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懐古堂奇譚2  作者: りり
6/6

賢者の贈り物

 学校から帰ってきた四宮花穂はリビングのソファの上に投げ出された本を取り上げて、くすくすと笑った。

「なあに、これ? 手作りチョコの本だなんて‥。瑞穂ったら本気なの?」

 バレンタインデーまではあと十日。チョコレート売場に女性が群がる季節だ。

 キッチンから慌てて飛びだしてきた瑞穂は、花穂の手からさっさと本を奪い取った。

「ほっといてよ。あたしの勝手でしょう。」

「だってさ‥。本気で茉莉花さんと張りあうつもり? ちょっと虚しいんじゃない?」

 瑞穂は下を向いて頬を赤らめた。

「だから‥‥チョコを作ってるんじゃないの。めいっぱい心をこめたチョコがちゃんと渡せたら、あたしにも少しはチャンスがあると思うのよ。」

 四宮の女は良くも悪くも霊力に行動を左右される。瑞穂が心をこめたチョコレートならば、尚更強い力を帯びるだろう。瑞穂の想い人である堂上玲にとって瑞穂の想いが不都合な場合は、自然と弾かれて彼の手にチョコレートは渡らない。しかしいまだ流動的な縁である場合は、ちゃんと届く可能性はあるのだ。

 しかし花穂の言うのはそういう意味ではない。

 瑞穂は自分が茉莉花よりも子どもっぽいから相手にされていないだけで、もう二年もすれば十分対抗できるはずだと思いこんでいるようだが―――何の根拠もない主張だという点には目をつぶるとして―――彼は瑞穂の手に収まるような人ではないと強く感じる。

 花穂は堂上玲には一度しか会っていない。瑞穂と買い物に出かけたデパートで偶然会った。どうやら瑞穂の霊力がそういう偶然を生みだしているらしいが、イケメン好きの花穂にしては珍しく心が動かなかった。彼の魂の色が見えなかったからだ。

 あとで瑞穂にそう言ったら、彼の魂は白昼の日光のようにまぶしくて強い光をたたえているのだと不思議そうに言われた。だが花穂には真っ白で何の色もないようにしか見えなかった。

 四宮の女に生まれて良かったと花穂が思うのは、たいていの人間を魂の色で判別できることだ。相手がどんな人間なのか、直感的に感じ取れるから、おのずとつき合い方も決まってくる。

 しかし堂上玲という人は、自分でもまだどんな人間になるつもりか決めていないように花穂には思えた。この先彼の魂がどんな色に染まるかなんて、誰も読めない。

 咲乃みたいに相手が人じゃない人でも迷わずついていけるならともかく、瑞穂の場合、相手になる男は四宮本家の中に喜んで束縛されるような人でないと困る。誰が困るって、花穂でも早穂でもなく瑞穂本人が困るだろう。といって恋なんて束の間楽しめればいい、と割り切れる瑞穂ではないくせに。そこのところを本人がいちばん理解していない、と花穂は嘆息をこぼした。

 まあでも―――幸せそうだから放っておけばいいか、と横目でちらりと姉を見た。

 鼻歌なんか口ずさんで、何種類もの試作品を大量に作っている。女の子にはこんな時間も大切なのだ。

 花穂は着替えると、出かけてくると言いおいて街に出た。

 母が生きていたら遊んでいないで修業しろと叱られるところだけれど、今は誰も叱る人はいない。だいたい花穂は修業が嫌いだった。人でないモノはすべて封じるべしというのが四宮の家訓だが、では四宮の女は厳密に人だと言えるのだろうか。

 花穂には四宮の家訓は、禁忌の能力を持って生まれてしまったがための贖罪のように思える。まるで人であることを証明するために、物の怪を敵として封じて歩かねばならないかのような。そういうのは嫌だ、と思う。

 あたしはあたしなのに―――惚れっぽいわりに飽きやすいのも霊力の流れの影響かもしれないけれど、全部含めて花穂の存在はある。このまま楽しく生きて何が悪いのだ?

 といって早穂のように受験勉強にいそしんで、大学を目指す気にはなれないけれど。

 できれば咲乃のように、すべて捨てて惜しくないほどの恋をして結ばれるのが夢なのだが―――問題はその後だ。すぐに飽きてしまったらどうすればいい? 

「乙女の夢は前途多難だわ‥。あたしったらこんなに可愛いのに。」

 立ち止まってショーウィンドゥに映った自分を惚れ惚れと眺め、溜息をつく。

 胸の高さで緩やかに巻いたつややかな髪、びっしりと濃いまつげに囲まれた黒目がちの瞳、ぷくんとふくらんだ小さめの唇。すらりと長い手足、きゅっとくびれた腰。四宮に生まれなかったら、とっくにモデルデビューしているところだ。

 これほどの美貌を一人に捧げるのはやはりもったいないかもと、ショーウィンドゥの中で乙女の夢は揺れ動いた。

 突然背後の雑踏から、何かが大きく跳ね上がった。

「きゃっ、何? 風‥?」

 花穂のすぐ隣で尻餅をついた女性がスカートを押さえながら、小さく叫んだ。

 数人の悲鳴とともに、激しい霊力波がまきおこり、舗道上に出ている立て看板を次々となぎ倒していく。

 花穂の目にはふっとばされた男と、上空で旋回している夜鴉の姿が見えた。

 とっさに防御結界を始動して夜鴉の動きを止めた。事の是非はともかく、こんな人混みで暴れるなんて掟違反だ。

 ―――くそっ! 誰だ?

