表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
懐古堂奇譚2  作者: りり
3/6

十三夜

「玄兎‥。まもなく十三夜じゃ。十五夜と同様に、人間は団子を供えに来るかの‥?」

 側近の黒ウサギは畏まって、は、と平伏した。

「あれは人間ながら、なかなかに感心な奴です。恐らくまた持って参るでしょう。」

 先月の十五夜に一のつく日ではないにも関わらず、堂上玲は月見団子とすすき、萩の花を抱えて神社を訪れた。

「観月の前に迦具耶(かぐや)さまへの表敬として、また珍しい酒を手に入れましたのでお神酒として献上いたしたく参りました。」

 一の日ではないからと門衛に捧げて帰ろうとした彼を、引き留めさせたのは玄兎だ。

 ちょうどその頃、玄兎の主人は退屈しきっていた。

 連日歌留多や花札の相手をさせられるのにも閉口していた玄兎は、ひと晩遊んでゆけと半ば強引に招じ入れたのだ。

 玲は気の利くことに、酒だけでなく赤い漆塗りの見事な杯も献上した。

 ごく少量しか作られない、知る人ぞ知るという(つや)やかな大吟醸酒を、赤い杯になみなみと注ぎ入れ、萩の花を浮かべる。

迦具耶(かぐや)さま。人間の観月の宴では、杯に映った月を愛でながら酒を飲みます。戯れになさってみてはいかがでしょう?」

「それは一興じゃ。人の真似をして遊んでみるのもよいな。」

 迦具耶(かぐや)は杯に月を映して、更に自分をも映して上機嫌にはしゃいだ。

 終いに玄兎に剣舞を披露させて、並み居る白ウサギたちに群舞を舞わせ、散々哄笑したあげくに、御簾の向こうでいきなり立ち上がった。

 まさか人間に姿をさらすつもりでは、と玄兎は一瞬焦ったが、眠くなっただけらしく、今宵はもう退がって良いぞ、とほろ酔いの声が聞こえた。

 その後の何日間かは主人は退屈でたまらぬと口にしなかった。

 祭神としての務めにも真面目に励んでいて、玄兎もほっとしていたのだが、そろそろまた口癖が出そうで嫌な予感がしていたところだ。

 玄兎の懸念をよそに、迦具耶(かぐや)は御簾の向こうでふふっと含み笑いをした。

「十五夜だけで十三夜に来なければ、片見月じゃ。我に対してそのような仕儀を為したならば‥‥それはもう、重い仕置きをせねばならぬの? そうであろ、玄兎?」

「はあ‥誠にもって左様ではございますが‥。迦具耶(かぐや)さま、片見月などと下世話な慣習をどこでお知りになりましたか。」

 眉をひそめ、苦々しげに諌言する。

 片見月とは主に遊郭で、遊女が客を二度呼ぶために始めた慣習だ。十五夜の客に対し、翌月の十三夜にも来なければもの知らずで無粋だと、そういう意味で片見月と呼んだ。

 迦具耶(かぐや)はムッとしたようで、冷たい声で言い返した。

「我は何でも知っておるのじゃ。こ煩い叱言ばかり申すならば、左遷するぞ?」

 滅相もございません、と玄兎は再び平伏した。


 若頭領が呼んでいると伝言を聞いて、切羽は思わず渋い顔をした。

 この夏じゅうずっと、若頭領は機嫌が悪かった。

 白鬼にもがれた翼の治りぐあいが今一つ芳しくなかったせいもあるし、それほどの重傷を負ったというのに最後の最後でいちばん美味しいところを、まんまと人間に持っていかれてしまったせいでもある。

 特に腹を立てているのは、『懐古堂』の姫に関してだ。

 霊力といい度胸といい、人離れした美貌といい、あんな女は滅多に出やしねえ、とよほど悔しかったのか二日に一度は愚痴っている。

 切羽自身は人間の女にはとんと興味がないので、若頭領の執着する理由がよくわからなかった。所詮人間じゃないかと思うのである。

 しかもこっそり始末を命じられた人間の男がやっかいなヤツだった。

 なかなかに強い守護精霊に守られているうえ、月夜見神社の加護が篤い。

 夜鴉一族の仕業とわからぬようにさっさと消してしまえと言われて、たびたび素性のわからない妖しを使って襲わせてはいるのだが―――うまくいかなかった。

 おまけに人のくせに気配が容易につかめない。魂が強いのか、それともないのか、何だかよくわからないのだ。

 ひと思いにかぎ爪で切り裂いてしまえば簡単なのだが―――さすがに切羽も月神の怒りは怖かった。自分だけでなく、一族全部に怒りがふりかかるとなれば尚更だ。

 いい加減うんざりしている。

 今日もその件に関してだろうと思えば、よけいに頭が痛かった。

 けれど若頭領の命令は絶対だ。

 切羽は吐息をのみこんで、見張っている月夜見神社の前から飛び立とうとした。

 その時、狛犬のあたりでひそひそと話す声が聞こえた。

 月夜見神社の門衛が同僚の白ウサギと、何やら賭けをしているらしい。

「あの人間が十三夜に団子を持ってくるかどうか、おまえはどっちに賭けた?」

「わしは持ってくるほうへ賭けたぞ。彼奴(かやつ)はなかなか抜け目がない奴だからの。」

 門衛が答えると相手の白ウサギはケケ、と笑った。

「それじゃあ面白くないのだ。おまえは何とかして邪魔をしろ。月が上るまでに人間が来なかったら、迦具耶(かぐや)さまはお仕置きをなさるそうだ。」

「お仕置き‥? どんなだ。」

「それはわからぬが、見物(みもの)ではないか。玄兎さまなど、死ぬまで迦具耶(かぐや)さまのお側仕えに召し上げるというのはどうかとご提案なさったそうだ。迦具耶(かぐや)さまは何しろあの人間がえらくお気に入りなのだから、そうなれば我々も退屈凌ぎの思いつき遊戯から逃れられるというもの。」

 門衛ウサギはふふん、と冷たく笑った。

「他に仕事もないのだ、ご遊戯のお相手くらい喜んで務めるがいい。わしは門衛として、あの人間が作法を間違えぬ限りは通してやらねばならん。決まりは絶対だからな。」

迦具耶(かぐや)さまが心の底で望んでおられるのにか?」

「お父上の月夜見さまに知れれば、わしの首が飛ぶ。ただ‥人間が作法を間違えれば通すわけにゆかぬがの。」

 そして門衛は白ウサギにもう持ち場へ戻れと告げた。

 白ウサギは肩を竦めつつ、ぴょんぴょん跳ねて奥へ帰っていく。それと同時に門衛の姿は狛犬に戻り、あたりには静寂が広がった。

 ―――面白い話を聞いた。

 切羽はほくそ笑むと、あらためて体勢を取り直して飛び立った。


 年二回実施される美術品レンタル会社の販売フェアの会場で、下準備のために会場を訪れた長谷部遼一は、そこで半分透き通った着物姿の女性がふらふらとさまよい歩いているのを見つけてしまった。

