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懐古堂奇譚2  作者: りり
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聖夜の天使

 四宮早穂は塾を出た路上で切っていた携帯の電源を入れ、いつものようにメールチェックした。

 早穂には交際中の男の子が三人いる。みな同じ学園で一人は同じ中等部三年、あとの二人は高等部生だ。基本的に来る者は拒まずで、それでよければと初めから告げてある。だから彼らから苦情を言われたことはなかった―――今日までは。

 今日は五日後に迫ったクリスマスの予定をめぐって、誰と過ごすのかと三人に詰めよられた。面倒臭いからクジで決めようか、と言ったらものすごく険悪な雰囲気が漂って、三人とも怒って帰ってしまった。

 今も誰もメールをよこしていない。塾の帰りは遅くなるから、いつもは交替で迎えに来てくれるのだが、見渡したところ三人とも来てくれていない。

 まあいいや、と早穂は携帯をしまって、マフラーをぎゅっと締め直した。

 たぶん今日の抗議は、三人で申し合わせたものだったのだろう。クリスマスだけでなく、いったい誰を選ぶのか、と言いたかったのだと思う。

 表通りから、地下鉄の駅への近道になっている人気のない路地に入る。別に怖くはない。三人には悪いが、四宮の女に怖いモノなどほとんどないのだ。

 これでお終いならそれはそれで構わなかった。一人を選ぶとしたらやはりジャンケンかクジで決めて、としか言いようがないのだから。つまりは誰も好きじゃないのだろう。

 何となく溜息がこぼれた。口もとで息が白く凍る。

 不意に慌てふためいた足音が聞こえた。

 顔を上げると、前方から二つの影が必死な様子で走ってくるのが見えた。後ろを振り返りながら息を弾ませて走るサラリーマンふうの男と、彼が手を引いている白い服の女性。どうやら誰かに追われているらしい。

 男は早穂に気づくと、いきなり足を止めた。そして背中に女性をかばい、どこかに抜け道がないかと目で探している。

 早穂は面倒臭いなあ、と思いつつ、冷静に二人連れの様子を観察した。そして驚く。白い服の女性の背中には―――純白の翼がついていたのだ。

 正面の突きあたりに数人の男たちが現れた。

「逃げたって無駄なのに‥。大人しく女を渡しなよ。」

 先頭に立ってそう言った男に見覚えがあった。

 確か、先週瑞穂に破門された四宮傘下の霊能力者だ。破門の理由は、害を為さない弱い物の怪を狩っては、裏取引で金持ちのペットにと売買していたからだった。

 先月の夜鴉一族との手打ちで、害を為さない物の怪は狩らないと取り決めたためだけではない。何も知らない一般人に物の怪を近づけるのは危険な行為だ。ましてや売買などととんでもない。瑞穂はひどく怒って彼らを破門し、次に同様の行為をしたら容赦なく制裁を加える、と言い渡していた。

 能力者の男は無防備な二人に向かって、いきなり霊力を使い、攻撃を仕掛けた。

 早穂はとっさに間に入って、攻撃を放った本人へ力をはね返す。自分の力をくらって、能力者の男は路上に転がった。

「何をしているの‥! 一般人に攻撃するなんて。」

「誰だ‥?」

 早穂は前面の空中に防御陣を大きく描いて、盾を築いた。

「この防御陣を見ても、誰だかわからない? ‥立ち去りなさい、今すぐ!」

 四宮だ、本家だ、と口々に言い合って、男たちはしぶしぶと立ち去っていく。早穂は念のために彼らの気配が感知できなくなるまで、そのまま防御陣を維持していた。

 気配が遠のいたのを確認して、後ろを振り向く。

 間近で見ると最初の印象より若い男だった。背中に隠れた女もまだ二十才になっていないだろう。予想どおり、彼女は人ではない。ほの白く全身が光っている。

「よ‥四宮‥? 妖し封じの‥」

 男は息を切らせたまま、絶望的な表情を浮かべた。

 早穂はムッとした。助けてあげたのに、なぜそんな目で見るのだろう?

「‥心配しなくても、あなたの彼女が悪い妖しでないなら何もしないわよ。それより助けたのにお礼の言葉もないわけ?」

「あ‥ありがとう。じゃ‥見逃して‥くれるんだね?」

 ひどく怯えた顔。見れば彼の手は小刻みに震えている。

 早穂はいぶかしく思った。

「どうしてそんなに怖がっているの‥? さっきの連中がもしも四宮を名のったのなら、関係ないと断言するわ。あたしは四宮早穂。本家の現当主の妹だから。」

「と‥当主? じゃ、先生の‥娘さん?」

「‥‥父を知っていたの?」

 彼が口を開きかけた時、背後で急に白服の女が崩れ落ちた。意識を失ったらしい。

「あの‥彼女は、怪我をしているんだ。見逃してくれ、頼む。」

「彼女は人じゃないけど、知り合いなの? 名前は?」

「いや‥さっき路地でうずくまっていたのを見つけたばかりで‥それからずっと逃げていたから名前は知らないけど‥。でも‥彼女は天使でしょう?」

「天使‥?」

 早穂は呆れた。早穂から見れば立派な大人の男が―――天使だなんて。

 彼が抱えているモノをつくづく眺める。真っ白な裾の長いドレス、銀色の豊かな長い髪、ミルク色の肌。そして大きな純白の翼。確かに天使に思えないことはないけれど。

 気がつけばところどころ細かい擦傷があちこちにあった。さっきの連中に追われて傷ついたのだろう。この美貌ならば高く売れるのだろうなと思えば、ついつい眉間に皺が寄ってしまう。

「あの男たちは珍しい生き物だから、捕まえて売るつもりだと言ってた。だからぼくは‥そんなの、あんまりだと思って‥。」

 男はびくびくしている様子で、一生懸命早穂に言い訳をする。

「し‥知り合いに、頼んで助けてもらおうと‥‥」

 そこで男のポケットで携帯が鳴った。

 ぎくっとして、早穂の顔を窺う。大の男が中学生の顔色を見てどうする、と溜息まじりに早穂は、出たら、と言った。

「‥‥はい。ぼくです。今いるのは‥」

 彼は早穂に背を向けて、現在所在地を説明した。電話の相手は近くにいたらしく、まもなく路地の入口に姿を見せた。

 後から来た男は小走りに近づいてきた。三十過ぎくらいだろうか。どこかで見た顔だ。

 男は早穂を見て、やはりどこかで見た、というふうな表情を浮かべたが、とりあえず震えている若い男のほうへ首を廻らせる。

「大丈夫か‥。追われているって言ってたけど‥?」

「はい‥。この人が助けてくれて‥。そのう‥先生の‥四宮の、娘さんだそうです‥。」

 え、と男は振り返る。早穂はうんざりして再度名を名のった。

「そうか‥。どこかで見たと思った。四宮本家の一番下のお嬢さんか。‥あの事件の時は君と姉さんたちにずいぶん世話になった。どうもありがとう。」

 そう言って彼は軽く頭を下げた。

「あの事件‥。もしかして、『懐古堂』さんと同行してた人? 亜沙美さんの彼氏だったっていう‥大怪我して救急車で運ばれた‥?」

「鳥島です。」

 鳥島の背中に隠れるように立っている若い男は、不安げに鳥島を見た。

「彼女は大丈夫。今はもう四宮本家は『懐古堂』さんと敵対していないんだ。」

「そ‥そうなんですか‥?」

 疑わしげに向けられた、怯えた視線に苛々してきて、早穂はじろりと見返した。

「あの。何なのかしら? あたしはあなたを助けたのに、どうしてそんな目で見るの? そっちの‥そのう、天使さんにだって危害を加えるつもりなんかないし。『懐古堂』さんの知り合いなら、どうせ『懐古堂』さんにその子の保護を頼むつもりなんでしょ? あたしは本家と言ってもまだ部屋住みの身分だから、別に口をはさむ気もないし‥。ただ能力者が一般人を霊力で攻撃する現場に居合わせちゃったから、止めただけよ。なのにどうしてそんな鬼でも見るみたいな顔で見るわけ?」

