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懐古堂奇譚2  作者: りり
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二百十日

 四宮(よつみや)瑞穂(みずほ)は従姉の咲乃から貰った名刺を手に、静かな住宅街をさっきからもう三十分もうろうろとしていた。

 確かにこのあたりなのだがどうしても見つけられない。無人の小さなお社に目を遣り、溜息をついた。

 咲乃の話では社の隣に軒行灯があって、細い路地を覗きこむと突きあたりに入口が見えるのだという。だが軒行灯などどこにもない。路地も見えない。

「普通の人は、お社に寝そべっている縞模様の猫ちゃんに案内してもらうのですって。」

 咲乃はもう出入りが許されているので、猫の案内は不要なのだそうだ。

 用がある人にはちゃんと縞猫が見えるというのだが、用があって来ているはずの瑞穂の前に縞猫は現れなかった。なぜなのだろう?

 同様に咲乃に教わったメールアドレスも携帯電話番号も通じない。

「どうしたらいいのかしら‥? 諦めて帰ろうかな。」

 思わず独り言をつぶやいて、瑞穂はうなだれた。

 咲乃はついていってあげてもいいと言いかけたが、隣の黒鬼がだめだと言った。

「一度ぶつからなきゃおさまらない流れがある。おまえがついていけば、ただ衝突にまきこまれるだけだ。危険だし、意味も必然もない。」

 瑞穂にはさっぱり理解できなかったが、咲乃だってちんぷんかんぷんな顔だった。

 冷たい黒水晶みたいな瞳に気圧(けお)されながら、どういう意味なのかと恐る恐る訊ねてみた。

「わかってるはずだ。お互いに背負っている名前が反発している。出会えば必ず力と力が衝突するだろうな。」

 つまり四宮本家と『懐古堂』の間に縁がないということなのだ。無理に繋げようとすれば霊力の衝突が起きると黒鬼は言っている。ついでに咲乃の力は緩衝材にはならないとも。

 暮れなずむ西の空が茜色に染まっていく。

 それでも瑞穂は―――四宮茉莉花に会わなければならない用があるのだ。

 四宮本家の新しい当主代理として、会って教えを請わねばならないことがある。どれほど屈辱的であろうと構わない。いくら考えても他に方法はなかった。


 白鬼との闘いで消滅した母屋―――四宮家本屋敷の跡地で、瑞穂は一本の笛を拾った。

 塵一つないまっさらな地面に、その細い笛は古びた木屑のように黒ずんで転がっていた。

 瑞穂にはそれが家宝の龍笛で、祖母四宮泉が使っていた術具だとひと目でわかった。

 拾い上げると木屑はきらきらと輝き始め、手の中でみる間に華奢な笛に変貌した。祖母のものより更に一回り小さくて、まるで木で誂えたピッコロみたいだ。

 家令の磯貝は、龍笛が次の主人として瑞穂を選んだのだろうと言った。だから形状が変化したのだと。

 その時からずっと瑞穂は笛を鳴らそうと試み続けている。しかし音はまだ一度も出ていなかった。

 四宮の女は二十才で一人前と認められる。

 十七の瑞穂は来年の正月から、成人の儀のための修業を積むことになっていた。

 一般的な霊能力者としての知識や術はひととおり身につけているものの、四宮本家だけに伝わる家宝を使った術はこれから祖母に仕込まれる予定だった。

 しかし祖母は他界し、母屋とともに先祖伝来の数々の貴重な文書、記録も消失した。母の初穂も行方知れずなので―――恐らく母屋とともに消滅したのだろうけれど、とにかく結果として瑞穂に霊力を音に変換する方法を伝授してくれる人間は、本家には一人も残っていなかった。

 思い出したのが、白鬼との闘いの最中に三つの鈴を駆使して闘っていた茉莉花の姿だ。

 あの時茉莉花は、祖母が龍笛を扱うように手も触れずに鈴を様々な音色で鳴らし、波紋を描いて自在に霊力を操っていた。

 絶縁した分家の裔になぜ四宮本家直伝の闘い方が伝わっているのか。しかもあの鈴は誰が作ったものなのか。なぜ家宝の三器以外にあんなものが存在するのか。

 疑問は多々あるけれど、とにかく四宮を立て直すためには瑞穂が茉莉花のように龍笛を使いこなせねば始まらなかった。それも早急に、だ。夜鴉一族との力の差を埋めて、均衡を再び取り戻さなければならない。

 瑞穂は意地も誇りも嫉妬も、掟の一部さえも、一度棚に上げることにした。

 力がなければすべてが無意味だからだ。

 咲乃にも頭を下げて本家として詫びを入れた。黒鬼の花嫁となった咲乃を戻すわけにはさすがにいかないが、一度だけでいいから『懐古堂』との仲立ちを取ってもらえないかと頼んだのだ。

 しかし―――黒鬼の言葉どおりならば。

 静寂だけが漂う無人の社を眺めて、瑞穂は再び溜息をついた。

 どうやら会うこともかなわないらしい。当主代理の瑞穂ではなく、花穂か早穂であればまだ可能性があるだろうか。

 どちらにしても出直すしかないか、と瑞穂は足を来た方向へと向けた。


 大通りへ出る角を曲がろうとして、瑞穂は反対側から来た人にあやうくぶつかりそうになった。

 すみません、と通り過ぎようとしてふと足を止め、振り返る。こちらこそ、と答えた声に聞き覚えがあった。

「あの‥! 失礼ですけど。」

 すらりと背の高い細身の背中を、慌てて呼びとめる。振り返った顔にも見覚えがあった。咲乃の大学で茉莉花と一緒にいた男だ。

 彼は怪訝な顔で瑞穂を見た。だがすぐに思い当たったようで、微笑んだ。

「君は確か‥。咲乃さんの従妹だよね? 瑞穂ちゃんだっけ。」

 瑞穂―――ちゃん?

 生まれてこのかた、ちゃん付けで呼ばれたことなどない。

 失礼な、と瑞穂はムッとした。昂然と顔を上げて、あなたにちゃん付けされる憶えはないと言い返そうとして口を開いた。そのはずなのに―――

「はい‥。四宮瑞穂です。」

 なぜか頬を赤く染め、うつむき加減に答えている自分がいた。いったいどういうことだろう?