「桜‥。あれは幽霊、それとも物の怪?」

 傍らの守護精霊に小声で訊くと、桜は可愛らしい顔で頬笑んだ。

「どちらでもありません。精霊ですよ、ご主人さま。」

「精霊‥? 桜みたいな?」

「ええ。あの方は‥‥ほら、あちらの鼈甲細工の菊花のお方です。」

 指さすほうを見ると、鼈甲でできた菊の花の置物があった。有名な作家のものではないようだが丁寧な造りで、大きさは拳二つ分くらいだ。

「何か探しておられるようですね‥。訊いてみましょうか?」

 桜の信頼に満ちた無邪気な顔を見たら、関わり合いになりたくないからいい、とは言えなかった。仕方なくうなずく。桜ははりきって、菊花の精のもとへ飛んでいった。

 その間に今回の販売責任者を探して呼びとめた。鼈甲の菊花を譲ってもらうためだ。

「構いませんけど‥。長谷部さん、ずいぶん渋い趣味ですねえ。贈り物ですか?」

「ええ‥。ああいうレトロな品が似合う知人を思い出して‥。値段も手頃ですしね。」

 十二万円という価格はこの会場内ではかなり安いほうだが、茉莉花が知ったら素直に受け取らないだろうから内緒にしておこうと思う。

「あれはなぜ仕入れたのかよくわからない品なんです。綺麗ですけど作家も不明だし大きさも中途半端で、特に目玉になる特徴がないでしょ? 恐らくあっちのランプや柱時計なんかとの抱き合わせで仕入れたんでしょうね。」

 包装してくれるというのを断り、売上票にサインした。胸ポケットから絹のハンカチを出し、丁重にくるむ。

 見ていた販売責任者はにやにやっと笑った。

「なるほどね。贈る相手は女性ですか。それもかなり親密な相手でしょ? うらやましいなあ‥。その相手がですよ、ぽんと十二万を無造作に贈ってもらえるなんて。」

「‥誰にも言わないでくださいよ。まだ全然振り向いてもらえないんですから。」

 長谷部遼一はほんのりと赤くなって、苦笑した。

 それも嘘ではないがいちばんの真実は、目の前に鼈甲細工の本人が立っているのに紙でがさごそと包むわけにもいかなかった、というところだ。

 会場の下見をすませて、外へ出る。

 人気のない公園の隅で、長谷部はそっと桜と菊花の精を振り返った。

「それで‥どうしたの? 泣いているようだけど‥。」

 菊花の精は、人間で言えば十七、八の年頃で大輪の菊を描いた友禅の振袖を着ていた。長い髪は結っておらず、あどけなさと美しさが同居している感じだ。それが先ほどからずっと、涙をぽろぽろと流している。

「眠っている間に、大切な方を見失ってしまったそうなんです。」

「大切な‥方?」

「はい。初夏の頃から夏じゅう、ずっと一緒だったそうなんですけど‥。」

 ずっと一緒だったのなら―――倉庫の中でだろうか? とすればどこかにレンタルされている最中なのかもしれない。

 いや待てよ、と考え直した。

 最近どうも人ではないモノとのつき合いがあたりまえすぎて、ついモノだと決めつけたが、そうではなくて人間の可能性もあるはずだ。倉庫の管理係とか?

「その‥大切な方というのは、人間? それとも‥‥」

「蛍さんだそうです、ご主人さま。朧月のような、それは麗しいお方だとか‥。」

 泣いている菊花の代わりに桜がきっぱりと答えた。

「蛍‥ね。」

 長谷部遼一はそれきり絶句した。


 帰宅してすぐに台所を覗くと、茉莉花はちょうど夕食の支度のためにそこにいた。

 食費を入れてもらっているからと、彼女は律儀に三度三度食事を作ってくれる。時には黒達磨の場合もあるが、要らないとあらかじめこちらから断らない限りは、どんなに遅い時でも必ず用意してある。

 生真面目なせいばかりでもなく、表情からはまったくわからないがどうやら料理をするのが楽しいかららしい。美味しいと褒めると、少しだけ目元が緩む。

「忙しいところ悪いんだけど‥。見てほしいものがあるんだ。」

 長谷部の顔のままで声をかけると、茉莉花はややぎこちなく振り返った。

 彼女は長谷部遼一と堂上玲が同一人だと、頭では理解しているのだが未だに実感がつかめないらしく、長谷部の時にはぐんとよそゆきの態度になる。面白いから殊更に長谷部の口調で話しかけるのだが、いつもやりすぎて怒らせる結果になっていた。

「これ。ぼくからのプレゼント。気に入ってもらえると嬉しいな。」

 胸ポケットからハンカチを取りだし、開いてみせる。

 茉莉花は一瞬だけたじろいだようだが、すぐに何だか悟って真剣な表情になった。今日はからかえるのもここまでかと思うとちょっと物足りない。

 桜に声をかけて、菊花を連れてこさせた。

「菊花さんね‥。ごめんなさい、もう少しでこちらが片づくから、桜、茶の間に案内していて。‥‥堂上さんは眼鏡とコンタクトを外して、その高そうな服をさっさと着替えてきて。今日は焼き魚だから、早くしないと匂いがつくと思う。」

 小さく笑ってわかったと返事をすると、茉莉花はわずかに赤くなった。かなり怒っているようだ。最近は一見無表情な彼女の顔の微妙な動きが読めるようになってきたので、からかうのがいっそう面白い。

