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懐古堂奇譚2  作者: りり
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朽葉色の夢

 黄色く色づいた銀杏の葉陰から、木漏れ日がきらきらと目を射てくる。

 眩しさに眼を細めてあたりを見回せば、たった一人で落ち葉の絨毯の上にすわりこんでいた。ここはいったいどこなのだろう?

 一葉(かずは)は足下の落ち葉を一枚手に取り、ぼんやりと眺めた。

 膝の上にまた一枚、一枚と黄色い銀杏の葉が、ひらひら舞い降りてくる。見上げれば枝の隙間には青い空が覗いていた。

 前方にはまっすぐ、銀杏並木が続いている。

 スローモーションみたいに時折はらり、と葉が落ちてくる以外は、生き物の気配も音もない完全な静寂の世界だ。

 一葉は自分の手を見た。白くて柔らかそうな、しみも皺もない若い手だ。紺色のスカートをはいている。胸元に手をやれば、着ているのはセーラー服。

 かさ、と落ち葉を踏みしめる足音が聞こえた。

 慌てて一葉は銀杏の幹に身を隠す。

 並木の向こうから歩いてきたのは和服に下駄履きの若い男だった。そうだ、あの人を待っていたのだった、と一葉は不意に思い出す。

 あのう、と声をかけると、切れ長の瞳が冷ややかな視線を向ける。背中がぞくぞくっとして、胸が痛くてたまらなくなる。

「あんたは確か‥。うちのと同室の、二葉(ふたば)さんの姉さんだったね?」

「はい。一葉です‥。」

 頬をやや紅潮させて、一葉は思わず溜息をついた。

「見舞いに行くところかい? ‥なら一緒に行こうか。」

 はい、とうなずくのが精一杯で、一葉は黙って隣を歩いた。

 彼の妻と妹の二葉は同じ病だ。どちらも治る見こみはなく、死が目前に迫っていた。

 一葉は知っている。こうして一緒に歩いてから一週間も経たないうちに彼の妻は死んだ。

 幼い息子を傍らにおいて、死に化粧を施していた彼の横顔は静謐で、引きこまれそうなほどの真っ暗な闇をたたえていた。カーテンの陰から覗き見ていた一葉は、震えるほど怖かった反面、無性に惹きつけられたのを覚えている。

 隣を歩いていた男が、唐突に一葉の腕をつかんだ。

 一葉はとても驚く。おぼろげな記憶ではそんな事実はなかった。妄想の中では数え切れないほどの抱擁を受けたのだが、実際には指先さえ触れたことはないのだ。

 彼は一葉の記憶にある冷たいまなざしではなく、別人みたいな艶然とした微笑を向けた。

「どうして驚くんだ? 俺を待っていたんだろう? ‥‥さあおいで。一緒に行こう。」

「‥‥どこへ?」

 震える声で問い返すと、再び彼は頬笑んだ。

「おまえの望んだ場所へ。おまえの体は二葉が引き受けると言っている。心配は要らない、おまえの愛する者たちは二葉が代わりに愛すると言っている。おまえは安心して、俺についてくればいい。ずっと望んでいたのだろう? 離しはしない。‥おいで。」

 切れ長の黒い瞳が紅く扇情的に瞬いて、一葉は目がくらんだ。

 金色の銀杏がざわざわと揺れ動いて、突風に煽られたかのように木の葉を舞いあげる。ぐるぐると落ち葉が一葉と男を取り囲んで、激しく渦を捲き始める。

 強く抱きしめられて、一葉は男の体に取り縋った。

 肩ごしに金色の渦の中心が見える。そこには真っ暗な闇が口を開けて待っていた。


「あの。わたし明日から二日ほど留守にするけれど、いいかしら‥?」

 五日ぶりに夕飯を一緒に食べた時、何の前置きもなく突然茉莉花がそう言った。

 玲は少々面食らって、いいも悪いもないだろうと思ったけれど、とりあえずわかったと答えて儀礼的に微笑んだ。

「あらたまって留守にしていいかと聞かれると、何だか照れるな。夫婦みたい。」

 茉莉花は一瞬わずかに頬を赤らめて、それからムッと怒った顔になる。

 普通の人から見ればほんの微少な表情の変化だが、近頃はすっかり読み取るコツをのみこんだ。むしろからかいがいがあって面白い。

「まもなく誕生日なので父が顔を見せろと言ってきたの。明日は文化の日で家にいるそうだから、ひと晩だけ泊まってくる。」

 家族がいたんだ、と少し意外な気がした。だいたい茉莉花に『懐古堂』以外の家があるなんてどうもぴんとこない。

「お父さんの他の家族は? あんまり話さないよね。」

 そうね、と茉莉花は首をかしげた。

「父と母の他に兄と弟がいるけれど‥。仲が悪いわけではないわね、ごく普通の家庭なんじゃないかしら? ただ『懐古堂』を嗣ぐと決めた時に一応家族とは縁を切ったものだから、あまり口に出さないようにしているの。」

「縁を切るって、なんでまた?」

「影響されてしまうからよ。‥祖母は物の怪絡みで亡くなったの。祖父はとても後悔していたわ。」

 茉莉花は淡々と続けた。

「学校に通っていた時も、わたしにちょっかいを出してきた物の怪の行動に、同級生がまきこまれたりして‥。弟が怪我をしたことも。わたしみたいな体質の人間が近くにいると、何かと危険なのよ。」

 だから他人を遠ざけてきたのかと思えば、心なしか寂しそうに見える。鳥島に告白しないのもそのせいなのか?

