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夢と現の白日夢  作者: 天流昴琉
第一章 明晰の揺らぎ
3/11

2 『湖の畔に、男と女』

 ──せせらぎが聞こえる。


 そんなことにふと気がついたのは、一体誰であっただろうか。


 茉稠(ましげ)(めぐみ)は周知のとおり、ついぞ水面に届くことはなかった。まさにその努力は泡と化し、今やその形は伺えない。やはり彼は水面に辿り着くという賭けに負けたのだ。


 では、一体誰がせせらぎを聞いたのか。


「──あ」


 声の主は男性だった。

 男の口から短く放たれたそれは、言葉ともとれない息の音である。目を醒まし、すぐに朦朧とし、再び意識を手放した男の、二度目の覚醒を告げていた。


 ここに正そう。声の主は茉稠惠その人であると。光の失われた水底に沈溺(ちんでき)したはずの男であると。


「……ふ、は、はぁ……はぁ」


 惠は喘ぎを抑えつつ、呼吸をした。


 彼が本当に息の根を保っているのかという疑問は浮かぶ。ベッドの下にある本への執念故に亡霊にでもなったのではないだろか?

 いや、息の音が聞こえるあたり、やはり生きて存在しているらしい。


 しかし惠は生きていたものの、意識は明瞭を欠いていた。

 彼からすれば、微睡(まどろ)んでいるという表現が一番正しいのかもしれない。

 急に空へ投げ出され、水に沈み、水面に惜しくも届かなかったのは、全て夢だったのではないか。


 ──ああ、そうだ。これは夢。夢に違いない。


 男にはそうだと思う根拠があった。それは頭の下敷きとなっている柔らかい感触である。

 この柔らかさ、程良い固さもあって弾力を有しているのは、間違いなく惠愛用の枕の感触だ。


「……う、うえっ……ぐっ……はぁ、はぁ」


 惠は嘔吐(えづ)きながら生を実感する。夢のなかだというのにおかしい話ではあるのだが。


 そう、ここは夢のなか。九年ぶりの夢なのだ。


 非現実的なことと現実的なことの二つが並べられたとき、人間は非現実を認めない。夢や気のせいだと認識する。

 理由は極めて単純明快で、現実を信じなければ気をおかしくしてしまうからである。惠も例に漏れずそうであった。


 それに、現実を感じさせる物が彼愛用の『枕』である以上、さきほど体験したことを夢だと思うことは別段おかしくない。むしろ相応の反応だろう。他の誰かが同じ状況下に置かれれば同様の反応が得られるはずだ。


 ──夢なら醒めればいいだけ。そうだ。

 必死に足掻(あが)いたし藻掻(もが)いたけど、夢なら死んだって何も影響ないじゃないか。

 それに枕の感覚がある。

 もう現実に近いところまで来ているんだ。

 なら、やはり()めるだけ。


 惠は目を開くことにした。未だ開いていない瞼の鰓にある景色を浮かべながら。

 窓から柔らかな日差しが暗室に差し込み、少し冷たいそよ風が髪を撫で、母が作る朝食のいい香りが漂い──


「──あ?」


 ありふれた日常の、そんな朝。

 それを想像していたからこそ、彼の瞳に映った情景(じょうけい)は間違いなく信じがたいものになった。


 さきほど自由落下してきた雲ひとつない青空。

 太陽は真上に到達する途中か、沈む途中にある。午前か午後かは分からない。

 その輝きは燦々(さんさん)としており、世界を焼き尽くそうとする。惠は暑さと(まぶ)しさに(くら)んだ。

 その真下に広がるのは涼しげで爽やかな風で(なび)く一面の草原。

 目線を下に下げればさきほど落ちたであろう湖。

 一角に青々と茂った大森林があり、その奥には切り立った霊峰(れいほう)悠々(ゆうゆう)と存在している。


 ──そんな景色である。


 そしてガーネットの双眸(そうぼう)に映る景色の何よりも目立つのは、中世北欧を思わせる巨大な白亜(はくあ)の城々と城下の街が、だだっ広い草原に存在するという異質さであった。