 なるべく冷静に理屈を説いてやったつもりだ。だが彼は鳥島の背中にますます隠れた。

 滅多に感情を顔に出さない早穂だが、さすがに腹が立って頬が熱くなる。

 まあまあ、と鳥島が、今にも詰めよりそうな早穂の前に体を入れた。

「すまない。事情があるんだ。実は彼も白鬼の被害者なんだよ。正確には『御霊の会』教団の‥。そこであやうく殺されかけたんだ。」

 え、と早穂は立ち竦んだ。

「早穂さんがどこまであの教団の件を知っているのか‥。」

 鳥島は言いにくそうに言葉をにごした。

「一応‥全部知っています。父が‥咲乃のお父さんになりすまして、白鬼と組んでやったことでしょ? そうか、それでさっきからその人、先生って‥。」

 早穂はうつむいている若い男をまじまじと見た。この男にとってみれば、自分は殺人者の娘なのだ、とすとんと腑に落ちる。

「ごめんなさい‥。父の代わりに‥謝ります。謝ってもどうにもならないけど。」

 早穂は深々と頭を下げた。

「いや‥。あの。別にそういう意味じゃ‥。こっちこそ、すみません。」

 男は鳥島の肩ごしにぺこりと頭を下げ、おずおずとした苦笑いを口の端に浮かべた。


 男は吉見達也、二十四才と名のった。

 夏までは失業中だったが、鳥島の紹介で今は都内にある中堅どころの食品卸会社に勤めているそうだ。

 結局遅い時刻なので、『天使』はいったんいちばん近い吉見の部屋に運ぶことになった。『懐古堂』へは目を覚ましてから連れていく、と言いつつ、怪我が心配の様子だ。

 早穂は大丈夫だと請け合った。

「この程度なら一日休めば治ると思う。あたしがついていって、応急処置をしてあげる。」

 四宮本家の重厚な結界は今では消滅している。だから早穂の住む別棟でこっそり預かってあげても構わないのだが、早穂は吉見達也という頼りなげな男にちょっと興味があった。

「帰らなくていいの‥? 結構遅い時間だけど。」

 鳥島に手伝ってもらって『天使』を背負いながら、吉見は遠慮がちに言った。

「ああ、全然平気。あたし、一人で住んでるし。信用あるから。」

 四宮本家では、子どもたちは基本的に一人一棟で独立して生活する決まりだった。霊力の独立性を保つための、古くからの慣習だそうだ。

 小学生までは側仕えの者がつくが、中学生になってからは食事の支度から洗濯まで全部自分でこなす。掃除くらいは使用人に頼むのを容認されているけれど、早穂は留守に入られたくないので頼んだことはない。

 並んで歩きながら説明すると、吉見はへえ、ととても驚いた顔をした。

 いちいち感情が顔に出る人だと早穂は逆に面食らう。

 早穂の周りにはそういう人間は少ない。天真爛漫な顔をしている次姉の花穂だって、他人には容易に腹の中は見せはしない。

 吉見の部屋はワンルームで、ベッドと冷蔵庫くらいしか目につくものはなかった。

 ベッドに下ろした『天使』に、早穂は霊力を当てて少しだけ回復の手助けをしてやる。しばらくすると彼女は目をうっすらと開けた。

 ふうっ、と大きく息をついた早穂に、鳥島が途中で買ってきた温かい紅茶のペットボトルを差しだした。早穂は快く受け取った。

 『天使』の名は(すい)といった。一族で住んでいた場所が夏に水害で倒壊し、それから今まで妹の(こう)と二人でビルの谷間を転々としてきたという。なのにさっきの連中に襲われて逃げる途中に、妹ともはぐれてしまったそうだった。

「もしやあの人たちに、もう捕まってしまったのかもしれません‥。どうしたらいいのでしょう‥?」

 翠はしくしく泣き出した。

 頬にこぼれた涙がきらきらと光って、銀色の髪をつたい、膝に落ちる。背中の純白の翼が震えている。

 確かに絵の中の天使そっくりで、非常に美しい。時節もちょうどクリスマスシーズンだし、吉見達也が天使だと思いこんでぽおっとなるのも無理はない―――のだけれど。

 そこではたと早穂は肝心な点に思い当たった。

「そう言えば‥。二人ともよく彼女が見えますね? 能力者だとは感じられないけど。」

「俺はよく見えてない。白く光ってる人影の背中に、翼らしき形がぼんやり見えるだけだ。声は何とか聞き取れるけど。」

 鳥島はあっさりと答えた。吉見もうなずいている。

「え? 超美人だから保護したんじゃないの?」

「超って‥。そんなに美人なの?」

 吉見が早穂に真剣な顔で問い返す。

 早穂は可笑しくてくすくす笑った。

「やだぁ。もうめっちゃくちゃ美人。てっきり、吉見さんは彼女に一目惚れして守ってる、ってベタなパターンだと思ってた。」

 二人の男は顔を見合わせて苦笑した。

「見えるようになったのは、例の事件の後なんだよ。俺は怪我した時に夜鴉の妖力で助けてもらったからだし、彼は一回魂を剥がされて物の怪の中に入っていた時期があるせいなんだ。君たちみたいに持って生まれた力じゃないから、ぼんやりしか見えない。」

 鳥島は早穂に丁寧に説明する。それから翠に向き直った。

「何とか妹さんを探してみよう。夜が明けたら専門家のところへ連れていってあげるから、安心して休むといいよ。」

 翠は名のとおりの美しい緑色の瞳をじっと鳥島に向けて、ありがとうございます、と答えた。そして疲れ果てた様子で体を再び横たえ、まもなくすやすやと寝入ってしまった。

 鳥島は静かに椅子から立ち上がった。

「じゃあ、明日の朝迎えに来る。‥早穂さん、送っていくから行こう。」

「あたしもここに泊まる。気になるから。」

 ええっ、と吉見がうろたえた声を出した。

「だめだよ。こんな狭い部屋に女の子なんか泊められない。寝る場所もないし‥。それに明日は学校があるんだろう?」

「だって吉見さん、翠さんのことよく見えないんでしょ? 不便だろうから『懐古堂』さんに着くまで、あたしが彼女の世話をしてあげる。学校は平気、あたし、優等生だから一日くらいさぼっても問題ないもん。」

 半分はほんとうに翠が心配だからだが、残りの半分は好奇心だ。それに『懐古堂』を訪ねる機会を逃すつもりはなかった。

「お願い。邪魔にならない場所で勝手に寝るから。あと一応念のために言っておくけど、四宮の女に手を出すと命の保証はできないからね。寝てても自動的に防御結界が発動しちゃうの。‥‥吉見さんは、中学生に不埒な真似をするような人じゃないよね?」

 思ったとおり、吉見達也は強く出られると拒否できないタイプのようだ。仕方がない、としぶしぶうなずく。鳥島は横を向いて笑いをかみ殺している。

 早穂はさっそく花穂に、友人宅に泊まるとメールを入れた。これは磯貝に言い訳してもらうための連絡だ。姉たちには早穂が無事でいるかどうかなど説明の必要はない。

「じゃあ、鳥島さん、お休みなさい。また明日ね。」

 早穂は普段は滅多に浮かべない、よそゆきの笑顔を浮かべた。


 夜鴉の若頭領は久しぶりに夜の散歩に出た。

 凍てつく冬の空気を大きな翼で切り裂いて飛べば、すっきりと爽快な気分になる。夏に白鬼に負わされた傷の痛みも、もはやまったく感じなかった。

「まったく‥。首尾良くあの女を手に入れられれば、治るのにこんな手間ァくわなかったんだ。いまいましい話だぜ。」

 そして十月に久しぶりに逢った四宮茉莉花の面影を胸に浮かべる。

「いつ見ても惚れ惚れするようないい女だよなァ‥。何と言ってもあの霊力がたまらないんだが‥。どうにかして俺の女にしたいもんだ。」

 男をこっそり排除しようとする試みは見通され、ちくりと警告されてしまった。逆効果だとわかったので今はやめている。それに急いで無理しなくても、あの二人の間には男と女の情はまだ通っていないようだった。

 つまり自分に惚れるよう仕向ければ話は早いのだが、『懐古堂』には用はないと近づけない決まりだ。しかも力ずくで結界を破ろうとすれば白鬼の二の舞は必至。ろくろく逢えもしないのにどうやって口説き落とせばいい?

 遙か上空の高みから、若頭領は大東京の夜景を睥睨する。

 これが全部自分の支配下だというのに、人間の女一人ままならないとは。

「まあ‥。だから面白いんだが。」

 くすっと微笑うと若頭領は急降下して、適当なビルの屋上にすわり、羽を休めた。

 不条理と混沌と欲望にあふれた夜の世界。それこそが夜鴉の生きる場所だ。

 その時ちらりと、下方で揺れ動く白い翼が見えた気がした。


 (こう)は小さな体で必死に逃げていた。

 人間には姉や自分の姿は見えないと思っていた。なのにしつこく追いかけてくる男たちには、姿が見えているだけでなく気配まで読まれているようだ。

 すっかり疲れて息が上がっている。翼ももう素早くは動かせない。しかも男たちが時折繰りだしてくる痛い風みたいなもののせいで、体じゅうが切り傷だらけだ。

 とうとう狭い袋小路で囲まれてしまった。

「よし。追いつめたな。一匹は逃がしてしまったが、一匹だけは手に入りそうだ。」

 では姉は逃げ切ったのか。よかった、と思いながら(こう)は怖ろしくて涙がにじんできた。いったい捕まるとどうなるのだろう?