 夜鴉は真下の花穂を見咎めて、舌打ちした。

 その間に男はすごい勢いで立ち上がって、路地を曲がって逃げていく。花穂はちょっとだけ躊躇したもののすぐに後を追った。

 ビルの谷間で姿を見失った。礼くらい言ってもいいのに、と息を切らせながらぶつぶつと文句を言っていると、背後でおい、と声がした。

 振り向くと真っ黒な髪に黒いコート姿の背の高い男が、ものすごく怒った顔で立っていた。夜鴉らしい。どこかで見たように思うのは、白鬼の事件の際に見かけたのだろう。

 男はじろじろと花穂を眺め回して、皮肉な笑みを口もとに浮かべた。

「‥四宮の二の姫だな。なんで邪魔をしたんだ?」

「あたりまえでしょ。あんなに人の大勢いるところで乱暴な真似して‥。人どうしの喧嘩でも止めてたわよ。一般人に怪我人が出たら、どう言い訳するつもり?」

「‥‥あいつを庇ったわけじゃないのか?」

「誰よ、あいつって? 人なの?」

「わからないモノだ。自分じゃ人のつもりらしいが。」

「それじゃ庇うわけないじゃない。物の怪どうしの争いになんか興味ないもの。」

 花穂は背を向けてその場を立ち去ろうとした。すると夜鴉の男は待てよ、と花穂の肩をつかんだ。

 払いのけようと振り返って、逆に花穂はその男に縋りついた。振り向いた先に、巨大な黒い影が立っていたのだ。

「やだぁ‥! 何、あれ、気色悪い‥! しょ、触手がいっぱいある、むにょむにょしてるぅ‥! やだやだやだ! 夜鴉のおじさん、何とかして!」

「お‥おじさん‥? 俺のことかよ‥!」

 夜鴉の男は縋りつかれて仕方なく花穂を背にかばい、腕を一振りして漆黒の羽を繰りだした。無数の羽が矢のように巨大な物の怪に突きささる。物の怪は一瞬で消えた。

「あ‥消えた?」

「いや。見ろよ、本体はあれだ。」

 花穂が彼の肩ごしにそうっと覗くと、小さなムカデが一匹、羽に貫かれて死んでいた。

「きゃあ、やだ‥! ムカデ! 気持ち悪い‥!」

 足下がぞわぞわっとして、花穂は思わず夜鴉の背を這い上った。首に腕を回し、両足でしっかり男の胴体をはさみこむ。いわゆるおんぶの格好だ。

「てめェ! 何してんだよ!」

「だってえ‥。虫、嫌いなのよ。足がいっぱいあるのは特にだめ。‥‥なんで虫が物の怪になって襲ってきたの?」

「おまえが逃がしたあいつの仕業だ。そのへんにいる虫だのミミズだのに妖力を与えてデカ物にするんだよ。厄介なヤツなんだ、だから捕まえようとしてたのに。」

「悪かったわ‥。あっちを止めればよかったのね。こんな恩知らずだと知ってたら、迷わず手を貸したんだけど。」

 夜鴉は苦笑して、もういい、とつぶやいた。

「とにかく下りろよ。四宮の姫が夜鴉とつるんでるとこなんて、誰かに見られたらまずいだろうがよ。」

「あら? 夜鴉もまずいの?」

「別に。俺らは四宮みたいにいちいち細かい掟で縛られてやしねェ。それぞれがちゃんと物の道理をわきまえてるからな。」

「‥‥おじさんだから?」

「おじさんじゃねェ! 俺はまだ生まれて三十年も経ってないんだぞ、よく見ろ! ‥それに言うならおじさんじゃなくて大人だから、だろ!」

 ふうん、と花穂はじろじろと顔を覗きこんだ。

「う‥ん。言われてみれば中年にはみえないかも。人間にしたらいくつくらいなの?」

「考えたことねェから、知らねェよ。‥って、早く下りろ!」

 やだ、と花穂はしがみついた。

「はあ? やだって‥何だ?」

 夜鴉の男は驚いて、困惑の表情を浮かべた。

「だって‥。腰抜けたから歩けない。このまま虫のいないとこまで飛んで連れてってよ。ね、お願い、おじさんじゃない夜鴉さん。」

 花穂はにっこりと花のように微笑んだ。ついでに耳の後ろにチュッと軽いキスをサービスする。

 夜鴉の男はまた驚いたようだったが、今度は心なしかうっすらと顔を赤くした。

「‥‥姉さんに見つかって叱られても俺のせいじゃないぞ。」

 うん、と花穂はもう一度微笑んで、首に回した腕に力をこめた。

 男は再び苦笑して、花穂の体の下でいきなり大きな翼を広げた。二つの漆黒の翼の間の窪みに、花穂の体がすっぽりと収められる。

「す‥ごぉい‥!」

 花穂の心からの感嘆の声に夜鴉の男はにやっと微笑い、行くぞ、と一声かけて上空にふわりと舞い上がった。


 物陰から様子を窺っていた男は、夜鴉がどうやら花穂に危害を加える様子はなさそうなのでほっと一息ついた。

 彼女が夜鴉に呼びとめられたのを見て、とっさに近くにいたムカデに命じて夜鴉を襲わせたのだが、かえって彼女を怖がらせてしまったようだ。

 ―――助けてくれたから味方かと思ったけど‥。あいつと知り合いなのかな?