 彼は軽い調子で、可愛いなあ、と微笑む。

「こんな場所でどうしたの? ‥あ、うちの姫さまに用事だったの?」

 うちの―――姫さま? どういう関係だろう。かなり親しいのだろうか。

「はい。『懐古堂』さんを訪ねてきたのですけど‥。見つからなくて‥。」

「見つからないの‥? へんだな。」

 彼は少し首をかしげて瑞穂を見ていたが、瑞穂が説明していいものか迷っているうちに答を見つけたようだった。

「そうか‥。四代前に縁切りしてるから見えないんだ。」

 うなずきながら独り言を言って、腕組みをした。

「だけど‥。わざわざ来たんだしね。‥ね、用事ってさ。店にあるの、それとも姫さま個人に?」

「ええと‥。四宮茉莉花さんに会いたいんです。お願いがあって‥。」

 そう、と答えて彼はジャケットの内ポケットから携帯電話を取りだした。ワンタッチでどこかにかける。相手はすぐに出たようだった。

「‥‥うん、そう。だからさ、すぐ出てきてよ。そ、通りに面した角にいるから。待ってるからね。」

 通話ボタンを切って瑞穂を振り返り、すぐ来るって、と彼は頬笑んだ。

 何とか顔を上げたものの、瑞穂はもごもごと礼を言った。

「どういたしまして。でもまだ会えるかどうかわからないよ。こういうのって難しいんだってね。とりあえずじっと動かずにいれば確率は高くなる。」

 夕焼けが頬に映えて、明るい茶色の瞳が金色がかって見える。さらさらの髪が風にそよいで―――見ているとなぜか胸が高鳴ってくる。

 瑞穂は溜息をのみこんで、再びうつむいた。

「ね。高校生なんだよね。何年生?」

「に‥二年です。」

「じゃ、十六、それとも十七?」

「‥‥十七です。この九月になったばかりで‥。」

 この気色悪い甘え声は誰の声なのか。花穂が彼氏にプレゼントをねだっている声とそっくりだ。

「睫毛が長いね。きりっとした感じが、どちらかというと咲乃さんよりうちの姫さまに似てるかな。四宮の女性って美人揃いだよね。瑞穂ちゃんも男の子にもてるでしょ?」

「わ、わたしは全然‥。妹たちは結構もてるんですけど‥。」

「へえ、妹さんがいるの?」

「はい‥。二人います。」

 ふうん、と彼はじっと瑞穂を見る。

「君の回りの男の子は、勇気がないね。それとも君のほうが相手にしないのか? 同世代の男なんか幼くて物足りないかな。」

「わたしは‥そんな‥。でも確かにどちらかといえば‥年上のほうが‥。」

 顔から火が出そうになる。何を言い訳しているのか、わけがわからなくなって泣きたくなってしまう。

 そこへぱたぱたとサンダルの足音が聞こえた。

 長い髪を無造作に束ねたジーンズ姿の茉莉花が、息を切らせて立っていた。

 彼はにやっと笑った。

「早いね。三分かかってない。」

「‥‥怪我したのは‥誰?」

「ごめん。嘘だった。彼女が君に会いたいって、迷子になってたからね。ちょっとした親切心でさ。嘘も方便てヤツ?」

「‥‥!」

 怒りを抑えて、茉莉花はゆっくりと息を調えながら瑞穂を振り向く。そして目を大きく見開いた。

「どうして‥?」

「あの‥。お願いがあって‥。でもお店が見つからなくて‥。」

 ああ、と茉莉花は納得してうなずいた。

「本家を継いだんですね。今はあなたがご当主なのでしょう? それでは『懐古堂』は見つけられないと思います。」

「‥‥『懐古堂』さんは本家当主に対して、結界でも張っているんですか?」

「いいえ。正確には四宮本家のほうが、未来永劫『懐古堂』の存在を認めないという立場を取ったのだそうです。わたしどもは何もしていません。ですからこうして、店でなければお会いできるのでしょう。」

 茉莉花は淡々と話した。

 彼女の気配は冷静で、特に意趣を含んではなさそうだった。

 少し躊躇しただけで、瑞穂は思いきって頭を下げた。

「お店に入れないのは構わないんです。交渉人『懐古堂』さんに用があるのではなくて、四宮茉莉花さんに個人的なお願いがあって訪ねてきたんですから。‥話を聞いてもらえませんか?」

 顔の火照りはおさまってきた。彼の顔を見なければ、だが。

 聞いてあげれば、と頭の上から声がして、また胸がどきん、と高鳴る。いったい自分はどうしたのだろう?

「聞くのは‥構わないけど。」

「いいじゃん。難しいことは、聞いた後で考えれば。よほどの覚悟で会いに来たんじゃない? かわいそうだよ。」

 かわいそうだなどと言われて、この四宮瑞穂が嬉しいと感じるなんて!

 そうね、と茉莉花はうなずいた。

「じゃあ決まりだ。この先に静かな店があるから、そこへ行こうよ。」

「堂上さんも‥来るの?」

「冷たい姫さまのお供じゃないよ。今だけ瑞穂ちゃんの保護者ってとこ?」

「‥‥ずいぶん強引ね。」

 茉莉花は苦笑した。そして瑞穂を振り向く。

「一応この堂上玲さんも『懐古堂』の関係者なので、個人的にというあなたの意志とは反するかもしれませんが‥。同行しても構いませんか?」

 はい、とうつむき加減に答えながら、瑞穂は彼の名を胸に刻んだ。


 瑞穂の話を黙って聞いている間、茉莉花の表情はほとんど動かなかった。

 もともとがあまり心の動きを面に出さない人なのだろう。しかし瑞穂は、自分の意図が理解されているのかどうか不安でたまらない。

「‥そういうわけでここに来ました。本家当主としてではなくて、わたし個人に教えていただけませんか?」

「‥無理だと思います。」

 茉莉花は即座に答えた。

「人の理屈で力の流れを止めることはできません。わたしとあなたの霊力が関わる場合は、どうしても『懐古堂』と四宮本家当主としての関わりになります。狭間の場所から人の側へ大きく力を注ぐような行為は‥それ自体が世の中の(ことわり)を崩してしまう。‥わかりますよね?」

 唇を噛んでうなずいた。

 茉莉花は静かな声で続けた。

「黒鬼の言うように一度はぶつかり合う運命だとまでは思えませんが‥。三代かけて完全に切れた縁を急激に引きよせ合うのは危険です。あなたと本家の問題にわたしが助力することは、今の情況では不可能だといって良いでしょう。」

「‥‥音さえ出れば。」

「は?」

「音さえ出せれば、あとは自分で修業します。お願いです、ヒントだけでも貰えませんか? ‥霊力の大きさが問題で、わたしの力では到底無理だというのなら‥妹に譲るか、咲乃に戻ってきてもらうか、どちらにしても早く決断しなければいけないんです。」

 瑞穂は顔を上げて、必死に懇願した。

 茉莉花は微かに瞳を揺らめかせたけれど、冷めた表情は変わらなかった。

「咲乃さんが本家に戻る可能性は低いと思いますけど‥。あなたは彼女ともう一度よく話してみるべきですね。なぜ咲乃さんが本家と離別したのか、力の流れの側面から捉えてみる必要があるのでは?」

「‥‥感情問題以外に何か理由があったというのですか?」

「それはわたしが言葉にすべきことではありません。‥瑞穂さん、事実から自分で導き出した判断なり考えだけが、いざという時に役に立つものなのではありませんか?」

 つまり自分で考えろということか、と瑞穂はうつむいた。

 悔しくて、泣きたくなる。恥をしのんでここまで来たのに、ヒントさえ貰えないとは。

 茉莉花は微かな吐息をもらして、あの鈴は、と話を続けた。

「‥‥鈴。」

「わたしの鈴は四宮の家宝と違い、術具ではありません。最初のは祖父がお祭りの縁日で買ってくれたものでした。他のは自分で買ったり、お土産で貰ったりしたものです。特別なものではないんです。」

「‥特別なものではない?」

「作られた経緯は、です。けれど‥深い縁があってわたしの手元にきたものですから、個人的には非常な愛着があります。」

 そこで茉莉花は口を噤むと、困惑したような微笑を口もとに浮かべた。

「ごめんなさい、夕食の支度の途中だったので。‥よろしいですか?」

 そう言われては仕方がなかった。ありがとうございました、と頭を下げる。

 茉莉花は立ち上がって、黙ってコーヒーをすすっている玲のほうを見た。

「わたしは帰るけれど‥。あなたは?」

「俺? 俺は瑞穂ちゃんを駅まで送ってから帰るよ。‥今日の夕飯、何?」

 カレー、と答えてなぜか茉莉花は目を逸らした。

 玲はヒュッと口笛を鳴らし、くすくす笑った。

 何が可笑しいのかわからない。それより『今日の夕飯』って、もしや―――同棲中?

