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夢と現の白日夢  作者: 天流昴琉
第一章 明晰の揺らぎ
4/11

3 『白との出逢い』

 夢の役割というのは、記憶整理というものが大半だと言われている。


 レム睡眠時の大まかな役割として夢を見ること、大脳の点検などがあり、他にも多々あるが今は割愛させていただく。

 簡潔に要点を()()めば、現実の出来事で必要な記憶と不必要な記憶を分別するのである。

 寝る前に暗記教科の勉強が有効だと言われる所以(ゆえん)はそれ(ゆえ)だ。


 であるならば、夢に現れる存在が現実で記憶したものであるのは当然である。

 意味不明なイメージに関しては、深層心理を表した抽象画だと思えばいいだろう。


 では、(めぐみ)の記憶に一切ない彼女の存在はどう説明したものだろうか?

 彼女の存在を深層心理の抽象と言うには、あまりに具体的すぎる。

 柔らかな感触や帯びた熱、潤いを湛えた黒い瞳、白くきめ細やかな肌。どれをとっても曖昧さがない。


 もう一つ。『彼女』が『九年越しの夢』に現れた要因が不明だ。

 見る夢の内容を選ぶなど、明晰夢(めいせきむ)を見れなきゃならないではないか。もしくは出てほしい人物の写真を枕の下に入れて祈るしかない。

 後者に関して言えば、確率も低いうえに実在する人物でなきゃいけない。漫画や小説のキャラクターも通用するかは不明だ。


 それを踏まえて惠は考える。

 導かれる解答は単純にして明快。食傷(しょくしょう)な解答には飽き飽きする性格の彼にとっては、至極(しごく)味気なく退屈でつまらない解答だった。


『彼女』が『九年越しの夢』に現れた要因や理由など、そんなもの分からない。

 それが惠の導き出した解答である。


 ちなみに、先述した夢に関する話は惠本人のもつ知識そのままを文章に起こしたものだ。

 彼自身、夢を見なくなった原因について究明しようとしていたので、夢に関する知識は常人のそれを(いっ)している。


 さて、惠はこれからどうしたものかと物思いに(ふけ)始めた。

 現実の惠が目醒める気配など欠片(かけら)もないうえに、夢のなかだというのにこの意味不明な状況下。

 脱するための手段を講じようにもいい考えが浮かぶわけがなかった。

 混乱に混乱を重ねたような今の惠には、そんな余裕など皆無だったのである。


「もし、もし? 大丈夫かい?」


 白髪の女性は依然として惠に話しかけてくる。

 今度は彼の身体を、延いては彼の意識だとか感覚だとかについての心配をしているらしい。

 目を大きく見開いたまま何も言わない男が自身の膝の上にいれば、心配するのもおかしくはないだろう。

 当の本人は、女性と目を合わせるということに尊大な羞恥心(しゅうちしん)を覚えるような初心者なので、素早く湖の方に向き直った。


「あ……。ええ、大丈夫、です」


 惠はどうにか言葉を振り絞る。

 未だ策を講じるには至っていないのだが、普段の生活で培った対人会話スキルが自然と発動される。


 惠は、普段の生活で誰に対しても敬語を使い、また力を貸すような人間だ。だからといって見返りも求めない。そういう意味でそんな役回りを率先していく人間なのだ。

 その行動は習慣づけられ、そして(くせ)となった。

 癖は直せず、家族にすら敬語で話すようになってしまい、唯一タメ口で話せるのは今はもう親友だけである。それも何か月かに一回程度(ていど)


 そんな惠の返事を聞いた白髪の女性は、一つ息を吐いて空を(あお)いだ。その表情は(うかが)えない。

 そして果てのない青空を仰いだまま何かを(つぶや)いた。辛うじて聞こえるような、小さい声で。


「──ずっと待ってた」


「……え?」


 ずっと、待ってた? 一体何をだ?


 惠の困惑はさらに複雑に絡み合う。夢のなかの人物が、まるで意志をもっているかのようにそう言うのだから。

 困惑せずにいられるだろうか? 少なくとも彼は困惑を隠せなかった。

 惠は一瞬女性の言ったことが分からずに止まってしまったが、どういう意味かを聞き返すように声をあげる。


「──ああ、ほら。目を醒ましてくれるのをここ一時間ほどね」


 白髪の女性は待っていた。惠が目醒めるのを、およそ一時間以上、ずっと。


「……待ってた。一時間も」


 惠は白髪の女性が言ったことを口にし反芻(はんすう)した。

 女性の、今の言いようにも得体の知れない違和感があるな、と思ったのだ。


『ずっと待っていた、目醒めてくれるのを一時間ほど』


 言っていることにおかしい点はないように思える。矛盾点もないと思うし、ならさっきの違和感とあまり変わらない。別の何かに原因があるのか?