「……あれ、まだ夢見てんのか」


 (かす)れた、息づかいのような声でそう(つぶや)く。

 異国を思わせる情景を目の当たりにし、これもまた夢なのだと認識する惠。目を開けば見慣れた景色のはずなのに、よもやこんな景色が広がっているとは思っていなかった。

 やっぱりこれは夢。彼はそう言い聞かせる他なかった。


 夢、夢。九年ぶりに見た夢。

 悪夢から始まり、目下はこうして落ち着いている。

 爽やかな風が吹く草原のある湖の(ほとり)の、恐らく丘陵(きゅうりょう)の上で。

 ゆっくり横になりながら壮観(そうかん)な景色を眺めている。

 安寧(あんねい)が彼と世界を支配していた。


「最初からここに連れてきてくれよ……」


 しかし彼の心中はそうでもない。今度はため息混じりに呟いた。。


 ──久しぶりに見た夢だというのに、全く散々だ。

 あんな恐ろしい目に遭わせないで、初めから見事な景色ここにいさせてくれればよかっただろうに。


「だから夢ってのは、本当に、いつまで経っても──」


 そんな風に不平を漏らす。彼の心中は穏やかではなかった。口にでてしまっているほどである。当の本人は気が付いていないようだが。


 夢に対する不平。夢のなかでぐらい心を落ち着かせてくれてもいいではないかと惠は文句を垂れた。

 どんなに安寧感に身を包まれていたって、その思いは消えることはないだろう。否、消してたまるか、と彼はそう強く決心した。


 そんな折、彼の行く末を大きく変える邂逅(かいこう)がまさにすぐそこまで来ており──


「夢に不服を感じているところ申し訳ないのだけど、目が醒めたんだね。よかったよ」


 ──今、邂逅した。


 少なくとも、俺が覚えている限り聞いたことのない声だった。

 落ち着いた雰囲気を感じさせ、冷然としているようで暖かみもある。優しい、どこか懐かしいような声。

 聞いたことはない。ないけど、何故か聞き覚えがあるような。そんな声だった。


 惠は女性の声に対する感想を思い起こし、それから身体を一瞬だけ強ばらせた。


 惠は疑問を覚える。

 どこに女性がいるのか、夢のなかなのにここまではっきりと言っていることが分かるのか、という二つである。

 少なくとも彼が見渡す範囲、世界にいるのは彼だけだ。

 もちろん、異質な景色の一部に寝転(ねころ)がっているという状態なので、起きあがり辺りを見渡せば何かしら違うものを見れるだろう。

 今の彼にそんな気は毛頭ないようだが。


 ところで、聞こえてきた声は鮮明である。まるで現実のような明瞭さだ。

 以前の夢では頭に直接響くような感じ、だったと彼は記憶していたのでまず一つ違和感を覚える。

 とにかく、声は明瞭に聞こえた。叫んでるような声でないということは、案外すぐ近くにいるということに相違ないだろう。


「……誰かいる? 悪いけど動けないからほっといて……くれ?」


 惠はそう呟いた。今度はとても弱々しい声で、消え入りそうな声で。


 声から察せられるように、彼は酷く疲労している。

 水面まで酸素なしのまま泳いだことや、水面に身体を打ち付けたこと。

 それらを考えれば生きているのが不思議なぐらいである。悪運が強いというべきか、しぶといというべきか。

 たしかに、夢のなかでここまでの疲労感でを感じれば倦怠(けんたい)も当然。

 動けない、というのは本当らしい。


 そんな(むね)を誰だか分からない女性に呟いたとき、惠は何か酷い違和感を感じた。


 ──何に対する違和感だ?


 言ったことに変な点はない。事実を述べただけで、そこに違和感はないと思うんだが……。

 矛盾しているというより、本当に純粋な違和感がある。今の発言のどこかに何か、(ぬぐ)いきれない違和感がある。


 惠は思考した。この違和感をそのままにするのは、何かしら支障(ししょう)をきたすだろうと思ったからだ。

 しかし分からない。一体何がおかしいのだろうか。

 (うな)るほど考えたが、それでも浮かばない。夢のなかでまで頭を使うのはごめんだ。そう思い、惠は思考を放棄した。


 実際のところ、明瞭な夢が見れるということはレム睡眠を行っている証である。無論、ノンレム睡眠時でも夢を見ることはある、というより眠れば夢を見ているはずなのだ。

 しかし、レム睡眠かノンレム睡眠かで脳の活動は大きく異なる。

 今の彼について言えば、間違いなく脳の活動は活発だろう。すでに頭を使っているのだから、何を今更という感じである。


「何を唸っているのかは分からないけれど、動けないのは本当なのかい? そろそろ、脚が痺れてしまって」


 違和感に対して開き直った彼に、再び女性の声がかけられる。最後の方は苦笑しているようにも思えた。

 動けないという彼の発言に対して、その身体を労るような心遣い。


 ──いや、脚が痺れた?

 言葉を反芻(はんすう)してみる。

 ……あれ、俺の身体を労っているわけじゃ……ないよな。

 自身の脚が痺れたから退()けと、そんな風に聞こえる。そういう意味に聞こえる。

 ……待て。脚が痺れるって、それと俺にどういう関連性が──


 改めて確認しておこう。

 惠の体勢は横向きでも俯せでもない。仰向けである。ただし首は横に(かし)げている。具体的にはさきほど落ちたであろう湖の方に。

 故に、さきほどから彼の視界というのは真上にある空を眺めるものではなく、横に広がる景色を眺めるものだった。

 当然ながら後ろは見えないし、体が(だる)いので動こうとも思わない。


 それでも何か確信めいた思いが惠にはあり、重い身体を半回転させた。

 そして映る光景に驚愕(きょうがく)し、ガーネットの双眸は(またた)く間に限界まで開かれる。

 彼が目を見開くというのは滅多にないことなのだが、無理もないだろう。何故なら──


「おはよう、見ず知らずの方。生きていてよかったよ」


 白髪の女性。惠の夢のなかで、現実でも見知らぬ女性がそこにいたからだ。 


「──は?」


 その疑いようのない事実に、彼は驚愕を隠せずにいる。


「どうしたんだい、見ず知らずの方。もしかして何か失礼をしただろうか……」


 それは、惠愛用の枕だと疑わなかった感触が、現実でも見たことがない白髪の女性の膝枕であるだなんて。

 そんなことを微塵(みじん)だって考えもしていなかったのだから。


作者の天流昴琉です。前回の話で「ルビふりをしっかり」などのお声をいただいたので改善いたしました。

皆様に楽しんでいただけるような作品作りに努めて取り組みますので、意見・感想・評価等をぜひ、ぜひ!

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