真夏の花
「ご主人さま。このお花は何ですか?」
守護精霊の桜の声に、堂上玲は気怠い体をタオルケットの中から半分だけ起こした。
桜が可愛らしい首をちょこんとかしげて見ているのは、真っ赤な薔薇の花束だ。大きめの透明なフラワーベースに一応水だけは入れて、無造作に放りこんである。今朝方まで一緒だった客に押しつけられた―――もとい贈られたものだ。
時計を見ればもう昼近い。真夏のぬるい微風がすうっと流れて、汗ばんだ体に優しく纏わりついてくる。
「薔薇だけど。何って‥‥何?」
答えながらもう一度枕に顔を埋めた。
佐山徹の名前で受けた一週間の派遣ホスト業は昨夜で終了した。今日はもう少し眠っていたい。明後日からは既に長谷部遼一の五日間の仕事が入っている。
「とっても綺麗ですけど‥。何だかちょっとどきどきしますね。姫さまには内緒にしておいたほうがいい気がします。」
思わず忍び笑いがもれた。童女姿の桜から、そんな言葉が出るなんて奇妙な感じがする。
同時に花束をよこした女の言葉を思い出した。
―――紅の薔薇は情熱を表すのですって。今夜のわたしの気持ちなの。
ハーレクインロマンスの台詞みたいで、聞いているほうが気恥ずかしくなるほど陳腐だ。
堂上玲はそう思うが、受け取った佐山徹はそんな無情な感想は抱かなかった。微笑んで受け取り、優しい気持ちでひと晩じゅう一緒にいてほしいという彼女の望みをかなえてやったのだ。
「うちの姫さまは気にしないよ。仕事だしね。‥‥それより桜、ただの花なのになんでどきどきするんだ? 何か感じるの?」
桜は眉間に皺を寄せて、不安そうに首をかしげた。
「はい‥。とっても強い、切羽詰まった念みたいなものを‥。心中したお方の櫛に残っていた念とよく似ています。」
「心中って‥。いつの話?」
「東京がまだお江戸と呼ばれていた頃です。心中なさったのはご主人さまの従妹にあたるお方で、他に身寄りがなかったのでご主人さまが遺品をお引き取りになったのです。」
なるほど前世ではちゃんと従妹だの親族だのがいたわけだ。
前に桜から、主人は上野の山で戦死したと聞いた。戊辰戦争の影義隊のことだとすれば、前世の自分は旗本か御家人だったのかもしれない。いずれにしても両親がいて、守るべき家があったのだろう。
ついしみじみと思って、似合わない感傷だと打ち消した。
それより今はこの薔薇だ。
心中とは穏やかではないが、昨夜の女からは思い詰めた感情など微塵も感じられなかった。そもそも初見の客だし―――
「いや‥? 初見じゃないか。どこかで見た気がするな。」
人の顔と名前を記憶するのにかけては自信がある。
玲は布団の上に起き上がって、脳内データベースを検索してみた。やがて二人の女にヒットした。
「桜‥。この花に籠もった念てさ。悪意がありそう?」
「悪意や害意ではなさそうですが‥。悲しくて無念な気持ちが切々と伝わってきます。‥ご主人さま、ご婦人を泣かせるのは程々になされませ。」
「泣かせた憶えはないけど‥。でも‥本人以外に恨まれてる可能性はゼロじゃないな。前にも逆恨みで殴られたっけ。」
玲はゆっくりと立ち上がった。
階下に茉莉花はいなかった。
黒達磨によれば、咲乃とショッピングに出かけたそうだった。
「嬢ちゃんにとってはいいことでございやす。」
そう言えば柳女のお艶が、茉莉花を黄昏みたいな人だと評していたのを思い出す。
同じものを見ていてさえ人それぞれ感じ方はまちまちなのに、いつも一人だけ違う景色を見ているというのはどんな感覚なのだろう?