 ……これは解けない違和感だ。


 思えば、この夢には違和感が多く()(めぐ)らされていないか?

 流石に、このままほっとくのは気持ち悪くて仕方ない。どうにか考えなきゃな……。


 惠はそう思案(しあん)した。いや、思案し続けている。白髪の女性との会話中、思案し続けるつもりでいた。会話が続くのであれば、だが。

 それも杞憂(きゆう)であった。会話が尽きることはない。白髪の女性は口を開く。


「さて、だから脚が痺れてしまって。……動けそうにないのは僕も同じだね」


 白髪の女性は可愛らしく微笑んでそう言った。

 対して惠の内心は驚愕(きょうがく)と困惑と羞恥(しゅうち)で埋まりきってしまっている。冷静な思考をするには、少々難しい心境だ。


「えと……すみません。どうにか退くぐらいなら大丈夫なので……」


 夢のなかでまでこんな態度とってしまうとか、本当にどうしようもない人間だな、俺。

 もっと自由に、楽していい空間だろここは。ここでぐらい仮面取っ払ってのびのびと、現実じゃできないことを。


 そんな悲愴(ひそう)な思いが惠の頭に()ぎる。

 驚愕に冷静さを()く自分と、困惑に打ち勝てない自分と、羞恥を感じてしまう自分。加えて夢のなかですら仮面を外せない情けない自分に、苛立(いらだ)ちと失望を覚えた。


 改善することは、或いは可能だろう。可能であるが、それは絶望的な可能性だ。

 惠が大きく変わるには、もう何年も眠ったままの姉が目醒めない限り、ありえない。それだけ大きな切っ掛けがなければ変わらないだろう。

 いや、案外この夢が切っ掛けになり得るのかもしれない。大きさで考えれば充分である。

 だが、踏み出す気概(きがい)がない。欠けている。どうしようもなかった。どうしようもないのだ。


 そんな行き場のない感情を心の(すみ)に追いやり、惠は身体を起こした。

 まだ動くには早いようで、水に濡れ、冷えた身体は震え、心なしかふらついているようである。


「あ、ダメだよ。あまり無理をしたら身体に障ってしまう」


 白髪の女性は惠に安静にするように心遣いをしているわけだが、本人は(かたく)なに聞かない。


「いや、本当にだいじょ……」


 一体何が大丈夫なのだろうか、と白髪の女性はさらに心配した。

 それを素直に聞けばよいものを、惠は(いま)だ頑なに起き上がろうとする。


「うおっ」


 しかし途中で力が抜けてしまい、再び頭が女性の膝に、──正しくは太ももに弾んだ。


「あうっ」


 その拍子(ひょうし)に、女性は()頓狂(とんきょう)な声をあげる。その声が、惠には可愛らしく聞こえた。

 そんな声をあげた理由は(さっ)しのとおり、痺れている太ももへ、急に重みが加わったからである。


「あ! あの、すみませんそんなつもりじゃゃ……。ごめんなさい大丈夫ですか!?」


 それに気付けないほど惠は思慮(しりょ)浅くなかった。

 彼はすぐに女性へ謝る。慌てふためいている、というのは表情から見て取れた。動転しすぎではないかと思われるほどの慌てようである。

 だが顔を背けているのは相変わらずであった。純情な彼にはそれさえ難しいことなのだ。


 対して白髪の女性は、大きく吸い込まれそうな黒い瞳を、睫毛(まつげ)の長い(まぶた)の裏へと隠し、苦笑いしながら顔をしかめた。

 よほど痺れているのだろう、というのも表情から読みとれてしまう。


「うぅ……だ、大丈夫。これぐらいならステラの斬撃(ざんげき)より(はる)かにましだからね」


 誰だよステラって。

 斬撃って、一体全体何があったんだ……。

 夢のくせに設定細かすぎるだろ。

 物騒すぎるぞ、この、九年ぶりの夢──


 そんなことを、惠は思わざるを得なかった。()しくも、こちらもしかめっ(つら)をしながら。


 ▽ ▼ ▽ ▼ ▽ ▼ ▽ ▼ ▽ ▼ ▽ ▼


「改めて、目醒めてくれてよかったよ」


 黒い日傘を差し、甘い香りがする紅茶を(すす)りながら、白髪の女性はそう言った。


 女性、──白髪の女性の容貌(ようぼう)容姿(ようし)について、惠は一切心当たりがない。見覚えもなければ、そういう容姿の人を想像したことも、妄想したことだってなかった。