 二階に上がって着替えて下りてくると、ちょうど菊花の話を聞き終えたようで、やはり茉莉花も蛍、とつぶやいて考えこんでいた。

 蛍の寿命は通常ひと月足らずだ。仮に夏じゅう長生きしたのだとしても、秋になって死んでしまったのではないかと思うが、菊花にはそうは言えない。

 しかし茉莉花は玲を振り返った。

「あのう‥。彼女がいた場所はわかる?」

「倉庫? 調べれば住所はわかると思うけど。探すの?」

 ええ、とうなずき、彼女はご飯をよそってこちらへ手渡した。

 いただきます、と箸を取る。秋刀魚の塩焼き、銀杏としめじの入ったけんちん汁、油揚と青菜の煮びたし。それにいつものぬか漬けと桜の好物のだし巻き卵だ。

 団塊の世代のおふくろの味を頬張りながら、玲は重ねて訊ねた。

「中に入るのは難しいよ。それなりの口実を設けなきゃいけないから。‥君が入るつもりなんだろ?」

 箸を手にしたまま、茉莉花は首をかしげる。

「どうかしら‥? 外からでも気配は感じられると思うけれど‥。でも骨董品ばかり扱う保管庫だとすると、ざわざわしているかもしれない。」

 そう言って汁椀を手にする。

「気配を感じて、たどれるの? ‥この秋刀魚、美味いね。すごく脂がのってる。」

「旬だから安かったの。明日は香味揚げにする予定。‥気配が残っていたら確認したいだけ。本体はたぶん移動してしまったのだと思うから。でもできれば情報が欲しい。」

「情報‥?」

 思わず顔を上げると、茉莉花は箸を止めずにええ、と答えた。

「本体は夜に時折発光しているはずなの。誰か見た人がいないかと思って‥。」

「つまりさ。蛍が宿っている品があるのか?」

 少しだけ目を瞠って、彼女はこちらを見た。

「あ‥。わかっていると思ってた。ごめんなさい。そうなの。菊花さんが言うには、朧月のように輝くのですって。だから丸いもので、鏡とかじゃないかしら。」

 なるほど。そういうことか、と玲はやっと納得して、同時にほっとした。

「それなら保管庫の噂話を集めてみよう。行方も探しやすいと思うよ。‥高額商品ばかりだから手に入るかどうかは別問題だけどね。」

「見せてもらえればいいの。蛍さんを別の依代へ移せばすむから。できるだけ菊花さんと離れずにいられるようなものにね。」

「了解。明日にでも調べてみる。」

「ありがとう。」

 茉莉花は玲に向かって、仄かに微笑んだ。

 初めてだな。微笑み返して、玲は可笑しくなった。


 菊花は作家が誰かに依頼されて作った作品の一つだったそうだ。

 同じ時期に作られた似たようなモチーフの作品はみな、どこかへ引き取られていった。けれども彼女だけはなぜか作家の手元に残っていた。

 出窓に置かれ、ただ空と空を飛びかう鳥たちだけを見て過ごした毎日。その中で次第に、生きて動いているものへの憧憬の念が菊花の胸を焦がすようになった。

 いつか自分も命を得て動くものになりたい。たまらないほどそう願ったのは、自分がほんとうの花ではなくてまがい物にすぎないと知っていたからかもしれない。

 どれほどの月日が過ぎたのだろう。

 精霊として少しの間ならば抜け出て歩けるようになったのはほんの一年前のことだ。

 作家が亡くなり、たくさんの道具や装飾品などと一緒に骨董店に売られて、そこでもまた売られてあの倉庫へ入ってからだった。倉庫には出て歩けるモノたちが少なからずいたので、知らぬ間に力を分けてもらったのだろう。

 ふらふらと夜になると外へ出て歩いて、動ける喜びを心ゆくまで堪能した。月光を浴びたせいか、姿も意識もはっきりしてきて言葉も話せるようになった。

 そんなある初夏の晩、菊花は一匹のはぐれ蛍に出会った。

 蛍は菊花を美しいと言い、ずっと一緒にいたいと倉庫の中に飛んできた。菊花も蛍の淡い輝きを心から愛した。

 やがて蛍は微力を得て人の男の姿を取るようになり、しばらくは幸福な時間が流れた。

 けれどまもなく短命な蛍は、寿命がきたのか弱ってきてあまり光らなくなってしまった。

「器を得れば寿命は変わる。みなで力を貸すから、さあ、ここへお入り。」

 二人の淡い恋を温かく見守っていた倉庫のモノたちが、知恵を寄せ合い、倉庫の中にあった丸いきれいな物を探し出してきてくれて、蛍にそう告げたそうだ。

 蛍は弱った体を捨て、みなの妖力を借りてその中へと入った。

 蛍が入った瞬間、その物はぼうっと光を放ち、まるで霞がかった朧月のように輝いた。


「それから夏じゅう一緒にいたのね‥。素敵なお話。」

「あの方はわたしの‥すべてなのです。一緒にいられないのならば、せっかく得た命とは言え、惜しいとは思いません。」

 菊花はよく涙が尽きないと思うほど、泣き続けたままだ。今も膝に涙をこぼしている。

 茉莉花は慰めながらも、少しだけ困惑の表情を浮かべている。というか、多分困惑しているのだと思う。

 菊花は生まれてまだ一年ぽっちのせいか、いろいろな面で桜よりも子どもだった。

 何を訊いても曖昧だし、肝心の蛍が入っている品の形状さえ説明できなかった。人の世に存在するモノのくせに菊花の魂は人の世とずれた場所にあるらしく、ぼんやりとしかこちらを見ていないのだと言う。

「ものすごく近視の人が、眼鏡をかけずに見ているような感じ。」

 茉莉花はそう説明した。

 蛍にしても他のモノが力を貸してくれたおかげで存在しているわけで、恐らく本体と絆は結べていないだろうし、魂にあるのは菊花が好きという想いだけしかない。引き離されて時間が経てば、存在が消えてしまうだろうと茉莉花は顔をしかめた。