玲も桜が傍にいれば人でないモノを見ることができる。だが桜が人の世で見せてくれるのは、そこにいるとわかっているモノに限られていた。茉莉花のように望まないモノを自動的に見てしまう、というのとはやや異なる。
その点咲乃は、同じ景色を共有できる貴重な存在なのだろう。
同居を始めてひと月余りが過ぎたが、茉莉花は驚くほど静かな存在だった。ひっそりとしていて、広い家でもないのに食事時くらいしか顔を合わせない日が続いている。
引っ越してきた日に、ほんのいたずら心で頬にキスしたのがいけなかったようだ。気配も感じないのは結界を張って警戒しているからだと、最近知った。
茉莉花が律儀に支度しておいてくれた昼食を、桜とノワールと一緒に食べながら、黒達磨に彼女の帰宅予定を訊いてみた。
「ちょっと相談ごとがあるんだけど‥。遅くなるのかな?」
「どうでやんしょう? そんなに遅くならないと思いやすがねえ。」
「ふうん‥。ま、いいか。帰ってきたら真面目な話があるから、結界は緩めておいてって伝えてくれないかな?」
伝えておきやす、と黒達磨はくすくす笑った。
二階に戻り、再び横になった。
真夏だというのにこの家は涼しかった。窓を開けておけば、高地のようなひんやりした風が緩やかに吹き渡る。エアコンがなくてもまったく問題ない。
黄昏時の場所にあるからだろうか。人の世と物の怪の闇との境にあるせいで、静寂と冷気がたちこめているのかも。
だがそんな場所が今まで住んだどこより、心地よい場所に思えるのはなぜなんだろう?
さっき浮かんだ二人の女の顔をじっくり思い起こしてみた。
二人は母娘で面立ちがよく似ていた。だが母親のほうは病気で亡くなったと聞いている。年齢からみても昨夜の女は娘のほうだろう。
市之助ふうに言えば縁があったのは母親のほうで、娘とは一度顔を合わせただけでろくに言葉も交わしていない。
どちらにしても佐山徹が生まれる前の話だ。彼女が玲に気づいたとは思えなかった。
玲が出会った頃、彼女の母は五十を過ぎていたがかなり美しい人だった。バーやクラブを複数切り回していて、愛人も常時数人いた。仕事の面では冷酷で非情だったが、名前も年齢も経歴もすべて偽りだと知ったうえで玲を雇ってくれた太っ腹な人でもある。
そこには三ヶ月しかいなかったし、特に親しい関係にあったわけでもない。
今までに通り過ぎた他人の一人に過ぎないのだが、なぜか記憶の中で印象深い人だった。たぶん彼女の、誰にも見せない泣き顔にたまたま遭遇してしまったからだと思う。
泣いていた理由は二十年ぶりに会ったという娘に詰られたせいだった。
三十代半ばの、夫も子どももあるという娘は母親似の美人だったが、母親の生き方を全面否定して罵っていた。激しい口調の中には捨てられた悔しさも含まれていたように思うし、母の愛情を求めてもいたように思う。
言いたいだけ言った後に娘はやっと、店の隅で一人開店準備をしている玲の存在に気づいて、お騒がせしました、と頭を下げて出ていった。
黙って聞いていた母親は娘が憤然として出ていってしまうと、深い溜息をついた。
「みっともないとこ見せちゃったわ。わかってると思うけど口外無用よ。いいわね?」
うなずいて玲はグラス磨きを続けたが、不意に背中に熱い感触を感じて手を止めた。女が顔を押し当てて忍び泣いていた。
そのまま泣きやむまで黙って知らぬふりをし続けたのは、優しさでも気配りでも子どもだったからでもない。関係ない他人ごとだったからだ。
女がほんとうは玲に慰めて欲しかったのだろうと知っていた。実の娘に否定された心の動揺を、親の顔を知らぬ少年からの許しの言葉で鎮めたかったのだ。わかっていたができなかった。売り物でない優しさは今よりもっと持ちあわせていなかった。
思い出せば少しばかり苦い気分が漂う。
後悔というほどはっきりした感情ではないけれど、嘘でも何か言ってやればよかったかと思う程度には悔やんでいる。
それにしても―――母親のように男を渡り歩く生き方はしたくない、と激しい口調で断言した女が、なぜホストクラブに来て遊んでいたのだろう?