 突然あたりが真っ暗になった。月も星もまるで見えない、深い深い暗闇だ。

 (こう)の目の前で漆黒の巨大な翼がはためいて、すとんと優美な姿が下りたつ。(こう)は目をぱちくりさせた。漆黒の、信じられないほど美しい姿。

「おまえら‥。俺の縄張りで何をしている?」

「‥夜鴉か。チッ、面倒な相手だな。」

 男たちの一人が一緒に狩ってしまおう、と囁いた。

「こっちも綺麗じゃないですか。高く売れますよ。」

 凍りつくような冷たい声が、ほほう、と発せられる。

「‥なるほど四宮を破門されるわけだ。二流どころか‥四流、五流か。格の違いが感知できねェだけじゃなく、人語も理解できねェとみえる。俺は今、夜鴉の縄張りと言ったんじゃねェぜ。『俺の』と言ったんだぜ? その意味がわからないかい?」

 先頭にいた男の顔からさあっと血の気が引いた。足がぶるぶる震え始める。

「ま‥まさか‥。頭領か‥? なぜ出張って‥」

 言葉が終わらないうちに、翼の一振りで男たちは遙か後方へふっとんだ。骨の数本は折れたらしく、痛がってのたうち回っている。

「苦しいかい? 何ならあっさり息の根を止めてやろうか。」

 彼らは口々に命乞いをした。

「死にたくねェなら、二度と夜の街をうろつくな。今度見かけたら即、ぶっ殺してやる。」

 そう言い捨てると、若頭領は(こう)を振り返った。

 (こう)は立ち竦んで、見たことがないほど華やかで美しい姿にうっとりと見惚れた。

「なんだ‥。鷺娘(さぎむすめ)かい? どうしてこんな街中にいる。迷子かえ?」

 若頭領は翼をそよがせて柔らかな風を送り、(こう)の傷を瞬く間に治してくれた。

 しどろもどろながら、いきさつを説明する。

 若頭領は(こう)の話をのみこむと、にやりと微笑した。

「こりゃ、都合がいいな‥。この娘を預けて俺が後見人てェ具合にすりゃ‥。いつでも逢いにいける。」

 そしてご機嫌な表情で(こう)に向き直った。

「姉さんを探し出して、二人一緒に住む場所があればいいんだろ? 俺に任せな。望みどおりにしてやる。」

 はい、と(こう)は喜んで従うことにした。


 朝日に目を覚ました早穂は、隣の翠がまだよく眠っているのを見てそうっと布団を抜け出た。

 吉見達也が寝ているはずの床を見ると、誰もいない。トイレとバスが一体になったバスルームにもいないようだ。

 時計を見れば七時少し前だった。冬の朝は夜明けが遅い。もしやもう出勤したのだろうか、と思い至ればちょっとがっかりする。

 電気ストーブのスイッチを入れて、部屋をぐるりと見渡した。昨夜も感じたけれど、ほんとうに何にもない。ものすごく彼らしい部屋だと早穂は思った。

 どう見ても騎士(ナイト)にはなれそうもないくせに翠を一生懸命助けようとしていた。こんなに何も持っていないのに、本人だってお世辞にも腕力も知恵も勇気も大して持ち合わせているようには見えないのに。簡単に言えばバカなのだろうけど、勝算のない選択は決してしない早穂にはとても新鮮に感じる。

 不意にドアの開く微かな音がした。さっと身構えて、すぐに気配で誰だかわかる。この部屋の主人だ。

 彼はなるべく音をさせないように慎重にドアを閉めて、ゆっくり振り返った。そして目の前に立っている早穂を見てぎょっとし、すぐに目をそらした。

「何? まだあたしが怖いの‥?」

 詰めよって小声で文句を言うと、彼はいや、とますます顔を背けた。

「そうじゃなくて‥。その格好、下着だろ? ちゃんと服、着て。」

 早穂が着ているのは制服の下にいつも着ている、長袖のTシャツと黒のスパッツだ。下着と言われれば―――まあインナーだが。

「下着って‥。Tシャツとスパッツじゃない。全然普通でしょ。あなたの天使のほうがよほど下着っぽいわよ、肩がむき出しのドレス姿だもん。あの毛布を剥いだら、きっと美脚が露わになってるかも。」

「はいはい。もういいよ、わかったから‥。コンビニでおにぎりとお茶買ってきたけど、朝食はそんなもんでいい?」

 呆れ顔で早穂の横をすり抜け、小さなテーブルの上に手にした袋を静かに置く。

 一つしかない椅子を早穂に渡して、流しに寄りかかる格好で立ち、熱いお茶のペットボトルを開けた。ぼんやりとすすっている。

 おにぎりにかぶりつきながら、横目で観察してみた。目が充血している。寝ていないのかもしれなかった。迷惑かけたかな、と少し申しわけなく感じる。

「ねえ。今日、お仕事なんでしょ? 何時頃出るの。」

「ええと‥八時頃だな。鳥島さんからの連絡待ちだけど。」

「連絡なかったらあたしが留守番しててあげる。そうだ、携帯番号教えてよ。あたしのも教えてあげるから。」

 達也は真面目な顔で早穂を振り向いた。

「あのね。中学生は学校へ行きなさい。昨夜はおかげで助かったけど、これ以上関わらなくていいんだから。」

 ふん、大人ぶって、と心の中で早穂はふくれた。二十才(はたち)過ぎてまだ、天使なんか信じているくせに。

 早穂は唐突におにぎりを放りだし、両手で顔をおおってしくしくと嘘泣きを始めた。

「あたしは‥役に立ちたいだけなのに‥。四宮の娘だから‥嫌いなのね‥? だからそんな冷たい言い方‥‥」

 ぴったり予想どおり達也はおろおろして、違うよ、とかそんなわけじゃ、などと一生懸命に言う。ちょろいな、と内心で舌を出しつつ、早穂は嘘の涙で濡れた顔を上げて、彼の手を両手で握った。

「じゃあ‥嫌いなわけじゃない‥?」

「あ‥うん、嫌いじゃない。別に‥何とも思ってないから。」

 恐らくは四宮の娘でも遺恨はないという意味なのだろうけれど。なんて気の利かない言葉を選ぶんだろうと早穂は心の中で舌打ちする。

 もう一押し、胸に取り縋ってみようかと考えた時、達也のズボンのポケットで携帯が鳴った。仕方なく手を解放してあげて、再びおにぎりにかぶりつく。

「‥‥はい。わかりました。」

 声を低めて話していた達也は電話を切ると、早穂を振り返った。

「鳥島さん、あと十五分くらいで来るって。お願いだからその前に、ちゃんとスカート履いててよ。」

 はあい、と早穂は答えながら、内心少しがっかりしていた。


 ところがいつまでたっても翠が目覚めなかった。

 早穂の見るところ、まるで結界のような銀色の光がぼうっと彼女の体を包んでいる。

「どうしたんだろう‥。」

 達也は心配そうな顔で早穂を見た。

「気配は別に弱っていないけど。逆に何だかすごく活性化している感じ。怪我だが疲労だかが限界にきちゃってたのかもね。一日二日、眠り続けて治すんじゃないかな。」

「そういうの、よくあるの?」

「物の怪‥じゃなくて、天使に会ったのは初めてだけど。そういう話はよく聞くわ。」

「そうか‥。」

 彼は溜息をついてベッドの前に跪いた。

 翠の寝顔に見惚れているみたいで、ちょっとどきっとするが、実際にはうっすらとした白い影しか見えていないはずだ。どこが顔かよく見えないから、たぶん自分が鼻先に触れそうだなんて気づいていないのだろう。

「‥そんなに近づいて、キスするつもり? 未成年者の目の前でどうかと思うわ。」

 わっ、と赤面して後じさりする。やっぱり見えてなかったのだと何となくほっとした。

「で、どうする? どうも動かせそうもないけど。」

「とにかく俺は『懐古堂』に行ってくるよ。ついでに対処法を聞いてこよう。」

 鳥島が言うと、達也はうなずいた。

「じゃぼくは、翠さんが起きるかもしれないからここで見守っています。何かわかったら連絡くれますか?」

 どうやら会社を休むつもりらしい。やっと見つけた職らしいのに、なんてお人好しなんだろうと呆れてしまう。

 早穂はちょっと迷って、すぐに鳥島についていくほうに決めた。

「翠さんの状態を説明する人間が必要でしょ。あたしが適任じゃない?」

「しょうのないお嬢さんだな。『懐古堂』に行ってみたいだけじゃないのか? ‥まあいい、帰りには強制的に四宮本家に戻すよ。それが連れていく条件だ。いいね?」

 鳥島の視線を見れば、嘘泣きもご機嫌取りの笑顔もだだこねも通用しない類の大人だとわかる。まあいったん家に戻っても、また来ればいいだけではないか?

 早穂はしぶしぶうなずいた。


 達也は鳥島と早穂を見送って、何となく溜息をついた。

 つい放っておけなくて見守ると言ったものの、年末の忙しい時期に会社を休むのは気が引ける。鳥島の紹介でありついた職だし、何かあれば迷惑をかけてしまうのに。

 しかしベッドの上の白く光った姿を見れば、やはり放っておけない。自分に何ができるかと問えば―――何一つできることはない気もするが。

 昨夜は全然眠れなかった。早穂の無邪気な寝顔のせいだ。

 起きて喋っている時には大人びて見えたが、寝ている顔はとても(おさな)かった。十四才なんてこんなに子どもだったかとしみじみ思うほどだ。

 ほんの短い間とは言え、雇い主だった早穂の父親のことはよく覚えている。抑揚のない穏やかな声で話す、一見人当たりの良い優しげな男だった。その優しい態度のまま何の迷いもなく平然と、何人もの信者に殺すより残酷な仕打ちをした。

 白鬼に心を喰われていたせいだと鳥島から聞いてはいるけれど、それより以前の四宮史という人物そのものを知らないから、どうしても達也の中では早穂の父親は葛城教祖と直結してしまう。彼女は『先生』の娘。

