嬉しくて、惠はまた笑った。
リーシアもそれを見てつられて笑う。
その微笑みが愛想笑いでないことは、誰よりも惠が理解していた。
今。この夢おいて、茉稠惠は仮面を外したマシゲ・メグミでいられることを。
「答えてくれてありがとう。さて、次は君の『名前』を聞かせてくれるかい?」
ひとしきり、よく分からない笑い合いが終わると、リーシアは自己紹介に戻った。順当な流れであると言えよう。
ここで惠は察する。さきほどのリーシアの発言が素っ頓狂に思えたのはそういうことだ。
ああ、俺の夢なのに俺を知らないのか。
だから『見ず知らずの方』だとか回りくどい呼び方だった。それであんなこと言ったんだな。
「ああ、もちろん」
理解するには少々遅かったが、別に命に支障があるわけじゃないのでセーフだ。
惠は理解したあと再び微笑み、自分の名を告げるため乾いた唇を、笑みを含んだ唇を開いた。
「俺は、マシゲ・メグミ」
惠の不敵な笑みの理由を理解したリーシアの驚きよう、呆れようは、惠が見ていて愉快なものだった。いわゆる浅ましがった表情の移り変わりですら美しいなと感じるほどである。
「……実に変わってるね。……そうか。君が、君の嫌いなメグミなんだ」
言っていておかしいのか、リーシアの微笑みの度合いは増したようである。
惠もお道化たように笑って、今度は自嘲をしようと、慣れない言葉遣いを思い出しながら言おうとした。
「そうそ。こんなこと普段でも言わな……っくしゅん」
──言おうとしたのだが、代わりに聞こえたのはくしゃみのひとつだけであった。
くしゃみが引き起こされた原因に心当たりがあるとすれば、それはもう間違いなく湖に落ちたことだろう。
リーシアの計らいがあって服や身体こそ乾燥していたものの、一体どれだけの時間水に浸かっていたのかなんて想像に難くないうえに想像したくないものだった。
ただ、風邪をひいたからといってそれが即死に繋がることはない。
大抵の場合、風邪が悪化し、結果肺炎に至るなどのケースを経て死亡するのだから、ここで適切な処置さえ施せば──と、ここまで考えて惠は止まった。
待て待て。確かにこの場所の感覚は現実にほど近いが、近いだけだ。別に現実じゃないし、仮想現実で、夢のなかだ。
……夢。夢? いや、もう少しで違和感が晴れそうなんだが……。
駄目だ、分からない。あともう少し、何かが足りない。
かねてからの違和感の解明に至るかと思われたが、しかし至らない。
何かしら、夢であるからこそ明瞭に感じ取れない節があるようだ。
例えば、夢であることを忘れて風邪の治療について真剣に考えるなどが当てはまる。
惠の感じる違和感は増して積み重なった。
対してリーシアは不安を積み重ねている。理由は惠が患っているであろう風邪に起因していた。
「……いけないね。やはり風邪をひいているようだ。厄介な病だけれど、適切な処置さえ施せば命は助かるよ。ひとまず」
早口で、およそ落ち着きの欠けた喋り。惠には、リーシアがあからさまに動揺しているのが伺えた。
さきほどまでのリーシアは、落ち着いた雰囲気を口調や声質から漂わせていたのだが、今やその欠片も感じられない。
まるで風邪が大病であるかのような慌てように困惑の色を隠せない惠は、リーシアの言葉を遮りお道化る。
「待て待て。たかが風邪だぞ? そんな大げさに」
「……たかが、だって?」
信じられないもの見た。そんな視線が惠を貫いた。
「君こそ大げさに受け取るべきだよ。昨年も風邪によって王都で幾十人が亡くなっているのを知らないのかい?」
聞き慣れない単語とともに、風邪の恐ろしさを熱弁されている。今度こそ惠はカウンセリングの予約を起きた瞬間に申し込むことを決めた。
王都。王の都。王のいる都。
また心の闇が垣間見えてしまったと懊悩する惠。
まるで中学校二年生のそれだ。もちろん惠に痛々しい時期などなかった。ちなみに反抗期もない。
これは尋ねるべきかと悩んだが、どうせ醒める夢と思い、惠は王都が何であるのかを追求せず話を進めた。
「……いや、暖かくして栄養つけてやれば大概治るでしょうよ。それに風邪で死ぬよか肺炎だろ? 気管支炎だったら痰が絡んだり嘔吐とか関節痛とか……」
惠が病気に関してやけに詳しそうなのには理由がある。彼の一家が代々悩まされてきた病弱な身体がそれだ。
幼少期、特に彼の姉が昏睡する前は、些細な病気でさえ体調を崩し、惠は病に伏せていた。
しかし姉が昏睡して以来の九年、惠は一度も病に伏していない。しいて言えば夢を見なくなった程度である。
つまり一度も伏せなかったからには、何かしらの対策が施されていたわけで。
それが、今はとある本をカモフラージュするために使われている分厚い医学書である。
これを読破した彼は、もれなく病に詳しくなったのだった。
しかし、風邪や気管支炎、肺炎のことなど今や一般常識だ。そして惠の夢のなかなのだから反映されて当然。