いつのまにかうとうとしていた。
夢だか現実だかよくわからない感覚の中で、玲は夜が明ける前に出て来たホテルの部屋にいた。女はまだベッドの上でまどろんでいる。
帰るのかと聞かれて、背中を向けたままうんと答えた。
―――そのお花、ちゃんと持っていってね。今夜のわたしの心なんだから‥。せめて枯れるまでは捨てないで。
捨てたりしないよ、大切にする。そう言って振り向き、もう一度キスした。
彼女は安心して笑みを浮かべ、眠そうに目を閉じた。
年齢の割に素肌のきれいな女だった。その場で誰だか気づかなかったのは、若くて美しかったからだろう。記憶にある彼女はもっと地味で、情況が情況なだけに笑みなどかけらも見せなかったし、母親のほうは華やかな美人といっても若くはなかった。
佐山徹は大人っぽい美女が好みだ。だから彼女の誘いに乗った。昨夜で今回の仕事の契約が終わるというのも頭にあった。
彼女のほうはたぶん誰でも良かったのだろう。薔薇の花束を受け取ってくれる相手であれば、きっと誰でも。
ならばあの薔薇は―――薔薇にこめられた感情は誰のものなのだろう?
三時過ぎに帰宅した四宮茉莉花は、黒達磨に玲からの伝言を聞かされて苦笑した。
そのまま二階に上がって、声をかけようとして思わず立ち竦んだ。襖の向こう側は異様な気配に包まれていた。
鈴を低く鳴らしてみる。
鈴の音の小さな波動は襖に弾かれて消えた。
姫さまぁ、と半泣きの桜の声が微かに聞こえる。ともかくこの場の結界を解いて桜を出してやらなくては、と鈴を高らかに鳴らした。
淡い結界は一瞬で消滅した。
襖を開けると、桜が泣きながら飛びついてくる。
「ご主人さまが‥。」
玲は佐山徹の金髪のままで、布団の上に横になっていた。
男にしては透けるように白い肌が、いっそう白く映る。
「寝ているの‥?」
「夢に囚われておいでなのです。夢を発しているのはあの紅い薔薇なのですけれど‥。悪意とは思えませんでしたので、さして警戒せずにいました。わたしのせいです、姫さま‥ああ、どうしたらいいんでしょう?」
「落ち着いて、桜。いつから夢の中にいるの?」
「もう二時間以上になります。気づいた時には深く入りこんでしまっておられて‥。いくら呼んでも声が届かないのです。」
茉莉花はあたりを見回した。
紅い薔薇の花束は強い芳香を放って、異様な妖気を漂わせていた。
薔薇からこぼれ出す渦巻くような悲嘆、諦め、哀惜。
「このお花はどこから持ってきたのかわかる、桜?」
「いえ。ご帰宅なさった際にご主人さまが持ち帰られたのです。」
「‥・ノワールはどこ? 昨夜は桜は留守番だったのでしょ?」
佐山の仕事の時にはいつも、玲は桜を置いていって代わりにノワールを連れていく。桜には刺激が強いからだそうだ。
黒い仔猫はしかし、玲と一緒に眠っていた。揺すっても起きない。
「ふうん‥。ということは夢は昨夜の記憶の中にあるのね。ノワールも一緒に行った場所。とにかく、薔薇の妖力を消さなきゃ。」
茉莉花は慎重に薔薇に近づいて、鈴を鳴らした。
鈴の音が空気を震わせて波紋を作る。波紋は緩やかに余韻を響かせながら動いて、紅い薔薇を縛りあげた。
ビロードのような真紅がみるみる色あせ、花は黒く朽ちてこぼれ落ちた。
部屋の中を清涼な風が流れて、たちこめていた妖気が一掃される。
ノワールがぐんと伸びをした。あくびを一つして起き上がり、顔をなめ始める。
玲はというと―――寝返りを打って何かつぶやいた。
「ご主人さま‥! 起きてくださいまし、ご主人さまぁ‥。」
「うん‥‥。桜‥わかったから‥。もう少しだけ‥。」
暢気な声は寝ぼけているだけのようだと思えば、ほっとして、少々腹が立つ。
今しがたつぶやいていたのは女性の名だし、だいたい怪しげな薔薇の花束だって女性からの贈り物なのだろう。呆れて言葉もないとはこういう情況を指すのだと思う。