 魂を剥がされた時の恐怖はいまだ鮮明で、今も時折夢でうなされるほどだ。

 だから早穂の霊力を目の当たりにした時には、正直なところ『先生』の振り回す数珠を連想して心底怖かった。

 しかし寝顔を見ているうちに、別の感情が胸に湧きあがってきた。

 自分が中学生だった時の記憶は特にこれといったものはないが、普通に家庭があって、その中で漫然と生きていたはずだ。十四才でいきなり両親と祖母を失った気持ちはどんなものだろう、と思えばごく自然な同情がわいてくる。

 まして父親が別の名前でいくつもの殺人を犯していたなんて。

 辛いだろうな、と思わず頬を撫でて、自分で自分に動揺した。

 殺されかけたくせにその犯人の娘に同情してどうする、そんな立場じゃないだろう、と言い聞かせる。でも目の前で聞こえる寝息はとても平和で、恨みも恐怖も呼び覚ましはしなかった。ただ無防備な稚い寝顔があるだけだ。

 動揺したせいか、昨夜はずっと一睡もできなかった。

 だからだろうか。翠を見守っているつもりで、いつのまにか眠ってしまったようだった。

 目が覚めて慌ててベッドの上を覗く。

 淡い白い発光体はいくらか形がはっきりしてきたようだった。目鼻立ちの輪郭が見て取れるくらいになっている。まるで女神の塑像のように端正だ。

 ぼんやりと目が開いた。宝石のような緑色の澄んだ瞳が、気怠そうに達也を見つめる。

「‥ごめんなさい。わたし‥何だか体がだるくて‥‥。」

「無理しないで寝てればいいよ。妹さんの件は、鳥島さんと早穂さんが専門家のところへ依頼にいってくれたから、大丈夫。」

 ありがとう、と翠は仄かに微笑んだ。そしてまた、すうっと眠りに入っていく。気のせいか体を包む光が、淋しげな銀色よりやや明るく変化したようだ。

 輝く純白の大きな翼は、全身をくるりと取り囲んで包んでいる。羽の隙間から少しだけ銀色の髪がこぼれて、薔薇色に色づいた頬を縁取っていた。

 まるで絵画のようだ。この世のモノでない美しさ。

「背景がちょっと残念だけど。」

 苦笑気味につぶやいて、達也はそっと布団をかけ直した。


 鳥島から連絡が入ったのは、もう夕刻だった。

 別の仕事が入って連絡できなかったと前置きして、鳥島は明日の朝茉莉花を連れて翠を迎えに来ると告げた。

「ずっとそこへ置いておくわけにもいかないし。ところで目は覚めた?」

 達也は一度だけ目覚めたものの、またすぐ寝入ってしまったと説明した。

「だるいって言ってて、熱があるみたいなんです。翼ですっぽり体を包んじゃってるし、発光がますます強くなってて、今は光もうっすら緑っぽいし。ぼくにでも顔や姿がくっきり見えてきてるんです。大丈夫でしょうか‥?」

 鳥島はしばらく考えこんだ後、時間を作って見にいくと言って切った。

 それからまもなく、夕食の差しいれを持って彼はやってきた。

 不思議なことに鳥島にはやはり、ぼんやりとした光る影にしか見えないという。ただ彼女を包む光が緑色に変化していて、しかもかなり強くなっているのだけは認めた。

「何ででしょうね? ずっと見ていたから目が慣れた、なんてありますかねえ?」

 あるかもしれないな、と鳥島はうなずいて、明日の朝は自分じゃなくて堂上玲が茉莉花に付き添ってくることになったと話した。

「堂上さんて、ぼくの体を見つけてくれた人ですよね。ええ、覚えてます。」

「彼は今のところ休業中だとかで、時間があるから運転手を引き受けてくれた。すまないな、頼ってくれたのに。ちょっと忙しくなって‥。」

 いえ、と達也は首を振った。

「こっちこそお世話をかけてばかりですみません。ありがとうございました。」

 鳥島が帰った後、翠の発光は更に強くなり、翼がけばだってきらきら輝き始めた。灯りを消していてもはっきりと、翠の顔が見分けられるほどだ。

 とにかく今日は早く寝ようと、シャワーをすませて床に横になり、毛布をまきつけた。

 翠の発光が熱を帯びているせいか、部屋の中は普段よりずっと温かい。疲れていたのであっというまにうとうとし始めた。

 淡い光が狭い部屋の中を少しずつ浸食していく。目を閉じた意識の外で、自分もやんわりと包まれていく。

 気がつけば翠が、翼の隙間から美しい緑色の瞳でじっとこちらを見つめていた。達也は目を開けて、その瞳を見つめ返す。夢なのか現実なのか、さっぱりわからないが、翠の瞳はやけに蠱惑的だ。

 不意に翠は翼をはためかせ、ベッドの上で体を起こした。

 むきだしの両腕を頭の上に掲げて、ぐんと伸びをする。そしてこちらを向いて陶然と微笑んだ。

 元気になったのかと言おうとして、声が出ないのに気づいた。体も起こせない。そうか、これは夢でまだ自分は寝ているのだとぼんやり思う。

 ベッドからふわりと下りてきた翠は、寝ている達也の傍に跪いて手を取った。すると達也の体が意志と関係なく起き上がる。翠は嬉しそうな顔で胸に寄りそってきた。だからそのまま―――ぎゅっと抱きしめた。


 早穂は夜更けてから家を抜け出し、吉見達也の部屋に向かった。

 早穂にすれば予定どおりの行動だ。翠の件は最後まで見届けるつもりだった。

 ところがエレベーターを下りて達也の部屋の前に立った途端、異様な胸騒ぎがこみあげてきた。何かが起きている、ただそれだけの曖昧な直感だが、今まで外したことはない。

 どきどきする胸を抑えて、チャイムを鳴らす。

 中に気配はあるのに返事がない。何度も鳴らしてみる。

 ゆっくりとドアが開いた。達也が顔を覗かせる。

「ああ‥。君か。」

 それ以上何かを言わせる間を与えずに、早穂は部屋の中へすべりこんだ。そしてドアをきっちり閉める。

「もう寝てたの? ごめんなさい。翠さんはどう?」

 達也はベッドを指さした。

 翠は翼に包まれて寝ている。体の光は目と同じ緑色になっていた。まるで巨大な繭のようだ。

 それ以上何も言わずに、達也は早穂に背を向け、床に転がった毛布のほうへ歩いていく。そしてしっかりとくるまった。よほど眠いらしい。すぐ寝入ってしまった。

 昨夜寝ていないからね、と内心の失望を隠して、早穂は持ってきた手作りのお弁当をテーブルに置いた。今朝のおにぎりのお礼のつもりだったのに。

 椅子に腰を下ろし、寝顔を見下ろす。特になんてこともない、普通の男だ。

 今日『懐古堂』で会った瑞穂の片想いの相手は、確かにめちゃくちゃ美形だったし、早穂が交際していた三人も周囲からはわりとイケてると思われていた。比べれば失礼だけれど、男としてのスペックはかなり劣っている。

 でも早穂はなぜか、彼に自分がどう映っているのかが気になる。

 別に恋愛対象としてではない。単に十四才の女の子としてどう評価されているのか、それが知りたい。霊力を持っているのも含めて、ごく普通の彼から見て四宮早穂は小賢しくて嫌な子だろうか。それとも親を失った不幸な子? あるいは健気で賢い可愛い子だろうか? できれば最後がいいけれど、ちょっとそれはないなと苦笑する。

 早穂は自分の素顔を知らない。物心ついた時から四宮三姉妹の三番目だった。四宮の使命を負った四宮の女で、瑞穂でも花穂でもない娘だ。そうあるよう努めてもきた。

 だから早穂にも年齢相応の女の子としての素顔があるかもしれないと、気づかなかったし考えもしなかった。白い羽があるから天使だとすんなり信じてしまうような、純な大人がほんとうにいるとは思わなかったように。

 ベッドの上の翠を見やる。

 彼女は天使ではない。物の怪だ。たぶん白い鳥の化生(けしよう)だろう。

 だけど早穂は、達也にとっては天使なのだと素直に信じられる。また翠にも天使であってほしいと望んでいる。どうせ今夜限りならば、天使を助けたのだと達也には思っていてほしい。なにしろクリスマスシーズンなのだから。

 部屋の中の空気がだんだんと熱くなってきた。どうやら翠のせいらしい。

 不意に達也が身じろいで、ぼんやりと体を起こした。瞳の焦点が合っていない。

「ど‥どうしたの?」

 声をかけたらぼうっと振り向いた。何か言おうと口を開いて、すぐに閉じた。目眩がしたように頭を抱えて、うっと呻く。

 早穂の胸には、先ほどドアの前で感じた胸騒ぎがよみがえってきた。

 いきなりベッドの上で光が瞬いた。翼が大きくはためいて、翠が起き上がる。いや翠の体は寝たままなのに、早穂の目には翠の分身がベッドを下りて両手を達也に伸ばすのが見える。官能的な白い手が、頭を抱えている達也をふわりと包みこんで胸に抱きしめた。そして顔を上げさせ、貪るような口づけをする。緑の瞳が妖艶に光る。

 早穂は痺れたように動けなかった。声も出てこなかった。

 しまった、この部屋は結界だ。悪意がないから気づかなかった。早穂の霊力はちゃんと警告を出していたのに。

 力ずくで突破すればこの建物に少なからず被害が出る。翠はもちろん、一般人の達也も無事ではすまない。

 だがこのままでは達也は精気を吸われてしまう。翠はそんなに強い物の怪ではないから、徐々にではあるだろうがやがては死に至るはずだ。前に本で読んだことがある。化生の者と恋仲になって、やがて死んでしまったお侍の話。

 ―――ん? 恋‥?