 何だかさっぱり理解できない。とにかく見つからないようにさっさと逃げよう、と男はあちこち痛む体をひきずって、鴉が飛んでいったのと逆の方向へ向かった。

 彼には夏より前の記憶がなかった。

 名前も家族も生まれた場所もわからない。とにかくバイトで食いつないで転々としながら、自分を知っている人がいないか探していた。

 自分がどうも周囲の人間と異なっているようだと気づいたのは年が明けてからで、それほどまだ時間は経っていない。何が違うかと言えば、たとえば真冬なのにTシャツ一枚でいても寒さを感じないし、雨や雪に降られてもさして濡れない。それに何日も食事にありつけなくても、痩せもしなければ空腹も感じなかった。

 何かがへんだと漸う思い始めた頃、夜鴉たちに追われるようになり、彼は自分が人にあらざるモノらしいと知った。だがそれなら何者なのだろう?

 今日の夜鴉は今までのと違って、たいそう強かった。

 縄張りに勝手に入ってくるな、と言っていたけれども、じゃあどうすればいいと言うのだ? 彼は何もしていないのに、ただひっそり生きていただけだ。

 鬱蒼と暗い公園で、目立たないように植えこみの陰に隠れた。

 ふっとばされた時にぶつけた左の肩が特に痛い。だがこの程度の怪我ならば、数時間眠れば治る。彼は下草の上にそっと身を横たえた。

 ちょうど飛んできた羽虫に、夜鴉が現れたら警告してくれるよう頼む。

 羽虫の小さな影が瞬く間にまっ黒い大きな影に変わり、ゆらゆらと街路灯のほうへ移動していった。普通の人には見えない影、そして普通の人には持ちえない彼の能力。

 ほんとうに自分は何者なのだろう?

 さっき助けてくれた女の子。あの子は彼が何者か、もしかして知っているのだろうか。

 だとすれば何とかして彼女を探しださなければならないが、彼女はどうも夜鴉と知り合いのようだった。話を聞くのは無理かもしれない。

 ―――だけど‥。すごく可愛かったな。

 ふと見れば宵闇に、真っ赤な寒椿の花が一輪浮かんでいた。

 まるで彼女の笑顔のようだ、と彼は思った。


「ご主人さま‥。この箱にいっぱいのプレゼントみたいな包みは何ですかぁ‥? 美味しそうな匂いがしますけど。」

 凍るような冷気がたちこめる午後、ダンボールを抱えて外出から戻った玲を見て桜は不思議そうに訊ねた。

「チョコレートだよ、桜。食べる?」

「食べてもよろしいのですか?」

「好きなだけ。ノワールや縞猫も呼んできて、みんなに配ろう。」

 これは全部、アンジュの私書箱に送られてきていたバレンタインチョコだ。

 桜に手を引っぱられて茉莉花が二階へ上がってきた。

「すごい数ねえ‥。まだ今日は十日なのに。毎年こんなに貰うの?」

「去年はダンボール七個くらいかな。仕事してれば義理チョコもあるしね。今年はほとんどないと思ってたのに‥。長谷部宛のは住所不明だと返送しようかな?」

 茉莉花は苦笑気味に同情的な視線を向けた。

「これほどではないけれど、兄も弟も十四日はいつもエコバッグを持ち歩いていたわ。お返しがたいへんだから迷惑だとよくこぼしていたわね。‥‥わたしはチョコにこもった想いが感知できてしまうので複雑な気分だったけれど。」

「想いなんてあるの? 自己満足だろ。」

「ひどい言い方ね。‥ほら、これなんかどう見ても手作りでしょ。すごくどきどきしながら作ったんだと伝わってくるわ。」

 茉莉花はペーパークラフトの造花がついた小さな箱を手に取った。

 玲はそこに付いたメッセージカードに視線を走らせて、ああ、と面倒くさそうにつぶやいた。

「彼女は佐山徹がよく客を連れていってたカラオケボックスの店員だよ。ほんのふた言三言話した程度なのに。」

「ふた言三言話した程度の店員さんの名前をよく覚えてるわね。そのほうがすごいと思うけど?」

「一度会った人間は忘れないんだ。記憶力も商売道具の一つだしね。」

 玲は長谷部宛のを選りわけて、紙袋に放りこんだ。アンジュ名義で丁寧な断り状を同封し、返送するつもりだ。

 茉莉花は横でねだる桜とノワールにチョコレートを食べさせてやりながら、差出人の住所氏名の記載された部分を別に取り分けてくれている。例年兄弟の手伝いをしていたから慣れているのだそうだ。なるほど茉莉花の兄弟なのだから、さぞ美形なのだろう。

「弟はまめだからいいの。兄は放っておくと、片っ端からゴミ箱に放りこんでしまうような性格だからたいへん。よくあんな無愛想な人にチョコを贈る女性がいると思うわ。」

 気がつけばどうやら彼女は、想いの強いものから順に桜とノワールに渡しているようだ。粗末にするとよくないものは、守護精霊に処分してもらえば安心というところか。

 人の想いというのは、茉莉花みたいに見えてしまう人間にとっては何らかの作用を及ぼす力になるらしい。たとえば匂いのきつい香水みたいな感じだろうか。こんなチョコレートの山なんか『懐古堂』に持ちこまずにさっさと処分してしまえばよかった、と玲はちょっと後悔した。