茉莉花は黒猫に向き直り、膝に抱きあげて訊ねた。
「ノワール。いったい何が起きていたの?」
「姫しゃま‥。ぼくには‥よくわかりましぇん‥。ご主人しゃまが‥知らない場所にずんずん行くので‥ついてくのがしぇいいっぱいで‥。」
「知らない場所? 昨夜行った場所ではないの?」
「はじゅめはしょうでしたけど‥。だんだんヘンな場所に‥。」
「ヘンて‥。人間がいる場所? それとも物の怪の‥?」
ノワールは小首をかしげて、ええと、と口ごもった。
「わからないのね‥。仕方ないわ。ありがと、ノワール。」
茉莉花は黒猫の首を撫でて、そっと膝から降ろした。
布団の上から、玲が不思議そうな顔をしてぼんやりとこちらを見ていた。
「‥‥目が覚めた?」
「うん‥‥たぶんね。また君に逢えて嬉しいよ。‥何日ぶりだっけ?」
「さあ‥。先週の水曜には一緒にお昼を食べたから、五日ぶりくらいじゃない?」
「そうか‥。家庭内離婚て寂しいよね‥。」
何の話だ、とちょっとムッとする。茉莉花はすっくと立ち上がった。
「とりあえず、あなたの持ちこんだ怪しい薔薇は妖気を消したら枯れてしまったわ。桜の話ではちょっとした残留思念だったようなのに、なぜ突然妖気を発したのかは今のところ不明。また何か起こっても不思議ではないわね。‥‥狙われる心あたりはある?」
彼は首を振った。
「女性にはない。男にはあるかも。わかんないよ、そんなの。」
「ノワールの話では、夢の中で見知らぬ場所に入りこんでいたみたいだけど‥。そこはあなたの記憶の中の場所? それとも初めての場所?」
「どっちとも言えるな‥。記憶の中の場所に似ているけどちょっと違う、的な‥。」
ふうん、と茉莉花は考えこんだ。
「夏の夜っていろいろなモノを呼びこみやすいの。特に恋愛感情が絡むとね、やっかいごとが生じる場合があるから‥。」
それから玲の金髪をじろじろと眺めた。これがいけないのかもしれない。
「関係ないかもしれないけれど‥。その髪の色、落とせない? 佐山さんから堂上さんに戻っておいたほうがいいと思う。」
玲はくしゃくしゃになった髪を指に絡めて、上目遣いに拗ねたような表情を作った。
「‥それってさ。交渉屋としてのアドバイス?」
「聞かなくても一向に構わないけど? まだ依頼を受けたわけではないし。」
無意識のうちに冷ややかな声が出る。
彼はくすくす笑った。
「姫さまの指示に神妙に従うよ。だから見捨てないで。」
そして立ち上がると、階下に下りていった。
浴室でラメゴールドのスプレーを洗い流せば、出てくるのは明るい茶色の髪だ。
もともとがこの色なので、スプレーとスタイリング剤で夜の街では結構ごまかせる。それに佐山徹は胡散臭さが身上だから、真実の姿など誰も求めてはいなかった。
堂上玲に戻ったところで真実はもっと曖昧になる。
鏡を見れば髪と同じ明るいブラウンの瞳。肌の色も白いし、全体的に色素が薄い。日本人かと問われれば微妙なラインだ。純正の日本人でもこの程度ならいくらでもいるし、別の人種の血が入っていてもおかしくはない。
自分がどういう経路で生み出されたのかまったく不明だから、何もかもが曖昧になる。
ただこうして生きている―――生体としては一応機能しているので、存在していると言ってもいいのだろう。
浴室から出てタオルで雫を拭き取ると、湯上がりの浴衣をはおった。
休みの日は早めに入浴して浴衣を着る。ここに来てから始めた習慣だ。早い話が茉莉花をからかうためなのだが、そのまま団扇片手に黒達磨と将棋を指すのもレトロで面白い。
さっきまで見ていた夢は、醒めた後となればあまり気分のいい夢ではなかった。