 瑞穂はたまらない気持ちになった。

 一人で帰れるから大丈夫、と言いかけた時にはもう、茉莉花はいなかった。

「ね。ケーキでも食べる? 疲れた時には甘いものを食べるといいっていうじゃない?」

「いえ‥。疲れてなんか‥。」

 悔しくて情けないだけだ。いろいろな意味で。

 玲はにこにこっと微笑んだ。

「うちの姫さま、素っ気ないだろ? けどね、あれで結構お人好しなんだよ。」

 そう言うと、シフォンケーキ二つ、と通りがかったウェイトレスに注文した。

 うつむいたままの瑞穂の顔を覗きこみ、小声で囁く。

「俺にはよくわからないけどさ‥。彼女って無駄話は一切しないんだ。だから今日喋ってた言葉は、全部君のためだと思うよ。」

「わたしのため‥?」

 思わず顔を上げると、彼の顔がすぐ近くにあった。慌てて離れる。

 シフォンケーキが運ばれてきた。

「このシフォンケーキ、雑誌に紹介されたんだって。ほら、壁に写真が貼ってある。」

 奨められるままにフォークを口に運んだ。

 さっぱりした甘さと軽いスポンジが美味しい。瑞穂はどちらかといえば甘いものは苦手なのだが、これはとても美味しいと思った。

 ―――やっぱり疲れてるのかな。

 歩き回ったし、にべもなく拒絶されたし。

 ふんわりしたクリームを味わっていると、頬杖をついてこちらを見ている視線と目が合った。いつのまに食べたのか、彼の皿は既に空っぽだ。

 瑞穂は頬がかあっと熱くなって、下を向いてフォークを動かした。

「あ‥あのう‥。堂上さんは‥茉莉花さんの恋人なんですか‥?」

 自分の声にお腹の真ん中がひやっとした。唐突になんて質問をしているのだ?

 彼は苦笑して、首をかしげた。

「どうだろうね‥。彼女は即座に違います、って言うだろうな。」

「でも‥。一緒に暮らしているんじゃ‥?」

 だからどうしてこんな不躾な質問をしているのだろう?

「さっき彼女が『懐古堂』の関係者だって説明したでしょ。二階に下宿してるんだよ。」

「下宿って‥大学生なんですか?」

 下宿というのは学生がするものだと思いこんでいる瑞穂はそう訊ねた。もしや単なる親戚だとか? それなら親しげなのもうなずける。

「うーん‥。学生じゃないなあ‥。でもサラリーマンじゃないし。フリーの仕事をしてるから、平日のこんな時間にふらふらしてたりするわけ。」

 フリーの仕事―――フリーター?

「どうして‥『懐古堂』さんに‥? 茉莉花さんが好きだから?」

 玲はこらえきれないみたいにふきだして、声を立てて笑った。

「そんなに気になる? 俺と姫さまの関係。」

「いえ、あの‥だって‥。」

「霊力があると直感が鋭いらしいよね。瑞穂ちゃんの直感では、俺は怪しい人間?」

「いいえ‥! 怪しくなんてないです、全然。」

 勢いよく言い切って、また瑞穂は赤くなった。

 怪しいどころか―――彼は目が眩むほどまぶしい人だ。魂の気配が強くて、真っ白に見える。まるで白昼の陽光のように。

「嬉しいな。うちの姫さまは俺にはとても冷たいんだよ。不真面目な人間だと思われてるみたいでね。‥恋人にするには千年くらいかかるかも。一応、先代から頼まれているはずなんだけど。」

 えっ、と瑞穂は驚いた。

「『懐古堂』の先代から‥頼まれた? つまり先代が堂上さんを茉莉花さんのために選んだんですか‥?」

 玲はすましてうなずいた。

 瑞穂は知らず知らず肩を落としていた。

 それではどうやっても彼が瑞穂を振り向いてくれるはずなどない。

 単なる恋人同士ならば喧嘩別れする場合もあるだろうし、瑞穂にもこの先チャンスがあったかもしれないけれど。『懐古堂』の先代が見いだした人では―――四宮本家との間には深い深い溝がある。

 普通の女の子ならよかったとちらりと思った。

 四宮の女はどうしたって霊力の流れに添う生き方しかできないのだ。まして当主の瑞穂には、恋など最初から許されるはずもなかった。

 悄然とした瑞穂を不思議そうに見ていた玲は、そろそろ出ようか、と立ち上がった。


 玲が『懐古堂』に戻ったのは夕食 (どき)を大幅に過ぎてからだった。

 急に沈んでしまった瑞穂にもう一度咲乃に会うよう進言して駅前で別れた後、本屋に立ち寄って次の仕事のための資料を探していたら、遅くなってしまったのだ。

 裏に回って、住居部分の玄関口から家の中へ入る。

 入った瞬間、カレーの匂いがした。

 そして予想どおり、三和土に玲のではない男物の革靴を見つけた。鳥島のだ。今夜あたり訪ねてくると茉莉花にはわかっていたのだろう。

 茉莉花に相談がある、と鳥島祐一が玲に電話してきたのは数日前だ。

 ついでに彼の好物がカレーだと聞き出して、在宅予定を確認するのとひきかえに茉莉花に伝えた。

 ちょっとしたジョークだったのに。

 素直に受けとめた茉莉花の行動になぜか少しばかり落ちこんでいる。

 下らない感傷を振りはらい、玲は靴を脱いで上がった。

 座敷兼茶の間を覗いて挨拶すると、鳥島は遅かったな、と微笑んだ。

 茉莉花は立って台所へと向かった。玲を待っていてまだ夕飯を食べていないと言う。

「なんで? いつもは容赦なく先に食べちゃうのに。」

 皿を出すのを手伝いながら訊ねると、茉莉花はほんのり赤くなった。

「‥‥鳥島さんが待とうと言ったの。」

「ああ‥なるほどね。」

 聞こえよがしに含み笑いをしたのが気に障ったのか、茉莉花はつんと顔を背けた。

 まったく四宮の姫さまがたときたら、なんて純情なんだろう。

 可愛いといえば可愛いが―――その力を思えば怖ろしい。ただの人間の男の手に負える存在じゃない。

 とすればこの無自覚な三角関係状態は、むしろちょうどいいのかもしれない。

 温まった鍋から、美味しそうな匂いが立ち上る。

「いい匂い。お腹空いたよ、姫さま。早く食べよう。」

「あなたを待って遅くなったんでしょ。‥‥お客さまから先よ。」

「はいはい。」

 茉莉花の指図に従って、玲は盛りつけた料理を手に台所を出た。


 鳥島祐一は白鬼との闘いの後、体質が変わって人でないモノを見てしまうようになったそうだ。怪我の治療のために、夜鴉一族の剣羽の妖力を体内に入れた影響らしい。

 茉莉花ほどくっきり見えるわけではなく、おぼろげな影のようなモノがうっすらと見えるだけだと言うが、意外と探偵の仕事に物の怪がらみの事件が多いとかで複雑な顔をしていた。

「見えなきゃ見えないで放っておけばいいんだが‥。見えてしまうとね。つい世話を焼きたくなるんだよ。我ながら面倒くさい性分だ。」

 鳥島は玲に向かって、やや自嘲気味に言い訳した。

 茉莉花に依頼したいというのは、ゴミみたいなモノをくっつけている人間からゴミを剥がしてやってほしいという内容だった。いわゆる憑き物落としで、仕事だから『アスカ探偵事務所』から『懐古堂』に依頼料も入る。