「堂上さんは身を以て痛感しているんじゃない? わたしに関わったばかりにこの店に縛られて、夜鴉一族に狙われているし、違う意味で月夜見の神さまにも狙われているわ。桜がついている人でなかったら、とっくに命を落としてる。」

「ちょっと違うな‥。桜がいなかったらじゃなくてさ、桜がいるから俺はここにいるんだろう? 桜が傍にいてくれるのだって、全然覚えてないけど前世で君の霊力にまきこまれる選択をしたからだし。原因と結果が逆。」

 何が可笑しかったのか、茉莉花は珍しくはっきりと微笑んだ。

 お茶をついでくれながら、話を変える。

「‥ところで堂上さんは、誕生日は予定があるの?」

 茉莉花と玲は偶然、同じ十一月十一日が誕生日だった。

 だが茉莉花以外で堂上玲の生年月日を知っているのは、育った施設と各種役所くらいのものだ。他の名前でも誕生日は明かしていないし、施設を出てから誕生祝いみたいなイベントには一切縁がなかった。

「夕方五時まで仕事が入ってる。俺の場合、生年月日って単なる手続き上のもんだし‥。特に感慨はないなあ。」

「手続き上‥?」

「君に言ってなかった? 俺って捨て子だったんだ。拾われた時に生後十日くらいだったから十日遡って生まれた日にした、とかまあ、そんな程度の日付なわけ。」

 まあ、と茉莉花は目を瞠った。

「凄いわね‥。」

「‥何が?」

「いえね。実際に生まれた日が同じだったと言うより、そうやって偶然決まった誕生日が同じだったなんてそのほうが不思議。桜の言う前世の縁て、ほんとうだったのかも。」

 今更何を言っているのだろう、と呆れる。玲の中ではとっくに既成の事実なのに。

 だが茉莉花はなぜか、すごくすっきりした表情を浮かべた。どうやら玲には理解しがたい何かが納得できたらしい。

 やはり彼女は別のものを見ている。そんな気がした。


 翌日の午後。(やしろ)の縁側で日向ぼっこを楽しんでいた縞猫は、境内の落葉を踏む足音に耳を立てた。

「なんだ、あんたか‥。また鬱陶しいヤツ連れてるなァ。」

 やってきたのは鳥島祐一で、後ろに四十代後半くらいの顔色の悪い男を連れている。

「あいにくと嬢さまも旦那も留守だよ。明日の晩までは『懐古堂』は店主不在で休業だ。出直すんだね。」

「困ったな‥。何とか連絡取れないか? 急ぐんだが。」

 縞猫は大きなあくびをして、前足をぐーんと伸ばした。

「言っただろ。『懐古堂』は休業なんだよ。今日と明日はおいらや達磨さんから嬢さまに連絡はできない決まりになってる。直接人間の道具で連絡してみれば?」

「それは‥いいのか?」

「だめなら通じないだけだよ。通じたならいいってこと。」

 そうか、と鳥島は縞猫にうなずいた。そして礼を言って、連れを促し、帰っていった。

 後ろ姿をしばらく眺めていた縞猫は、おもむろに起き上がって髭の手入れを始めた。

 髭がぴんと張ったところで、ぶるぶると震わせる。すると境内に積もった落葉の中から、ピンポン球くらいの小さな黒い影が飛び出し、ぱちんと弾けて消えた。

「あいつ。おいらの縄張りにゴミ落としていきやがって‥。だから弱い人間は嫌いだよ。自分に憑いてるモノさえ管理できないんだからさ。あの旦那もあんな連中の面倒見るの、いい加減諦めりゃいいのになァ‥。」

 一人でぶつぶつつぶやいているところへ、微かに鈴を鳴らしてノワールがやってきた。

「なんだ、おチビ。おまえは今日は留守番なのかい?」

「はい。達磨しゃまがお芋が焼けたので縞猫しゃまを呼んでこいと‥。」

「焼き芋? わあい、そりゃいいな。よし、行こう。」

 舌なめずりをして縞猫は庭先にぴょんと下り、落葉の上を音もなく走っていく。後ろからノワールが待ってくだしゃあい、と続いた。


 長谷部の顔で仕事を終え、会場のホテルを出た玲は珍しく疲れを感じた。

 後ろからぽん、と肩を叩かれて振り向くと、同じように出てきたばかりの数人が立っている。宝石販売会社の社員たちだ。

「さっき部長が言ってた。長谷部さん、新記録だって? いくら売ったの?」

「さあ‥。事務所に帰って伝票計算してみないと。忙しかったので計算してないんです。」

 曖昧な微笑で受け流すと、彼は屈託なく笑った。

「まだ仕事するの? これからみんなで打ち上げするんだ。一緒に行こうよ。女性陣から誘ってこいって命令だし。ね?」

 長谷部はうつむき加減に眼鏡をずらし、困惑と含羞の入りまじった表情ですみませんと答えた。

「今夜はちょっと‥。最終日だから食事の先約があって。」

「もしかして‥彼女?」

 ほんのり頬を赤らめて更にうつむき、そんな感じです、と返事を返せば、それ以上は誘われなかった。じゃあ次の機会に、と彼は手を振る。

 軽く会釈で返して、玲はさっさと背を向けた。眼鏡は外して胸ポケットにしまう。

 ―――次、か。

 彼らとは既に七回一緒に仕事をしている。何度か一緒に酒も飲んだ。玲にしては少しなじみすぎた感があった。

 今日の売上はおよそ一億八千万。不景気なんてどこの国の話だと言いたくなるほど、金はあるところにはごっそりあるらしく、三日間のトータルで長谷部遼一の売上高は三億を超えた。マージンは五パーセントプラス出来高によるボーナス。ざくっと計算しただけで報酬は二千万を超える。

「さてと‥。今夜は姫さまの手料理は待ってないんだっけ。どこ行こうか?」

 ふわりと肩に乗った桜が、柳楼にまいりましょうよ、と提案した。

「そうだなあ‥。お艶さんの料理も絶品だもんね。よし、行こう。桜、ここからいちばんの近道を見つけて。」

 はあい、と返事をして、桜はきょろきょろとビルの間を覗きこむ。そしてすぐに細い路地の間の暗がりを指さした。

「大丈夫です、夜鴉の気配はありません。ご主人さま、提灯はお持ちですか?」

 うなずいて玲は上着の内ポケットから、万年筆くらいの大きさのペンライトを取りだした。細い柄いっぱいに『懐古堂』の名入り護符が貼ってある。このほうが持って歩きやすいので、黒達磨に頼んで護符を貼ってもらった。

 ではまいりましょう、と桜はにっこり微笑んだ。


 柳楼ではまるで来るのがわかっていたかのように、玲の席が用意されていた。

 料理だけでなく、お艶が注いでくれるお酒も極上だ。

「あれから迦具耶(かぐや)さまのご機嫌はどうかね? 無理難題を押しつけられてねえかい?」

 市之助に問われて、大丈夫だと答える。

 朧月と菊花は季節が過ぎても可愛がられているらしく、音楽や舞いの他にも歌留多や扇当てなどの遊戯にかりだされているという。ついでに玄兎も喜んでいる。夜っぴて花札の相手を務めさせられなくてすむからだ。

 不意に懐でメールの着信音が鳴った。

「ここ‥圏外だよね?」

 ふふっと市之助は微笑した。

「普通の人間からは届かねえな。」

 確認すると、はたして茉莉花からだった。鳥島に依頼された仕事が入ったので、帰宅が一日延びるかもしれないという連絡だ。

 つまり帰宅できない距離まで出向くという意味か。鳥島と一緒にどこかに泊まるのかと思うとちょっと面白くない―――酔っているせいか?

