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夢と現の白日夢  作者: 天流昴琉
第一章 明晰の揺らぎ
10/11

9 『それでも君は微笑んだから』

PCの調子が悪すぎる。投稿したくても時間がかかる。PCを替えたくても共用のものなので勝手は出来ない。

そんな業腹な毎日を越えて、あけおめです。今年は長編の投稿が滞ると思いますが短編に期待ください!


 無駄に電車に乗って、揺られていたかった。


 落ち着くリズム、声、ギターの音色、ベースの重低音、軽く響くドラム。THE CLASHの『Train in Vain』を聞きながら、惠は少し遠い場所を目指していた。


 あれから。度重なる記憶の混同、フラッシュバックを経て、惠は曖昧なイメージを抽象な輪郭にまでもっていき、結局思い出すことを何かが良しとしなかったため倒れるには至らなかった。

 その許容量を越える衝撃や演算により体調を崩したが、彼のもつ驚異の気概でもって平然を装ってみせた。

 そうしてひた隠した疲労困憊は甚だしく、七時間目終了の頃には笑顔も微妙に引き攣っていたが、やはりそれに気付くのはたった三人のみ。惠の演技力は度を超えたものだったのである。自らを道化と言うだけはあった。


「…………思い出させない、か」


 その言葉を言い放ったのは惠本人である。何故言ったのかという理由は全く不明で、追求したとしても答えが出るとは到底思えない問題だった。

 ただ、抽象的なイメージだけは残っている。思い出すのではなく、そこにあるのだ。言ってしまえば思い出す必要がないのである。

 ぼうっと眺めるありふれた景色のなかに少し目立つものがあるだけで、注視しない限り気に留めないようなもの。それが、惠の身体を目に見えて傷付けた正体だというのだから恐ろしい。

 だから、気にしない限りは身体を傷付けることはないだろう。しかしこの問題と対峙するときは必ずくる。もしかすれば近いうちにでも。

 だから、せめてこの用事が終わるまでは。


「…………姉ちゃん」


 姉の見舞いが済むまでは、どうか。


 御穣高校の最寄り駅から七駅ほど先。毎月のように通う花屋までの道のりは四十分ほどかかる。

 買う花はいつも同じで、シオンの花のドライフラワーだ。予約は済んである。あとは受け取るだけだった。

 シオンの花に拘る理由は、惠の姉の好きな花だったことである。病弱な姉のために母親が庭に植えたのがそれだった。

 十年前は秋が来る度に咲き誇っていたが、今はもうシオンの花はない。シオンの花を見るときは

いつも潤いを欠いている。姉を暗喩しているようで、好きになれない。

 やがて何回とリピートしていた曲が終わる頃、件の花屋のある駅に着いた。できることならしばらく揺られていたかったのだが、帰りを考えるとそうはいかなかったので断念。重い腰を上げ、惠は席を立つ。座っていた赤いシートは仄かな温もりを残すばかりである。

 改札を抜け右へ直進。出口に向かい地上へ上がると、惠は迷わず近くの公園に向かい始める。公園の最寄りに小綺麗な花屋はあった。


「すみません、注文していた茉稠ですが」


「あら、惠くん遅かったね」


「ええ、学校でちょっと」


 笑顔で出迎えてくれたのは花屋を営む女主人の立仙めいだった。月毎に訪れること十年。昔と比べても何も色褪せない場所である。

 ところで、惠がここに来るときはいつもドライフラワーの注文をしているので惠が来ることを相手はよく知っているわけなのだが。


「……映海はいないんですか?」


 いつも店先で出迎えてくれるめいの愛娘、立仙映海がいない。

 彼女は惠が唯一内心や仮面を取って接することができる人物で、互いに月一回の再会を楽しみにしていた。しかしその彼女が店先にいないので不思議に思ったのである。

 いたのなら、相談したいことがあるのに。この奇妙な状況について、せめて聞くだけでも聞いてほしかったのに。


「映海なら上の階で本読んでるかな? 惠くん待ってる間に寝ちゃいそうとか何とか言ってたよ」


 なるほど、いることにはいるんだ。


「ああ……。じゃあちょっと会ってきます」


「はーい。ほどほどにネ」


「……何をですか」


「なんでもなーい」


 惠に何かをさせる魂胆を含んでいるらしく、もう十年来このやりとりをしている。時には据え膳がどうだとか、男なら思いきってだとか、親としてそれはいいのかと悩めることも言ってくるので、惠としては困りものだ。