「君は‥誰かに贈ったことはあるの?」

 いいえ、と茉莉花は手を止めずに答えた。

「わたしが贈ったらたいへんだもの。霊力が強すぎるから相手の人生まで縛ってしまう。」

 そして真面目な顔で玲のほうを振り返った。

「だから堂上さんにもチョコはあげないけれど、気を悪くしないでね。ほんとは義理チョコくらい渡すのが礼儀だとはわかってるんだけど、これ以上縛りつけてはいけないと思うから。」

 あんまり真剣に言われたので、すぐにはからかう言葉も出なかった。

 だが少々苛ついた。なぜかと問われれば―――はっきりしないが。たぶん茉莉花との前世の約束とやらが真実だと感じているからだろう。

 時代にさからい、敗け戦に参加して命を落とす自分も信じられないが、来世を誓うなんて感傷的な自分もどうもピンとこない。なのに心の奥深くで、間違いなく玲自身の話だと確信している部分があるのだから嫌になる。

 今と同じ性格だったとして。何の得にもならない選択を繰り返した理由が理解できない。封建時代の最中とはいえ、幕末に近いならもっと違う選択が可能だったはずだ。唯々諾々と宿命に従うなど玲の流儀ではない。来世だなんて不確かな希望に託すしかなかったとは、前世の自分はいったいどれほどのしがらみに縛られて生きていたのだろう?

 しがらみ―――そうか、と玲は不意に納得した。

 前世の茉莉花の霊力に願ったのはもしかして、現在の何も持たない状況なのか。

 親の顔も知らない、身寄りも親しい友人もない。肝心の姫さまへの想いさえ憶えていないほど白紙の状態。

 ―――思い出せない約束に意味があるのかい?

 市之助の言葉が胸の中で急激に膨らんだ。

 つまり―――思い出せれば意味があるわけだ。

 思い出したい、と玲は強く思った。履行する覚悟があるかどうかはさておき、約束を交わした意味が知りたい。

「ね‥? 縛りつけて構わないから君のチョコが欲しいって言ったらくれるの?」

 茉莉花は冷めた目でまじまじと見返した。

「‥‥欲しいの?」

「うん。ちょっと欲しいな。」

 いきなり茉莉花は手に持っていたチョコレートの箱から一つ取って、玲の口に押しこんだ。

「はい。これでいいでしょ。」

 そう言うと彼女は立ち上がり、とんとんと階段を下りていってしまった。

 玲は思わず吹きだして、しばらく笑いが止まらなかった。まったくうちの姫さまときたら―――なんて可愛いんだろう。

 桜がふわふわとやってきて、茉莉花の真似なのか玲の口にもう一つチョコを入れた。そしてにっこりと幸せそうに微笑む。

 前世の自分が望んだのは、単にこれだけだったのかもしれない。

 黄昏の場所で桜を膝に抱いて、玲は甘いチョコレートの味を噛みしめた。


 再建中の母屋の横に建ったプレハブの仮事務所で、瑞穂は家令の磯貝が差しだす報告書に目を通していた。

「傘下の能力者の離脱は止まりました。正月に出した新しい指針には賛意を示す向きが大勢となっているようです。」

「そうね。‥悔しいけど夜鴉一族との手打ちが成ったのが大きかったみたい。白鬼の事件といい、若頭領には借りができちゃったかも。」

「瑞穂さま。そのようなことは言葉になさっては‥‥」

「構わないわよ、事実だから。‥磯貝、あたしはね。見えているのに見えないふりをするのは愚かだと学んだのよ。借りは返せばいいの。借りたままで放置するのがいちばん危険。いくら無視しても力の均衡に影響するのは避けられないんだから、素直に認めてちゃっちゃと返す算段をするほうがいい。そのためには本家の結束が今はいちばん大事。」

 磯貝は眼を細めて、孫のような当主を見上げた。

「ご立派です、瑞穂さま。」

「よしてよ。まだまだこれからなんだから‥。隠居気分じゃ困るわよ、磯貝。やっと再建の道筋が見えたばかりでしょ。」

 瑞穂は最近何かと涙もろい老家令の肩をぽんぽんと叩いた。記憶にある限り、融通の利かない厳しい爺やだったのに、昨夏の事件にはよほど衝撃を受けたらしい。

 あの事件の後、半数以上の家人が暇を取った。

 しばらくは人の補充どころではなかったが、正月に傘下の能力者を一堂に集めて総会を開いた際に、これまでの分家重用主義を改めて希望者を本家に迎える用意があると発表した。おかげで第一次面接を通過した二十人の霊能力者が今月から本家に加わり、新しい結界形成のために尽力してくれている。

「そう言えば、今度入った中に磯貝の外孫がいるってほんとう?」

「‥どこからお耳に入りましたか。彼奴めには決して口にするなときつく申しておいたのですが。」

「どうして? いいじゃないの。」

「いいえ。生来の粗忽者ですから、わたくしの孫だなどと甘えが出ては困ります。」

「能力者の場合は贔屓の余地なんかないから大丈夫。でも磯貝の孫が能力者だったなんて知らなかった。」

「わたくしの娘が史さまのご仲介で分家の四宮北家に嫁ぎまして‥。男ばかり五人も授かりました、その末子でございます。」

「へえ‥。四宮の男なのに霊力があるなんて珍しいわね。‥でもちょっと待って、面接したのはあたしだけど、名前でも力でも四宮の者はいなかったはずよ。」

「力はわかりませんが、名字は磯貝です。磯貝要、と申します。娘は一人娘でしたので、末子の要を二十才になるとすぐ磯貝の籍に貰い受けた次第です。」

「じゃあ‥ずっと本家にいたの?」

「いえ。この三月に大学を卒業しますので、実はわたくしの後継として本家に迎える許可をいただくつもりでしたが‥。本人が能力者の修業をしたいと言い出しまして‥。」

 磯貝は険しい顔になって、首を振った。

「磯貝家は五代前より四宮本家の家令としてご用を承っておる身です。能力者などと‥分を超える望みだと諭したのですが‥。」

「それで孫だと言うなって口止めしたの? あたしの口出すことじゃないけど、霊力を持って生まれたらその力を無視して生きることはできないのよ。何も反抗しているわけじゃないと思うから、わかってあげて。彼が磯貝の後を嗣ぐように生まれているなら、ちゃんとなるようになるわよ。」