 冷静に考えれば別に何でもない話だ。鳥島と彼女が親密になれる機会が増えるのは、彼女の気持ちを考えれば喜ぶべきことで、二人の友人、いや知人として嬉しい―――はずだがやっぱり嬉しくない。

「どうした?」

 市之助は揶揄するような視線を向けた。

 お見通しかよ、と玲は苦笑する。

「さあね‥。どうしたんだろ? 最近、いろいろな面で自分が守りに入ってる感じなんだ。少々それが気にくわない。」

 豪儀だねえ、と市之助は微笑い、杯を空ける。

「『懐古堂』にいるのも気にくわねェかい?」

 お艶の酌を受けながら、玲は首を振った。

「快適だよ。達磨さんから聞いてるとは思うけど、姫さまとも結構うまくやってるし。」

「ああ。聞いてる。他人(ひと)と滅多になじめない茉莉花があんたには懐いてると喜んでたよ。」

「そう‥? 結界張って、用心してるけどね。」

 懐いてるって―――ペットじゃあるまいし。

 くく、と市之助は珍しく声を立てて笑った。

「そりゃ昔からだ。七つ八つの時分にはもう無意識にやってたな。‥それでもあんたには返事くらいはするんだろ?」

「まあね‥。もしかして子どもの頃は返事もしないほど無口だったの?」

「今も用がなきゃ喋らねえと黒達磨は言ってたぜ?」

 玲は驚いて、市之助の横顔をまじまじと見返した。

「別に‥普通に会話してるよ。からかいすぎて怒らせると黙っちゃうけど。」

 そりゃよかった、と市之助は冷めた表情のままつぶやいた。

「よほどあんたには気を許してるんだな。」

「‥桜がいるからだろ? 前世の縁で、彼女の霊力が俺を無条件に受け入れてるってだけだよ。一般的に言う仲がいいとまではいってないなあ。」

 玲の隣に腰を下ろしたお艶が、杯を空けるよううながす。

「‥あの嬢ちゃんは、まだ女とは言えないねんねだからねえ‥。旦那も物足りないでしょうよ。」

 お艶はぴったりと横について、杯を持った玲の手を細い白い指ですうっとなぞった。柳女の妖気が指にこもっているのか、体の芯がぞくりと疼いて頭がくらくらした。

 なるほど大概の男はこれで夢中になって取り殺されるわけだ。わかっていてもつい、白い指を握り返したい衝動を覚える。

「お艶さん。ご主人さまに妖力を使うのはおやめくださいまし。」

 桜の可愛い声で、ふっと酔いが引いた。同時にお艶の指が離れ、(いろ)めいた微笑だけが目蓋の裏にくっきりと残る。

 市之助の冷めた瞳が可笑しそうに一瞬だけ揺らめいた。

「お艶。人間の女はおめえみたいに単純じゃあいられねェのさ。そりゃ生まれ落ちた瞬間(とき)から、女そのものみてェな女もたまにはいるがね。ほとんどはそうじゃねえ。」

「ふん。素直じゃないだけサ。‥どうせ市さん、そういう単純じゃない女が可愛いとかまた言うんだろう?」

 馬鹿、と流し目を送って市之助は手酌で酒を注いだ。

「男と女の間は成るようにしか成らねェのさ。前世からの縁は切れねェだろうが、あんたの魂は並外れて強いから、一つの縁に縛られて身動きできなくなるはずもない。好きに生きるがいいだろうよ。」

「それは‥前世の約束は気にするなって意味?」

「思い出せねェ約束に意味があるのかい?」

 玲には答えられない。確かに意味はないのかも。

 市之助は静かな声で続けた。

「どっちみち茉莉花は今のところ、幽霊の女の残した対価のせいで手一杯だろうよ。他の男のこたァ考えられねェ状態だ。」

 そして小さくちっ、と舌打ちした。

「危ない話だよ。気のいい女だったからよかったものの‥。幽霊ってのは恨みだの憎しみだのってもんを持ってるほうが普通なんだぜ? そんなもん、貰ってたらたいへんなことになってたんだ。あいつの霊力が凶器になっちまう。言葉はよくよく考えて使えと教えたはずなのに、未熟もんめが。」

 何の話か今一つ呑みこめないが、何となくわかる気もする。もしや―――?

「幽霊って‥。リズのこと?」

「そんな名だったかね。俺が土手で拾った女だ。対価は成仏する時に貰う、と言葉にしちまったから、成仏の時に置き土産されちまったのさ。」

 お艶が付け加える。

「しょうがないサね‥。何しろあの女は男恋しさの一念で、白鬼の封印から逃れたってンでしょう? 他に何も残っちゃいなかったろうし‥よほど未練があったンだろうねえ‥。」

 ようやく話がのみこめて、無性に可笑しくなって忍び笑いをもらした。

 だから茉莉花は告白しないのか。だがリズの置き土産はいつか消えるのだろうか? そのまま本物になる可能性だってあるのではないか、と思う。

 すると玲の心を読んだように市之助が、そのうち自然に消えるはずだよ、と静かな声で答えた。


 茉莉花の実家は都心から私鉄で三十分ほど下った郊外の街にある。

 ひと晩泊まったあとの午前十一時頃、茉莉花は用事ができたと断って家を出た。

 父も兄弟たちも既にそれぞれ会社や学校へと出かけてしまっていない。母だけが残っていたが、そもそも父以外とはあまり会話が成立しない茉莉花は、鳥島からの連絡を受けてむしろほっとしていた。この半年で家族との細い縁が、すっかり切れたように感じる。

 二駅めで乗り換え、更に三十分電車に揺られる。窓の外を流れていく景色は次第に緑が濃くなっていく。

 家族への愛情は人並みにあると思うが、ずっと一緒にいたいという性質のものではない。もともと誰かと同じ時間を共有するというのが苦手なのだ。一人でいるのが好きだし、寂しいと思ったことはない。霊力のせいだろうと思いこんでいたが、咲乃や瑞穂たちを見ている限り、どうも茉莉花が個人的に持って生まれた性分らしいと思い始めた。