 手を振るめいを背に、惠は花屋と直結している立仙家の二階へと向かった。相変わらず落ち着く家だと思う。何度か食事に招待されたこともあり、ただの客だというのによくしてもらっていることが申し訳なくも感じた。

 それにしても、と惠は思うことがあった。それは映海の部屋に入るということである。恐らく最後に入ったのは中学の頃ぐらいではないだろうか。

 この歳で女子の部屋へ入るというのは、些か気恥ずかしいものを感じる。映海が起きているか確認するだけだからやましいことなどありはしないというのに。

 分かりやすい標識。『映海のへや』と書かれたウッドボードは中学の頃と変わらない。そこだけ色が違っているところまで同じだった。

 閉じている扉に三回ほどノックをすると、


「なにー? めぐみん来たのー?」


 と、なんとも間の抜けた返事が返ってきたのだった。いや、めぐみんなんて呼ばれたことがないのだが、まさか立仙家ではこう呼ばれているのだろうか? なにそれ怖い。

 だが、それがどうにもおかしくて。惠は仮面の笑顔とは別の微笑みをしてこう返した。


「……めぐみんだよ、えみりん」


 何かが少し高さのあるところから落ちたような音と衝撃がした。想像に難くない。確実にベッドから落ちた音だった。


「え、惠なの? あ、ちょ、今のなし! 惠は何も聞いてない!」


「全部聞いたよ親友。俺たちそんな仲じゃないだろ?」


「正直言っちゃうと憧れてます……」


「なんだよえみりん水くさいな。言ってくれよえみりん」


「もう恥ずかしいからやめてっ!!」


 この会話をしているのが、まさか体調不良すら何ともないと演じきった茉稠惠とは信じられないだろう。クラスメイトが見れば卒倒ものだ。

 しかし、紛れもなく茉稠惠である。仮面を取り去った惠なのだ。

 では、彼をここまで素直にさせる立仙映海とは何者か。


 立仙映海との出逢いは十年ほど遡ることになる。

 惠の姉、茉稠めぐりが昏睡する前。当時から身体が弱かった茉稠姉弟は病院に通うことが多く、病院最寄りには何かと縁があった。そのうちの一つに立仙めいが営む花屋があったのだ。

 めぐりは自然に親しんで生きてきたが、病弱故に遊びに出かける機会はかなり少なく、両親はそれを可哀想に思った。そのため病院帰りにこの花屋へ通い、毎回花を買って帰ったのである。それはめぐりが昏睡してからも続いた。

 さて、八歳という若輩者が、何においても完璧で誰からも愛された茉稠めぐりの代わりをしようとしたことは、言うまでもないが多大な負担がかかることだった。

 人が変わったように。誰からもそう形容され、そのうち本当に変わった。それができたのは心の拠り所があったからだろう。そしてそれは惠の仮面を剥ぎ去った彼女以外に務まるものではなかったのである。

 ほぼ月に一度会うだけ。単純計算すればたった百二十回だけだが、立仙映海は茉稠惠の仮面を解いてみせた。年間触れ合うクラスメイトですら解けなかった仮面をだ。それがどれだけ凄いことなのかは火を見るより明らかである。

 だから彼女は惠にとって最も大切な『親友』。

手で触れることができる場所にいてほしい、大事な人。


 彼女なら、この気を違えてしまいそうな痛みを和らげてくるだろうか。


「はいはい……。さてと、病院行く前に相談があるんだけど聞いてくれる?」


 情けない話だ。散々平然を装ってきたのに、信用している人の前では途端に弱くなって、頼って楽になろうとするのだから愚かしく醜い。

 触れられる距離に誰かいるのなら、簡単に手を伸ばしてしまう脆弱さ。それを強さと言うだけの強さなんて惠は持ち備えていない。


 ただ純粋に、弱い。


「……真剣な話?」


「聞きようによっては。少なくともお前にしか話せない」


「私にしか、でしょ?」


「……ま、そうとも言うか」


「じゃあ……病院行きながら聞くよ。めぐりさんにも会いたかったし」


「ありがとう。姉ちゃんも喜ぶ」


 茉稠惠専用カウンセラー、立仙映海の臨床が始まる。


 ▽ ▼ ▽ ▼ ▽ ▼ ▽ ▼ ▽ ▼ ▽ ▼


「夢って、将来の夢の話?」


「いや、まあそれはまた別の話だけどさ」


 映海の家から出て数分経った頃、映海のカウンセリングは始まった。相談内容は『夢』について。とは確かにそう言ったが、もっと具体的に言うべきだったと反省することとなった。