「そうでしょうか‥?」

 大丈夫、と瑞穂は微笑んだ。

 霊力を持つ者の感覚は持たない者には理解しにくいものだ。磯貝の不安はよくわかる。

 しかし四宮分家の男で能力者とは。『懐古堂』の先代以外に例がない話だ。

 瑞穂が面接で会った五十人以上の能力者の中には、四宮の力を感じた者は一人もいなかった。彼の力は四宮の血からくるものではないのだろうか。磯貝要の名から思い出そうとしても、印象が薄くて思い出せない。

 まあいい、今度会ったら確かめてみよう。瑞穂は再び報告書に戻った。


 十三日の夜、花穂は早穂と一緒に瑞穂のチョコレート作りに強制的に駆り出された。

 翌十四日に三姉妹謹製のチョコを、男女関わらず本家一同に贈るつもりだという。

「しっかり心をこめて作るのよ。今年の目標は本家の結束。手始めだからね。」

「ねえ‥。それってさ。霊力で縛ってしまおうという禁術じゃないの‥?」

 早穂が声を低めて瑞穂に確かめた。

「何言ってんの。多少似たとこはあっても、動機がまったく違うでしょ。命令するつもりじゃなくてお願いするんだし。‥‥ちょっと花穂、何笑ってるのよ?」

 思わず吹き出した花穂に、瑞穂はきつい視線を向けた。

「だってえ‥。瑞穂って何のかんの言ってもお祖母さまに似てるなあ、と‥。」

「だから似てても根本の動機が違うの。あたしはね、本家をみんなで協力し合う強固な組織にしたいのよ。今までの本家は力でねじふせて忠義心だけを要求してきたでしょ? そうじゃなくて、霊力のあるなしに関わらず、人の世を守るんだという大義のもとにね‥」

「全員が力を尽くす。それが四宮の本懐である、だよね。お正月の瑞穂の訓示。」

 にこっと微笑んで早穂があとを引き取った。瑞穂はやや鼻白む。

「‥バカにしてる?」

「まさか。素晴らしかったよ。あんな胡散臭い連中ばっかり目の前にしてさ、一歩も引かない気迫。あたし、マジで感動した。だから率先して協力してるでしょ。」

 花穂はちらりと早穂の手元を覗いた。確かに早穂は普段から料理上手なだけあって、いちばん手際がいい。

「でも明日配るのはいなくてもいい? 約束があるんだ。」

「あれ、早穂、三人とも別れたんじゃなかったっけ?」

「まあね。ごっこ遊びは卒業したから。‥明日はちょっとしたボランティアだよ。絶対貰えないだろう人を友チョコで慰めてあげるの。」

 早穂は何だかくすぐったそうに笑った。

 花穂はちょっと妹を見直す。こんな子どもっぽい素直な表情の早穂は初めてだ。何となく微笑を誘われつつ、一方で瑞穂の顔を覗きこんだ。

「ところで瑞穂は? 明日、予定があるんじゃないの?」

 え、と急に瑞穂は赤くなった。持っていたボウルを危うく落とすところだ。

「本家で配るのはあたしが引き受けてあげる。学校からまっすぐ帰ってきて、きっちり全員に配るよ。だから瑞穂は学校から直接行けば? 『懐古堂』に。」

 瑞穂の顔が今度は湯気が出そうなほど赤くなった。

 花穂は慌てて両手をボウルの下に当てて、カバーする。しかし瑞穂は何とか落とさずに、気を取り直した。

「‥‥ありがと。えっと‥じゃあ‥花穂に頼もうかな‥。」

 うなずきながら花穂は、内心のこみあげる笑いをこらえるのに苦労していた。


 翌日の夕方、花穂は瑞穂との約束どおり、早めに帰宅して本家の全員にチョコレートを配って歩いた。

 禊ぎ場の責任者である鶴助爺やが、今にも泣き出しそうなくらい感激して花穂の生まれた時の話まで始めたのにはさすがに閉口したけれど、総じて気分はいい。特に新しく入った二十人のうちの若い男はみな、花穂の美貌に感銘を受けたようで賛美の視線を向けてきた。もちろん花穂はそういう視線がとっても好きだ。