 お昼くらい食べていけばいいのに、と見送った母は苦笑していた。

 申しわけないとも思うが、茉莉花の性格はのみこんでくれているという甘えもある。二才で離れた時からずっと、両親は遠くから見守り続けてきてくれた。たぶんこの距離はずっと続くのだろう、と勝手に思っている。

 指定された駅に降り立つと、鳥島が迎えにきていた。

「すまないな、こんな遠くまで。」

 明るい秋の日ざしの中で、彼は申し訳なさそうに頬笑んだ。茉莉花はいいえ、と小さく返事をしてぎこちない微笑を返す。

 駅前の蕎麦屋で昼食を摂りながら、鳥島は依頼の件を説明した。

 依頼者は麻倉という資産家の長男で、もともとの相談ごとは心臓の持病を持つ母親が一週間も行方がわからないので捜索してほしいという依頼だった。

 鳥島が探したところ、母親は携帯の電源を切っていただけで、都内の一流ホテルのスイートですぐに発見された。娘や息子たちが自分の死後の相続問題で揉めているのに嫌気がさして、豪遊していたのだと言う。

「あんたに今日来てもらったのには、二つ理由がある。一つは相談に来た長男の背中に取りついていた影が、家じゅうにはびこってる件だ。彼の承諾は得てある。実際に体調も悪くなってて、ひどい顔色なんだ。それから二つめは‥ちょっと奇妙な話でね。」

 鳥島が事務的な口調で淡々と話した内容は、その母親が自分は五十年前に死んだ双子の妹で、姉に体を貸してもらっていると主張している、というものだった。

「俺も実際に本人と話したんだが、惚けているふうにはまるで思えなかった。心臓はかなり悪くて、いつ発作が起きて亡くなってもおかしくない健康状態だというのは間違いない。だが外見は六十八才という年齢より十は若く見えるし、その件以外はまったく言動におかしな点はないんだ。初めは子どもたちの諍いを止めさせるために一芝居しているのかと思ったんだが‥。どうもそんな感じじゃない。前回の事件を思い出して、ひょっとしたら魂が入れ替わるなんてこともありかもしれないと思ってね。あんたに見てもらえば、嘘かどうかはすぐにわかるだろうと‥。」