「ふうん。……ちなみに興味本位で聞くけど変わってない?」


「将来の夢?……変わってないさ」


 惠の将来に対する設計は揺るぎないものである。人格者を演じようとする理由の一端に含まれていることから安易に伺えることだ。

 今も昔も変わらない、仮面を被る前からの夢。

 公務員として学校の教師なること。


「小説かぁ。暁葉さんには言ったことあるの?」


 それは、親や周囲に言うだけの建前に過ぎなかった。


「……ない。じゃなくて、俺が言ってんのは寝るときに見る方な」


 すぐに話を変える。その話は別にどうでもよかった。今、惠にとって重要なのは自身を蝕む記憶の混同と、十年経って唐突に見た夢との関連性である。


「あ、そっちかぁ。……あれ? 惠って確か」


「流石えみりん覚えてたか」


「その呼び方やめて!!」


 夢を見なくなった。そのことを映海は忘れずに覚えていたことに感服する。また話をするのは面倒だったので手間が省けたことを喜ぶ惠。


「もしかして、見たの?」


「昨日見た。何の前触れもなく見た、けど」


「けど?」


 言葉に詰まる。思えば何を話したものか。気持ちの整理をしたくて、また気を楽にしたくて相談をしたが、多くを語れるほど夢について知ることはない。自分の身に及ぼされている影響ぐらいしか切り詰めた話ができないのであある。

 これは素直に言うしかなかった。


「けど、どんな夢だったかは思い出させてくれない。断片というか、イメージだけなら何ともないけど、完全に思い出そうとすると全身痛むし、朝なんて鼻血まで出た」


 言葉に酷い違和感を、それを言ったあとで感じる惠。

「思い出させない」と言ったのは事実で、同時に「思い出させない」と言われた気がしていた。

 まるで道化師が場を繋ぐ一人芝居。笑う観客などおらず、ただ垂れ流すだけ。真に受けるのは、いつだって演じた道化師だけなのだ。


「……その言い方じゃまるで誰かに強制されてるみたい」


 そう、そこだ。あれだけは何も手がかりがないのだ。何か関係しそうな断片があるわけでもない、ただ意志を乗っ取られたような感覚。だが茉稠惠であって、そうでない。あれだけはどうしても意味が分からないのだ。

 しかし映海の言うとおり、その言葉は強制であって、或いは縛り付けるための命令らしく感じられる。まるで思い出されることが不都合な人がいるようだった。


「そう、かもな。得体の知れない何かがそうさせてる、みたいな……言っててなんだけど酷いな」


「そっか。でも、昨日夢を見たって偶然じゃないよね、きっと」


「やっぱそうかなぁ……」


 夢を見なくなったのは十年前めぐりが昏睡してから。それから十年経って夢を見たのだから関連性がないとは言い切れない。何かあるのだ。


「ね、イメージだけでいいから教えて?」


 半分は興味で半分は本意のように見える。ようするに興味本位だというのは、映海が爛々と微笑んでいることから伺えた。

 惠はイメージだけならと言って、思いつく断片をあげ始める。


「……白亜、白髪、豪華な夕食に……赤色。それから」


 そこまで言って、ふと惠は映海を見た。何も考えず、何の気もなくだ。

 瞳に映ったのは微笑んでいる映海の姿。爛々と笑んでいる表情。白亜、白髪、赤色。


「──っあ」


 ──どうして微笑んでる?