 最後に修業用の道場へまわり、掃除をしていた四人に手渡した。

「あら‥? ここに五人いるはずと聞いてきたのだけど‥。」

 雑巾を手に四人は顔を見合わせ、不思議そうに首をかしげた。

「いえ。四人です。」

「そうお? おかしいわね。一つ余っちゃった。ま、いいか。‥お邪魔しました。」

 にっこりと微笑して花穂は道場を出た。

 とっぷりと日暮れた黄昏の中を居住棟に向かいながら、手の中のチョコを見やり、花穂はそれが自分の作った分だと気づいた。

「つまり‥。あたしはこれを誰かにあげるべきなんだわ。誰にしようかな?」

 携帯を取りだし、電話帳をスクロールしてみる。誰にもこれといって決め手がない。

 不意に花穂はいたずらっぽい笑みを浮かべ、目を輝かせた。

「そうだ‥! こないだの遊覧飛行のお礼にしたらいいかも。」

 コートの襟を立てて、マフラーをきゅっと締めると、花穂は門に向かって一目散にかけだした。


 花穂がしばらくたたずんでいた場所と近い茂みから、のそのそとひとりの若い男が這い出てきた。

「びっくりした‥。いきなり走り出してどうしたんだろうね?」

 男は右腕に白い仔犬を抱え、左手にチョコの箱を持っていた。仔犬は前足で箱のリボンをしきりに引っぱっている。

「こら、だめだよ。いったいどこから持ってきちゃったんだか‥。でも全員に配ってたみたいだから、俺の分として貰っちゃっていいか‥。」

 あとになって失くした人がいたら謝ればいいや、と男は深く考えるのはやめにした。だいたいが暢気なタチなので、与えられた仕事を放っぽりだし、どこからか迷いこんできた仔犬と午後じゅう敷地内の探検をしている。

 男は芝生に腰を下ろし、チョコの箱を開けてひと粒食べてみた。リキュールが利いていて、手作りとは思えないほどの出来栄えだ。

「すごいな。有名店で買ってきたみたいだ。」

 もうひと粒口に入れる。今度は違うお酒の味がした。ブランデーだろうか、酔いがまわりそうなほど濃い。

「だけど‥。花穂お嬢さまは綺麗だよな‥。なあ、おまえ。おまえもそう思うだろ?」

 頬ずりすると、仔犬はくんくん鼻面を押し当てて甘え声を出した。チョコレートがほしいらしいが、あげるわけにもいかない。

「よし。食堂へ行って、何かくれないかって頼んでやるから。温和しくするんだぞ。」

 男は勢いよく立ち上がり、仔犬を抱いて夕闇の中を食堂へと歩き始めた。


 瑞穂は『懐古堂』の軒行灯の前で茫然と立ち竦んでいた。

 朝、確かに鞄に入れたはずのチョコレートがなかった。紙袋に用意した小さなブーケとメッセージカードはあるのにチョコの箱だけがない。何度もリボンを結び直して、確かめたはずなのに。

 いったいどこで落としたのだろう。花束を買った店の前かと思って探しに戻ったけれど、影も形もなかった。地下鉄の駅も、学校にもなかった。

 電話して磯貝に本家の庭や家の中を見てもらったけれど、見当たらないという。

「やっぱり‥‥だめなのかしら‥。」

 涙がじんわりこみあげてきた。

「瑞穂さん‥?」

 振り返ると茉莉花が立っていた。後ろにダンボール箱を抱えた玲が見える。

 瑞穂は涙をのみこんで夕闇に隠し、明るい声で挨拶した。会釈を返した茉莉花はほんのりと微笑んだ。

「‥‥お二人でお出かけだったんですか?」

「わたしは近所まで買い物に。堂上さんは‥」

 茉莉花は心なしかくすりと微笑ったようだった。

「また郵便局から催促があったみたいね。」

 まあね、と玲は肩を竦め、瑞穂ににこっと微笑んでから先に中へと入っていった。

「ちょうどよかった。瑞穂さんにお話があったので‥。」

「お話‥ですか。」

 促されるままに部屋に上がり、出されたお茶をすする。

 茉莉花の話というのは、謎の男が出没しているという内容だった。夜鴉の若頭領からの情報だそうだ。

「夜鴉一族にも正体のつかめないモノ‥ですか。」

「ええ。本人は自分を人間だと思っていたらしいんです。けれど実際に遭遇した切羽さんは、百パーセント人ではないと言っていました。潜在的な妖力はかなりありそうで、厄介なのは使い方が場当たり的で予想がつかない点だとか。恐らく自分が何者かわかっていないからなのでしょうね。」

「それは‥‥ほんと、厄介ですね。」

 茉莉花はうなずいて、微かに眉をしかめた。

「最初の対処を間違えたと若頭領は言っています。てっきり意図があって人間に化けているモノと思い、いきなり攻撃してしまったそうです。それで今では夜鴉の姿に怯えて、話を聞くどころではないようで‥。わたしのところか本家の能力者が接触したなら、いったん保護して話を聞いてもらえれば有難いと仰ってます。」

「‥‥物の怪でないとすれば、何の可能性がありますか。」

「話を聞かなければわかりません。若頭領や切羽さんが見極められないモノならば、わたしの知識の中に答があるとは思えません。」

「人である可能性はないのですよね‥。だったら四宮では対処しかねます。そいつが人間に危害を加えない限りは放置するしか‥。『懐古堂』へ行くよう伝えろ、という回状は正直なところ、本家直属以外の者には出せません。ごめんなさい。」