「堂上さんに頼るしかないみたいね。わたしは保管庫へ行って、形状を説明してくれそうなモノを探してみる。」

 彼女から玲を頼るなどと言う言葉が出るとは驚きだ。

「頼ってくれるなんて嬉しいね。少しは俺を信用してくれる気になったのかな?」

 にやっと笑って言うと、茉莉花は逆に不思議そうに見返した。

「堂上さんのことは‥初めから無条件に信用していると思うけど‥。あなたのくれる情報を疑ったこと、ある?」

 思わず失笑した。

 言われれば確かにそうだが玲の言う意味は少し違う。彼女とはどうもどこかずれている。

「それに菊花さんを見つけたのはあなただから、縁があるのはわたしよりあなたのほう。だからきっと、あなたならスムーズに蛍さんを見つけられると思う。」

 真面目な顔で断言されると、それ以上はふざける気にもなれない。

「‥‥きっと見つけてくるよ。女性の期待には応えなきゃね。」

 お願いします、と菊花の必死な声がした。


 切羽は若頭領に言いつけられた仕事を果たすために、四宮の三姉妹が通う学園前の路上を先ほどよりずっと旋回していた。

 用があるのはいちばん年上の、白鬼との闘いの際に結界から出そうとしたらいちばん激しく抵抗した気の強い娘だ。気は進まないが、仕方がない。

 目当ての娘は都合のいいことに、一人で門を出てきた。

 切羽は翼をばさっと揺らすと、娘の前に優雅に音もなく降り立った。すっと翼をたたむ。

「‥‥四宮の一の姫だな?」

 身構えた瑞穂に問いかける。

 瑞穂は返事の代わりに懐から龍笛を出した。相変わらず気の強い女だ、と苦笑いがこぼれた。

「若の使いで来ただけだ。危害を加えるつもりはない。」

「夜鴉が何の用?」

 ふん、と腕組みをして娘を上から見下ろす。

「四宮本家も傲慢さだけは健在だな。五百年の結界を失って、ほとんど力を持たないくせによ。」

 瑞穂の顔は怒りで真っ赤になったが、挑発にはのらずにもう一度何の用、と訊ねた。

 ―――へえ。少しは制御してるじゃねえか。

 切羽は忍び笑いをもらして、話を続けた。

「次期当主さまだか仮の当主さまだか知らねェが‥。あんたのことだろ? 若から書状を預かっているんだが、その前に少し確かめたいことがある。ちょっと顔を貸しな。」

 瑞穂は正面から切羽を見据えた。

「貸してくださいと頼むなら、聞いてやらないこともないわ。」

「‥‥めんどくせェな。じゃ、頼むよ。それでいいか?」

「そうね。じゃ、そこの喫茶店でなら聞いてあげる。あんたは人の姿を取るのよ。」

「‥若の命令がなきゃ、引き裂いてやるのに。」

「ふん。その時は考えてるほど簡単じゃないって思い知るでしょうよ。」

 切羽は忍び笑いを噛み殺した。

 どうしてなかなか、人間の女も大したものだ。ほんとうは怖いくせに、必死で強がっている。若の気持ちもちょっぴりだけ理解できるな、と思った。

 返事の代わりにすっと人形(ひとがた)を取り、姿を現す。

「バカ‥! いきなり現れたりして。誰かに見られたらどうするのよ?」

 あたりを見回しながら小声で叱声を浴びせる瑞穂を見下ろし、切羽はにやりとした。

「そんな初歩的なミスするかよ。さっさと行こうぜ。」

 瑞穂はじろりと睨みながら、うなずいた。


「あんたさ‥。人間の能力者がこの東京にどれくらいいるか、知ってるかい?」

「数を言ってるの? なら把握しているわ。」

「レベルとしては五段階に分けていると聞いたが、能力者として活動できるレベルは三から五だったよな。それが何人くらいいる?」

「夜鴉一族に答えると思う? バカにしないでほしいわ。」

 ふふっと切羽は微笑した。

「まあ、数字はいいよ。俺たちは俺たちで把握しているからさ。‥で、最近四宮本家の支配下から離脱している奴らが急増している。それはわかってるのかい?」

 瑞穂は渋い顔で答えなかった。

 切羽は続ける。

「本家の結界が崩壊して、守護の力の恩恵を受けられなくなったからじゃないかと若は言ってる。困るのはこっちの領域を荒らす輩がいるってことさ。」

「‥‥荒らす?」

「ああ。何の悪さもしない温和しいモノたちまで、金のために狩り放題だ。こっちにはそいう連中からの苦情が倍増だぜ。」

「‥‥」

「そっちで抑えられねェなら、こっちで処分させてもらうが構わないだろうな? もちろん闇の領域に踏みこんできた奴らだけだぜ。結界を失くそうが抑える力が不十分だろうが、人の世は今までどおり四宮に仕切ってもらいたい、と若からの伝言だ。‥どうだい? できないから放りだしたいってンなら俺から若に伝えてやるけどよ?」

「よけいなお世話よ。若頭領には言われるまでもないと伝えてちょうだい。」

 四宮瑞穂は間髪入れずにきっぱりと答えた。

「闇の領域へ許可なく入るのは掟で禁じています。掟を破った者は破門が必定。不本意ではあるけれど、処分されても文句は言わないわ。‥ただし、夜鴉が誘導したと証明されればその限りではありません。」

「よし‥。覚悟ができているなら、これが若からの正式な書状だ。五百年の均衡を今後も正式に継続し、夜鴉一族が人の世の代表として承認するのは四宮本家の意向だけだと記してある。持って帰って、納得がいったらあんたの血判を貰いたい。」

 切羽は懐から文筒を取りだし、瑞穂に向かって差しだした。

 瑞穂は受け取る前によくよく眺め、眉間に皺を寄せた。

「‥ここについている羽は何のつもり?」

 文筒には一本の漆黒の羽が差し挟んであった。

「血判を押したら、この羽が書状を運んでくれる。あんたが闇の領域に入る必要がないってこったよ。」

 切羽はできる限りさりげなく言ったが、瑞穂は目をきらりと光らせた。

「この筒ごと、書状は持ち帰って。後日あらためて、契約の場を設けましょうと若頭領に伝えてちょうだい。」

「そんなわけにいくかい。子どもの使いじゃねェンだぜ?」

「伝えなさい。‥四宮本家はこのたび『懐古堂』の存在を正式に認めることにしたの。契約は境界の場所『懐古堂』で行うわ。悪いけれど夜鴉一族を頭から信用するほど、お人好しじゃない。」

 瑞穂はすっと立ち上がった。

「ただ‥現在の力不足は認識しています。こちらの弱っているのにつけ入らない若頭領の誇り高い態度には敬意を表します、とも伝えて。『懐古堂』にはこちらから仲介の依頼をするつもり。いいわね?」

 困惑した表情を浮かべて、切羽は聞こえよがしの吐息をついた。

「‥わかった。ただし『懐古堂』での手打ちの場は、三日後の二十日に設けてもらいたい。それ以後だと俺の首が飛ぶ。」

 瑞穂はふふん、と余裕の笑みを浮かべて前向きに検討する、と答えた。

 瑞穂が店を出た後、切羽は忍び笑いを漏らした。

 ―――なかなか手こずったが、まあうまくいった。

 あの羽が見えてしまった時点で、瑞穂は切羽の幻術の中だ。暗示にかかって、二十日の晩に『懐古堂』での会見を設定するだろう。

 今月の二十日は旧暦の九月十三日。十三夜にあたる。

 やれやれ。面倒な役回りだ。切羽は今度はほんとうに、軽い吐息をついた。


 蛍の居場所はすぐにわかった。

 依代となる紅い漆塗りの姫鏡台は、銀座のアンティーク専門呉服店にレンタルされていた。店では秋の販売フェアが開催中で、レンタル期間はフェアの終了する二十日まで、つまり明日までだ。

 ただ厄介なことに光る鏡の目撃談が広まりつつあって、鏡台の前はいつも人だかりになっていた。ひそかに蛍を移すのはちょっと困難な状況だ。

 下見にいった茉莉花は帰ってきて吐息をつき、人の多さに蛍が怯えすぎているせいでこちらの呼びかける声が届かないのだと説明した。

「もともと妖力があるわけではないし、菊花と離されて命も尽きかけているの‥。」

 更に蛍が弱っている以外に、どうしても明日中に回収したい理由があるのだと言う。

 鏡が光る原因を究明するために、明日の夜返却されるのを待ってレンタル会社が能力者に調査を依頼したのだ。うっかり霊力を当てられたら、蛍の幽かな命はふきとんでしまうだろうと茉莉花は顔を曇らせる。