 もう一度抱き合っている二人を冷静に観察してみた。瑞穂じゃあるまいし、キスシーンくらいで動揺する早穂ではない。

 翠のほうはうっとりと蕩けるような目をして、まさしく熱愛中みたいだった。しかし達也はぼうっとして、自分が何をしているかわかっていないようだ。それに翠のキスは情熱的すぎて、人が物の怪に喰われている最中にしか見えない。

 四宮の掟を踏まえれば―――翠を滅するしかない。達也はまさしく危険な状況にある。

 けれど昨夜見た翠はひどく弱っていたのだ。結界を築くほどの妖力はなかった。ならばこの状況は達也の協力があったとしか思えない。つまり二人は一日で恋に落ちた可能性が高いわけだ。もしも早穂が無理に翠を滅したら、きっと達也に恨まれる。

 明日の朝まで不本意だが様子を見よう、と早穂は決めた。

 もしも急激に精気を吸われる状況になったならともかく、明日の朝には四宮茉莉花が来てくれる。彼女の鈴ならばこの結界を解除できるだろうし、翠をどうするか早穂よりも的確な判断ができるだろう。最悪でも恨まれるのは茉莉花で、早穂じゃない。

 ただでさえ父の件でマイナスがついている早穂なのに、誑かされているとはいえ恋人を滅したりしたら―――きっと絶対許してくれない。

 早穂は椅子に座って目を閉じて、コートを頭から被った。


 朝日とともに翠の妖力は弱まり、部屋を包んだ結界が解かれた。

 翠は再び眠り続けている。いやそもそも翠の本体は翼におおわれた繭のような形で、ベッドからまったく動いていないのだ。

 心もち窶れた顔の達也は朝日とともに起き出し、早穂を見つけてびっくりした声を上げた。

「いつのまに来たの‥? 戸締まりはしたはずなのに。」

「失礼ね。吉見さんが開けてくれたんじゃないの。寝ぼけてたみたいだけど。」

「ぼくが‥? 全然記憶にない。」

 そうでしょうよ、と言いかけてやめた。驚かすのは茉莉花が来てからでいい。むしろ知らないなら知らないほうがいいかもしれない。

「茉莉花さんがここへ来るのよね。あたしが留守番してあげるから、吉見さんは会社へ行けば? そんなに何日も休めないでしょう?」

 できれば達也のいないところで翠を隔離したい早穂はそう勧めてみた。

「そうだな‥。頼んでもいい?」

 昨日より気弱な声で彼は言った。目の下に隈がくっきり浮かんでいる。

「うん。もちろん。役に立ちたいんだって言ったでしょ、任せて。」

 そして昨夜持ってきた手作りのお弁当を広げ、お茶を温める。バスルームから出てきた彼はネクタイを締めながら、すごいね、と笑顔を向けた。

「美味しい?」

「うん。美味しい。ぼくにも十六になる妹がいるけど、何にも作れないよ。早穂さんは偉いな。」

 素直に褒められて、何だか胸の奥からじわっと嬉しくなった。

 家族は両親と妹で、三年前に祖父母のいる秋田へ引っ越したそうだった。

「じゃ、三年前から一人暮らしなのね。ご家族とは会わないの? 寂しくない?」

「正月以外はね。もう慣れたよ。」

 達也は早穂にスペアキーを渡し、後で送るよう言い残して出勤していった。

 精気を吸われたのだから体はだるくてたまらないだろうに、真面目だなあとつくづく感心する。それから掌の中のスペアキーを見て、ほくそえんだ。

 茉莉花が来たのはまもなくのことだった。

 早穂の話を聞いて、ベッドの上の発光している羽毛の塊を見て、彼女は首をかしげた。

「‥‥吉見さんには、少なくともはっきりした記憶はなさそうなんですね?」

 早穂はうなずく。茉莉花は微かに眉をしかめた。

「翠さんは‥昨日よりも活性化している、と?」

「ええ。一昨日の晩は消えちゃいそうに弱ってましたから。まるで違います。」

 わかりました、と茉莉花は鈴を取りだした。

 低い微かな音から始まって、三つの和音が次々に波紋を広げていく。やがて部屋全体にゆき渡ると、茉莉花は高らかな音を鳴らした。一気に妖気が消滅して空気が軽くなった。

 翠はゆっくりと目を開けて、早穂を見た。それから茉莉花を見て、小首をかしげる。

「吉見さんは‥?」

「鳥島さんに頼まれてあなたを迎えに来ました。『懐古堂』と申します。‥妹さんを探しているそうですね。」

「あ‥はい。(こう)というのです。わたしは‥何だか体の具合がおかしくて‥。」

 立とうとして翠はくらりとよろめいた。早穂は慌てて支える。翠は穏やかな微笑を浮かべて、ありがとう、と早穂に言った。

「‥‥下に車が待っています。行きましょう。」

「あの‥。吉見さんにお礼を‥。」

「‥伝えておきましょう。」

 茉莉花は静かな微笑を浮かべた。


 早穂はもちろん『懐古堂』までついていったのだが、翠の様子は昨夜とは別人だった。

 最初の印象のままに慎ましくて控えめで、達也を誘惑していた記憶などまったくないらしい。恩人である以上の好意は見え隠れしないでもないけれど、ごく淡い感じだ。

「あの‥。あたしの話、疑っていますか?」

 『懐古堂』に着いてから、早穂は茉莉花にこっそり訊ねた。

 茉莉花はいいえ、と即答した。

「部屋に残っていた妖力は‥濃厚なものでしたから。今の翠さんから感じる気配とは毛色が違いますね。たぶん彼女の体調と関係があるのでしょう。」

「いったい‥彼女は何なんですか? 吉見さんは天使だって言うけど‥。クリスマスが近いからって天使はないでしょ?」

 茉莉花は苦笑気味に微笑んだ。

「天使はわたしもまだ見たことがありません。翠さんは恐らく‥鷺娘だと思うのですが。」

「鷺娘‥か。聞いたことないなあ‥。」

「都会には普通あまりいませんから‥。川べりならまだしも、都心のビル街にいるなんて。コロニーが水害で壊滅した他にも、何か理由があるのかもしれません。」

「コロニー‥?」

「鷺娘は一族で固まって暮らすのだと聞いています。コロニーというのはその共同体のことですけど‥。二人でもコロニーを形成できるのかしら?」

 早穂は何となく現在の本家の状態と似ている気がした。

 近年、分家の女性にも能力者は減っている。しかも白鬼の事件後に本家に残されたのは、誰一人成年に達していない三姉妹だけだった。手っ取り早く一族を増やすためにと、家令の磯貝始め親族の大人たちは、まだ十七の瑞穂に縁談を迫る始末だ。

 早穂はつい、茉莉花に姉たちには言えない愚痴をこぼした。自分たちは本家のための駒じゃない、と。

 茉莉花は静かな顔で、微笑んだ。

「早穂さんがそう思うなら‥。本家の在りかたが変わっていくのでしょう。あなたがたと本家との縁、それからお互いを結ぶ縁はとても強く見えます。まるで五百年の結界が滅ぶのを予見していたかのように、この時代にあなたがた三人が存在しているのは、四宮本家自身が変わることを望んでいるのかもしれないとわたしは思います。」

「それは‥わたしたちは運命を選べるということ? 霊力に流されて生きるわけではなくて、自分の希望で生き方が選べるって思っていいの?」

「霊力は自分のものですから‥。結局は自分の選択なのです。選択の瞬間にどちらを向いているかどうかで、心の在るべき場所が変わるのではありませんか?」

 早穂が不可解、という表情を浮かべたのだろう、茉莉花はたとえば、と続けた。

「吉見さんが翠さんを連れて逃げていた現場に早穂さんが居合わせて助けた。この事実の中で、早穂さんの霊力は居合わせるところまでは作用したのかもしれません。でもその流れが今こうして『懐古堂』でわたしと話をしているところまで繋がったのは、あなたが吉見さんを助ける選択をしたからでしょう?」

「‥‥」

「自分の気持ちの在りようと霊力の在りようを重ね合わせることができれば、物事は在るべき場所に落ち着くのだと祖父はわたしに教えました。なかなか難しくて、まだ全然できていないですけどね。」

 そこへ翠がまた眠り始めたと、黒達磨が知らせに来た。

 茉莉花は立ち上がった。早穂もついていく。

 翠は翼で全身を包みこんで、緑色の繭みたいに光って眠っている。

「まずいですね‥。また強い妖気を発してる。鈴で祓ったのは一時凌ぎにしかならなかったみたいです。」

「でもここにいれば、吉見さんの精気を吸い取ることはできないでしょう?」

「‥‥正直、わかりません。わたしはこれから鷺娘の文献を蔵で探してみますね。」

「あの‥! わたしも手伝っちゃだめですか?」

 茉莉花は冴えた瞳でじっと早穂を見た。

「仕方ないですね。あなたはもうこの件にしっかり入りこんでしまっていますから‥。ほんとは鳥島さんみたいに、学校へ行けと言うべきなのでしょうけど。」

「今日は二十二日で、どうせ終業式だけだから‥。姉にメールして通知表を受け取っておいてもらいます。ありがとう。」

 早穂はにっこり笑った。


 鷺娘に関する情報はほとんど見つからなかった。昔から田園地方の水辺でコロニーを形成していたらしく、東京近辺での記録はごく少ない。しかも多くが純白の美貌に関する記述ばかりで、飛び立つさまが特に美しいとあるだけだ。

