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夢と現の白日夢  作者: 天流昴琉
第一章 明晰の揺らぎ
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1 『落ちる夢、沈む夢』

 どれだけの時間が流れただろうか。恐らく幾千、幾億という時間は流れてはいないだろう。せいぜい数十分ほどだと思われる。

 無音と暗盲の、日常と当然の欠如した空間は、今やその影や形も、一片すらも残っていなかった。


 男は、どうやら暗盲の夢から抜け出すことに成功したようだ。

 暗闇だけの心細く、寂しく、怖く、哀しく、辛く、苦しく、心憂い空間から、世界を明るく照らす太陽と、雲一つない青空の下に。

 それは彼の心に強く響くべき希望であったが、そう単純に享受できるものではなかった。

 意味不明の空間から抜け出した彼の意識は全く明瞭を欠いており、つまり朦朧としていた。言い換えれば半覚醒状態でもいいだろう。

 故に、明瞭を欠いている彼には、希望を感じるはずの光景が同時に命の危機を感じる光景だとは、まさか思わなかったのだ。


 世界を明るく照らす太陽と、雲一つない青空の下。

──正しくは、その空中。

 男は、半ば意識のない危険な状態で天高くから投げ出されているのである。


 半覚醒。いわば夢現にほど近い状況下にある彼は、自分の背中に感じる風圧と寒さ、それから目を閉じても感じる眩しさによって、数秒の時間を要したものの覚醒に至った。

 死まで数秒ということを考えれば遅すぎるぐらいである。仕方がないと言えばそうなのだが、しかし仕方がなく死んでしまっても困る。役目がなくなってしまうのは心底困る。


「──うぅ?」


 男は遅れ馳せながらも、唸りながら閉じていた細目を開けた。


 彼の双眸は赤褐色のガーネットをはめ込んだようで、その輝きはまだ保たれている。それと同時にどこか冷たさも湛えているかのようだ。

 その双眸は太陽の眩しさに一度眩んだものの、再び開かれた。


 彼の容貌は整然としている。

 まっすぐに筋の通った鼻、離れすぎず近すぎない目の位置や、瞼を大きく開けないことで少し鋭い目つきなど、恐らく世間が言う格好いい顔立ちには分類されるはずだ。


 身長は一七〇センチメートルほど。体重は相応を蓄えているらしく、しかし無駄な脂肪は一切ない。脂肪があるとすれば筋肉ぐらいだろう。何もしていない人間よりも丈夫な身体を有していると見える。


 風で大きく靡く髪は東洋人らしい黒色で、癖はほぼなくストレート。前髪は眉が隠れるほどで、というより目に少しかかる長さだ。

 染め上げたような形跡はなく、俗世のようなことには興味がないと推測できる。


 彼の装いはそう大した格好ではない。

 ありふれた青藤色のパーカーの内に黒色のインナーを着込んでおり、下はありふれたオレンジ色のラインが入った鈍色のジャージ。寝間着そのままと言ったところか。


 だが今の彼を見た者は、彼の容貌や容姿よりも、きっと彼が置かれている状況に注視することだろう。実際、一人ぐらいは目撃しているかもしれない。


 当の本人は微睡んでいるような、そうでもないような。

 眩しい理由は何故か、何故ふわふわと浮いている感覚なのか、何故背中に圧を感じるのか。そんなことをぼんやりと考えていた。

 数秒後、ようやくのことで覚醒し、目をはっきりと開く男。数々の何故という問いに対する回答をだすのに、そう時間はかからなかった。


「……は?」


 もちろん回答がでたからといって、それを鵜呑みにできるかと言えば必ずもそうとは言えない。現に彼は置かれている状況をたちの悪い冗談か、或いはさきほどの夢の続きではないかと思ったほどである。

 しかし彼は重力のままに自由落下をしている。地面を背に、遠くて近い地上へと真っ逆様だ。


「──!」


 ようやく置かれている状況の恐ろしさと行く末を見据えた。声にもならない叫びをあげるほどの恐怖。もしくは恐ろしさ故に声すら出なかったのかもしれない。

 とかく彼に為す術などありはせず、身体が地上へ衝突するのを見届ける他なかった。

 

 顔と地面が、あと数十メートル、数メートル、数センチメートル──


「うあ」


▽ ▼ ▽ ▼ ▽ ▼ ▽ ▼ ▽ ▼ ▽ ▼


 茉稠(ましげ)(めぐみ)という人間は現代日本の出身、一介の高校二年生である。


 大学で考古学講師をしている父と、司書を勤めている母の間に生まれた第二子であった。

 世間でよく耳にするのは、二人目の子が生まれるとそちらに掛かり切りになり、兄や姉へ構わなくなるというもの。

 しかし惠の両親は、両の意味で器量がよい姉に首っ丈であった。彼がそれを少なからず妬んでいた節も感じられる。


 惠が八歳の頃、姉が病気で昏睡状態に陥ると、人生を謳歌せず、ただ親と姉のためにと勉学に励むようになった。

 それ以来夢を見ることなどなくなったのである。


 それがどうして、何故今になって──


 衝突、轟音。結果、当然ながら男を形作る四肢や頭部、あらゆる要素が粉々に──なることはなかった。


 惠の体感にして数十メートルもの高さから地上へ落ちたというのに何故、四肢欠損や頭部の粉壊が起きなかったのだろうか。

 それは彼が今感じていることを考えれば自ずと理解できるものだった。


 まず痛覚の刺激による全身の痛み。これは当然高所からの落下が理由だろう。

 次に息苦しさ。落下の衝撃で呼吸に障害ができたとしてもなんらおかしくはない。

 そして冷点の刺激による寒さ。しかも、濡れる感覚。


 彼が落下した先にあったのは地上であり、そして水だった。

 例え水に落ちたとしてもその衝撃はコンクリートに身体を打ち付けるほどの威力になるし、水の中なら息ができないのも、なるほど合点がいく。また水に濡れれば体温が下がるのも道理だ。