 本来ならば四宮の支配下にある拝み屋たちに依頼するべきなのだが、彼らはゴミは危険ではないと相手にしてくれないそうだ。

「闇から生まれたモノは悲しみや恨みを抱いている人の心に巣くって、負の感情を増長させるの。たいていの場合は人の心は案外と強いので、とりついてきたモノを自分で消してしまうのだけど、ごくたまにすごく大きく育ててしまう人がいて、そうなって心が喰われかけてからでなければ、能力者の人たちは動いてくれない。」

 茉莉花の説明に鳥島が付け加えた。

「それも報酬が払える人間のためだけだ。報酬が払えなかったり、気づかなかったりした人間は魂をどんどん蝕まれていって、妖怪化してしまうそうだ。‥‥剣羽が言ってたよ。そこまで待てば夜鴉一族の管理領域に入るから使役するなり喰らうなり自由だ、とね。」

 同じ人間としては胸糞の悪い話だ。

 四宮瑞穂には本家当主として、ぜひ頑張ってもらいたいと強く思う。結局金にならない小さな現象を四宮が見逃し続けてきたから、夜鴉一族の勢力を大きくしてしまったのではないのか?

 そう考えて、ちょっと不安になった。

「だけどその仕事‥。危険じゃない?」

「‥‥危険?」

「お祓いの対象となる人間からはさ‥鳥島さんに責任持って護ってもらうとして。」

 玲は茉莉花の顔をまっすぐに見据えた。

「一度や二度ならともかく何度もやったら、拝み屋連中からも夜鴉一族からも反目されるんじゃない? 利害がぶつかって敵対するはめになるよ。交渉屋のやる仕事じゃない。」

 あ、と茉莉花は目を瞠った。

 失念していたとは―――まったく彼女らしくない。そんなに好きなのか?

「本来なら四宮本家が仕切る話なんだろう? 瑞穂ちゃんに頼むにしても‥今の彼女の状態じゃ、長い時間がかかりそうだな。」

 玲は考えこんだ。

「黒鬼に頼んだら、人も一緒に消されちゃうしな‥。そうだ、鳥島さんがそういう人を説得すればいいんだ。」

「説得って‥何をだ?」

「そのままでは危険だと自覚させるんだよ。‥本人がここに依頼に来るのなら、筋が立つよね? お金になるかどうかはわからないけど。」

 茉莉花はほっとした顔で微かに頬笑んだ。

「ええ。それなら力になれる。交渉屋の仕事だから。」

 玲は鳥島のほうを向いた。

「鳥島さんは放っておけない人を見つけたら、何とか自覚させてこの店に相談させてよ。本人が来ないなら、どうしようもないけどね。」

「‥‥」

 黙って腕を組んでいた鳥島は、しばらくしてわかった、とうなずいた。

 そして腰を上げ、玲と黒達磨にも挨拶を残して帰っていった。

 姿が見えなくなるまで見送っている茉莉花を玄関先に残して、玲は二階の自分の部屋へ階段を上がった。

 買いこんだ本を早速開いて、資料に目を通し始める。

 夜風がひんやりと流れてくる。

 視界の隅で、桜が一生懸命布団を引っぱり出していた。ノワールが纏わりついて、邪魔だと叱られている。

 すると階段を上がってくる足音が聞こえた。

 足音は襖の前で止まり、ちょっとだけいい、と声がした。

「どうぞ。」

 音もなく襖を開けた茉莉花は、本を手にした玲を見て少しためらった。

「お仕事中だった? ごめんなさい。ただ‥さっきはありがとう、と言おうと思って‥。それだけ。」

「さっきって‥。気を利かせて遅く帰ってきたこと? 少しは進展したの?」

 立ち去ろうとして、呆れ顔でもう一度振り向く。

「何のこと?」

「だからさ。鳥島さんと二人きりで、ちゃんと告白できたの?」

 一瞬真っ赤になったかと思うと急速に真っ白になって、姫さまは吐息をついた。

「あのね‥。鳥島さんに関しては変な気遣いは無用よ。かえって困るから。それから夕方の電話。桜が怪我したなんて、冗談でも二度と言わないで。」

 びしっと言い切る。

 困ることもないだろうに、素直じゃないなあ、と内心思ったが口には出さなかった。

「‥わたしが感謝してるのは、交渉屋としての立ち位置を思い出させてくれたこと。また失敗するところだったと思って‥。」

「失敗‥? 君に失敗なんてあったっけ。」

 玲の目から見れば、彼女はいつだって完璧で間違いなどないように思えるのだが。

「白鬼の時のこと。あの時もわたしは‥目先の感情で動いてしまって、うまく流れを引きよせられなかった。だから、あなたに迷惑をかけたわ。」

「‥‥迷惑じゃないよ。」

「そう? それが本心ならいいけれど。」

 茉莉花は静かにそう言い残し、階段を下りていった。

 本心か。本心などあるはずがないのに。

 玲は苦笑して、本に戻った。


 四宮瑞穂は自分の居住棟に戻ると、ソファーにどっと倒れこみ、溜息をついた。

 事件以来押しかけ同居している花穂が、どうしたの、と怪訝な目で見る。

「ん‥。たった一時間のうちに一目惚れしてスピード失恋した。ううん、スピードっていうより、ジェットコースター失恋て感じ?」

「何、それ‥?」

 瑞穂は花穂に、学校帰りに『懐古堂』を訪ねた話をして聞かせた。

「へえ‥。そんなに素敵な人なの? 見たかったなあ。なんで一人で行ったの、一緒に行きたかった。」

「あんたには徹クンがいるでしょ。いいじゃない、一人で会いに行ったって。‥て言うか、それはいいの。会いに行ったわけじゃないんだから。」

 話の要点がずれている。

「徹クンかぁ‥。振られちゃったのよね。メアド変えたらしくて連絡取れないの。」

 ますますずれていく。

 話を大切なほうへ戻そうと、瑞穂は気を取り直した。

「ところで‥。花穂、あんたはどう思う? どこかにヒントがあるかな?」

「え? 何だっけ?」

「あたしの話、ちゃんと聞いてた? あんただっていずれ箏か鼓を手にするのよ。あたしができるようにならないと、教える人がいないんだから。」

「うーん。ごめん、堂上さんだっけ、彼の話しか聞いてなかった。」

 まったくもう、と瑞穂はもう一度花穂に茉莉花の言葉を伝えた。

 花穂は首をひねって考えこんでいたが、唐突にはっ、と顔を上げた。

「何か気づいた?」

 勢いこんで訊ねると、花穂は首を振り、早穂を呼ぼう、と言う。

「あたしたちより早穂のほうがせこくて悪賢いから‥。謎解きとかパズルゲームとか得意じゃない?」

 花のように無邪気な微笑を浮かべて花穂は立ち上がり、早穂を呼びにいった。

 やれやれ、と瑞穂は頭を抱えた。


 呼ばれてきた早穂は瑞穂の話を聞くと、真面目な顔で考えこんだ。

 ルーズリーフを一枚取りだし、何かメモしている。

 覗きこむと、箇条書きに一から三まで要点が整理されていた。

「瑞穂は音さえ出せればいいから、そのヒントをくれと言ったのよね? で、彼女は咲乃とよく話をしろと言った。これが一つめ。二つめはちょっとかぶるけど、咲乃がなぜ四宮と縁を切ったか、その理由を力の側面から捉えろ、と。三つめは彼女が使っている鈴は術具ではなくて、そこらで買ったものだと。他には? 何か忘れてない?」