だが見ている最中は結構居心地のいい夢だった。いわゆる甘い夢だ。望めばかなえられ、何でも手に入る。現実とは真逆の情況。
夢の中で自分が手に入れたものを反芻すると、苦々しくなる。
なぜあんなものを望んだのか理解できないし、深層心理の奥で自分が望んでいるとは到底思えない。また認めたくない。
陳腐で人並みな生活など望んだことはない。それだけが唯一堂上玲としての真実なのに。
茉莉花は夢の内容を訊ねるだろうか。
言いたくないな、と憂鬱になる。
真夏の夜の夢。夜じゃないけれど、真夏の花に宿った何かが見せたありふれた夢を、たまたまたどっただけ。できればそう思いたい。
しかしそれも弱さなのか―――玲は珍しく自信を失っていた。
玲が浴室へ向かうとすぐに、茉莉花は部屋じゅうを見渡して低く鈴を鳴らした。
次にもう一つの鈴を重ね合わせて強く鳴らし、二種類の波紋を広げていく。
「姫さま‥? 何をなさっているのですか。」
玲の着替えを出そうと箪笥の前に屈みこんでいた桜が、怪訝そうに振り返った。
「曖昧になっている境界を仕切り直すのよ。日が落ちる前にしておかないとね、また入りこんでくるモノがあるかもしれない。」
桜は嬉しそうに両手を打ちならした。
「姫さま‥。ではご主人さまを守ってくださるのですね‥! 良かったです、もしやあのお花の件で悋気しておられるのではと心配しておりました。」
「悋気って‥焼きもちのこと?」
「はい‥。ご主人さまはお仕事だから姫さまは気にしない、と仰られましたけれど‥。あのような情のこもったお花はよろしくないと‥。」
茉莉花は心配そうな顔をする桜に優しく微笑んだ。
「そういう面では全然気にしていないから安心して、桜。今気がかりなのは‥あの花がなぜ堂上さんに夢を見せたのかということ。」
桜は顔を上げて、茉莉花を不安げに見つめた。
「どういう意味でしょうか‥?」
「桜の感じたとおり、あのお花には残留思念があっただけだと思うの。ただ夏の夜にさらされて、思念がいろいろなモノをくっつけてきちゃったのよ。感じやすい人、たとえば咲乃さんみたいに感受性が強くて情にもろい人ならば、傍にあっただけで簡単に影響されてしまうでしょうけれど‥。堂上さんは感情に流されるタイプじゃないでしょ? 霊力があるわけでもないし。なぜ薔薇の花があれほど妖気を出すまで成長したのかしら?」
ノワールが桜の隣にちょこんとかしこまって、何か言いたそうに茉莉花を見上げた。
「どうしたの、ノワール?」
「お花をくれた人は‥ご主人しゃまがじゅっと前に知っていた人だったんでしゅ、姫しゃま。しょの人は悲しい人で‥夢の中でじゅっと泣いてました。」
「夢の中で‥? 現実の記憶ではなくて?」
「はい。昨夜はじゅっと笑ってました。夢じゃないのに夢みたいだって言って‥しあわせ、とか大しゅき、とか‥。」
茉莉花はつい赤面した。
「ノワール、細かいことはいいから。それで‥前からの知り合いの人なのね?」
「ううん‥と。ご主人しゃまは昨夜はじぇんじぇん知らなかったんでしゅ。しゃっきの夢で思い出したんでしゅ。」
なるほど。それで昨夜まで何ともなかったのに、昼過ぎて取りこまれてしまったのか。
昔の恋人―――いやいくら何でもそれなら昨夜のうちに思い出すだろう。だがちょっと知っていただけの他人の感情に、あの玲が引きずられてしまうとは。茉莉花にはどうも腑に落ちない。優しくないとは言わないけれど、彼は非常にドライな人だ。
逡巡したものの結局、ノワールに夢の中で見た女性の話をするよう命じた。
「たぶん薔薇の記憶だと思うから、その部分だけでいいの。堂上さんについてはまったく要らない。」
きっちりと念を押すと、ノワールははい、とうなずいた。
どんな理由があっても他人の心を覗くのは許されない行為だ。まして玲のように魂の色さえ掴めない白紙の人の心を覗くなんて、茉莉花には怖くてできない。