 その容姿容貌(ようしようぼう)は、彼の知る誰よりも端麗(たんれい)であることを伝えねばなるまい。


 白髪の女性の容姿容貌について、惠が気になったところを端的(たんてき)にあげるのならば三つ。


 一つ、引き込まれそうになる黒色の(ひとみ)、──正しくは虹彩(こうさい)


 彼女の目の色は、惠の豊富な経験と知識をもって考えても非常に珍しいものであった。

 (ちまた)ではカラーコンタクトなどという年頃の女性方に人気な物が売っているわけだが、それをつけているのでは、と彼は疑ったほどだ。

 その真偽はどうであれ、あの瞳を覗くには少々の時間と慣れがいるだろう。


 二つ、光を乱反射(らんはんしゃ)する白髪。


 一番目を引き、印象を与えるのは彼女の髪の色だろう。実際、彼女の名前を知らない惠は、この女性を心のなかで白髪さんと呼んでいた。

 さて、白髪とは言うものの、光の反射によっては銀髪にも見えなくはない。或いはうっすらと紫がかっている気もする。

 しかし、やはり白髪だ。黒の瞳と相反するこの色は白で間違いなかった。

 そしてその髪の長いこと。腰まである白髪は手入れが(ほど)されているようである。まるで絹糸(きぬいと)のような美しさだ。

 髪は特に結んだりはしておらず、そのまま下ろしているが、ふんわりと形を(たも)っていた。


 三つ、細く柔らかで折れてしまいそうな、華奢(きゃしゃ)な身体。


 これについては視覚の判断ではなく、惠の感覚によるものだ。

 何故なら、彼の目が捕らえたのは黒い装束(しょうぞく)で、およそ身体の形など分からなかったからである。

 しかし、彼が知っている女性を想像して比べてみても、やはり少々痩せているように思えた。スレンダーという言葉がまさに相応(ふさわ)しい。

 ただし一部分を除いての話である。彼の名誉と彼女の保身のため、どこがとは明白にしない。


 以上これらが惠の気を引いた三点であった。


「それで、身体が動かないこと以外に違和感はないかい? 痛いとかもあるのなら聞いておきたいんだけど」


 依然として惠を心配する女性。(つと)めて優しく接している。

 こんなだだっ広い草原の湖の(ほとり)だ。彼女が偶然にもここにいたからこそ、最悪の目醒めにはならなかった。あのままでは夢見が悪く起きることになっただろう。


「違和感ならここに来たときから絶えないんですけどね……。まあ、全身水に打ち付けたぐらいですから」


 対してこちらは努めて冷静を『(よそお)って』いた。

 内心は、未だ混乱と悲愴さを漂わせ、何よりこの夢の違和感によって押し潰されそうになっている。

 それでも夢のなかで平静を装い、冷静に努めることもできなければ、自分は情けなさに心をやられると惠は思った。

 故に、対人会話スキルとやる気を振り絞って笑ってみせる。

 人間らしさの欠片もないとっておきの営業スマイルを、女性には見えない角度だというのに。


「……打ち付けたって、まるで空から落ちたみたいな言い回しだね?」


 少しして白髪の女性は疑問を問いかけた。それだけ惠の言い分は不審であることが(あん)に示されている。


「いや、実際そうなんですよ。急に空に投げ出されて、そのまま湖に沈んだんです」


「……何か言えないことがあるんだね。心中察するよ」


「いや……。まあいいか」


 夢のなかとは言え、惠が白髪の女性と初対面ということに変わりない。言っていることを鵜呑(うの)みにしてくれるほど世間は甘くなく、信頼を(きず)くには難しい。

 しかし事実は事実。訂正をする気力もなかったが嘘を()く理由もない。夢なのだから。


「……その、よければその言葉遣いはやめてくれないかい? (かしこ)まられるようなにんげ……、人間じゃないんだ」


 惠の返答に安堵(あんど)の表情を(のぞ)かせた白髪の女性であったが、すぐに(まゆ)を寄せて苦笑しながら惠の言葉遣いについて言及(げんきゅう)した。

 惠はその表情を見てはいないが、声色(こわいろ)から心象(しんしょう)を感じ取る。

 それと同時に、何故「人間」というところで噛んだのか、という細かな点に疑問を抱いていた。どうやら些細(ささい)なことに対しても敏感(びんかん)になっているらしい。


 それはさておき、惠は白髪の女性の願いに(むく)いるかどうかも悩んでいた。頭を悩ませてばかりである。

 しばらく考えたのち、惠は報いることに決めた。


「あー……。折角(せっかく)だし、やめてみるかな」


 どうせ夢だしな、と心のなかで付け加えて。


 これが現実でのことならば、彼は確実に(ゆず)らないだろう。彼が(まと)い続けた仮面は、これ以上ないほどに彼を束縛(そくばく)しているのだから。

 しかし、なるほど確かに夢という仮想現実だからこそ彼は仮面を付ける必要がないわけである。理由がないとも言えるだろう。

 それが暗に言っていることは、茉稠(ましげ)(めぐみ)が『九年ぶりに束縛から逃れた』ことに他ならない。


 九年。長い年月である。誰にとっても馬鹿にならない九年という年月を、惠は自分のために過ごすことをせず、家族のために過ごした。

 ある(しゅ)間違いではないだろう。むしろ正しいとも言える。少なくとも悪いことではない。

 しかし、その尽くし方は常軌(じょうき)を逸している。


 彼の姉が昏睡(こんすい)状態に陥って以来、惠は異常なほどの人格者を『演じる』ことに徹した。

 それは将来を有利にするためであり、延いては家族を守るためであった。今まで嫌ってきた努力をする気概を手にしたのだ。

 そうして『演じる』ことが当然のことになってしまった惠は、人格者を『演じる』ことを何とも思わなくなった。

 周囲からすればおかしいことこの上ないようだが、彼が人生で大きく変化したのはこれっきりである。

 そして彼にとっても、よかったと思うことであったのだ。


 だからこそ、これは転機(てんき)だと言えるのではないだろうか?