「うん。そのとおり。」

 早穂は眉間に皺を寄せて、紙をじっと見た。

「あの時さ。あたしたち、彼女の鈴に協力したよね? 鈴の音が確かに大きくなったじゃない? ‥どうやったんだっけ。」

 あの時とは父が殺されて、白鬼が迫ってきた時のことだ。

 思い出すと―――その前に父の体を稲妻が引き裂き、消し炭にしてしまった光景も一緒に思い出してしまう。

 瑞穂は首を振った。思い出したくない。今はまだ辛すぎる。

 ぐっと唇を噛みしめて、忘れた、とつぶやいた。

 早穂は姉をちらりと見て、小さな溜息をついた。

「あの後、あたしたちは鴉につまみ出されちゃって、何が起きたか見てないけど‥。咲乃に聞かなきゃいけないのはそのへんの話かな? どうやって『懐古堂』の彼女が闘ったのか、咲乃は見ていたんじゃない?」

 あ、そうか、と花穂はうなずいた。

「二つめはあたしにはさっぱり‥。咲乃は霊力がないから出されたと思ってたし、黒鬼と恋に落ちたから戻ってこないんでしょ? お祖母さまがなぜあんなに咲乃を嫌っていたかは、咲乃のお父さんて人を嫌っていたからだと聞いたけど、霊力を封じるなんてやり過ぎ。本家として絶対にしちゃいけないはずだよね?」

 うなずきながら瑞穂はでも、と思った。

 四宮泉のやったことなら―――何か意味があるのかも。

 あの時父は、咲乃と紫の力は人の範疇を超えていると言った。半分鬼に心を喰われた状態での言葉だからどれほど信憑性があるかわからないが、祖母もそう感じたのだろうか。咲乃の霊力が物の怪に近い性質を持っている、と?

 だが父が同様に非難した茉莉花の力は、むしろ泉の力と似ていた。何ものにも揺るがない強い意志。四宮の正統を継ぐ力に近い。

 茉莉花の力は実際には四宮ではないのだから関係ないとして、やはり咲乃の、というより紫の霊力が四宮の正統性から外れていたと考えるのが妥当だろう。

 祖母は紫の力を制御できると思ったのにできなかったから、同じものが出るのを怖れて咲乃の力を封印した。そして無知なままに放逐したのだ。うまくいけば物の怪が始末してくれると考えて。

 その非情な行為にぞっとするが、四宮泉ならば平気でやるに違いない。

「それで三つめだけど。これは道具は関係ないって話かな?」

「かもね‥。あたしの力量の問題だってことか。」

 早穂の指摘に何度目かの溜息をつき、瑞穂はとりあえず咲乃にメールを送った。


 日曜日に訪れた咲乃の部屋で、瑞穂が用件を説明すると、咲乃は困惑気味に傍らの黒鬼を見やった。

「話すのはいいけど‥。瑞穂さんのヒントになるのかどうか。」

 意外にも黒鬼は、くすっといたずらっぽく笑った。

「たぶんならないな。でも『懐古堂』としてはギリギリの線なんだろう。」

「そんなに大袈裟な話なの? 簡単に教えちゃいけないなんて‥。茉莉花さんが言うなら、ほんとに仕方がないんでしょうけど‥。」

 咲乃は同情的な視線を瑞穂に向けた。

「おまえ‥。まだわからないのか? おまえに教えろと言ってるんだよ。」

 黒鬼は再び笑った。

 そんな風に笑うと少年みたいで、あまり怖くない。霊圧もそう言えば以前と違ってかなり抑えてくれているようだ。

「あたしが‥? だってあたし、やったことない。」

 黒鬼の言葉に咲乃はびっくりして目をしばたたいた。

「煌夜‥。あなたは意味がわかってるんでしょ? 代わりに教えてあげてよ。お願い。」

 黒鬼はちょっと考えたものの、うなずいた。

「おまえとその娘じゃ霊力の現れ方が違うんだ。性格の違いだろうな。」

 性格の違い? 霊力が違うから性格にも影響が出るのではないのか。瑞穂は自問する。

「『懐古堂』は霊力を鈴の音に変えて何をしてるかと言うと、場を支配するのに使うんだ。じゃ、おまえは霊力を使って何をしてる?」

 黒鬼は咲乃にとても優しいまなざしを向け、訊ねた。

 黒水晶の瞳は見ているほうまでどきどきするくらい扇情的で、瑞穂は気恥ずかしさにいたたまれない気分だ。

「あたしは‥何も‥。」

 咲乃はほんとうにわからないらしく、首をかしげた。

 黒鬼は愛おしそうに見て、また微笑った。そして瑞穂に向き直る。

「‥わかるか?」

「ええと‥。『懐古堂』さんの鈴の音は場を支配する。つまり結界を張る、清める、他の影響を排除する。彼女の場にある、本来的でないモノや邪なモノはリセットされる。そんな意味ですよね。だけど‥‥」

 咲乃のほうをちらりと見て、瑞穂は思わず赤面した。

 咲乃はただ―――全身で黒鬼への愛情を体現しているというか、思慕の念をふりまいているというか。他には何もやっていないので、とても口にはできない。

 だが黒鬼は瑞穂のちら見の意味を悟ったようで、ふふっと満足げに笑った。

「そうだ。今おまえが感じたとおりだ。」

 ますますわからない。

「咲乃。あの日、おまえが目覚めてから後のことを話してやんなよ。『懐古堂』とおまえが何をしてたか。」

 うん、とうなずいて咲乃はおずおずと話し始めた。

 どうやって白鬼を排除したのかはずっと疑問だったので、月夜見の神の御使いが現れて鬼人界へ強制退去させたという終わり方には、心底驚いた。しかも呼びだしたのが堂上玲だと聞いてもっとびっくりした。

「堂上さんが‥? でもあの人は‥霊力はないのに。」

「瑞穂さん、堂上さんを知ってるの?」

 瑞穂は『懐古堂』が見つからなくて、帰り道で偶然会った話をした。少し頬が熱くなったが、咲乃はぼんやりしているから気づかないだろう。

「神は人の願いしか聞かない。しかもあの月神は人間の若い男が気に入りだそうだ。それで『懐古堂』の先代があいつに頼んだ。」

「め、女神さまですか?」

 なんと神さままで恋敵なのか―――瑞穂は目眩がしてきた。

「本体は男神のはずだが‥。神の分身にはいろいろある。老人から童女までさまざまな姿を取るから、あいつが会った月神が女神かどうかは知らない。」

 黒鬼は瑞穂の心の内を見透かして、ふふっと冷笑を浮かべた。

「あの男の存在とおまえの力は相対するものだ。諦めたほうがいい。‥‥雑念は消してよく考えてみろ。『懐古堂』と咲乃が、今の話の中でどんな力の使い方をしていたか。」

 真っ赤になった瑞穂を咲乃が驚いた表情で振り返った。

 黒鬼はまっすぐ瑞穂を見ている。

 そうだった、と瑞穂は気を引き締めて考えてみる。

 咲乃は―――黒鬼を応援していただけだ。だがそれが彼の力になるのだと言う。

 茉莉花は結界を張って、それから夜鴉の怪我を治していた。

 そう言えば彼女は霊力を直接攻撃には使っていない。泉が龍笛を操るのとは違うのか。音を使うという共通点だけで同じだと考えたのは少し違うのかも。

 黒鬼を見返して、おずおずとそう言ってみる。

 彼はそうだ、とうなずいた。

「鬼人もそうだが人も、霊力の在りようはそれぞれ違う。」

「霊力の在りよう‥?」

 もう一度頭の中を整理する。

 咲乃の霊力の在りようは、黒鬼への想い。それは彼に力を与えるが咲乃自身は何をするわけでもない。

 一方茉莉花の霊力の在りようは何だろう? 話の中で彼女は鈴の音で結界を張り、場を潔めて、物の怪の傷を治した。それはつまり―――存在を本来のあるべき姿に戻す、ということだろうか。

 そうだ。交渉屋『懐古堂』は物の怪を滅するのではなく、物の怪の世界へ戻すのだと聞いた。まさしくそれが彼女の力の本質だ。

 では自分は? 自分の霊力は四宮本家に相応しい在りようのはずだ。

 黒鬼の瞳が冷たく光って、瑞穂の体に視線がしみこんでくる。

「おまえの霊力は半分以上眠ったままだ。思うに‥教わったことだけをやってきたんだろう? 『懐古堂』は自分で実践しろというような意味のことを言わなかったか?」

 言った。事実から自分で導き出した判断なり考えだけが、いざという時に役に立つものなのだと。あれは皮肉ではなかったのか?