「じゃあ、あなたの見た光景を思い浮かべながら首の護鈴を鳴らしてちょうだい。鈴の共鳴で拾って、映し出すから。いいわね?」
ノワールは再びうなずいて、護鈴を鳴らし始める。
茉莉花は低く呻るように鈴を鳴らして、空中に波紋を描いた。ざわざわと震える波紋がぴったりと円を描いていく。やがて静かになった時、円の中に喪服姿の女性が泣いている光景が現れた。
ノワールが夢で見た薔薇の記憶は、ある女性の悲しみと失望を表していた。
彼女の悲嘆は母親が自殺したところから始まる。
自殺した母親とは疎遠だったらしいが、巨額の財産が彼女に遺された。
サラリーマンの夫と娘が一人いるごく普通の家庭が、予想外に手に入った財産のせいで一年も経たずに崩壊し、彼女は孤独になった。母を自殺に追いこんだのは自分だという自責の念が、孤独を更に深めていく。
昨夜は彼女の誕生日で、紅の薔薇はプロポーズの際に夫から贈られた記念の花だった。
けれど事実上離婚状態にある夫は愛人の家から戻らず、思春期の娘は友人と海外旅行中でメールもよこさない。仕方なく彼女は自分で紅い薔薇の花束を買い、誕生日の夜を過ごす相手を求めて夜の街に出かけた。
そこで彼女は佐山徹と出会い、かりそめの夢を見た。
一年余りの孤独をひと晩で埋めるかのようにはしゃぎ続ける彼女の横で、薔薇の花の紅い花弁が真夏の夜のもやもやした熱気を吸いこんで、次第に艶やかに濃く色づき始める。身を焦がすような情念を宿し始める。
―――今夜のわたしの気持ちなの。大切にしてね。
偽りの言葉に切実な想いだけが重なる。
大切にするよ、とうわべだけの優しさが答える。
だが彼女は救われたように微笑み、花を受け取る手の存在に安堵した。
「もういいわ、ノワール‥。この先は堂上さんのプライバシーを侵害してしまうから。」
鈴の音が止んだ。
茉莉花は深々と溜息をつく。
この女性と玲がどういう関わりがあるのかはわからないが、薔薇の記憶の中で微笑んだ佐山徹はとても優しい、蕩けるような表情を浮かべていた。
彼女はあの微笑に救われたのだと茉莉花は確信する。夫の代わりでもあり、子どもの代わりでもあっただろう。
ちょっと玲を見直した。
いつかの長谷部の優雅な物腰といい、彼はプロなんだと納得する。何のプロかと問われればよくわからないのだけれど―――強いて言えば嘘つきの、だろうか。
茉莉花がとりとめなくそんなことを思いめぐらせているうちに、桜は着替えを持って階下へ行き、ノワールは疲れたらしく眠ってしまった。
茉莉花も腰を上げて、階段を下りていく。
ちょうど浴室から出てきた玲と、廊下でばったり顔を合わせてしまった。
内緒で夢を覗いたせいでばつが悪い。軽く会釈して通り過ぎると、彼は珍しく絡んでこなかった。後ろめたい茉莉花はつい、自分からお茶にしないかと声をかける。すると彼は苦笑気味にうなずいた。
台所に立って紅茶を淹れながら、茉莉花は思う。
ドライな玲が夢に囚われたのは、彼女の不幸の原因に何かひっかかりがあったせいだろう。彼女自身は知らない何か。
だがそれは大した要因ではない。問題は彼自身の中にある。
「て言うか‥。あの羽よ。嫌がらせなのかしら?」
咲乃のお薦めだというアイスクリームを冷蔵庫から取り出し、盛りつけながら、茉莉花はブツブツとつぶやいた。
薔薇の花束には夜鴉の漆黒の羽が一本、挟みこまれていた。
薔薇の記憶の途中で茉莉花がめざとく見つけたものだ。けれどさっき朽ちた花束には羽はなかった。
あれは明らかに佐山徹を―――玲をめがけて放たれたものだった。当人同士は思い出せなかった細い糸のような縁を、羽を送りこんだ夜鴉は見抜いたらしい。
夜鴉の羽は闇を増幅する。いったいどこへもぐりこんだのだろう?