 九年の年月が経ち、九年ぶりに見る夢。切っ掛けとしては充分なものだ。

 惠自身、これはいい体験になるのではと踏んでいるほどである。もちろん夢のなかであって仮想体験にすぎないと承知(しょうち)のうえで。


「えと、改めてありがとう。あのままだと酷い目醒めになるとこだった」


 台詞だけ切り取ってみればまともなことを言っているようであるが、実際には膝枕のままである。格好が付かないが惠は構わなかった。気にしたら負けである。

 そんなお礼を受けた白髪の女性はくすくすと笑いながらこう言った。


「そうだね。目を開いたらオゾゼルの楽園だなんて洒落(しゃれ)にならないよ」


「いや、楽園というか地獄だけどな?」


 オゾゼルの楽園などという単語に聞き覚えなどなかったが、少なくとも目醒めた先が楽園でないのは惠にとって明白だった。なので皮肉めいた言葉を返したのである。


「……君、罪人なのかい?」


 もっとも、聞き手は真剣に(とら)えてしまったようだが。


「あ、いや違うと思うけど。地獄に連れてかれるとしたら……嘘を吐いたからとか」


 地獄に堕ちる理由が惠にあるとすれば、正直な話それ以外なかった。

 少なくとも彼は、世間一般が(とな)えるような悪ではないし、一般通念(いっぱんつうねん)の言う善人だったからだ。

 しかし、善人を『演じて』いるという点を違う観点から覗いたとき、彼には『演じる』ことが『嘘を吐く』ことに他ならないのでは? と懊悩(おうのう)するようになった。

 嘘はいけないと教え育てられた人間からすれば、それは地獄に行くのに充分な理由になるのである。


 ただ、相手方には深刻なものではないようだ。ほっと息を吐いて「そっかそっか」と相槌(あいづち)を打つ。

 白髪の女性は目に見えて安堵していた。助けた人が罪人でなくてよかった、というわけではなさそうだ。どうやら別の思惑(おもわく)があるようである。


「僕もよく嘘を吐いてしまうし、出会ったら一緒にオゾゼルの楽園まで行こうじゃないか」


「まるダンテの『神曲』だな……」


 惠は白髪の女性の言葉に既視感(きしかん)のようなものを感じ、それがダンテ著の『神曲』に類似しているなと気が付く。


『神曲』とは、著者であるダンテが恋人のベアトリーチェを探して地獄に迷い込む話だ。

 罪悪を犯した人々が送られる地獄に迷い込んだダンテは、そこでウェルギリウスと出会う。

 ダンテはウェルギリウスとともに地獄を抜け、煉獄(れんごく)を行き、そしてベアトリーチェのいる天国を目指すのだ。

 この話に置き換えれば、ダンテは惠でウェルギリウスは白髪の女性だろうか。


「ダンテ? 誰だいその方は」


 かなり有名な書ではあるが知らない模様。まあ夢のなかだし、と納得して惠は流した。


「いや、何でもない」


「そうかい? ふふっ」


 相変わらず可愛らしい笑み声をあげながらそう言う。女性の安堵の表情はすでに微笑(ほほえ)みに()けていた。

 倍増した優しさと暖かさを惠は感じる。また、どこか()かれる物言(ものい)いであった。


「まあ、そのときはどうぞお手柔らかに……っと。オゾゼルってのが何かは置いといて、いい加減動けないか試してみるよ」


 謎の夢設定もほどほどに。

 もしかして自分の深層心理が生み出した心の闇ではないかと惠は懊悩もしたが、それだけ重圧に(さら)されていたということで割り切ることにした。

 目を醒ましたらカウンセリングでも受けよう、とこっそり思いながら。


 とにかく、何かしら行動を起こさない限り目が醒めることもないだろうと踏んだ惠は、今度は至って慎重に、未だ重たい身体を起こす。