 それでも男は生きていた。四肢の欠損もなく、溺死もせず。


 身体ごと水に引き込んだ空気が水泡を生み出す。加えて彼の肺に残っている僅かばかりの空気は、水面への衝突で生じた衝撃に耐えかねて口からそのほとんどを吐き出されてしまった。


 彼の身体はことごとく泡へと変わっていく。

 光の遠のく水面下に、男はゆらゆらと沈んで消えていった。水泡を纏いながら、上がる力もなく。

 そんな異質な存在の介入に水下の住民たちは驚き慌てふためき、彼から逃げるように遠ざかっていった。


 ──身体が動かない。


 生きたいという強い願望はあるのに、如何せん身体が思うように動かないため、惠はついに息苦しさに耐えかねて再び意識を朦朧とさせた。もうガーネットをはめ込んだ双眸に光などない。


 人間が水に溺れて呼吸ができなくなった場合、意識を失うまでおよそ三分ほどの時間がある。場合によっては二分。

 この時点で救出されれば、ほぼほぼ生還できると言われている。肺に水が入ることによる二次溺水さえなければの話、ではあるが。


 惠の場合、そもそも溺れる直前まで朦朧としていたため三分ほどの猶予も関係なしに危険であった。

 また衝撃による空気の吐却もあり、さらに余裕はない。水を飲んでいないというのは不幸中の幸いだった。

 総合して考えると、彼が意識を失うまで一分。呼吸停止するまで長くて二分程度であろうか。

 絶体絶命という言葉が相応しいような、しかし助かる見込みもなさそうである。


 彼は意識を手放すまで何を考えるかを考えようとした。


 例えば家族はどうだろう。

 父と母。もう数年ほど昏睡状態に陥っている二十四歳の姉。

 もっと尽くしてやればよかっただとか、親孝行できなかっただとか。家族に対する後悔の念。


 例えば親友はどうだろう。

 十年来の幼馴染みで悪友。進学先も同じで、なんならクラスさえも同じ。何をするにも互いに求め合っていた仲。

 もっと遊びたかっただとか、馬鹿なことをしたかっただとか。親友に対する思い。


 或いはベッドの下の本についても考えた。

 もし今死ねば、確実に白日の下へ晒け出される。かつて、病弱故に知りたかった身体のことや、夢を見なくなった原因を探るべく買った医学書を巧妙に改造して隠したあの本も、きっと見つかってしまうだろう。


「うぶっ……んぐう!」


 ──それだけは阻止しなきゃ駄目だろ。家族への後悔や親友への思い云々よりも優先すべきことじゃないか。あれだけは、あれだけは!


 そんな思春期男子校生の下らないプライドが、結果的に彼の錆び付いた身体を動かしたのだから馬鹿にはできない。

 死して恥をかき、名誉に泥を塗るような真似だけは避けなくては。

 その一心で惠は足掻き、藻掻き始めた。

 今彼のなかにあるのは生きたいという思いと、何故あんな本を隠したままにしたのかという後悔の念だけである。


 水面まではおよそ三メートルから四メートルほど。残量空気は本当に僅かばかりもなかった。

 思考するという行為は脳を使うことに他ならない。つまり酸素を大量に供給し消費する。今の彼に酸素は、僅かどころかほぼないのだ。

 従って正直な話、惠が水面まで辿り着けるかは勝算のない賭けであった。数パーセントの可能性しか助かる見込みなどなかったのである。


 しかし惠は、そのようなことを一切考えずに泳ぎだした。彼には元水泳部員という強みがある。息継ぎもせず、息も吐き出さず泳ぐことぐらいわけなかった。

 当然ながら彼の身体の節々は傷付いているし、生命維持に不可欠な酸素も不足している。大抵の人間なら意識を取り戻すことすらままならなかったであろう。

 それでも彼は泳ぐことを諦めなかった。太陽の光が乱反射する水面に届くように、まさに死力を尽くし泳いだのである。ガーネットの双眸には輝きが戻っていた。


 数秒後、もう指先が水面を突き抜けるほどの距離まで泳いだ頃だろうか。惠はふいにこんなことを思った。


 ──これがドラマや漫画、小説ならぎりぎり間にあって次に移るんだろうな。ありきたりな展開に食傷だ。


 それこそまさに、死亡フラグというものであった。

 具体的には、酸素残量ほぼ皆無というぎりぎりな状態で余計なことを思考したことによる酸素切れ、である。

 これもある種、ドラマや漫画、小説らしいと言えばらしいのだが。

 当然、死亡フラグは見事に発動し、惠が水面へ到達することはついぞなかった。

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