「今日はお子さん方は全員いらしているんですか?」

「そうなんだ。同居しているのは長男の一家だけなんだが、今日は急遽親族会議を開くことになったとかで、トラブルの関係者は全員集まっている。」

 わかりました、と茉莉花はうなずいた。


 案内された座敷で茉莉花は一人待っていた。

 麻倉家に一歩入った時から、うようよと黒い影みたいなものがそこらじゅうに見えた。祓うのは簡単なのだが、どこから来たのか見極めてからにしようと少し慎重になっている。

 ここにこうして座っていても物の怪が棲みついている直感がひしひしと迫ってくるようだ。庭だろうか、それとも奥座敷か。

 気弱そうな主人は親族に、怪しげなお祓い師など呼んで、と非難されている真っ最中だ。それも物の怪が茉莉花の気配を嗅ぎ取って、追い出そうとしているせいに違いない。

 茉莉花は鈴を低く呻らせて、家の隅々へ霊力を満たしていった。

 人々の欲に取りついて争いを起こさせているモノ。その本体の場所を確かめるために、緩やかに鈴の音の波紋を広げていく。

 やはり庭だ。庭の隅の落葉が吹きだまっている場所。

 茉莉花は立ち上がって、窓の障子を静かに開けた。そこから見える景色の中に、目当ての場所はない。

 ゆっくりと深呼吸を一つして、三つの鈴を響かせる。見つけた。落葉の中から真っ黒な闇の塊が、不安げに蠢きだしている。

 更に高く鈴の音を鳴らそうとした瞬間、襖が開いて鳥島が入ってきた。

「すまない。麻倉夫人がまたいなくなってしまったそうだ。」

「じゃ、探しに行くんですね?」

「そうなんだが‥。」

 茉莉花は少しだけ考えて、すぐに決心した。

「二、三分ほど待ってくれますか? ここにいる物の怪が元凶だと思うので。」

 鳥島がうなずくのを待たずに、茉莉花は鈴を高らかに響かせた。

 頭の中に浮かぶ落葉の塊は慌てふためいて逃げ惑っている。茉莉花は容赦なく鈴の音の波紋で縛りあげていく。

 ふと闇の中に何かが見えた。

 諦めと寂寥、後悔。人生をやり直せたら、という深い悲しみ。闇の中にうずくまっている人影。セーラー服に三つ編みの少女だ。

 茉莉花が鈴の音をいっそう強く鳴らすと、落葉の塊に潜む闇は呻き声をあげて霧消した。

 波紋の余韻が家じゅうに広がっていき、カビのようにはびこっていた黒いモノを消滅させていく。別の部屋で声を荒げていた人々の感情が静まっていく。

 茉莉花は鳥島を振り向いて、行きましょうか、と言った。

「もういいのか?」

「ここはもう大丈夫です。それよりも急いで捜さなければ‥。麻倉一葉(かずは)さんの体を。」

「体‥それはつまり‥?」

「はい。今出かけているのは二葉さんのようです。」

 鳥島はふうっと大きな吐息を吐いた。


 長谷部遼一が指定されたホテルのロビーに着いた時、既に約束の相手は来て待っていた。

 急ぎ足で近づき、にっこりと微笑む。

「早かったんですね。約束の時間には二十分もあるのに。」

 安楽椅子の肘掛けにもたれて座っていた銀髪の老女が顔を上げて、やや恥ずかしげに微笑する。

「家にいてもつまらないの‥。ごめんなさいね、朝早く急に電話したりして。」

「いえ。十時は早いと言うほど早くもないですよ。それに‥嬉しかったし。ぼくももう一度逢いたかった。」

 老女はゆっくりと腰を上げながら、うっすらと頬を染めた。

「嫌ね‥。こんなおばあちゃんに、そんな言い方するもんじゃないわ。」

「社交辞令じゃないですよ。ほんとうに逢いたかったんだ。」

 長谷部は優しく手を取って支え、彼女の着ているシルクのすとんとしたワンピースを感嘆するように眺めた。

「今日のそのワンピース、和服を直したものでしょう? 友禅の訪問着だったのかな‥すごく似合ってる。」

「五十くらいの時に白地から染めて誂えたものだったの。心臓を悪くしてから、着物はすっかり着なくなっちゃってね。直してみたのよ。派手じゃないかしら?」

「とっても素敵ですよ。二葉さんは、自分に似合うものがよくわかってる。」

 長谷部は腕をさしだして、再び蕩けるような微笑を浮かべた。

 麻倉二葉はその腕にためらいがちに手を掛ける。すると彼は肩のショールを直すような仕種で体を寄せ、腕をしっかりと絡ませた。

「今日だけデートしてくれる約束でしょ? 行きたい場所はまず、美術館でしたね。」

 ええ、と二葉は恥ずかしそうに目を伏せ、長谷部の腕によりかかった。


落葉鬼(おちばおに)‥?」

 鳥島の車の助手席で、茉莉花はええ、とうなずいた。

「今頃の季節によく出るんです。落葉や朽葉の溜まったところに闇が淀んで生まれるモノ。大した力はないんだけど、人に取り憑く場合があって‥。たぶん今回は一葉さんに取り憑いたのでしょうね。病気や生きているうちからの相続争いなどで、暗い気分でいたのを狙われたのだと思います。」

「取り憑かれるとどうなるんだ?」

「あの家のようにそこらじゅうに不穏な影が増殖します。影のせいで体調が悪くなったりやたら喧嘩になったりして、その負の感情を吸いこんでますます大きくなっていくんです。放っておけば取り憑いた人を核にして、本格的な物の怪になる場合も‥。」

 だが落葉鬼はよくある現象で、通常は人のほうが強いから大ごとにはならない。

 麻倉一葉は気性のしっかりした女性だったそうだ。多少気の弱くなる出来事があったからといって、もっと妖力の強いモノならともかく、あんなちっぽけなモノに心を喰われるなどありえないはずなのに。

「‥‥落葉に関連する思い出でもあったのかしら。」

 囚われていた心はセーラー服の女学生姿だった。その頃の思い出に関する心の闇。悲しみ、もしくは後悔? 五十年前に死んだ妹と関係があるのかもしれない。

「‥ちょっと訊いてもいいか?」

 つい黙りこんでいた茉莉花は、顔を上げた。

「はい?」

「今、麻倉一葉の体には妹の二葉が入っているんだよな‥。じゃ、二葉の魂は五十年もの間‥‥成仏できずにどこかにさまよってたってわけか?」

 『成仏』という言葉を口にする前に、少し間があったように思うのは気のせいだろうか。鳥島の胸にはまだリズがいる。深い傷になって残ったままなのだ。

 茉莉花は気づかないふりで静かに答えた。

「一卵性双生児の魂は‥気配がとても近いんです。推測ですけど、二葉さんは一葉さんの中に溶けこんでずっと一緒にいたんじゃないでしょうか? たぶん一葉さんは知っていたのだと思います。」

 二葉は姉から体を貸してもらったと言ったそうだ。

 一葉は二葉が自分といるのを知っていたからこそ、妹に体を貸してあげたのだ。自分の体がいよいよ動かなくなる前に―――体が動かなくなる?

「鳥島さん‥。二葉さんの居場所に心あたりがあるんですか?」

 鳥島は首を振った。

「いや。とりあえず一昨日見つけたホテルに行ってみようと思ってる。前の時もコンシェルジュに観劇の手配やレストランの予約を頼んでいたから、今回も何か情報があるかもしれない。‥急がないとヤバい状況なのか?」

「わかりません‥。推測どおりなら、一葉さんの魂は二葉さんと再び合流しているはずなんですけど‥。」

「もとに戻っているって意味?」

「二葉さんから途中で取り上げはしないかもしれませんね。『借りた』のではなく、『貸してもらった』のであれば、一葉さんの提案で入れ替わりが起きたのでしょうから。」

 ただ、と茉莉花は眉間に深い皺を刻んだ。

「ただ?」

「考えすぎかもしれませんが‥。一葉さんの体が生命体として正常なのかどうか‥そこが気になります。」

「正常かどうか‥?」

「‥心臓の発作がきっかけで、今回の入れ替わりが起きたのではないかと思うんです。死が目前に迫ってきた状態で、体が死ぬ前にもう一度生きてみたいと二葉さんに懇願されたのだとしたら‥。本来の自分の体ではありませんから、二葉さんは体が死んでいると気づかないでいる可能性は十分あります。」

「‥‥リズの体に紫さんが入ってたみたいな状況か?」

「近いですが‥。二葉さんは紫さんのような霊力はありませんから‥。もってあと一日、といったところでしょうか。もっとも一葉さんが無事合流したのなら、二葉さんに知らせると思うんですけど‥。」

「いずれにしても早いとこ保護する必要があるってわけだな。」

 鳥島はカーナビの設定を変えて、渋滞の国道を避けるべく裏道の検索を始めた。

「あんたを『懐古堂』に送っていくつもりだったんだが‥。すまない、もう少しつき合ってもらえるか?」

 はい、と茉莉花はうなずいた。


 美術館から出て、二葉の希望どおりに隣接する庭園をゆっくりと散歩した。

 日はだいぶ傾き始め、明るさのわりに空気は少し肌寒い。ショールの上からコートをはおって歩く二葉の頬は、血の気が失せて透きとおるように白かった。

 大きな銀杏の木の近くにベンチを見つけて少女みたいに瞳を輝かせた二葉は、並んで座ろうと長谷部を誘った。

 隣に腰を下ろして手を握る。指がひんやりと冷たい。

「指が冷えてる。寒い?」

 いいえ、と首を振った彼女は、はにかんだ笑みを浮かべてうつむいた。

 古い映画に出てくる昔の女学生みたいですごく可愛い。

 三人の子の母で、早逝した夫の事業を長年切り回してきた遣り手の資産家夫人。そんなイメージは目の前の二葉にはかけらも見えない。

 金色の銀杏の葉が何枚か、ひらひらと舞い落ちる。二葉は嬉しそうな声をあげた。

「ほら見て‥。きれいねえ。銀杏の木が黄金色よ。女学生の頃、入院していた病院の門の前がね、銀杏並木だったの。秋になるとこんなふうに黄金色に染まって‥とってもきれいだった。」

 遠い昔を懐かしむように、二葉は木漏れ日に眼を細めた。

「わたしの病室の窓からは、並木道を来る人がよく見えたわ。‥同室の隣のベッドに静香さんという人がいてね。毎日午後になるとその方のご主人がお見えになるのだけど、銀杏が色づいた頃から静香さんは立つこともままならなくなっていたの。それでわたしは代わりに毎日窓辺に立って、ご主人の姿が見えると教えてあげていたのよ。」

