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夢と現の白日夢  作者: 天流昴琉
第一章 明晰の揺らぎ
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プロローグ 『消える夢』

 ──いつから夢を見なくなっただろう。


 夢。その言葉の使われ方は様々ある。


『夢が叶う』のように実現させたい願いのことを言う場合や、『夢を追い続ける』のように空想を言う場合。

 仏よって『一炊の夢』と形容されたとおり、人間に夢をもたせれば『儚い』ものになるのも、的を射た言葉だろう。

 なんであれ、今回に関しては夢の概念を一つに絞ることになる。


 夢。つまり『今日は良い夢を見た』のような、睡眠時における心的現象。彼の言う夢は概ねそのことを指す。もちろん、多少は他のニュアンスを含んでいたものの、やはりその意味が強かった。


 その男は、夢との所縁を長らく失っている。時間にして九年。九年もの歳月、彼は夢を見ていなかった。

 何故夢を見なくなったのか。その理由は未だ明白になっていない。本人がどれだけの小遣いを費やして医学書を購入しても、どれだけの時間を費やして医学書を読み漁っても、ついぞ明らかにはならなかった。

 故に、彼を取り巻く今の状況が、彼自身信じられなかったのも無理はなかったのである。


 ──夢、夢。これは夢だ。


 彼にははっきりと床に就いた記憶があったので、今は夢のなかであるという確信があった。


 身体は軽い、というよりもない。

 各器官の感覚は損なわれた状態。

 自身という意識はあるのに、どこにも自分がいないような錯覚。確かに存在するのに、確かに存在しない。


 九年ぶりということもあり、彼は夢という感覚全てに対して、頗る気持ち悪さを感じていた。

 拭えない感覚に溺れつつある。去らない不安感ともに沈んでいく──不覚感を覚えた。


 そのうち彼は意識が澱む、薄れつつあることをどこかで悟る。自己が、世界から掻き消されるような状態にあると。まるで一度体験したかのような気まで覚えるほどだ。

 いや、実際間違いではない。彼は過去に一度、この世界から消失していた。自覚がないだけで、既往として確かに消えていたのだ。


 ──醒めなきゃ。


 消えてはいけない。戻らなきゃならない。

 元の、現実へ。逃避したくなるような最低の現状へ。死に果せてしまいたくなるような最悪の現況へ。


 男は足掻きだす。自身の意識、魂以外何も存在しない暗盲の世界で、腕も脚もないというのに目醒める方法を模索した。

 男は藻掻きだす。手段を講じることができずとも、どうにか死力を尽くしてでも目醒めるために、ない腕を振り、ない脚で駆けた。


 終わりのない夢。醒めることのできない悪夢。

 寄る辺もなく、ただ浮遊する魂のみで不安感を抑えられない。


 ──心細い。寂しい。怖い。哀しい。辛い。苦しい。心憂い。


 男には、もう永久を生きた心地であったが、それが示す『終焉がこない』という至高の恐怖に狂する。


 ──終わらない。夢が終わらない。死にたい、死にたい。死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい。


 彼の脳内には、もはや恐怖や不安といった人間の瑕疵しかなく、身体がないことに気付く前まであった正気な部分すら病んでしまっていた。

 このまま眠ったままでいれば自分が存在していたことがなくなってしまう。そんな考えに追いつめられるのも仕方がない。

 しかし彼のなか、一片の思いだけは何にも犯されず残っていた。


 ──解放されたい。逃避したい。独りは嫌だ。ここにいたくない。


 生きていたい、存在していたいという生への渇望のみが、一片だけ残っている。総じて、目醒めたいという思いだ。

 無論、死ぬということに対して、ただ生存本能に従っているだけではあるが、彼にはそれだけで充分だと分かっていた。


 やがて、その足掻きと藻掻きは力を持った。空を切り、地を叩き、須臾にして実体をもち始めたのである。その実体の姿は、確かに人間の貌であり、永遠かと思えるほどの長い時間を要して男の容貌や風采を形作った。


 そこでようやく自身が何者なのかについて考える余裕が生まれた。名前も明確な貌もない概念体から、貌を有した人間への変身。概念体から人間たる心を取り戻し、病んだ心から希望を有する心への変心。


 ──そうか、元に戻ったんだ。


 彼は希望を感じた。消えていない、存在している、貌がある、自分はここにいる。

 普段であれば当然のことではあるが、その当然のことがどれだけありがたく、また有り難いことなのかを彼は酷く痛感した。

 

 ──今度こそ、醒めなきゃ。


 彼は再び足掻き、藻掻きだした。自分がいかに無力でも、今の状態ならばできることがあると、そう心から思った。

 もう彼を埋め尽くしていたあらゆる瑕疵はない。


 彼は前進し、時には後退し、或いは左右に逸れ、無際限の果てなき暗盲を、貌を取り戻した腕を振り、貌を取り戻した脚で駆けだした。

 言ってみれば、宇宙空間に捨てた米粒を見つけだすようなことをしているのだ。光のない空間から抜け出せる何かを、まさに死力を尽くして彼は探そうとしているのだ。

 客観的に見れば無理なことだと、見てて居たたまれないからやめろと言うかもしれない。

 それでも彼は無際限を駆ける。諦観などという単語が頭に過ぎることもなく、ただ希望だけを捨てずに駆けた。

 終焉がこない。終わりがこない。それでも駆けた。目醒めるために。


 生命が誕生し、栄華を極め、衰退し。滅する。それを幾億も重ねたような時間が経った頃だろうか。

 男はふいに立ち止まった。何かが道を塞いでいるわけでもないし、彼方に何かが見えるわけでもない。もちろん道なんてないし、彼方なんて概念すらないのだが。


 では何故彼は立ち止まったのか。

 否、動きが鈍ったのだ。脚も腕も、なんなら彼の意識すら稀薄になりつつある。彼という存在を織りなす要素の細部に至るまでが全て、その活動を停止しようとしているのだ。

 動こうという意志も、欠片ほどの希望も、彼を満たしていた瑕疵すらも。


 そうして、またも自身が世界から欠如する感覚に襲われる。今度は瑕疵すら浮かばない。木偶が焼却されているようなものだ。唯一違うのは灰に準するようなものが残らないこと。


 彼は消える。彼が消えれば彼なんて存在していないも同じ。結果、この物語が語られることもないのだ。


 しかし、事実この物語はある。存在している。

 彼は消えなかった。


 ──醒めなきゃ。


 彼を、――茉稠(ましげ)(めぐみ)を支配していたのはその一言のみ。

 ただ、いつぞやに述べたとおり、彼にとってそれは、それだけで大いに充分なのであった。


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