 午後三時半をまわって茉莉花は溜息をつき、手にしていた文書類を片づけ始めた。

「まもなく日が暮れてしまうわね。吉見さんは‥無事かしら?」

 携帯を出して鳥島にメールを入れている。様子を確認してもらうためらしい。

 窓の外はいつのまにか西日が落ちて、暮れなずんでいる。冬の落日はほんとうに早い。四時を過ぎればもう夕闇にとっぷり包まれてしまうだろう。

 ひょい、と縞猫が弐ノ蔵の入口に顔を出した。

「嬢さま。夜鴉の若さまが用事だって。日暮れと同時に来るってさ。」

「そう‥。ちょうどよかった、若さまならきっと鷺娘のことを知っているわ。どんな依頼かわからないけど、情報を対価として貰えるかも。」

 茉莉花は眉根を寄せたまま、つぶやいた。

 早穂はちょっとどきどきした。

 若さまの話は瑞穂から聞いた。もちろん花穂よりはちゃんと重大な取り決めの内容を理解したつもりだが、若さまが超ビジュアル系イケメンだってこともしっかり聞いてある。生で見られると思ったら、わくわくした。

 すると一緒に文書を探していた堂上玲が、腰を上げた。

「若さまが来るなら、出かけてくる。まだ間に合うかな‥?」

 茉莉花は周辺の気配を探って、大丈夫、と返事した。

「‥どうかしたんですか?」

「若さまは人間の男が嫌いでね。特に俺が気にくわないらしい。今度会ったら名前を名のらせるって言ってたから、名のらないですむように逃げ回ってるんだよ。」

 玲はコートを手にしてさっさと店を出ていった。

「月夜見の神さまがバックについてるのに、それでもいろいろたいへんなのねえ‥。」

 早穂が溜息をつくと、茉莉花は珍しくはっきりと微笑んだ。


 夜よりも濃い暗闇というものが存在するなんて、早穂は今の今まで知らなかった。

 十月にここで手打ち式をした瑞穂と付き添いの磯貝から夜鴉の闇について聞いてはいたけれど、これほど圧倒的だとは思わなかった。茉莉花の背中に隠れて座っているだけで、じんじん膝が震えてくる。

 思えば四宮を夜鴉一族が取り囲んだ時、外に出されて正解だった。中にいたところで、腰がぬけて立てなかっただろう。しかもこれに鬼人が二人加わって戦闘モードだなんて。茉莉花と咲乃はよく平気だったなとつくづく感心する。

 茉莉花は今も平然と、蝋燭一本で闇を区切り、境界を保っている。

 濃紅色の振袖を身につけ、黒地の金襴緞子の帯に金の鈴をはさみこんで静かにすわっているさまは、人とは思えない凄艶な美しさだ。

 若頭領は惚れ惚れとした様子で茉莉花を上から下まで眺め、流麗な微笑を浮かべた。

「新しい衣装か‥気に入らねえなァ? あの男の気配が残る衣装を着て、いっそう綺麗になってるってのが面白くない。‥そんなもん、俺だっていくらでも誂えてやるがね、どうだい、まだ俺の嫁になる気にはならないかえ?」

 そう言って茉莉花にぐっと顔を寄せる。

 茉莉花は微動だにせず、静かに答えた。

「‥ご用件をお伺いいたしましょう。」

 つれないねえ、と若頭領は苦笑し、姿勢を正して座り直した。

「ま。用があって来たのは確かだ。大したもんじゃないがね。‥一昨日の晩、物の怪狩りの連中に狩られてる鷺娘を保護した。まだやっと乳離れしたような雛で、はぐれた姉さんを探しているそうだ。探してやっちゃくれねェかい?」

「‥鷺娘ですか。」

 なんと翠の妹だ。好都合だが、茉莉花はおくびにも出さない。

「都会じゃ見かけない種族だが‥。水害で一族が離散しちまったそうだ。年端もいかない姉妹だけでうろついているうちに迷いこんで来たらしいよ。」

 若頭領はふっ、と微笑した。

「たまたま俺が直々に拾ったもんでね。これも何かの縁だ、連れ合いを見つけて巣をかけられるようになるまで後見してやろうかと。‥だがね、俺んとこは知ってのとおり気の荒い連中ばかりで、若い娘を置いておく場所はねェのさ。できりゃ、あんたんとこで預かってほしい。どうだえ?」

「‥筋が違います。狭間の場所であっても、ここは人間の領域。お姉さんを探す間はともかく、それ以上は置いてはおけません。柳楼にご相談くださいまし。‥‥ところでその鷺娘さんはどこに?」

 若さまはふん、と苦笑いを浮かべて、ぱちんと指を鳴らした。闇の中から純白の翼がすうっと現れ、隣に畏まっている。どうやら初めから臨席していたものらしい。

 人間で言えば年齢は十四、五才といったくらいか。ちょうど早穂と同年代だ。

 翠とよく似た可愛らしい容貌だが瞳が違っていた。こちらは緑色ではなく、真っ黒だ。

(こう)と申します。」

 はにかんだ顔で答え、隣の若さまへ信頼と憧憬のまなざしを向けた。

 茉莉花は微かにうなずいて、紅へ視線をめぐらせた。ちょっとだけためらってから、若頭領へ冷徹な眼を向ける。

「実はちょうど今朝ほど、妹を探しているという鷺娘さんをこちらでも保護したところです。‥翠さんという、緑色の瞳をした美しい方ですが。」

 ほう、と若頭領は既に感知していたらしく冷めた声で答えたが、紅は驚いて茉莉花を見つめた。

「緑色‥。瞳が緑色だと仰いましたか?」

「はい。何か‥?」

「姉は‥では、婚姻期に入ってしまったんでしょうか?」

「‥‥婚姻期? それは何ですか?」

 紅はうろたえた表情で、首を振った。

「わかりません。その時期になると一族の大人がちゃんと教えてくれるはずなのですが‥。わたしたちは大人になる前に一族とはぐれてしまったので‥。」

 茉莉花は若頭領を見やった。

「ご存じではありませんか? 実際に翠さんは昨日から起き上がれずに、緑色の光を全身から発して眠り続けているのです。」

「俺に訊くのかえ‥? それこそ筋が違やしねェかい。」

 冷ややかな視線が茉莉花を射すくめた。

「申しわけありません。ですが‥紅さんの後見をなさるおつもりと伺いました。紅さんのためにも、翠さんの現在の状態についてご存じのことをお教えいただけませんか。」

「若さま‥。後生でございます。婚姻期は無事に通過できねば、命の危険もあると聞いたことがあります。どうか‥。」

 ははっ、と破顔して、若頭領は紅の髪を撫でた。

「まずは確かめるのが先だろうよ、紅? 『懐古堂』が保護しているのが確かにおまえの姉さんで、間違いなく婚姻期に入っているのかどうか。どうだえ、『懐古堂』?」

 茉莉花に選択の余地はなさそうだった。どうぞ、と襖を開ける。

 暗闇の中で緑色の発光体はまますます繭のようだ。ほとんど顔も見えないほど羽毛でおおわれている。

 走り寄ろうとした紅を引き止めて、若頭領は軽く眉をひそめた。

「紅。間違いなく、姉さんかい?」

「はい‥。ですがどうしてしまったのでしょう? 気配がまるで‥女郎蜘蛛のような‥。」

 紅の頬を涙がつたった。

「なに、発情期に入っただけだ。三、四日で目が覚めるだろうが、その間は捕まえた雄のことしか考えられねェのさ。自我はあってないようなもんだ。目が覚めりゃあ、元の姉さんに戻るから心配ない。」

 捕まえた雄? 早穂はぎくりとした。それはまさか―――?