 二葉は長谷部のほうを向いて、少しばかり苦いものが混じったような笑みを見せた。

「ほんとうはねえ‥。わたしはそのご主人のことが好きだったの。今から思えば初恋の相手、というところかしら。」

「それはちょっと妬けちゃうな。素敵な人だった?」

 そっと肩を抱き寄せると、腕の中で二葉は両手を口に当ててふふっと微笑った。

「素敵な人だったわよ。今の時代にはあなたのように、きれいと言える男の人も珍しくないけれど‥。あの頃はね、とても目立っていたわ。何よりとても奥さんを大切にしていたの。無口でろくろく笑いもしないのに、ものすごく大事に思ってるってことだけはひしひし伝わってきて‥。傍にいると泣けてきそうだった。」

 そう言った彼女の瞳は潤んでいて、低い位置からさす夕日に頬がほんのりうす紅色に染まって見える。

 髪についた落葉をそっと除けて、長谷部は二葉の頬を両手ではさんだ。ひんやりと柔らかい感触が掌に伝わる。そのまま彼は小さめの唇を唇で捉えた。

 つややかな銀髪ごと、すっぽりと胸に抱えこむ。

 二葉は目を閉じてじっとしていた。

「‥殺すつもり? こんなに胸がどきどきしちゃったら、わたしの弱ってる心臓じゃもたないわ。今すぐ止まってしまいそう。」

「だってあんまり可愛い顔するから‥。好きだよ、二葉さん。」

 長谷部はにっこり微笑んで、今度は目尻の皺ごと目蓋にキスした。

「すごく冷たいね‥。そろそろ中に入ろうか。」

「ええ。この後はアフタヌーン・ティーに連れていってくれる約束だったわね?」

「英国式の本格的な、というご希望だったね。なんならお姫さま抱っこで行こうか? 女王陛下と騎士(ナイト)みたいに。」

 二葉はくすくす笑って、ゆっくりと立ち上がった。

「だめよ。どう想像しても、孫に介護されてる老人にしか思えないもの。ちっともロマンチックじゃないわ。」

「じゃ、ごく普通に。腕を組んで行こう。」

「普通の若い恋人同士みたいに‥?」

「自然にそのままでってこと。『みたい』でも『ごっこ』でもないよ。こんなに好きなんだから。」

 さしだした腕に今度はしっかりと自分からつかまって、二葉は幸せそうに微笑んだ。


 鳥島はさっきからずっと、茉莉花の表情をつかめずに困っていた。

 ホテルのコンシェルジュから聞き出したデートコースの、ティールームに先回りして待っていたところ、やってきた麻倉二葉のデートの相手は長谷部遼一だった。

 茉莉花は長谷部遼一の職業は知っていても熟女好みまでは知らなかったらしく、まあ、と意外そうな顔をした。鳥島としてはどう対応していいのかわからない。

 とりあえず様子を見ているのだが、二人はとても幸せそうだった。

 以前に調査した結果では、長谷部遼一は上品でいくらか地味めな良家の箱入り奥さまが好みだ。麻倉二葉は見たところ、彼の好みにぴったりはまっている。

 どういうなりゆきでデート中なのかは不明だが、たぶん今、この瞬間は仕事ではなくて本気で好きなのだろうと鳥島は知っている。

 茉莉花は先ほどから黙って凝視し続けているが、どう思って見ているのだろう?

 二葉はすっかり甘えきって、人目も関係なく彼に寄り添っている。受けとめて愛おしげに見返す長谷部の表情は、いつか鳥島が驚いた時よりももっと深い愛情がこめられていた。

 あれが堂上玲だとは今一つ実感できないうえに、茉莉花と堂上玲の間にどんな感情が流れているのかもわからないから―――茉莉花の沈黙と凝視にどんな意味があるのか、つかめない。やはり面白くないのだろうか。

 不意に隣で大きな溜息が聞こえた。

 鳥島はぎくっとする。

 茉莉花は心なしか疲れた顔で鳥島を振り向き、口を開いた。

「どうやら‥。残念ですけど推測どおりだったみたいです。麻倉一葉さんは既に亡くなっていると思います。」

 一葉の死を見極めるための沈黙と凝視だったか、と鳥島はほっとした。

「‥長谷部さんは彼女が幽霊だなんてわかっていないでしょうね‥。ちょっとまずいかも。でもあんなに幸せそうだと言いにくいですよね‥。」

 ちらりと気の毒そうな視線を向ける。

「ええと‥。彼は誰かに依頼されただけかも‥。」

「違うと思います。彼はデートの時以外はいつも守護精霊を連れているんですけど、今日は連れていませんから‥。ほんとうのデートなんでしょう。」

 きっぱりと言い切って、茉莉花は再び鳥島に向き直った。

「二葉さんの魂はこのまま長谷部さんに任せておけば大丈夫でしょう。満足してすんなり体を一葉さんに返してくれると思います。問題は一葉さんで‥彼女は家族に言い遺したい想いがあるのだと思うんです。でも‥あの体はあのままでは、今夜家に帰り着くまで保ちそうもありません。」

「どうしたらいい? 今すぐデートに割りこんで連れ帰ろうか。」

 いえ、と茉莉花は首を振って、うつむいた。

 ちょうどその時、二葉が立ち上がった。化粧室へ向かうようだ。

「チャンスですね。ちょっと話してきます。」

 茉莉花は立ち上がり、後を追った。

 鳥島は逡巡したものの、意を決して長谷部遼一のところへ向かった。

 長谷部は鳥島を見て驚いたふうだったが、いつものように柔らかに微笑んだ。

「こんな場所で会うなんて奇遇だなあ‥。どうしたんです? うちの姫さまと仕事中なんじゃ?」

「その仕事に関連して、麻倉夫人を保護しに来たんだけど‥。彼女は親族会議をほっぽり出して、携帯を切って家族との連絡を断ってるんだ。家族からの保護依頼で俺は動いているところ。‥‥まさかあんたとデート中とはね、驚いたよ。」