 あれから数分が経ち、いい加減体力も回復し始めていたので、惠は思いの外容易に起き上がってみせた。


「また倒れるなら、せめて一言お願いするよ」


 さきほどのことがよほど(こた)えたのだろう。女性は地面に手を着き立ち上がろうとする惠に言及する。


「くっ……いてて。ほら、『仏の顔も三度まで』って言葉と『二度あることは三度ある』って言葉あるだろ? そういうことだ」


「ん……と。そんな言い回しあったかな?」


「結構有名だと思うけど……。ああ、まだフラつくな」


 どうにか立ち上がった惠だったが、相変わらず体調の悪さには参っていた。無理もない。元々茉稠家の人間は身体が弱いのだから。


 彼の姉も先天的(せんてんてき)に身体が病弱で、その結果病気にかかり昏睡状態へと陥ってしまった。

 彼とて例外ではない。九年よりも前は病弱(びょうじゃく)貧弱(ひんじゃく)であった。

 しかし姉の昏睡を切っ掛けに強固(きょうこ)強靱(きょうじん)、とまではいかないものの丈夫な身体に鍛え上げたのである。

 ただ、一度体調を崩すと長引くのは変わらず健在のようだ。


 そんな体質に嫌気を差しつつ、身体を揺らして感覚を取り戻す最中、惠は不思議なことに気が付く。

 

「……あれ、乾いてる?」


 さきほど湖に落ちたのは『夢』ではあるが事実である。ならば身体や服が濡れているのは道理(どうり)だ。

 しかし、彼自身はもちろん、彼の着ている寝間着。青藤色(あおふじいろ)のパーカーと黒のインナー、オレンジのラインが入った鈍色(にぶいろ)のジャージに至るまで、濡れているはずの服は全く濡れていなかった。


「ああ、僕が乾かしたんだ。風邪をひいたら厄介(やっかい)だろう?」


「乾かしたって、一体……いや、うん。何でもありだもんなここ」


 初めはどうやって乾燥させたのかに疑問を抱いた惠だったが、そういえばここは夢だったと思い出し、納得するに至った、──正しくは言い聞かせたのであった。

『何でもありだから』。理由にしては粗末(そまつ)であるが、致し方がないだろう。夢なのだから。魔法でも何でもあり得るのだ。

 そしてこの『何でもありだから』という理由は有用性(ゆうようせい)が高い。意趣返(いしゅがえ)しには使いやすいのである。

 白髪の女性も、例によって意趣返しに(きょう)じた。


「そうだね、ここは何でもありの世界だ。君が空から落ちてきたのもそういうことにしておこう」


「その話題もう終わったものかと……」


 やはり信じてはいないんだな、この人は。別に構わないけど。夢だし。


 そんな他人に言えない本心を心の奥底に沈め、茉稠惠は白髪の女性と相対(あいたい)した。

 

「……さて、君の名を聞く前に僕から名乗ろう。座ったままのご無礼(ぶれい)を許してほしい」


 立ち上がり相対する惠を見上げ、白髪の女性は畏まって挨拶をし始めた。

 これには惠も、ごく自然なうちに礼節(れいせつ)(わきま)えねばと思い始める。例えここが夢のなかであっても。


 数秒後、白髪の女性は光が()き通るような(つや)のある(くちびる)をゆっくりと開き、暖かさと冷然(れいぜん)さを含めた声で、惠に自身の名を告げた。

 

「僕はリーシア。リーシア・エメレイルド。──白の魔女さ」


 ──本当に、夢を見てしまったんだ。九年間抑圧(よくあつ)され続けてきた、見ることが叶わなかった夢を、本当に。


 惠は、改めて今いる場所が夢のなかなのだと実感し、感嘆(かんたん)した。


 そしてひしと感じる。何かがおかしいと。


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