「‥雄を捕まえたからこのような状態になるのですか?」

 茉莉花の声が遠く響く。

「そうだ。鷺娘は繁殖期に入ると目の色が変わり、銀白の光を体から撒き散らして(おとこ)を誘う。これという雄と合意したら発情期、紅の言う婚姻期ってヤツに移行して、三日かそこら半覚醒状態でひたすら情を交わすのさ。生理的本能だから惚れたはれたの意識はねェよ。だがここいらじゃ、同種の雄は見つからないだろうに‥。この翼の中にかいこまれてるのは何だえ? まさか俺の部下じゃあねェだろうな。」

「翼の下には誰もいません。翠さんは一人です。」

「そんなわけないだろう。こんなに発情してるじゃないか?」

 若頭領は訝しげに茉莉花を見返して、それから不意にほくそえんだ。

「‥‥人間かい? 夢づたいで交合してるわけだ。もしかして‥あの男か?」

「若頭領のご存じない人です。」

「ちっ。そんな運のいい話はねェってかい。残念だな。」

 茉莉花は唇を噛んだ。

「残念とは‥。相手の人間は危険な状況だという意味でしょうか?」

「そりゃあそうだろうが。聞くまでもない。三日四日も精気を捧げ続けるんだぜ? 待ってるのは確実に死だ。まあ、鷺娘の美貌に血迷ったのが運の尽き、自業自得だな。」

 若頭領は茉莉花に冷たい眼を向ける。

「‥‥人間を助けたいかい? だがね、この状態で雄を剥がされたら、鷺娘は淡雪になって消えちまうだろうぜ。」

 紅は涙をぽろぽろこぼし、袂を振りしぼりながら若さまに縋った。

「そんな‥。姉さまが淡雪になってしまうなんて‥。あんまりです。人間なんか、死んでしまったって構わないじゃありませんか?」

 宥めるように紅を抱きかかえて、おいおい、と若さまは苦笑した。

「人間の目の前だぜ? 滅多な口を利くんじゃねえよ。」

「だって‥。何もしていないのに傷つけられて、散々追いかけ回されて‥。あげくがこんな‥。ひどいです、あんまりです。」

 早穂はムカッときた。

 ひどいのはどっちだ? 体を張って助けて、寝ずに看病までした恩人を取り殺すほうがよほどひどいだろうに。だが翠のせいではない。早穂も頭では理解しているし、翠だって正気ならば達也に迷惑をかけようなどと決して思うはずがないのだ。

 紅は若頭領の腕にべったり寄りそいながら、茉莉花と早穂を睨んだ。

 早穂は黙って冷笑を返した。翠はともかく―――あの妹は嫌いだ。

 若さまは茉莉花に気があるみたいなのに、あんなふうに抱きついて甘えたりして。子ども扱いを利用しているけれど、気持ちは十分女じゃないかと思う。

 卑怯で小狡い手口、と心中で罵ってから、自分も昨日同じ手を達也に使ったことを思い出す。おかげでもっと腹立たしくなった。

 茉莉花は顎に指を当ててじっと考えこんでいた。

 若さまは腕に紅をぶら下げたまま、茉莉花の顔を覗きこんで愛おしげに頬笑んだ。

「さて‥。どうする気だい?」

「‥二人とも、何とか助ける方法を探します。」

「ふふん‥。それでこそ俺の惚れた女だ。ま‥お手並み拝見、といこうかね。」

 若頭領は翼をゆらりと動かして、立ち上がった。

「‥俺の助力が欲しけりゃ、いつでも言ってきなよ。この程度なら‥対価はまあ、接吻一つで手を打つぜ?」

 茉莉花の全身から金色の炎のようなものが沸きたって、一瞬きらめいた。

「‥冗談として聞き流しましょう。夜鴉一族の若頭領ともあろうお方が、人の領分で軽々しく取引を口にするはずはございませんから。」

「俺ァ本気だよ。惚れた弱味で、筋違いにも出張る覚悟があるって言ってンのさ。接吻くらい、安いもんだろう。」

「‥‥安いとは思いません。命をかける覚悟でなければありえません。」

 茉莉花の声は凍りつきそうなほど冷たい。

「そうかえ‥。じゃ、いずれ命をかけてもらおうか。」

 くく、と含み笑いを残して、暗闇はかき消えた。同時に翠も消えた。


 二十三日は朝から曇っていた。灰色の厚い雲が空をおおっている。

 吉見達也は疲れた体で起き出し、のろのろと顔を洗った。昨日は何度も立ち眩みがしたので、早く寝たはずだ。なのに疲れが取れない。

 二晩続けて見た妙に生々しい夢のせいだろうか。

 星もない闇夜に、純白の天使が翼を広げて降りてくる。そして微笑みながらすうっと近づいてきて、立ち竦んでいる達也を抱擁するのだ。

 天使は翠の顔をしていた。美しくて慈愛に満ちた緑色の瞳。

 抱擁はだんだんと妖艶で官能的になり、情熱的な口づけから激しい愛撫へ変わっていく。天使は天使のままなのに、経験したことがないほど淫らで蠱惑的。

 思い出しただけで背中がぞくぞくする。

 だがその感覚は官能的というより、恐怖に近かった。

 快感に酔いしれれば酔いしれるほど、死が近づくのを意識してしまう。それでも天使の抱擁から抜け出せない。抜け出す気力が湧いてこない。

 夢の中の達也は恐怖におののきながら、夢から覚めるのを待っている。

 今日はちょうど祝日で、会社は休みだ。

 しかし気怠さは増すばかりで、時折うとうとしてはそのまま夢に引きずられそうになる。この体の感覚はちょうど、幻覚剤を飲まされて地下牢に閉じこめられていた時に似ていた。薬は体から完全に抜けたはずなのに。

 達也は必死でこらえた。

 さすがにここまで来るとただの夢ではない、と感じ始めている。

 鳥島か茉莉花に連絡して相談しようと頭の隅で思うのだが、体が言うことを聞かない。

 日が暮れるのと同時に、体全体が痺れたようになって動けなくなった。ベッドに倒れこむのが精一杯だ。意識は急速に闇に沈み始める。

 達也は再び恐怖の夢に引きずりこまれていった。

 天使は翼を羽ばたかせ、無邪気に扇情的に微笑んでいる。緑色の瞳で見つめられると、切なくてたまらなくなる。

 不意に微かな鈴の音が耳の奥で響いた。茉莉花の鈴の音に違いない。

 助かった。吉見達也はほっとして全身の力を抜いた。


 早穂は塾の冬期講習に出席していた。

 これ以上手伝えることはないと判断したからである。

 茉莉花は達也の身代わりに木偶(でく)人形を使うことを検討していた。夢の中でうまく身代わりとすり替えられれば、達也も助かるし翠も消えずにすむだろう。だがそのシナリオの中で早穂はキャストに入っていない。

 とりあえず夜鴉の若頭領を生で見たし、翠が天使じゃなくて鷺娘で、不都合なタイミングで婚姻期に入ってしまったのだという現在状況が解明されたので、好奇心は十分充たされた。日常生活に戻る頃合いだ。

 外気は午後になってますます冷えこんできた。雪でも降りそうな、重苦しい曇天だ。

 塾内は祝日なのに熱気がすごい。受験生のクラスでは殺気立っている生徒も多いようだ。窓側に席を取って、休んだ二日分のテキストのチェックをする。何の問題もなかった。

 塾を出る頃になって、ちらちらと雪が舞い始めた。あたりはすっかり夜だ。

 明日はホワイトクリスマスになるかな、と誰かが期待をこめて喋っている。

 クリスマスで揉めたのも何だかひどく遠い話だ。あれからメールは来ないし、早穂も彼らのことはすっかり忘れていた。

 コートを着ようと手に取って、ポケットに入ったままになっていたスペアキーがちゃりん、と音を立てて床に落ちた。

 返さなければとぼんやり思った。

 達也の部屋はすぐ近くだ。寄り道しても大して時間が取られるわけではない。だが。

 散々迷ったあげく、早穂は塾を出て達也の部屋の方角へ歩き出した。

 鍵を返すというちゃんとした理由があるのだから迷う必要はないのに、足がなぜか重い。これは何だろう―――警告か?

 警告だとしたらどういう意味なのか。早穂が今夜達也を訪ねるのは、誰にとって不都合なのだろう? 茉莉花か達也か、それとも早穂自身か。あるいは翠だろうか。

 考えている間に部屋の前についた。

 チャイムを鳴らす前に一応、いるかどうか気配を探ってみる。そして愕然とした。

 返すはずのスペアキーでドアを開け、中に飛びこんだ。

 狭い部屋の中は濃厚な妖気が立ちこめて、息苦しいほどだ。達也はセーターとジーンズの格好でベッドの上に倒れていた。

「吉見さん‥。吉見さんてば‥!」

 目蓋がうっすらと開いた。口もとに微かな笑みを浮かべたかと思うと、再び眠りこんでしまう。

 あたりを見回したけれど、一昨日みたいに翠の幻影は見えなかった。

 早穂は目を閉じて達也の気配に意識を集中する。

 夜の深い闇にひときわ輝く純白の翼が見えた。天使さながらの慈愛に満ちた姿で、翠は羽毛の中に観音像を抱えこんでいる。緑色の瞳を妖艶に揺らめかせ、観音像に口づけを繰り返し、翼をくねらせて像の体躯に絡みつかせる。

 身代わりの術は一応成功しているようだ。ではどうして、達也の気配はこんなに弱々しいのだろう?

 自分の未熟さに腹を立てつつ、早穂は必死になって途切れそうな意識を集中させた。

 どうやら翠の妖力が格段に上がったようだ。観音像に茉莉花がこめたらしい霊力を喰らいつくし、妖気を逆流させて達也の精気を吸い取っている。

 どこかで微かに茉莉花の鈴の音が聞こえた。流れを止めようとしているらしいが、多少緩和されている程度で単なる時間稼ぎにしか思えない。

 ―――ん? そうか、時間稼ぎ‥!