 姫さまも一緒だとはさすがに言いづらい。

 長谷部は顔をしかめた。

「保護って‥。二葉さんはそんな老人じゃないでしょうに。なぜ?」

「ああ‥ええっと‥。麻倉夫人は‥心臓の状態がかなり悪いんだよ。急な発作が起きたら即、生死に関わるくらい。」

「そんなに‥? ぼくには一応医者にかかっている程度だと‥。」

 長谷部は心配そうに考えこんだ。心の底から案じているようだ。

 一方で鳥島は彼が『二葉』と呼んだのが気になった。つまり知り合ったのはごくごく最近で、二葉と入れ替わってからのことなのだ。

 その点をさりげなく確認すると、出会ったのはつい一昨日で客としてだったという。彼女は長谷部からサファイアの指輪を購入したそうだ。

「鳥島さん。今日だけ見逃してもらえないかな? ちゃんと気をつけるし、別れる前にはあなたに連絡を入れるから‥。たぶん二葉さんは家にいたくない理由があるんだ。頭の良い人だから、自分の行動は全部わきまえてると思うよ。」

 どちらにしても、二葉あるいは一葉を茉莉花が説得中だろう。一葉の体は既に死んでいる。鳥島が無理を通す場面ではない。

 鳥島はわかった、と軽くうなずいた。ついでにずっと気になっていた疑問を口にする。

「前から思っていたんだが‥。あんたの相手はいつも母親以上の年齢の女性だよな。何か理由があるのか‥?」

 長谷部は眼鏡をちょっとずらして、苦笑した。

「さあ‥。意識しているわけじゃないけど。女として自信を失いかけている年齢の、控えめな女性に弱いかな。十分可愛いのに、と思うとつい笑顔が見たくなる。つき合っているうちに少しずつ明るい顔になっていって、ぱっと花が咲いたみたいな微笑が浮かんだ瞬間がたまらないんだよね。可愛い、と心底思うんだけど‥なぜかたいてい、それからすぐに振られちゃう。どうしてだろう?」

「まあ‥俺の知る限りは、あんたの相手は既婚者だったし。夢は見ても、現実に家庭を壊して若い男についていくようなタイプじゃなかったと思うよ。」

 長谷部は肩を竦めた。

「ほんと、鳥島さんには隠しごとなんか一つもできないよね。全部知られてるんだから。本名まで知られてるし‥。ちなみに堂上玲の経歴も調べてあるの?」

「ま、一応はね。以前の話だ。」

「商売柄、たくさんの人の経歴を見てきたでしょう? どうかな‥やっぱり、母親を知らないで育つと、女性に母性を求めるものなのかな?」

「そうとは限らないと思うが‥。あんたの話か?」

「ええ。時々自分でも、マザコンかなと思ったりするので‥。」

 そうつぶやいた長谷部遼一の端正な顔は、苦いものを噛みしめているように見えた。


 戻ってきた茉莉花は、鳥島にもう大丈夫、と言った。

「一葉さんにわたしの霊力をこめた御札を渡しました。身につけていれば、あと二日くらいは体を保たせることができると思います。‥二葉さんは。」

 長谷部のいるほうをちらりと見て、微かに微笑らしきものを浮かべる。

「先ほども言いましたけど、長谷部さんに任せましょう。彼は二葉さんの初恋の人を思い出させる人なのだそうです。二葉さんは打ち明ける間もなく、十八で亡くなっていますから‥。一度だけデートがしたかったと言っていました。」

 鳥島は自分も長谷部遼一と話をして、デートが終了したら連絡を貰う手筈をつけたことを説明し、腕時計を見た。麻倉二葉を引き継ぐ時間にはまだだいぶある。

「これでこの件は一応片づいたわけだ。‥ありがとう、助かったよ。」

 いえ、と茉莉花はやや顔を赤くしてうつむいた。

「どうだろう? よければこっちもデートしないか?」

「えっ?」

 茉莉花はひどく驚いた様子で顔を上げた。一瞬だけ、無防備で幼げな表情になる。

「いや‥。時間つぶしにつき合ってくれないかという意味だけど。そんなに驚かれるとさすがにへこむよ。十八の女の子から見たら、俺はそんなにおじさんかな?」

「あの‥。そういう意味ではなくて‥。今まで誘われた経験がなかったので、ちょっとデートという言葉にびっくりしちゃって‥。」

 うろたえて言い訳しながら、顔を真っ赤にしている。いつもの物静かで大人びた雰囲気とは別人のようだが、これはこれでまた別の美しさだなと鳥島は眼を細めた。

「わたしでよければ、時間つぶしにおつき合いしますけど‥。でも‥鳥島さん、わたしといて面白いですか‥? わたしは‥あまり人と話すのが得意じゃなくて。」

 はは、と思わず苦笑した。

「そりゃ、こっちのセリフだ。気が利くとはお世辞にも言われないよ。‥先に言うことじゃないね、ごめん。とにかく‥ここを出ようか。」

 はい、と茉莉花は小さな声で答えた。


 六日後、麻倉一葉の葬儀が自宅でしめやかに行われた。

 黒のスーツに身を包んだ長谷部遼一は、遺族にキャンセルされた五百万のサファイアの指輪を持って葬儀に参列した。

 出棺前にさりげなく親族席のほうから中へ入って、棺の中を覗きこむ。六日前に浮かんでいた無邪気な微笑は跡形もなく消え、冷たい顔はまるで別人みたいだった。

 そう。別人だったと後で鳥島に聞いた。少女のように見えたのは、ほんとうに少女の魂が入っていたからだった。けれど途中から二人いたように感じたのは、気のせいだったのだろうか。

 白い細い薬指にサファイアの指輪をそっと填めた。上にカトレアを積んで誰の目にも触れないように念入りに隠す。そして静かに外へ出た。

 あの指輪を選んでいた時の上品なしぐさ。可愛い(ひと)だった、と思い出せば胸が痛い。

 キャンセルの場合はアンジュが責任を持って買い取る。これは長谷部のルールだが、今まで一度も適用されたことはなかった。最初で、たぶん最後の適用だ。それは二葉に捧げるのが相応しいとしみじみ思う。