 頭を下げかけた瑞穂を制して、茉莉花は逆に頭を下げた。

「筋違いだとは承知しています。ですが‥。どうも単純な話ではないような予感がしてしまって‥。ぜひ慎重な対処をお願いしたいのです。こちらこそ申し訳ありません。」

「予感、ですか‥。」

 四宮の女の予感では無視できない。まして―――茉莉花のならば尚更だ。瑞穂にとって祖母亡き現在、茉莉花は霊能力者として唯一仰ぎ見る存在だった。

「わかりました。では四宮としては手を出さないよう指示します。情報は入り次第、こちらへ伝えますから。」

 瑞穂は溜息まじりにそう言って、腰を上げた。

「あの‥瑞穂さん。あなたのほうの用事は‥?」

 思わず赤くなった。そうだった。しかし―――肝心のチョコがない。

 瑞穂はすわりなおして、うつむいたまま二階へ聞こえないよう小声で、茉莉花にこっそり事情を告げた。半分は宣戦布告のつもりだが、半分は同じように霊力の流れに左右される運命を持った者にしか理解してもらえない愚痴でもある。

 茉莉花は困惑した表情で溜息をついた。

「それは‥届かないでしょうね。四宮本家の名前も邪魔しているのでしょうが、わたしの霊力も邪魔しているのかもしれません。でも堂上さんは‥。」

 ちらりと二階を見やり、ちょっと躊躇したあと、茉莉花は続けた。

「チョコレートには食傷気味なので‥。さっきのダンボール箱は全部チョコレートで、今週はあれで三箱目だから‥。違う手段のほうがいいのでは‥。」

 はあ、と瑞穂はうなだれた。

 茉莉花ののみこんだ言葉は聞かなくてもわかっている。彼は既に瑞穂の気持ちなんか十分知っているのだ。

「あ‥あのっ‥! あたしからこんな打ち明け話されて不愉快でしょうけど‥。不愉快ついでに聞かせてもらえば、茉莉花さんは堂上さんをどう思っているんですか?」

「どうって‥。ある意味、とても尊敬しているかしら?」

 茉莉花は生真面目な顔で答えた。

「そ、尊敬? 好きじゃないの?」

「好きだと思います。時々面倒臭いところがあるけれど。」

 ますます真面目な顔になる。

「面倒臭いって‥。いったいどういう関係なんですか?」

「一応わたしからすれば許婚(いいなずけ)になるのだけれど。今のところ甚だ流動的な縁に見えるので、お互いになりゆきを静観している状態なんです。」

許婚(いいなずけ)‥なのに流動的って‥?」

 瑞穂は混乱して、茉莉花の静かな瞳を見据えたまま泣きたくなった。

 茉莉花は微かに苦笑した。

「ごめんなさい。これ以上は言葉にできないんです。具体的な言葉は彼の人生を不必要に縛ってしまうから。ただわたしは‥たぶんこの先も人であり続けようと思うならば、堂上さんが必要なんでしょうね。けれど堂上さんには必ずしもわたしが必要なわけではない。それが見えるので、甚だ流動的と言っているんです。」

 つまり茉莉花は彼を愛しているが彼はそうでもないという意味か?