「おまえは最初が間違ってるんだよ。祖母さんと同じように使う、と考えるのはよせ。おまえが祖母さんにこだわっているうちは、懐にあるその笛はおまえを主人だと認めない。だから音が出ない。」

 そういうことなのか。

 瑞穂はブラウスの胸元に差しこんでおいた龍笛を取りだし、じっと見つめる。

 黒鬼はふと眉根を寄せた。

「‥‥その笛。何か念が残ってるぞ。おまえたちの祖母さんてのは‥『懐古堂』に遺恨があるらしいな。」

「え?」

 咲乃と瑞穂は同時に声を上げた。

「そうか‥。そのせいでおまえは‥『懐古堂』に負けたくないのか。やはりぶつからなきゃおさまらねえな。」

「ぶつかるって‥。喧嘩する気はありませんけど。て言うか、わたしたちが正面切って対立したら均衡が崩れます。喜ぶのは夜鴉一族だけでしょう。」

「だがその笛は望んでいる。一度、思う存分力と力をぶつけ合いたいと‥。おまえがあの男に惹かれるのもその影響だ。」

「そ‥そんな‥。」

 瑞穂は再び真っ赤になった。

 愕然として、手の中の華奢な笛を見下ろす。

 霊力があるから恋なんかしても無駄だと胸に言い聞かせたのに、初めての切ない想いさえ霊力のせいなのか? 笛などに感情を左右されるとは。

 瑞穂は頭に血が上って、腹立たしくなった。

 そんなはずはない、この想いは―――瑞穂だけの大切なものだ。

 いつのまにか咲乃が冷めたコーヒーを淹れなおしてくれていた。

 彼女の空気は優しい。熱いコーヒーを口に運びながら、瑞穂は胸の奥が少し温まるのを感じた。


 瑞穂が帰った後で、咲乃は黒鬼にあらためて礼を言った。

「教えてあげてくれてありがとう、煌夜。それにしても‥。瑞穂さんはたいへんね。まだ十七なのに当主だなんて。」

「やれるだろう。四宮本家とあの娘の絆はものすごく強い。心配ないよ、咲乃。それよりおまえはもう関わるな。」

「え‥?」

「笛にくっついてるのは単なる淡い感傷なんだが、持ち主の霊力が強すぎた。もう一度『懐古堂』と縁を結びたがっている。完全に断ち切れた今の状況で無理に繋げようとすれば危険だと、『懐古堂』も四宮瑞穂もバカじゃないからよく理解しているんだが‥。ぶつかるかもしれねえな。‥おまえは板挟みになるだけだから、当分どっちにも近寄るな。」

 咲乃は不安げな表情を浮かべた。

「それは‥ぶつかるかもというのは‥瑞穂さんが堂上さんを好きみたいだから?」

「ん‥‥。祖母さんは『懐古堂』の先代と何かあったのか?」

 咲乃は首を振った。

「あたしはお祖母さまから嫌われてたし‥。何も知らない。」

 ふうん、とつぶやいて、黒鬼は咲乃を腕に抱きよせた。

「直接聞くか‥。不穏な流れにおまえがまきこまれるのは面白くない。」


 茉莉花は店の前の掃除をしながら、空を見上げた。

 天気予報によれば台風が接近しているとかで、どんよりした灰色の雲が上空をすごい速さで流れていく。生温い風がだんだん強くなってきた。

 掃除を諦めて、茉莉花は店の中に入った。ぼんやりと框に腰掛けて頬杖をつく。

 昨夜、玲が何気なく話した話が気になっていた。

 彼は昨日の夕方、渋谷の書店で偶然四宮瑞穂に会ったと言った。瑞穂は友人の家から帰る途中で、先日はどうも、と玲を見つけて声をかけてきたそうだ。

「咲乃さんに会いにいって話したら、黒鬼が君の言葉を解いてくれたって。おかげで音が出るようになったから礼を言っておいてくれと頼まれた。」

 玲はごく普通の調子でそう話した。

 茉莉花も良かった、と答えて、その時は別に何とも思わずにやり過ごした。

 しかし今朝になって妙に気になった。

 先日の場合も昨日の場合も、瑞穂と玲は偶然会ったという。先日はこの近所だからまだわかるが、昨日は二人ともたまたま足を向けた場所なのだ。

 念のために朝食の席で、玲にほんとうに偶然なのかと確かめてみた。

 彼は苦笑して、ほんとに偶然、と答えた。

「堂上玲の名前ではナンパしない主義だから。携帯番号とメアドは君にしか教えてないんだよ? 鳥島さんだってアンジュか長谷部の携帯に連絡してくるんだ。‥ね、もしかしてさ、焼きもち?」

 それから真面目な顔でじっと茉莉花を見つめた。

「‥なわけないか。偶然だと何かおかしいの?」

「はっきりとは‥。でもよく考えれば先日も、お店は見えなかったのになぜあなたには気づいたのかしら? どちらも彼女にとっては『懐古堂』のはずなのに。」

「君にわからない事象が俺にわかるわけないよ。‥だけどさ。それならもう一回会うかもしれないね。二度あることは三度あるって言うだろ。」

 彼は楽しそうな顔で頬笑んだ。

 偶然ではなく必然ならばどういう理由が考えられるだろう。

 瑞穂が玲個人に会いたいと強く願ったのだとしたら、あるかもしれない。客観的に見れば、彼は一度会った女の子にまた会いたいと思われても不思議ではない人だ。瑞穂の霊力が偶然を引きよせるのは十分あり得る。通常ならば。

 だが彼の存在は『懐古堂』と密接に結びついている。瑞穂が背負う四宮本家当主という看板が邪魔をするから、偶然は起こりえないはずなのに。

 茉莉花は何となく霊力のいびつな流れを感じていた。まるで今日の天候みたいに―――不穏だ。どこに何の力が働いて、この流れを生みだしているのだろう?


 翌日は朝から強い雨が降りしきっていた。

 台風は四国に上陸して猛威をふるっており、勢力が衰える気配はなかった。このままいけば今夜にも東京を直撃する予定だと天気予報は告げる。

 ざわざわと揺れ動く霊力の乱れが理由のない胸騒ぎを誘い、茉莉花はやけに落ち着かない気分だった。

 ふと店先に縞猫の気配がした。

 こんな大雨の日に客だろうか?