「今夜、忍びこんでみようかしら。」

 玲はびっくりしてまじまじと見返した。

「‥ちょっと素朴な疑問だけど、夜間に許可なく余所の家に入った経験はあるの?」

 いいえ、と彼女はあっさりと首を振る。

「菊花を連れていけば、道は開けると思うのだけど‥。でも今の蛍に感じ取る力はないかもしれない。‥‥堂上さんは経験ある? その、堂上さんじゃない名前とかで。」

 真面目な表情で問い返されて、さすがにたじろいだ。

「どの名前でも前科はないけど。夜間に所有者の許可なく建物に忍び入った経験があるかと言われれば‥」

「言われれば?」

「あるような、ないような‥。逃亡した経験なら数回あるけどね。」

 冗談めかしてふざけたつもりなのに、なぜか茉莉花はなるほど、と深くうなずいた。

「では忍びこむのは現実的ではないわね。」

 経験があると答えていたら―――どうなったのだろう?

「蛍が菊花の声に応えてくれればいいのだけど‥。夜鴉一族の力を借りるのはしたくないし。対価に二人の身柄をよこせと言われたら、元も子もなくなってしまう。」

 話を原点に戻そうと、玲は口をはさんだ。

「あのさ‥。要するに蛍の周囲を人払いできればいいんだろう。なぜ得意の鈴を使わないんだ?」

「使えないの。蛍はもともと妖力を持たないから‥。わたしの鈴で元の虫に戻ってしまう可能性があるわ。どちらにしても今の蛍では波動に耐えられないかも。」

「‥鈴を使えないなら、どうやって移すつもりだったの?」

 すると茉莉花は床の間の文箱から真珠の指輪を取りだした。大きな真珠が一粒、品よくゴールドの台に乗っているだけのシンプルな指輪だ。

「これは祖母の形見。譲り受けたのは十三詣りの時で、かなり霊力を溜めこんでいるものだから、蛍に近づければすんなりと入りこめるはず。‥それに真珠なら朧月に見立てることができる。蛍と菊では本来出会うはずもない季節の存在(モノ)だけれど、月ならば菊と縁が深くなるからずっと一緒にいられるわ。」

 茉莉花はほんのりと優しい目をして、真珠を見つめた。

 そんな大切な物を、と言いかけてやめた。

 彼女のことだ、よくよく考えたのに決まっている。玲には見えないが、たぶん縁が導く必然とやらがあってのことだろう。

「だから何とかして蛍が呼びかけに応じてくれれば、片づく話なのだけれど‥。」

 微かに眉根を曇らせて溜息をつく。

 玲はにっこりと微笑んだ。

「わかった。明日、一緒にいくよ。俺が店にいる人の目を惹きつけているうちに、蛍を回収すればいい。時間はどれくらい必要?」

「数分あれば。でも‥明日は仕事があるのでしょう?」

「場所は近いんだ。休憩時間に抜け出すから、待ち合わせよう。」

 ありがとう、と言われて少し不思議な気分になった。

 まるで茉莉花のお人好しが伝染したみたいだ。そもそも菊花を買い取ってきたあたりからおかしい。何かに背中を押されているように、鼈甲細工と蛍の道ならぬ恋を成就させてやりたいと思うなんて。いったい俺は―――どうなっているのだろう?


 翌日二十日は小雨模様だった。

 昼下がりに待ち合わせしたものの、玲は急に忙しくなって抜けられそうにないとメールをよこした。

 茉莉花は一人で試みようと店に出向いたが、どうもタイミングが合わない。

 菊花は姫鏡台にはりついてしくしく泣いているが、どうしても蛍は返事をしない。気配を探ってまだ命が残っているのを確かめつつ、茉莉花は首をひねった。

 おかしい。何かがおかしい。

 どこかで邪魔をする力が働いていると感じた。それも蛍や菊花にではなく、『懐古堂』の邪魔をする力のようだ。

 そこへ瑞穂からメールが入った。

 今夜、夜鴉一族と会うのに仲介を頼みたいと言う。一昨日からメールや電話をしているのだが通じないともあった。慌てて返信する。

 やはり何かが邪魔をしている、と茉莉花は確信した。

 一昨日瑞穂と連絡が取れていれば、こんなに時間的に追いつめられた状況にはならなかったはずだ。

 まさか―――蛍を調査するという能力者だろうか。しかし茉莉花や瑞穂の霊力を狂わせ、かつ悟られないように微妙なコントロールを保つほどの能力者など存在するとは思えない。

 そこではたと気づいた。

 夜鴉一族ならば可能だ。幻術か?

 茉莉花は菊花に姫鏡台を守るよう言いつけて、離れた場所から店全体に低い音で鈴の音を張りめぐらせた。ゆっくりと波紋が広がっていき、淡い霞のような網を浮かびあがらせていく。店の四隅に夜鴉の漆黒の羽が見えた。

 幻術の仕掛けだ。店にいる人間も、恐らく蛍も茉莉花の存在を認識できないのに邪魔をするように動いている。

 大した術ではない。鈴を高らかに鳴らせば一瞬で解術できるだろう。しかし蛍が消えてしまうかもしれない。しかも影響は瑞穂にも出ているわけだから、この場所だけとは限らない。

 茉莉花はしばらく考えこんだ。

 玲が来られないのも同様の力が邪魔しているのだろう。夜鴉一族の企みならば、夏の薔薇事件と同じくほんとうのターゲットは玲と考えたほうが良さそうだ。まったく若頭領もいつまでも根に持つ人だ、と嘆息する。

 とにかく玲にメールで事情を説明した。邪魔が入って彼の目に触れるかどうかわからないけれど、それでも送っておけば何かで役に立つかもしれない。

 菊花をその場に残して『懐古堂』に戻った茉莉花は、ノワールを呼んだ。

「ノワール。いいわね? 桜に渡すのよ。鴉に襲われかけたら首の鈴を鳴らしなさい。」

 菊花の本体と真珠の指輪を布に包んで巾着袋に入れ、ノワールの背中に背負わせた。

「ご主人しゃまではなくて、桜しゃまに渡しゅんでしゅね? わかりまちた。」

 桜の破邪の力はとても強い。夜鴉の闇に囚われた蛍に菊花の声を届けられるとしたら、桜に守られた玲しかいないだろう。

 そもそも今回の仕事は、まるで初めから彼を目がけて転がりこんできた縁のようだった。だとすればあの二人は恐らく行くべき場所が決まっていて、その場所は玲の行動範囲の内側にあるのに違いない。