それ故に、リーシアの慌てようがいかにおかしいものなのかは明らかであった。
「は、肺炎? 風邪が肺炎になるのかい? それに、気管支炎? 何故気管支炎が関係して……いや、討議はあとでいい」
惠は耳を疑った。何を聞いたのか困惑した。
風邪が悪化すれば肺炎になる。似た症状に気管支炎があり、見分けがつきにくく、肺炎で亡くなる人は少なくない。風邪で亡くなるケースは極めて稀。
これら全てが一般常識だと信じていたのだから、殊更驚愕した。これも夢故なのか。
そんな彼を尻目にせず、リーシアは何かをし始める。
何をしているのだろう。そんな疑問を浮かべたとき、惠はここでようやく初めてリーシアと、リーシアの周りの状態に注目したのだった。
そもそも、リーシアの装いはかなり不思議なものである。
白色が映える色合いと言えば黒だ。白と黒の組み合わせは、言うまでもなく目を引く。白は黒を引き立て、反対に黒は白引き立てる。
であるならば、間違いなく彼女の着る黒の装束は、彼女を引き立たせるのに一役買っているだろう。
惠はワンピースを思い浮かべた。構造で言えば間違いなさそうだ。上と下が一体化しており、まさにワンピース形式の衣類である。
腰のあたりには帯状の布が重なるように回されている。ベルトの役割をしているようだ。
袖は長いが、手首までは覆わない。また、スカート部分の裾も長く、靴が見えるだけで、つまりリーシアに身体の露出はほぼない。
袖や裾、ベルトには金の糸で模様があしらわれている。否、何かの文字のようである。
そんな身体のラインを覆い隠すそれは、この天候じゃ暑さを伴うものであるのは明らかだ。
それを顔色変えず着るあたり、惠には酔狂に思えて仕方がなかった。
その黒の装束を揺らし、リーシアは身体を横に向ける。
そこには白く塗られた小さなテーブルがあり、上には、惠が目醒めるのを待つ間読んでいたであろう分厚い本が開いて置いてあった。そこにはリーシアのベルトにもある意味の分からない文字が表紙に綴られている。
他にも、リーシアがさきほどから飲んでいる湯気の立つ紅茶を湛えたカップ、それから空のカップがあった。
もちろんティーポットも置いてあり、リーシアはそこに、どこからか取り出した茶葉を加え、空のカップに注いだ。紅茶の色にしては緑色が強かった。
「紅茶、ではないか」
余談だが、惠は無類のお茶好きだ。自分の部屋の一角には、彼が収集している茶葉が保管されている。
種類は多数。ダージリン、アッサム、アールグレイ、ウバ、ディンブラなどなど。
紅茶だけに留まらず、日本茶の多くも収集している。数少ない彼の趣味だ。
しかし、そんな無類のお茶好きですら種類の判別のできないそれは、ジャスミンティーのような、或いはハーブティのような香りを漂わせている。
つまり差し出された茶が、惠の好奇心を刺激するには、言わずもがな充分であった。
これは? と聞く代わりに目線をリーシアにやると、彼女は得意げに説明をし始める。
「薬煎茶さ。ティアナとも言うね。内容成分は……長くなるから割愛。ともかく治癒力が向上するから飲んで?」
内容成分記載ぐらい惜しまずやれよ、捕まっちゃうぞおい。なんていう心の叫びは隅においやる。
出されたものを無下に断れるほど、惠は気が強くない。彼は湯気の立つ『薬煎茶』とやらを受け取った。
惠は注ぎたてが一番美味しくいただけるのを知っている。そのため多少の躊躇はあったものの、カップの縁に口を付けた。
芳しい香りが鼻孔をくすぐる。これは美味しいやつだと、そう自然と身体が告げた。躊躇の心はどこかへと消えた。
一口、二口、三口。味を楽しみながら口に含み、四口目を飲もうとした。
「あんまり飲むと身体に毒だから注意して──」
「ごふっ! げっほげほ!! もっと早く……うあ」
「──と言うのが遅かったか……」
リーシアの遅すぎる忠告が彼を噎せさせるのは、さして難儀なことではなかった。見事に惠は噎せてみせたのだから威力というべきか、効力は証明済みである。
カップの中身は辺りの草花や土が飲み尽くしている。もったいないことをしたと、もし惠に意識があるなら思うはずだ。
リーシアは惠に駆け寄り、意識の有無を確認し始めた。当人はここに来てから何度目かの朦朧によって意識を半分奪われている。
何が起きたか。つまり、風邪の倦怠感など露知らず、惠を支配しているのは留まるところを知らない活力と熱であった。
飲む以前よりも悪化したのは間違いないだろう。実際、惠は溢れ漲るそれによって再び倒れたのだから。
こうして、話は始まった。再び、始動し始めたのである。
九年の、或いはそれ以上の年月を越えて。
災厄と波乱を孕んだ物語が、今。
────みいつけたっ。あは。あはっ。あはぁ。うふ。うふふ。ああ、もう、愛おしい。