 出てみると軒先に何やら巨大な影がある。物の怪のようだ。それほど凶悪な気配ではないがなぜかひどく怯えている。

 茉莉花は髪に結んだ鈴を小刻みに鳴らしながら、縞猫に中へ入れるよう伝えた。

 物の怪は店内に入るとほっと安心したらしく、へたへたと土間に座りこんだ。

「た‥助けてください‥。追われているんです‥。」

「嬢さま。こいつ、夜鴉のパトロールに狩られてたんだ。」

 縞猫が補足した。 

 茉莉花は足下にべたっと座りこんでいる、ふくらんだスライムみたいな灰色の塊をじっと見下ろした。

「パトロールに狩られるなんて、何か違反することをしたの?」

「わかりません‥。突然、鴉が大きくなって‥襲ってきたんです‥。」

 物の怪はぷるぷると首を振った。

「無宿もんなんだよ。昨日まで人間だったんだって。‥こんなのに関わると面倒だよ。」

 苦々しげに言う縞猫の忠告を無視して、茉莉花は灰色のぷよぷよをじっと見つめた。

 昨日まで人間だったというわりには、片鱗が見えない。

 とりあえず人に戻れるかどうか、試してみることにした。

「じっとして。動かないでくださいね。」

 三つの鈴で和音を作り、順々に鳴らしていく。音の波動で空気がぴんと張りつめて、物の怪を取りまいた。いくつもの波紋がぶるぶると震えて、灰色の塊を縛りあげようとした。

 ところが灰色の塊は恐怖に引きつった悲鳴をあげ、逃げ惑っている。

「あなたを普通の人間に戻すだけ。怖がらないで。」

「嫌だ‥。普通になんか戻りたくない。せっかく力を得たのに‥。」

 茉莉花は波紋を緩めた。

「物の怪になりたいのですか‥人であることをやめて?」

「き、昨日までうまくいってたんだ‥。影に隠れてしまえば誰にも見つからない体になって‥。なのに今日になって‥鴉が襲ってきた。鴉だけどうにかしてくれればいいんだよ、あんたは人間なんでしょう? 助けてくれよ。」

「‥こいつ、バカだな。嬢さま、話にならないよ。」

 縞猫が軽蔑の視線を向ける。茉莉花は静かに聞いた。

「‥‥あなたの名前は何ですか?」

「名前‥名前‥。わからない。思い出せない‥。」

「ではあなたは今、完全な物の怪です。正直なところわたしから見ても、人の形はどこにも残っていません。わずかに魂だけが人であったと覚えている程度で、今すぐに戻らなければもう戻れないでしょうね。あなたは物の怪の力を利用してきたつもりで、自分の心を喰われ続けてきたのですよ。今夜になれば人であったことも忘れてしまうでしょう。それでもいいと言うのですか?」

 厳しい声で凛と言って聞かせる。

 物の怪は下を向いた。まだ逡巡しているようだ。

「夜鴉は物の怪の世界を統括しています。彼らの目をすり抜けて、東京の闇で生きていくことはできません。追われているのにはそれなりの理由があるのでは? 言っておきますが人の世界のほうが、罪人への裁きは優しいですよ。‥仮に夜鴉と折り合っても、今まで人間としてやってきた行動をまだするつもりならば、今度は物の怪封じの人間に追われるはめになります。あなたが助かる方法は、普通の人間に戻る道しかありません。」

 灰色の塊はいきなり立ち上がって、外へ飛び出した。

 大雨の中を必死で走って逃げていく。

「あーあ。逃げちゃった。わからないヤツだね、まったく。」

「困ったわね‥。夜鴉に追われて恐怖を味わったはずなのに、それでも人に戻りたくないなんて‥。いったい何をしたのかしら?」

「放っておけば夜鴉が始末してくれるよ。するだけのことはしたんだから。」

 縞猫はあくびまじりにそう言うと、すっと姿を消した。

 茉莉花は溜息をつく。

 鈴の音の波紋を体にくっつけたままだから、少しの間は結界が働いてパトロールの目をごまかせるだろう。その間に戻ってくる気になればいいけれど。

 もう一度説得してみようか。

 このままでは寝覚めが悪い。くっついている波紋が消えないうちに探してみよう。

「達磨のおじさん。ちょっと出てきます。」

 奥へ声をかけて傘を広げ、茉莉花は雨の中へと出ていった。


 学校帰りに地下鉄の出口を出た路上で、瑞穂は堂上玲の姿を見つけた。

 今週は二回目だ。なんてついているのだろう、と瑞穂は急いで雑踏をかきわけ、近づこうとした。だが人が多いうえに傘が邪魔で、なかなか近づけない。

 どこへ行くのだろう。急いでいるのだろうか。でもほんの少しでもいいから話がしたい、と瑞穂は思った。

 子どもすぎて相手にされていないのはわかっている。それでも少しずつ親しくなれば、瑞穂だってやがてはちゃんと大人になるのだから、まったく希望がないとは言えない。

 黒鬼は笛の念の影響だと言うけれど、自分の気持ちは自分がいちばんわかっているのだ。今は携帯番号さえ訊ねる勇気の出ない自分だけれど、もしかしたら―――

 甘い妄想に身を委ねて幸せな気分でいた瑞穂は、突然雑踏の中を蠢いている人でないモノを見つけた。

 大きくてどろどろしたヘドロみたいなその物の怪は、なぜだか瑞穂と同じ目標を目指している。つまり―――玲をだ。

 たいへんだ、と瑞穂は青くなった。

 声を上げて呼んでみるが、どしゃぶりの雨の音にかき消されて届かない。

 しかも物の怪は瑞穂よりずっと前にいて、人波にはあまり影響されずにずんずん進んでいく。

 玲の姿がビルの角を曲がって見えなくなった。

 物の怪が後をついて曲がる。

 瑞穂は傘をたたみ、人を押しのけて必死に走った。たどりついた角を勢いよく曲がる。

 そこは細い路地だった。人通りがちょうど切れたのか誰もいない。

 息を切らせて飛びこんだ瑞穂を、立ち竦んでいる物の怪がのろのろと振り返った。

 雨は激しく降りしきっている。風も強さを増し始めた。

 さっきまで離れていてもはっきり感じていた恋しい気配が、今は跡形もなく消え失せてまったく感じられなかった。ただ物の怪が手にしている一枚の紙切れだけに、微かに気配が残っている。

 まさか―――喰われたのだろうか。

 目眩がして倒れそうになり、全身の血が逆流した。

「おまえ‥! 人を喰らったのね‥許せない、絶対に‥!」

 瑞穂の激しい怒りを感じ取ってか、物の怪は怯えて後ずさり、何かわめいた。雨音にさえぎられてもちろん聞こえるはずもない。

 瑞穂は懐から龍笛を出した。

 怒りのままに荒れ狂う嵐の音に心を合わせて、音をかき鳴らす。

 音の刃があっという間に物の怪を包みこんで、切り刻み始めた。

「あたしの‥大事な人を、よくも‥!」

 その時、嵐の音を打ち消してリーン、と鈴の音が高らかに鳴った。

 見れば瑞穂の繰りだした刃をはね返して、物の怪の体を金色の結界が包んでいる。

 振り向くと、茉莉花が立っていた。

「瑞穂さん‥。その人はまだ人の心を残しているの。少しだけ、わたしに猶予をください。人に戻してみるから。」

 何を言っているんだ、この人は、と瑞穂の怒りは茉莉花へ向いた。

 たった今、この物の怪が何をしたかわからないはずがないだろうに―――茉莉花にとっては彼は大切な人ではないのか?