 不安を残しながらもノワールを見送って、とりあえず茉莉花は四宮本家と夜鴉一族の仲介を取る準備を始めた。


 玲が茉莉花からの二通のメールをやっと確認した時には、既に午後七時を過ぎていた。

 メールの一通目は夜鴉の邪魔が入っている状況、二通目はノワールに伝言と荷物を託したことが簡潔に記されていて、午後三時頃に相次いで送信されている。

 とにかく菊花と蛍のいるはずの店に、小雨の中を急いだ。

 営業時間は八時までのはず。まだ時間はある。

 通常ならば閉店間際の雨の夜に呉服店が混んでいるはずもないのだが、茉莉花の説明どおりの状況ならば逆にすごく混んで、残り四十分で菊花と蛍に辿りつけない可能性もあるだろう。あるいは別の邪魔が入るのかも。

「桜。姫さまの伝言は何だって?」

 歩きながら肩の桜に訊ねる。

「ご主人さまにしっかりついて、道を作りなさいとのことです。」

「道?」

「はい。今日はやけにもやもやしたモノが多いと思いましたらば、たまたまではなくご主人さまの邪魔をしに出てまいったモノだそうです。そういう連中を祓って邪魔をさせないように、とのご指示でした。ですけれど‥。」

 桜は珍しく小さな吐息をこぼした。

「人の中に入りこんでいるモノは祓うのが難しいです。姫さまの鈴のように一気に祓えればいいのですが、桜にはご主人さまに直接触れてくる邪気しか祓えません。役に立たなくて申しわけありません‥ご主人さま。」

 しょぼんとうなだれた桜を肩から抱きおろして、レインコートの内側に入れた。

「桜がいてくれるから俺はこうして無事なんだよね? 濡れないようにここにおいで。」

「ご主人さま‥。」

 懐にすっぽりと入って、桜はべそをかいたまま微笑んだ。

 微笑み返して、玲は足を速めた。

 まったく若さまときたら華麗な顔のわりにやることが姑息だ。だがこんなつまらない邪魔をして何の意味があるのだろう? 単に嫌がらせか?

 店に着いて内部を覗きこむと、すぐに菊花のすすり泣く声が聞こえてきた。

 菊花の取り縋っている姫鏡台の周りにはまだたくさんの人がいる。ほとんどが女性だ。十人ほどいるだろうか。

 蛍はもう光る力も残っていないようで、光るのを待っている人たちはもう二時間以上もここにいるなどと囁き合っている。目の前にいる菊花の姿も泣き声も認識できないのに、光る鏡は見るつもりなのだから滑稽な話だ。

 菊花は振袖の袂を顔に押し当てて、咽び泣いている。その横には豪華な裲襠(うちかけ)が展示されていた。

 玲は店員に近づくと、あの裲襠(うちかけ)を見たいのだけど、と声をかけた。

「あれですか‥。少々お待ちください。」

 店員は奥へ行って店長らしき男に相談している。集まっている人をかきわけるのが面倒なのか、嫌そうだ。若い男がアンティークの裲襠(うちかけ)を見たいなどとどうせ冷やかしだと思っているのだろう。

 玲は構わず女性たちをやんわりとかきわけて、前に出た。

 菊花がこちらを振り向く。涙でぐっしょり濡れた顔に軽くうなずいた。縋りつくような目をして菊花は胸元で両手を合わせ、頭を下げた。

 玲はいちばん手前にいた母娘連れの、母親のほうへ微笑んで話しかけた。

「すみません。ちょっと相談にのっていただけませんか? 妹へのプレゼントなんですけど、あの裲襠(うちかけ)って振袖に直せたりするんでしょうか?」

 母親はええ、とうなずいた。

「直せるんじゃないかしら‥。でも若い人には古風すぎるのじゃない? ねえ?」

 娘のほうを振り向く。娘は三十くらいのようだが、そうね、と相づちを打った。

「成人式の振袖には少し、個性的すぎるかも。」

 玲はにっこりと極上の笑みを向けた。

「まだ成人じゃないんです。日本舞踊をしているので振袖はいくつかあるのですけど、ああいう古風で(あで)やかなのが一つあってもいいかと思って‥。」

「まあ‥。お幸せね、優しいお兄さんで。」

 ほんと、などと他の女性からも声が上がる。

 ややうつむき加減にはにかんだ表情をつくり、眼鏡をすっと直す。

「年が離れているので可愛くて‥。ほんとうは恥ずかしいんですけど、通りがかったらあんまり綺麗な着物ばかりあるので、つい‥。」

 そして娘のほうに縋るような視線を送った。

「不躾で申し訳ありませんけど‥。妹もあなたのように髪を長くしているんです。よかったらはおってみていただけませんか‥?」

 娘はぽっと頬を染めて、わたしで良ければ、とうなずいた。

 そこへ店長が走り寄ってくる。振袖などいくつも持っているという玲の声が聞こえたらしい。いいですか、と丁寧に訊ねれば、快く承諾して店員と二人で衣紋掛けから外し始めた。玲は大袈裟なくらいほっとした顔で微笑し、すっかりこちらへ注目している他の女性たちに向かって軽く会釈した。

「妹さんはおいくつ?」

 目の合った人に訊ねられて、十八ですと答える。

「あなたの妹さんなら、さぞお綺麗でしょうね。」

 いえ、そんな、と頬を赤らめながら、微妙に体の向きを変えて姫鏡台を背に隠す。

 そして菊花の傍らに移動していた桜に合図した。

 裲襠(うちかけ)をはおった女性のほうを派手な仕種で振り向き、とっておきの笑顔をふりまく。

「ああ‥! 似合いますね、とっても。花嫁さんみたいだ。‥ね、皆さんもそう思うでしょう?」

 感嘆の声につられて一斉に視線が女性のほうへ向いた。

「他にもありますか‥? ええ、舞台衣装みたいな華やかなものがいいんです。」

 店員が打って変わった愛想の良さで、奥から何点か出してきた。

 うーん、と悩んで、玲は手近にいた別の女性たちにもはおってみてくれないかと頼んだ。並べて比べたいからと言うと、みなわりといそいそとはおってくれる。

 散々見比べて、そこにいた全員の意見を聞いたうえで、玲はいちばん状態の良い濃紅色の大振袖と黒地に金襴緞子の丸帯を選んだ。

 それから店にあった友禅の風呂敷を買い上げ、協力してくれた人たちにお礼にと配る。彼女たちは光る鏡のことなどすっかり忘れたように、口々に妹さんによろしくと言って帰っていった。