「さようなら。二葉さん。」

 火葬場へと向かう車を見送って、長谷部遼一は眼鏡を上着の胸ポケットにしまいこんだ。


 翌日茉莉花が台所で夕食の支度をしていると、賑やかな気配が裏玄関から流れてきた。

 騒いでいるのは桜らしいが、ノワールも二階から走り下りてきたようだ。

「いったい何ごと‥?」

 姫さまぁ、と背中にとびついてきた桜に訊ねる。

「ケーキです! とおっても大きいのですよ、姫さま! クリームがいっぱいで、銀色の飾りとか飴細工の人形も‥! 桜は初めて見ました、姫さま!」

「ケーキって‥。」

「バースディケーキだよ。特注で作らせた。」

 振り向くとリボンのついた大きな箱を抱えた玲が立っていた。

 そう言えば今日は十一月十一日で、二人の誕生日だ。

 彼は配膳台に使っている古いテーブルの上に、箱をどんと置いた。リボンをほどいて、慎重な手つきで箱を開いていく。桜の言うような派手で大きい二段のケーキが現れた。

「これ‥バースディケーキ? こんなに大きいの、誰が食べるの?」

「‥冷たい姫さまだな。開口一番の感想がそれ?」

 玲はがっかりした顔で茉莉花を見やり、すっと背を向けると開けっ放しの玄関から外へ出ていった。

「‥怒ったのかしら?」

 今のはさすがに言い方が悪かったと反省した茉莉花は、手を洗い、エプロンを外した。追いかけようと玄関口へ向かう。そこで戻ってきた玲とあやうく衝突しそうになった。

「わっ‥と。何? そんなに慌てて、どこ行くの?」

「いえ‥あの。悪かったと思って‥。」

 身を引いてよくよく見ると、彼は真っ白なブーケを抱えていた。

「ほら。これもバースディプレゼント。君の名前にちなんでジャスミンの花束にしようと思ったら、結構探すのがたいへんでさ。」

 白い小さな花がいっぱいに並んで、爽やかな芳香を放っていた。

 びっくりしすぎた茉莉花はさしだされたままに受け取って、ぼんやりと立ち竦んだ。

「‥ええと。感動してる、それとも呆れてる? ともかく入口を塞いでないで中に入れてくれないかな。」

「あ‥ごめんなさい。」

 脇にどいて、狭い廊下に玲の通るスペースをかろうじて開けた。

 すると彼は上がりざまにいきなりブーケごと茉莉花を抱きすくめ、頬に口づけた。

「きゃっ‥!」

 思わずうろたえた茉莉花の耳元で、誕生日おめでとう、と囁く。そして素早く距離を取って、にやっと笑った。

 まったくもう、とつぶやいて茉莉花は、彼の唇の触れた箇所を掌で押さえた。何だか熱い気がする。

「あれ? 珍しく怒らないんだね。つまんないの。」

「怒ってるけど‥。さっき、わたしもひどい言い方をしたから。‥それとお花、ありがとう。季節じゃないからたいへんだったと思う。」

 頬を押さえたまま、ブーケをさす花瓶を探すと言ってそそくさと店のほうへ向かう。

 確か赤絵の壺がどこかにあったはずだ、と壱ノ蔵をかき回しながら、それにしてもいったいどうして急に誕生日を祝う気になったのだろうとぼんやり思った。手続き上の日にちだから感慨はないと言っていたのに。

 やっと見つけた壺に花を活けて、床の間に飾った。

 ジャスミンの白い花弁が宵闇のたちこめる部屋で淡く優しく光っている。

 台所へ戻ると、玲はケーキに細い蝋燭をびっしりと立てている最中だった。

 茉莉花の十九と自分の二十一、あわせて四十本、きっちり立てるのだと言う。桜とノワールがはしゃぎながら手伝っている。

 エプロンをし直して手を洗い、夕食の支度に戻った。

 待っていたかのように、玲が話しかけてきた。

「あのさ。当分、休業することにしたんだ。」

「休業?」

「うん。佐山徹は無期限休業、長谷部遼一は‥たぶん二度と使わないな。」

 背中合わせで聞こえる声は淡々としていて、いつもどおりなのにどこか違って響く。

「アンジュは別のキャラ立てて、そのうち活動再開するつもりだけど‥。今のところ最低でも来年の春までは休みにしたいと思ってる。‥お金は今までどおりにちゃんと入れるよ。五年は遊んで暮らせるくらいの蓄えはあるから、心配しないで。」

 何だか夫の退職話を聞かされている夫婦みたいな会話だ、と思ったらつい赤くなった。背中を向けていてよかった。

「なぜまた、急に‥?」

「気づいたらもう二年も続けてたから‥。今まで一つの仕事をそんなに長くしてたなんて、なかったんだよ。」

 桜がきゃっ、と小さく叫んだ。蝋燭の束を取り落としたらしい。

 一緒に拾おうと、屈みこむ気配がした。しきりに謝る桜に優しい声で慰めている。

「さてと。できた。こっちは準備万端。そっちは?」

「もう少し。‥ちょっとそのケーキ、大丈夫? 蝋燭に火をつけたら崩れてくるなんてこと、ない?」

 振り向いて、蝋燭だらけになったケーキにぎょっとする。

「うーん。保証はできないな。どっちにしても座敷まで運べそうもないから、先にケーキだけでお祝いしちゃおう。どう?」

「‥‥仕方ないわね。」

「よし。桜、達磨さんと縞猫を呼んでおいで。シャンパングラスは‥と。あった。」

 細身のきりっとしたグラスがいつのまにか四つ並んでいる。桜とノワールにはそれぞれ桜模様と黒猫の絵のついた子ども用のグラスがあって、オレンジジュースが入っていた。

 玲は慣れた手つきでシャンパンの栓を抜いた。ポン、と勢いよく音がして、きらきらした泡が吹き出す。

「あ、わたしは未成年だからジュースで。」

「いいじゃん、一杯くらい。ジンジャーエールと変わらないよ。ノワール、まだだめ。乾杯してからだよ。」

 騒いでいるところへ桜が先導して黒達磨と縞猫がやってきた。

 四十本の蝋燭に灯を灯して、部屋を暗くする。

「上の段が姫さまのですよ。下の段がご主人さまの。いいですか、ご一緒に吹き消してくださいね。」

 桜の声に合わせて、ふうっと吹き消す。部屋の中が一瞬、真っ暗になって、それからぱっと電気がついた。

 茉莉花の手にシャンパングラスを押しこんで、玲はカチャ、と軽くグラスを合わせた。

「誕生日おめでとう。さっき言ったから、二度目だけどさ。」

 茉莉花はありがと、と答え、つい頬を手で押さえた。気を取り直して、静かな声で付け加える。

「二十一才の誕生日おめでとう。それから‥今までの二十回分も。」

 玲はちらりと茉莉花を見て苦笑し、シャンパンを一気に飲みほした。

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