「こいつは物の怪‥! 人じゃない。滅するのがあたしの務め、邪魔しないで‥!」

 嵐を引き裂いて龍笛をかき鳴らし、瑞穂は再び刃を放った。

 だめ、と叫んで茉莉花の鈴が高らかに鳴り響く。屈みこんでいる物の怪の周りで、激しい火花が飛び散る。

「なぜ‥! なぜ、止めるの! こんな物の怪の命が‥そんなに大事だって言うの!」

「この人はわたしのクライアントなんです。お願い、退いてください。」

 彼よりも仕事が大事なのか。そんなのひどすぎる。どうして―――どうして彼女より先に出会えなかったのだろう。

 逆上した刃は茉莉花へと集中した。

 茉莉花は雨の中でまだ何かを叫んでいる。だが瑞穂にはもう何も聞こえない。

 金色の光と赤い刃が激しくぶつかって、空間がゆがんだ。

「こんな場所で‥‥」

 うるさい。もう何でもいい。全部破壊したってかまわない―――

「やめろ。」

 不意に龍笛の音が止まった。鈴の音も聞こえない。雨の音もだ。

 完全な静寂と圧倒するような霊圧が場を支配している。

 茉莉花との間をさえぎって立ちはだかっていたのは、黒鬼だった。人の姿でいるのだから霊力は全開ではないのだろうが、凄まじい気だ。

 憎い物の怪は、と振り返ると咲乃が保護していた。だいぶしなびて、普通の人間程度の大きさにまで小さくなっている。

「よりによってなぜ、こんな場所で暴走している? 見ろ、ここは神域の目の前だぞ。閉じているからよかったが、下手をすれば霊力だけでなく命も取られる。」

 黒鬼に叱られて、瑞穂はわっと泣き出した。

「だって‥‥。あいつが‥堂上さんを喰らったの‥。なのに‥彼女が庇うから‥。」

 ああ、と溜息をついて黒鬼は茉莉花のほうを向いた。

「『懐古堂』。笛のせいだ、許してやってくれ。夜鴉が出張ってくる前に、あのあさましいゴミをさっさと何とかしろ。‥人に戻したところでゴミはゴミだがな。」

 茉莉花はうなずき、灰色のどろどろのほうへ走り寄る。

「待って‥! あいつは‥‥」

「落ち着け。あいつに人を喰らうような力はねえよ。冷静になればすぐわかるはずだ。」

 瑞穂はがっくりと力を落とし、さめざめと泣いた。

 咲乃が傍に来て、そっと肩を抱き、雨でぐっしょり濡れた髪をハンカチで拭いてくれた。

 しばらくして茉莉花は作業を終え、物の怪は気を失ったただの中年男に戻った。

 男をビルの軒下へ横たえ、茉莉花は瑞穂へ向き直った。その手から回収した紙切れをかざしてこちらへ向ける。そこには『懐古堂』の文字が書かれていた。

「これは目印の札なんです。」

「目印‥?」

「わたしは今日一日じゅう、この人を探していました。天候がわざわいしてなかなか見つけられなかったんですけど、堂上さんから見つけたと連絡を受けてここへ来たんです。堂上さんが貼った札なので気配が残っていたんでしょう。彼には守護精霊がついていますから、たいていの物の怪は手を出せません。」

「でも‥。この路地で姿と気配が消えたの‥。そしてあいつがいたのよ‥。」

 瑞穂はまだ涙が止まらなかった。

 意外にも茉莉花は微笑んで、隣を指さした。

「ここです。今日は一のつく日なので、神域に入ったんです。月夜見の迦具耶(かぐや)さまとの約束の日ですから。」

 そこには雨に濡れた鳥居があった。

 勘違いに気づいて、どっと力が抜けた。咲乃が胸にしっかり抱きしめてくれる。

 黒鬼が、帰るぞ、と咲乃に声をかけた。

「待って。瑞穂さんをこの格好で置き去りにはできないもの。だから‥。」

「ああ。おまえがつかまえておけ。」

 瑞穂は泣き顔のまま、黒鬼の顔を見上げた。

「まきこまれるのはごめんだと言っていたのに‥。どうして‥?」

 黒鬼は苦笑いを浮かべ、咲乃を振り向いた。

「咲乃に泣かれたからだよ。‥おまえはもっと冷静に自分を保つ訓練をするんだな。じゃないと『懐古堂』には一生勝てないぜ。」

 赤くなって、思わず茉莉花のほうを見た。彼女はもう背を向けて立ち去るところだった。

 小さな声でごめんなさい、とつぶやく。

 肩ごしに振り返った茉莉花はいえ、と答えた。

「おかげできっと次は、あなたにも店の入口が見えるでしょう。よかったのかもしれません。‥黒鬼さんにはお世話になりました。お礼を言います。」

 そう言うと、傘を広げて黒鬼の結界の外へ出ていった。

 次の瞬間、瑞穂は四宮本家の外門の前に立っていた。

 鞄と傘を渡して、咲乃がじゃ、と微笑んだ。

 ありがとう、と言う間もなく、黒鬼と咲乃は消えてしまった。あとにはゴオっという風の音と激しい雨だけが残った。


「お風呂出たよ。花穂、入ったら?」

 瑞穂が居間に戻ってそう告げると、ソファで何やら話していた花穂と早穂が振り向いた。

「ね、瑞穂。お祖母さまったら、お祖父さまと結婚する前に縁談を七回も断ったんだって。そのわりに仲が悪かったよね?」

「どこからそんな話、仕入れてきたの?」

「禊ぎ場の鶴助から。お祖母さまってば、分家から婿候補が送られてくるたびに、ケチつけて追い返しちゃったんですって。お祖父さまは根性があったみたいよ。」

「だからなんで、そんな話が‥‥。」

「磯貝がそろそろ瑞穂の婿候補をリストアップしなきゃって言ってたから。まだ十七なのにって言ったらね、お祖母さまに最初の婿候補が来たのは数えで十三の年だったんだって。昔は十三で成人とみなしたみたい。びっくりでしょ? 追い払うわけよね。」

 花穂がケラケラ笑うと、早穂が付け足した。

「もっとびっくりなのはね、その最初の婿候補って、誰だと思う? 『懐古堂』の先代、茉莉花さんのお祖父さん。鶴助の話では、男なのに親族じゅうで唯一強い霊力を持って生まれた人で、お祖母さまでさえ凌ぐほどだったらしいよ。」

「おまけにすごく綺麗な人だったって。男だけど綺麗という言葉が似合う感じで、半分物の怪の血でも入ってるんじゃないかって評判だったとか。」

 男なのに霊力があって、四宮泉を凌ぐ―――恐らく唯一凌ぐ存在だった人。おまけに人じゃないレベルの美貌の男。

 瑞穂の目に不意に涙が溢れた。じわり、なんて可愛い程度ではなく、どわっとそれも大量に溢れだしてきた。

「どうしたの、瑞穂。」

「やだ、何よ‥。大丈夫、瑞穂に縁談なんてまだ早いって言っといたから。」

 声が出なくて頭をしきりに振りながら、うん、うんとうなずいた。

 やはり龍笛は―――四宮泉の最後の念を映していたのだ、と実感していた。

 気がすんだだろうか。

 泉が断ちきった縁がどうやら今日、微かに結び直されたようだ。少々強引だったけれど。

 これから新しい縁ができる。祖母の真似ではない、瑞穂らしい本家の在りようを目指そう。妹たちと一緒に。

 けれどこの初恋は絶対まるまる瑞穂個人のものだ、と瑞穂は思った。決して祖母の未練の焼き直しなどではない。

 ―――待っててね。

 瑞穂は胸に焼きついた恋しい面影に、小さくつぶやいた。


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