 支払いをすませて店内をふと見渡せば、姫鏡台の前から菊花の姿は消えていた。

「桜‥。うまくいった?」

 懐にいつのまにか戻ってきていた桜がはい、と微笑む。

「菊花さんも本体に戻っています。この袋の中で蛍さんとご一緒に‥。」

 覗きこむと、指輪の真珠がぼうっと光っている。

「よし。帰ろう。」

 閉店時間を大幅に過ぎてしまったというのに丁重なお辞儀で見送られて、玲は外に出た。

 雨はまだ降り続けている。腕時計を見ればまもなく九時だ。

 無事に回収できて安心したら、どっと空腹を感じた。今日は何しろ忙しくて昼食も食べていない。

 しかし今夜は四宮本家と夜鴉一族の仕切り直しの場を提供する予定が入った、と茉莉花のメールにあった。終わるまでは帰らないほうがいいだろう。

 どこかで食事をしようと歩き出した時、メールの着信音が鳴った。

 茉莉花からだ。短く、『対価を貰う 十三夜』とだけある。まるで暗号だな、と苦笑しつつ眺めた。

 対価を貰うのは恐らく菊花と蛍からだろうが、玲には何を貰えばいいかなど見当もつかない。十三夜とは何のことだろう?

 早足で雨の中を歩きながら考えているうちに、だんだん不安になってきた。

 短い文は急いで送信したからで、たぶん今夜の客の目を盗んで送ったのだろう。とすれば若頭領の態度か言葉から、急に何かを思いついたのに違いない。それも帰宅してからでは間に合わない何かだ。いったい何だ?

「桜‥。十三夜って何だかわかる?」

 桜は顔を出して微笑んだ。

「はい。十五夜に対して(のち)の月と呼ばれるお月見のことです。十五夜は八月十五日で、十三夜は九月十三日に行われます。‥‥そう言えば今朝達磨のおじさんが、今日は十三夜なのにあいにくの雨だと仰ってました。ほんに止みそうもありませぬねえ‥。」

 桜はぴょんと肩に跳びのって、暗碧の空を見上げた。そしてはたと両手を口に当てて、たいへんです、と叫んだ。

「たいへんって‥何?」

「ご主人さま、十五夜に月夜見神社の宴にまいりましたでしょう? あれはとても楽しゅうございましたけれど‥。もしや今夜も迦具耶(かぐや)さまは待ってお出でかもしれません。」

「そうかな‥? 十三夜ってあまり聞かないけど。」

「桜が生まれた時代では、十五夜の宴に出たのに後の月にゆかないのは片月見と称して、たいへん不調法な行為と言われたのです。‥あの迦具耶(かぐや)さまのことですから、どんな難癖をおつけになるかわかったものではございません。今からでもぜひ、お訪ね申し上げましょう。」

「そう言われても‥空手じゃ行けないし‥。」

 せめてお神酒と団子くらいは用意しないとよけいに怒らせそうだ。だがこんな時間にどこで手に入るだろう?

 そうだ、と玲は不意にひらめいた。

「‥行こう、桜。先に腹ごしらえをしよう。」

「ご主人さま‥?」

 桜は不安げに玲を見上げた。

「あと一時間くらい遅くなっても同じことだよ。今更急いでも仕方がない。大丈夫、今夜はちょうど雨だしね。迦具耶(かぐや)さまには素直に謝って‥何とか許していただこう。」

 まだ心配そうな顔の桜を促すと、玲はさっさと歩き出した。


 白々と夜が明けかけた頃、月夜見神社の鳥居から出てきた玲は腕時計を確認した。

「五時半か‥。寝る時間がほとんどないなあ。急いで帰ろう。」

 桜もさすがに疲れたらしく、はい、と眠そうな声で答えた。

 朝までつき合えば今日の一の日の約束は果たしたと認めてやる、と言われたので今までかかってしまったが、実は今日も十時から四時まで仕事が入っている。もうくたくただ。

 大通りのほうへ足を向けた時、ビルの上からこちらをじっと見ている黒ずくめの男を見つけた。あれは確か、夜鴉の―――切羽と言ったか。

「やあ。おはよう。その節は守ってもらってどうもありがとう。」

 白鬼との闘いでのことを言ったつもりだったが、切羽は皮肉と受け取ったらしく、ひどく嫌な顔をした。そのまま飛んでいこうとして、思い直したらしくふわりと目の前に降り立った。

「正直なところ、あんたが無事に出てくるとは思わなかった。どう言いくるめたのか知らないが‥大したもんだな。」

 言いくるめるなんてとんでもない、と玲は思った。神さまには嘘やごまかしは通用しない。何より筋を立てるのが大事だとつくづく学んだ。

 昨夜はあれから長谷部遼一の懇意にしている小料理屋に頼みこんで、団子を含めた月見弁当を一式揃えてもらった。とっておきのお酒もだ。そこの主人は、今度のお相手はずいぶんと名家の奥方らしいね、と冷やかしながらも上客だからと特別に誂えてくれた。

 遅くなった言い訳には雨夜を利用して、月を探していたのだと答えた。

「月じゃと?」

「はい。彼は朧月。こちらは菊花。迦具耶(かぐや)さまに十三夜の舞を奉納するために連れてまいりました。」

 舞の奉納は対価として二人が承諾してくれた分だ。

 だが迦具耶(かぐや)は月が上る時刻に間に合わなかったからと玲に一年の神域での奉仕を要求してきた。すると困惑する玲を見かねて、蛍と菊花が自分たちから身代わりを申し出た。

 対価にしては高すぎると言いかけた玲の言葉を押しとどめ、朧月となった蛍は微笑んだ。

「わたしは人の世ではなかなか形が保てません。それにいつまた、菊花と引き離されてしまうか‥。迦具耶(かぐや)さまに二人一緒にお仕えできたならば、これほど幸せなことはありません。どうかお役目をお譲りください。」

 彼と手を取り合った菊花もうなずく。

 迦具耶(かぐや)はくすくす笑って、今回は美しい舞に免じ、二人の願いを認めて玲の代わりに眷属に召し上げることにしようと言った。つまり―――玲を手に入れるのは次の機会に延ばしてやる、と言う意味だ。