 身体は記憶を受け付けない。身体が悲鳴をあげ、軋む。頭痛、吐き気、動悸、眩暈。どっと押し寄せる感覚に歩みを止めた。

 揺れる。震える。砕ける。拉げる。歪む。

 触れてはいけない。これ以上思い出せば今度こそ次はない。ここで留まれ。彼女の微笑みだけ覚えていればいい──


 何がそんなこと思わせている? 何がそう言い聞かせているんだ? 彼女は、微笑みって、次はないなんて一体……。


「惠! ねえ大丈夫!?」


 苦痛の表情のまま動かなくなった惠を見て慌てた映海は、惠の方を揺らして呼びかけた。道行く人々はそれを訝って何も見ていない振りをして過ぎていく。

 それだけの大声で呼びかけられてからは、自身の気を落ち着けるのに時間はかからなかった。寧ろ冴えた気分にまでなっている。頭のなかを整理するには都合がよかった。

 整理に耽て俯く惠。微動だにしない彼を映海は心配して顔を覗き込む。

 惠は大丈夫だといなすが、彼女は余計に慌てふためいた。よほど心配なようである。それもそうだろう。彼女にとってもまた、惠の存在は特別で大事なのだから。

 だから、少し引き攣った表情を見た映海は、


「……辛い?」


 鼻が触れ合いそうな距離まで顔を寄せて、頬に手を当て、そう聞いた。


「……そりゃな。現実と夢が混ざって頭が狂いそうでさ」


 映海の手に触れて下ろしながら惠は言う。何故彼女に対してならこんなに素直になれるのか、今思えば不思議なことだった。


「そっか。……それでも、思い出したいの?」


「……避けれないかなって思う。いつか、もしかすれば突然思い出すかもしれないって思うと怖くて仕方ない」


 怖くて仕方ない。嘘偽りなく惠はそう思っている。人に言えたような話をしていないと分かっていたが、それでも映海には相談した。気が楽になった。撓垂れたくなったのだ。弱い感情も受け止めてほしくなったのだ。


「……仕方ないなぁ。今日寝るとき私のこと考えて寝てもいいよ!」


 戯ける映海の心遣いが惠を抱擁する。

 親友である映海は、惠がどれだけ酷い状態でも側に寄りそうと言ったことがあった。惠自身は気に留めていなかったが、今がまさにその状態だろう。


「はは、そりゃいいな。……抱き締めてもらおうか」


 優しさを身に沁みて感じる。それがどれほど恵まれたことなのか理解するのは容易かった。

 四人だ。四人も見てくれている。四人もの人が役ではなく演者を見てくれている。茉稠惠の素顔を見てくれている。四人も。


 ──違う、五人だ。もう一人だけ惠の素顔を見て微笑んだ人がいた。


 息を整える。身体を蝕む感覚を落ち着かせ、息をふうっと吐いた。

 相変わらず体調は頗る悪い。多少は楽になったが、それでも身体は蝕まれている。確実に。

 言うまでもなくその痛み、苦しさ、辛さは尋常ではなく、普通ならとっくに倒れるほどだ。実際一日前の惠なら、或いは死んでいたかもしれない。

 しかし彼をこの場に立たせているのは、体力や気概ではない。他人から与えられる思いと、それに恥じない応えを返そうという気力だけだ。

 その気力が彼を支え、動かしている。自覚するだけで力が湧く。それだけで、妙味な幸福感が身体を駆け巡って──


「……大丈夫?」


 さきほどの惠の発言が惠らしくないと思ったのか、戯けた表情をすぐに取り替え、至って真剣な表情で惠に問いかけた。

 どうせなら笑っていてほしいと願う惠にとって

その表情は芳しいものではない。今度は惠がお道化て返した。


「頭の心配なら間に合って」


「違う」


 いつもなら笑って返してくれる。他愛もない話で笑ってくれて、他愛のない話に笑っている。

 だから惠には、何故映海が話を遮って怒っているのかが分からなかった。

 何かしただろうか。何か気に障ることを言っただろうか。図々しく頼ってしまったことを怒ったのだろうか。

 答えは、その何れでもない。


「そんな悲しそうに笑わないでよ」


 惠が、悲しそうに微笑んだことだった。


「辛いなら辛いでいいんだよ?」


 彼に寄り添ってきたからこそ仮面でないと分かる映海。憂いを孕んだ微笑みには色気こそあっても元気はないのだ。

 そう、今の惠に微笑んでいられるだけの元気などない。疲労困憊で倒れることも考えられるし、それは映海の目から見ても瞭然。とても笑えた状態ではない。

 だが、そのはずだというのに。


「なんで、無理して笑おうとするの?」


 それでも茉稠惠は微笑みをやめなかった。きっと哀しみだけでなく憤りや憂鬱、嫌悪や空虚を感じたとしても、今の彼なら微笑みをやめないだろう。

 そしてこの笑みはどう見たとしても無理して笑っているようにしか見えない。感情にそぐわない、似つかわしくない、相応しくない表情なのだから。

 そんな不自然な笑みは、映海からすれば不愉快でしかなかった。親友の前でも仮面を被るのかと憤慨する。そしてそれは惠の親友として当然のことだった。

 もちろん彼女の憤りを感じられないほど惠は酷い人間ではなかった。伊達に映海の親友をやっていない。自分に、ありのままの自分に向けられる数少ない感情だからこそ敏感で、蔑ろにはしない。