「お待たせ。どうぞ、咲乃さんのお薦めよ。」
黒達磨が冷たいものは苦手だというので、桜と玲の前にアイスクリームを出す。
「紅茶はストレートでよかったのよね。」
「うん。ありがとう。」
心なしか元気がない。いや気のせいだろうか。
よく考えれば普段から、どちらかと言えば物静かなほうだ。ただ口を開けば茉莉花を怒らせようとしているみたいだから、素直な物言いはかえって不穏に感じる。
アイスクリームはとても美味しい。
桜はとても幸せそうに頬張っていた。自分のだけでなく、玲のスプーンからも食べさせてもらっている。
何とかしてあの羽を探し、始末してしまわなくては。
桜の笑顔を見て、茉莉花は固く決心した。
夢を見るのが怖いから眠りにつきたくない。
ごく幼い頃でさえ、そんな感情はバカにしていた。なのに今日はそういう気分だ。
次第に濃くなっていく夏の夕闇を二階の窓辺からぼんやりと眺めながら、知らぬ間に溜息なんかついている。
そして再び、夢の中で自分が手に入れた嘘くさい幸福を反芻してみる。
陳腐な夢の中で玲は、ありふれた家庭に養子に行って大学生になっていた。
可愛がってくれて、できの良い息子だと自慢してくれる優しい両親がいて、帰る家や自分の部屋があった。一から自分で手に入れたものではなくて、一から十まで誰かに与えられたものに包まれた幸福。
意味もなく甘えてもいい人がいて、単に思いつくままの言葉を口にし、感情のままの行動が許される場所。その中で玲はバカみたいに笑っていた。まるで生まれてから一度も物を考えたことがないような顔で。
実際に養子の話は結構あったけれども、自分から全部壊した。ばかばかしかったからだ。
かわいそうな子どもに家を与えてやりたい、という善意には興味がなかったし、ましてや玲の整った容貌を見てペット代わりに飼いたがる大人には辟易した。
だから向こうから断るように仕向けた。子どもっぽいいたずらや乱暴な態度には寛容な人でも、知恵を働かせた犯罪すれすれの行為には大人は震えあがった。あの子は手に負えない、そう言われて施設に送り返された経験は何度かある。
中学では学校の成績は常に首席だった。
首席を維持するための努力はものすごくしたが、見合うだけのメリットはかなりあった。
校則違反のバイトやそのために授業を抜け出しても、叱責だけですんだ。何より大人の視線が優しくなって、欲しい本やCDを先生たちが貸してくれたり、同級生の母親が遠足の弁当を作ってくれたりした。
特待生待遇でと奨められた高校への進学を断って就職したのは、施設を出て早く自立したかったからだ。学歴があるほうが人生では有利なのだからと何度も説得されたが、そんな誰でもできるあたりまえな人生になど興味はなかった。それに勉強は必要があれば学校へ行かなくても一人でできる。むしろ一人のほうが効率がいい。
十六前後のたった一年の間に身長が二十センチ以上伸びて、急激に風貌が大人びたのも幸いして、興味を感じた職業は年齢や経歴を詐称してたいていはやってみた。三ヶ月以内ならば滅多に足はつかないと覚えた。
犯罪ぎりぎりの裏世界で逃げ出す勘どころは外したことがない。おかげで未だに体に傷痕はないし、そう痛い目にも遭っていない。
徹底的に容貌を偽って別人になる術はそんな日常の中で自然に身につけた。容姿を武器にすることもだ。
この五年は実に刺激的で、毎日が生きていると実感できる日々だったと思う。