 思い出せば冷や汗が出る。

 心中で深い吐息をつき、玲は切羽の冷たい瞳を見上げた。

 夜鴉は迦具耶(かぐや)の意図を察してあわよくばと邪魔をしていたわけだ、と遅まきながら思い当たる。

「夏からこっち、どうもトラブル続きなんだけど‥。若さまの命令?」

 切羽は答えなかったが、否定もしない。

 玲は溜息をついた。

「いい加減放っておいてもらいたいな。夜鴉一族の若さまが、ちっぽけな人間なんか目の敵にするまでもないだろ?」

 切羽はふふっと微笑った。

「謙遜するなよ。昨夜までは俺もそう思ってた。だけど今は、若の懸念もわかるような気がする。」

「懸念て‥おかしいよ。俺は若さまに逆らうつもりなんかまったくないんだ。勝てない喧嘩はしない主義だからね。」

 肩を竦めた玲に、切羽は冷たい微笑で応じた。

「どうだろうな。白鬼さえもまんまと瞞したヤツの言葉なんか、信用できるかよ? ‥ま、次に会う時にはもう少し本音を聞かせてくれ。口が利ける状態だったら、て意味だがね。」

「‥買い被りすぎだよ。」

 切羽はばさばさっという羽音と含み笑いを残し、すうっと消えた。

 思わず苦笑して、玲は再び歩き出す。

 角を曲がってタクシーをつかまえ、住所を告げた。

 ともかく今は眠い。二時間でも一時間でも仕事の前に少し眠ろう。考えるのはそれからだ、とあくびを噛み殺した。


 寝ずに待っていた茉莉花は、裏玄関の戸が開いた音と入ってきた気配にほっとした。声をかけずに布団にもぐる。

 予想どおり菊花と蛍の気配はなかった。

 つまり茉莉花の言いたかった意味がちゃんと通じたということだ。恐らく二人は彼の代わりに迦具耶(かぐや)に仕える身となって神域に留まったのだろう。玲のためではあるが、二人のためにもそのほうがいい。

 今日も玲は仕事のはずだった。疲労困憊した気配が眠りに入っていくのを感じる。

 茉莉花はご苦労さま、とつぶやいて、耳に感じない程度に鈴の音を低く鳴らした。

 ―――せめて疲れが取れるように。

 ゆるやかな音の波紋が二階の玲と桜を深く包みこんだ。


 濃紅色の、時代がかった華やかな振袖が届いたのはそれから三日後だ。

 夕食の買い出しから戻った茉莉花は、床の間の前に広げられた着物と帯を目にして唖然とした。

「達磨のおじさん‥。これは何? 壱ノ蔵の虫干し?」

「違いやすよ、嬢ちゃん。旦那が嬢ちゃんにとお買い求めなすったものでやんす。」

「は‥?」

 黒達磨はにこにこして、綺麗でやすな、と眺めた。

「よかったじゃございやせんか? 前のは袂のしみがうっすら残ってしまいやしたし。」

「‥‥買ってもらう理由がないわ。こんな高価なもの、いったいどうしたのかしら?」

 ちょうどそこへ、今日から休暇に入った玲がお風呂から出て来た。

 冷蔵庫から缶ビールを出して開けたところをつかまえ、どうしたのかと問い質す。

「あのさ。そこは普通、感激するとこでしょ。そんな怖い顔してどうしたと聞かれてもねえ‥。盗んできたんじゃないよ?」

 彼はビールをぐいとひと口飲んでから、君のだよ、と続けた。

「蛍がいた店で買ったんだ。気に入らない?」

「いえ‥素敵だけど。貰う理由がないから。そのう‥失礼な言い方で申しわけないけど、家賃半年分くらいでお支払いできるかしら?」

「ほんと、失礼だ。じゃ、君の真珠と引き換えってことで。それなら気がすむ?」

「真珠‥?」

「蛍の依代に提供してくれただろう? あれごと迦具耶(かぐや)さまに献上しちゃったからさ。」

 飲みかけのビールを手に、玲は少々呆れ顔で茉莉花を見た。

「抱きついてキスしてくれるとまでは期待してなかったけど、もう少し嬉しそうな顔してくれるかと思ったのにな。」

 茉莉花は思わず頬を赤くした。

「嬉しい気持ちもあるんだけど‥。ただでさえあなたにはだいぶ借りがあるから‥‥。」

「そう? そんなこともないけどね。‥来月には着物に合わせて新調した襦袢が届くんだ。君のは両袖がなくなっちゃっただろ。こっちは素直に喜んでくれるよね?」

 ますます戸惑いつつ、ふとなぜ袖がないと知っているのだろうと思った。そのまま疑問を口に出す。

 玲は一瞬だけ瞬きをして、横を向いてビールを飲みほした。缶をぎゅっと潰してゴミ箱に放りこむ。そしてこちらを向いてにやっと微笑った。

「ほら、あの時ここまで運んできたのは俺だし‥。見りゃわかるよ。」

 何となく怪しげだ。

「でも‥普通、男の人って襦袢なんて知らないわよね?」

「ああ‥だって、長谷部は呉服の販売もするんだから。知ってるよ。だから‥。」

「まさか、袖をめくったの‥?」

 茉莉花の追求の視線を軽く流して、玲は向き直った。

「非常事態だったんだからさ。残ってた片袖を剥ぎ取って若さまに渡したのは俺だけど、仕方ないじゃん?」

「‥めくったのね。」

「だから仕方なかったんだって。腕より奥は見てない。」

「腕より奥って‥?」

「‥‥胸とか?」

 茉莉花は真っ赤になった。

「見たの!」

「見てないってば。だいたいあの時は、そんな余裕なかったよ。」

 目覚めた時の茉莉花は両袖のちぎれた襦袢姿だった。夏だから襦袢の下には薄いキャミソールだけで、大きく裂けた肩口からは普段隠している素肌が露わになっていた。

 思い出せば頬がかあっと熱くなる。

「お‥帯を解いたのは‥違うわね‥?」

 曖昧な微笑が浮かんで、彼は視線を外した。

 茉莉花は頬が引きつるのを感じた。言葉が出ない。

「ちょっと、ねえ、姫さま? ほんとに見てないよ。そんなに固まるほどの話じゃないからね?」

「ええ‥。少し‥驚いただけ。別によく考えたら‥どうということもないし。助けてもらったんですものね。」

 冷静さを保とうとすればするほど、声がとがっていく。気まずい雰囲気が漂う。

 そこへ桜がふわふわと入ってきた。

「姫さまぁ、今夜はだし巻き卵を作ってくださるというのはほんとですかぁ‥? あ、ご主人さまもこちらにおいででしたか。」

 桜はにこにこっと嬉しそうに微笑んで、茉莉花の肩にふわりと着地した。

「近頃はお二人ともほんに仲がおよろしくて、桜はとても嬉しいです。ご一緒にお夕飯の支度ですか?」

「いえね、桜。そういうわけでは‥‥」

「いいじゃない。手伝うよ。どうせ暇だしね。」

 そう言うと玲はシャツの袖をまくった。

 もう一度口を開きかけて桜の笑顔が目に入り、茉莉花は結局口を噤んだ。

 そしてまだ礼を言っていなかったと気がつき、反省する。小さな声でありがとう、とつぶやいた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