 惠は顔を上げて映海の瞳を見つめる。じっと、彼女の虹彩が焼き付いてしまうほど長く、力強く、そして優しく。

 そのうち彼女の双眸に自分の姿が映ったとき、惠は徐に口を開いてこう言った。


「……忘れたよ。忘れたから、笑ってる」


 濃褐色の瞳に映ったのは、大事な親友の憤りを受けてなおも微笑むことをやめない男。

 自分が微笑む具体的な理由は何かあったはずである。それを思い出すことはできないが、それでも惠がフラッシュバックで一番印象を受けたことに関係しているのは確かだ。

 そして何よりも忘れられるはずがない、鮮明なあのイメージ。それが脳裏から剥がれない限り、惠は微笑みをやめない。やめられない。


「本当は惨めったらしく弱音吐くつもりだった。お前にだったらそれでもいいって思う」


 そう言いながら微笑む様は、まるで自嘲しているようにも見える。

 情けなかったと感じたり、無力だなと感じることはいくらでもあったからだ。

 惠の内面性と外面性は必ずしも一致しないがため、全て晒け出せる親友に押しつけて一致させようとしたことが何より恐怖に感じたからだ。

 そんな苦悩や辛苦、鈍痛を抑え込んでいることを映海は知っている。微妙な表情の違いで惠を感じ取れる。


 なんで言わないの? 信頼できないことがあるの?


「だったら無理しないで言ってくれれば」


「──でも本当に痛くて、苦しくて、辛いときに笑ってた人をさっき思い出した」

 

 立仙映海から犇めく思いを、惠は遮ってそう言った。

 彼女は一体誰なのだろう。白髪で、黒装束を着た、憂う笑みが似合ってしまう人。微笑みの素敵な人。腹部を赤く染めたあの人は、一体誰なのだろう。

 今の俺では思い出せない。誰かが思い出させない。少なくとも現実じゃ駄目だ。夢のなかでなら、きっと全て思い出す。彼女が誰で、自分は何をしたのか。何故あんな痛々しく、苦滅で、辛苦な状態でも俺に向けて微笑んだのか。

 理由は追々分かるだろう。いや、理解してみせる。だから今は、せめて今は彼女に近づくためにも、彼女がそうしたように俺は微笑もう。


「だから、もう少しだけ頑張ってみる。……駄目だったときは頼るけどさ」


 都合のいいことを言っている自覚はもちろんあった。勝手な奴で、こちらから映海に何かをしてあげたことも少ないというのに、心底酷い奴だと思った。

 これは言わば押しつけだ。こうしてほしい、こうであってほしいというだけの理想を押しつけているだけで、それは言うまでもなく最低なこと。


「…………どーせ都合のいい親友ですよっ」


 そんなものをお前に押しつけてしまう業を、一つだけ赦してほしい。


「ちょ、怒んなよ……」


「怒ってないもーん」


「怒ってんじゃねーか。落ち付けって」


「怒ってないよーだ。ほら、ちゃんと笑ってるでしょ? 惠みたいに」


 映海は左右の人差し指で口元の口角をぐっとあげて、指を離したあとも微笑んだままそう言った。付け加えられた「惠みたいに」の言葉が、どうにも内心は業腹だと言っているようで笑える。

 お前こそ素直に怒ってるって言えよな。我慢しなくていいんだぞ。そう言おうとしたがやめた。

 そんなことを言ったら完全に縁を切られるだろう。甘いものを食べに連れて行けば何とかなるかもしれないが。

 だがあまり見ない状態の映海に興味が俄然湧いてしまった惠はしつこく聞き質すのだ。


「……怒ってる?」


「怒ってないって」


「本当に?」


「ほんとーです」


「ちょっとは怒ってるだろ?」


「いい加減怒るよ?」


「……ごめん」


 臨床結果、立ち直り歩みを進めると決心した様子。その足取りは力強さと哀愁を漂わせており、影法師の伸びる先、茉稠めぐりの眠る病院へと続く。

 その表情は、憂いながらもやまない微笑みで満ちていた。


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