 彼女のほうからは縁が確定しているけれど、彼のほうからは流動的だと言うならばそういう意味になるはずだが―――何かがかなり、いや決定的に違うような気がする。

 頭を抱えた瑞穂のほうを見て、茉莉花はそれより、と話を変えた。

「さっきのお話では、瑞穂さんの想いをこめたチョコレートが紛失してしまったのですよね? むしろその行方のほうが大ごとなのではありませんか‥?」

「え?」

「‥‥勝手に瑞穂さんの意志に反して、縁を結んでいるかもしれません。」

「あ‥!」

 茉莉花の同情的な視線をまじまじと見返して、瑞穂は絶句した。


 花穂は夕闇のビル街を抜けて、静かな公園のあるほうへ気配をたどって走っていた。

 探していたのは夜鴉―――切羽の気配だが、見つけた気配は戦闘中のようだ。もしやまた、あの物の怪の男が相手なのだろうか。

 公園にたどりついた時、薄闇の上空を巨大な影が横切っていくのが見えた。

「な‥何、あれ? モスラ?」

 花穂は上を見上げ、唖然として立ち竦んだ。

 黒い影は巨大な蛾のようだ。墨を流したようなその羽を、切り裂いて飛ぶ(つや)やかな黒い姿は切羽だろう。しかし巨大蛾の羽は切り裂く端からどろどろと戻ってしまう。

 巨大蛾の起こす風に、公園の木が大きくかしいだ。

「危ない‥!」

 花穂の上に落ちてきた太い枝を、誰かが身を挺して防いでくれた。おかげでバランスを崩して尻餅をついたものの、怪我はなかった。

「ありがとう‥。」

 振り向いて驚いた。街灯の下で肩を押さえてうずくまっていたのは、あの時の男だ。

「ちょっと‥大丈夫? ていうか、なんであなたがあたしを庇ってくれたの?」

 男はうつむいたままぼそりと、この間助けてもらったから、と答えた。

「だけど、あの後であたしをムカデに襲わせたじゃない?」

「違う‥。夜鴉が君を襲うんじゃないかと思ったから‥。でも知り合いだったんだね。」

 花穂はすたすたと近づくと、ためらいもせず男の肩に手を当てて霊力を注いだ。

 物の怪の治療はしたことがないが、確か茉莉花はこうして若頭領の傷を回復させたと聞いた。この男が物の怪ならば、回復するはずだ。

 男はびくん、と顔を上げた。

「あ‥痛かった? 治そうと思ったんだけど‥。」

 花穂は慌てて手を離す。だが男はその手をぎゅっと握った。

「いや‥ちょっと驚いて‥。すごく気持ちよかった。‥あ、ごめん‥!」

 うろたえた様子で手を離し、彼は再びうつむく。花穂はにっこりと微笑んで、もう一度手を翳した。

「あのね。あのモスラみたいの、あなたが出したんでしょ。あそこで闘ってる夜鴉、短気だけど話せばわかる人だから、あれを引っこめてくれないかな?」

 彼は不安そうに花穂を見た。

「でも‥。怖いんだ。俺がここからいなくなればあれはすぐ消えるよ。ただの影だから。」

「だけど、彼はあなたと話したいと言ってたわ。あなたがどこから来て、何者なのか知りたいって。」

「‥‥そんなの、無理だよ。」

 つぶやいた男の瞳はひどく暗くて、花穂は思わず背筋がぞわぞわっとした。

 男は花穂の顔をじっと見つめ、掌にぽわっと一輪の赤い花を出した。寒椿の花だが、うっすらと朧な光を放っている。

「君にあげる。君は‥‥すごくきれいだから。」

 差しだされた花を受け取ろうかどうしようか迷っているところへ、漆黒の羽が飛んできてナイフのように花を貫いた。花は彼の手の中で粉々に崩れ落ちた。

 男はさっと二メートルほども後ろに跳びのいた。

 花穂の目の前に、切羽の長身がすっくと下りたつ。

「てめェ‥。花穂に近づくな‥!」

「切羽、違うの。あの人はあたしを庇ってくれたのよ。悪い人じゃないから‥。」

「花穂、おまえもおまえだ。なんでこんな場所にのこのこ来たんだ?」

「それはね‥あっ‥!」

 切羽が花穂を振り返った隙に、男は巨大蛾を呼んで上空へ舞い上がった。そして暗碧の虚空に吸いこまれるように、瞬く間に姿が見えなくなった。

 切羽は男と巨大蛾が消えた上空を睨んで、チッと舌打ちした。

「おい。悪い人じゃないって、そもそも人じゃないんだよ。何してんだ、おまえは! あんなヤツに花貰って嬉しいのかよ?」

 花穂は背伸びして切羽の顔を覗きこみ、ふふっと笑った。

「あの人、あたしのことすごくきれいだって言って、椿の花を出してくれたのよ。女の子なら嬉しくなるなってほうが無理よ。切羽、そういう優しい態度取ったことある? ないでしょ。だからもてないのよ。」

 余計なお世話だ、と怒鳴りかけた切羽の鼻先に、花穂はチョコレートの包みを差しだした。

「‥何だ、これ?」

「チョコレート。あたしが作ったの。いわゆる義理チョコだけどね。こないだお世話になったから。」

 切羽は少し鼻白んで、チョコレート、と繰り返した。

「今日二月十四日はね、人間の女の子が好きな人にチョコレートを贈る日なのよ。」

「す‥好きな人?」

「最近では恋人だけじゃなくて、お世話になった人にお礼の意味をこめてあげたりもするの。いろいろな人に配って、最後に一つ残ったから切羽にもお礼をしようかなって持ってきたのに‥。のこのこやってきて、悪かったわね。」

 切羽は少しだけ赤くなって、箱を開け、ひと粒口に放りこんだ。

「どう? 美味しい?」

「‥‥甘い。甘すぎる。こりゃ、女子どもの喰うもんだろ。」

「そう?」

 花穂は再び背伸びをして、箱から一つ取り、自分も食べてみた。

「ほんとだ。甘すぎるわね。キャラメル入れすぎたかな?」

「おまえ‥。味見もしないでよこしたのか? 呆れたな。」

「文句言わないの。来年はもう少し上手に作るわ。ね、だから‥‥また、空飛んでよ。」

 切羽は苦々しい表情で花穂を見下ろした。

「俺はおまえの飛行機じゃない。」

「わかってるわよ。ええと‥お願いします、切羽さま? ‥ねえ、お願いだってばあ。」

 花穂は腕に縋りつき、無邪気な笑顔でねだった。この手で前回は結局、一時間以上も東京の夜空を飛んでもらったのだ。

 はたして切羽は仕方ないな、としぶしぶ花穂を背中に乗せた。

 花穂はいそいそと翼の間に体を収め、首にしがみついた。胸がわくわくして、心臓の音が大きく響く。

「ね。今夜は海のほう行こうよ。港の夜景を上から眺めたら素敵じゃない?」

 やれやれ、と切羽は溜息を一つこぼし、ふうわりと上空へ舞い上がった。


 植えこみの陰からそんな二人の様子を息をひそめて見つめていた男は、寂しげに立ち上がった。

 彼女と話をした街灯付近に、もう一度そろそろと近づいていく。

 ―――彼女の手。小さくて柔らかかったな。

 肩にしみこむ温かくて優しい霊力。体じゅうがぞくぞくして、すごく幸せな感じがした。一緒に並んでこの地面に屈んでいたんだ、と足下をじっと見る。

 ふとそこに落ちている、きらりと光る物が目に入った。

 かがんで拾い上げ、手に取ってつくづく見た。

 ―――彼女の腕時計だ。

 さっき尻餅をついた弾みに、腕から外れたのだろう。

 淡いピンクの革のベルトに、細身で華奢な銀色の文字盤。小さなダイヤモンドの粒が文字盤の脇にいくつか埋めこまれている。どうやら長年愛用していた物らしく、たっぷりと彼女の霊力をたたえていた。

 男は街灯の鈍い灯りの下で、満ち足りた顔で頬笑んだ。

 これがあればきっと、人として生きていける。そんな気がした。

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