なのになぜあんな夢を見たのだろう。
他人に与えられた世界で安穏と時間を貪るような生活を、実は欲していたのだろうか。それとも欲しかったのは嘘っぽい、テレビドラマのような愛情か? わからない。
真夏の夜風に誘われて、虚しく咲きたがるあだ花。そんなものに当てられてしまうほど自分は弱かったのだろうか。
嫌だな、と苦笑いを浮かべる。
笑いとばせずに考えこんでいる行為自体、嫌だと思う。
不意に鈴の音が耳元で鳴った。
びくっとして振り向くと、いつのまに来たのか茉莉花がすぐ近くに立っていた。
「動かないで。」
厳しい表情で、冷ややかな声を放つ。
覗きこんでくる彼女のまっすぐな黒髪が、玲の頬に落ちる。
「見つけた。瞳の中にいる。‥そのまままっすぐわたしの目を見て、瞬きしないで。」
うなずくのを待たずに彼女は、三つの鈴を小刻みに震わせた。鈴の和音が小川のせせらぎのようにのどかに響き渡る。
何の予兆もなく、玲の左目からひとしずくの涙が流れ落ちた。
胸がどきどきする。何が起きているのか、さっぱり理解できない。
茉莉花は真っ白なハンカチを取りだして、そっと玲の涙を拭った。白い布に吸い取られたしずくはまるで墨のように黒かった。
肩の力を抜いて茉莉花は良かった、と微笑んだ。
「いったい‥何?」
「これは夜鴉の羽。薔薇の花束にもぐりこんでいたの。昼間、あなたが花の夢に囚われた時に夢づたいにあなたの中に入りこんでしまったみたい。ずっと探してたんだけど、今しがた急に気配が強くなったからやっと感知できた。」
「‥入りこまれるとどうなる?」
「入りこんだ場所の闇を増幅して増えていくの。終いには夜鴉の闇に埋めつくされてしまうのだけど‥。大丈夫みたいね? 増えてはいなかったようだから。」
手の中のハンカチに視線を落として茉莉花は確認した。
夜鴉の羽ということは仕掛けたのは若さまだろうか。それともたまたまなのか。
だがあの若さまならば、機会さえあれば玲を派手に引き裂きたいと思うだろう。こんな姑息で地味な手を使うとは思えない。
「つまりさ‥。俺は今、君に助けてもらったわけ?」
「わたしは‥桜の泣き顔を見たくないだけ。」
やや眉をしかめて茉莉花は背を向け、近づきすぎていた距離を適度に開けた。
警戒してるなあ、と可笑しくなる。
そこへ桜が飛びこんできた。
「ご主人さまぁ‥! 花火ですよ、花火! ほら、外をご覧くださいまし‥!」
腕を引っぱられるままに窓から身を乗りだすと、盛大な轟音に続いてコバルトの空いっぱいに広がる花火が見えた。
「きれいね‥。この窓からだとよく見えるわ。」
「ほんと。まさしく‥真夏の夜の花だな。俺の目には、君のほうがきれいだけどね。」
一瞬の隙を突いて、再び頬にキスした。
そして今度は叩かれないようにすぐに跳び退く。茉莉花の切れ長の瞳が怒りを含んで険しくなった。
「あなたって人は‥!」
「対価だよ。ほんのお礼の気持ち。」
「‥二度と頼まれないのに助けたりしないから。覚えておいて。」
玲はくすくす笑って、金色のヴェールに包まれて階段を駆け下りていく背中を見送った。
桜がおろおろして、溜息をつく。
「大丈夫だよ、桜。姫さまはきっと何度でも助けてくれるよ。」
だって彼女は―――約束の花なのだから。
ドーンと音がして、再び花火が上がった。
夜空に咲いた真夏の花は、夜天を焦がして刹那に輝き、鮮やかに散ってゆく。玲は空っぽの心にその光景をしっかりと刻みこんだ。