 婚姻期は三日か四日程度で終了すると若頭領は言っていた。今日はもう三日目だ。あと数時間、最大で一日。凌ぎきればいいのだ。

 目を開けて、生気のない達也の顔をまじまじと見つめる。

 祖母が生きているうちにもう少し真剣に修業しておけば、と深く後悔した。今の早穂には茉莉花の真似はまったくできない。

 涙がこみあげてくるのをぐっと抑え、再び気持ちを集中させた。吸い取られるのを止める力はない。だが失われゆく精気を補うことはできる。

 早穂は達也の冷たい手を両手で包みこむと、掌から霊力を注いだ。


 雪はひと晩中降り続いた。

 達也の夢の中にも、雪ははらはらと舞い続けていた。

 夜の闇と白い雪のモノクロな世界で、翠の瞳だけが緑色に妖しくきらめく。純白の翼がゆったりと羽ばたいている。

 微かな鈴の音に加えて、遠くから闇を切り裂いて糸のような光が流れこんできた。一条の光はやがて少しずつ膨らんで、夜明けの曙光へと変わっていく。

 気力を失って朦朧とした頭で、夜が明ける、と思った。

 天使は光を避けてどこかへ彼を連れていこうとするように、羽を大きくふくらませた。

 すると突然、まぶしいほどの光が弾けて、翠の顔をした天使よりひと回り大きな翼がばさばさっとはためいた。

 上空の光の中心からもう一人の天使が優雅に降りたち、緑色の瞳でにっこりと微笑んだ。そしてこちらへ両手をさしのべる。

 達也を捕まえていた腕からすうっと力が抜けた。

 天使は翼を力強く翻して、さしのべられた手へ向かって身をはばたかせた。蕩けるような微笑をたたえ、新しい天使の広い胸にまっすぐ飛びこんでいく。

 放りだされて、闇の底へと緩やかに落ちこんでいきながら、達也は二体の天使が抱き合って光のほうへと向かって遠ざかるのを見ていた。

 天界から迎えがきたのか、とぼんやりした意識のうちで、思うともなく思う。

 ―――よかった。

 達也は無意識に微笑を浮かべ、テレビを消すように意識を閉じる。

 真っ暗になる前の一瞬に、ちらりと早穂の顔が見えたような気がした。


 夜明けの光とともに達也の部屋からすうっと妖気が消えた。

 体力温存のために半分だけ眠りに入っていた早穂は、目を覚まし、周囲を見渡す。翠の妖力の気配は完全に消えている。どうやら婚姻期は終わったらしいと安堵した。

 達也の気配は弱ってはいるけれど、ちゃんと体に残っている。

 早穂は立ち上がろうとして、握っていた手が握り返されて、しかも指を固く組んでいることに気づいた。

 自分が無意識に絡めたのだろうか。結構必死だったから、そうなのかもしれない。

 部屋はいつのまにか底冷えがしている。重なる掌は温かかった。

 早穂はちょっぴり名残惜しげに絡まった指を外すと、達也の体を掛け布団にしっかりくるんだ。規則正しい寝息が静かな朝にひそやかに響く。

 疲労困憊した体をひきずって部屋を出ると、外は一面の銀世界だった。

 ホワイトクリスマスになったんだ、と思わず笑みがこぼれた。たかだか雪が積もったくらいで、なぜこんなに胸がわくわくするのだろう? でも何だかたまらなく嬉しい。

 早穂は一歩一歩雪を踏みしめて、ゆっくりと歩いた。


 茉莉花は『懐古堂』の参ノ蔵の床にぺたんとすわりこんだ。腰が抜けたみたいに重たくて、なかなか立てそうにもない。

 夜鴉の闇で増幅された翠の妖力を抑えるのはたいへんだった。

 直接翠の傍らにいられればまだよかったのだが、参ノ蔵から道を開いて霊力を送りこまねばならなかったから余計だ。早穂が達也の側から支えてくれなれば、達也も茉莉花も持ちこたえられなかったかもしれない。

 それにしても少し前に横をすり抜けていった大きな翼の鳥は何だったのだろう?

 翠の妖力に触れた途端に大人の男の白鷺に化生して、翠を連れていってくれたようだ。瞳が緑色だったところを見ると、彼も婚姻期だったらしい。

 何にしても助かった。翠も同種の雄が見つかったからには、婚姻期をまっとうできるだろう。淡雪になって消える心配はなくなったのだ。

「ご苦労さま。」

 背後から玲の声がした。

 茉莉花は立ちあがろうとしてよろめき、さしだされた腕につかまって何とか体を支える。

 ありがとう、と言いかけて、彼がコートを着たままなのに気づいた。

「‥‥もしかして。さっきの雄の白鷺は堂上さんが‥?」

「荒川の上流から連れてきた。彼はちょうど花嫁募集中だったんだ。ラッキーだよね。」

 にやっと微笑して、軽い調子で言う。

「桜とノワールが君のために一生懸命探したんだよ。褒めてやってくれないかな。」

 なぜそういう方法を思いつかなかったのだろう。茉莉花は唇を噛んだ。

 何度反省しても、すぐに力で解決しようとしてしまうのは茉莉花の悪い癖だ。なまじ強い霊力を持っているせいだろうか。

 素直に支えてもらったまま、参ノ蔵を出て扉をきっちり締めた。それからちょっとうつむきがちに、玲に礼を言う。

「ありがとう‥。また借りができちゃった。わたしはどうも視野が狭いみたい。」

「うまくいくかどうかはわからなかったし、ま、結果的に良しってことでいいじゃん?」

 玲はこともなげに答え、それよりさ、と茉莉花の顔を覗きこんだ。

「今夜クリスマスディナーショーに行く約束、覚えてる?」

「あ‥。今日だったかしら?」

 彼は苦笑いを浮かべた。

「忘れてると思った。今日は二十四日、イブなんだよ? 君がクラシックならいいって言ったから、チケットもドレスも用意したのに‥。ぎりぎりで六時に出れば間に合うから、今からすぐ寝て。わかった?」

 二日もろくに寝ていなかったせいか、そう言われると急に眠気が襲ってきた。うなずくのもやっとで、意識を失いそうになる。

 達也の様子を見てくれるよう鳥島に連絡してほしい、と何とか言葉にすると、茉莉花は玲の腕の中でことんと寝入ってしまった。

 お休み、と微かに声が聞こえたような気がした。


 夕方になって早穂は吉見達也のお見舞いに行くべく、家を出た。

 すると彼氏の一人から電話がかかってきた。

 歩きながら出ると、あれから何度電話しても出ないから心配したと彼は言う。どうやら早穂は無自覚的に霊力でバリアを張っていたようだ。

 それでクリスマスはどうする、と彼は早穂に訊ねた。

「ごめんなさい。どうぞあたしに構わずに別の人と過ごして。あなたたちが怒るのももっともだと思うから‥。これからは今までみたいにはつき合えないと思う。」

「それって‥どういう意味?」

「さようならって意味。一緒にいて楽しかったけど、それ以上にはなれないと気づいたから。今までどうもありがとう。」

 彼は腹を立てたらしく、黙ったまま通話を切った。

 早穂はすぐに携帯をしまって歩き続けた。

 感慨は驚くほどない。少しは恥じ入るべきだろうが、そんな気持ちさえ湧いてこない。若気の至りだ、と心の中で切り捨てた。

 昨夜の雪はあらかた融けていたけれど、天気予報では今夜も雪だ。現に日が落ちてから急速に空気は冷えこんでいる。

 達也の部屋は今朝出てきたままだった。

 ちょうど目覚めたばかりらしい達也は、早穂の顔を見てちぐはぐな表情を浮かべた。

「なあに変な顔してるの? 生きているかどうか確かめに来てあげたのに。‥ほんとはスペアキー返しそこねてたから渡しにきたんだけど。」

 早穂は年長者向けの、善良な中学生っぽい笑みを浮かべて、スペアキーを手渡した。

「それと、四宮早穂特製の厄除けのお守り。吉見さんてどうも、運が悪そうだから‥。これさえ持っていれば絶対大丈夫、幽霊にも物の怪にも取り憑かれることは二度とないわ。あたしが保証してあげる。」

 達也はさすがに苦笑したが、要らないとは言わなかった。わりと神妙な顔でお守り袋を受け取って、じっと見つめている。

 早穂は午後いっぱいかかって作ったクリスマス用の豪華なお弁当を広げた。

「美味しそうでしょ? あたし、ちょっとコンビニで飲み物とケーキ買ってくるね。」

「ああ‥ええと‥。これは‥ぼくに?」

「うん。今日はクリスマスイブだから。天使からの差しいれよ。」

 いたずらっぽくすまして言うと、彼は予想どおり天使という言葉に反応して身震いした。恐らく天使は当分こりごりだと感じているに違いない。

 笑いたいのをこらえて、早穂は外へ出る。またも雪がちらつき始めた。

 ポケットには達也の部屋のスペアキーが入ったままだ。

 返したほうはホームセンターで作ってもらった複製で、こっちがオリジナル。だいたい早穂がすんなり返すはずがないと、達也は気づかなければいけないのに。大人のくせに自己防衛がまるきりなってない人だ、とおかしくなる。

 そんな彼だから特製の厄除けお守りを作ってあげた。

 あれはほんとうに強力で、悪いモノは一切寄せつけないはずだが、ついでに早穂が許可しない限り女性も近寄れないようにしてある。人が良すぎてすぐに瞞されるに決まっているからだ。

「あたしってなんて親切。」

 雪の降る中で一人、くすくす笑いが止まらなくなる。

 ご機嫌な気分で歩く早穂はしかし、達也が夢で見た聖夜の天使が最終的に早穂の顔に変貌したという事実をまだ知らなかった。

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