魔王の決意
世界の果てに存在する約千ヘクタールの広大な敷地面積の上に建造された魔王城の、生活区のその一角。
神々しいまでに天を埋め尽くす星々を展望出来るテラスに、魔王は一人立たずんでいた。
魔王城の魔王の基本拠点である書斎の一角に、そのテラスはある。
へりに両腕をもたれかけ、今日一日で何回吐いたか分からないため息をついていた。
「魔王さ~ん」
背後からの呼びかけにも、魔王は振り返ることなく天を扇ぐ。違う視点から見れば、あえて呼びかけに応じていないとも見れた。
「魔王さ~ん? いますよね? いなきゃおかしいですよね? ここ数年ずっと自室に引き篭っている魔王さんがまさか部屋にいないという可能性は、天地がラグナロクしたとしてもありえないですからね~」
などと、リーリスが悪態なのか愚痴なのか自分に言い聞かしているのか相変わらずの口調で部屋に入る。
「魔王さ~ん? あ、いた! も~、ちゃんと返事してくださいよ! 危うく寝てるのかと思って晩ご飯をベッドに叩きつけるとこでしたよ」
ぷんぷんと頬を膨らませながら、しれっととんでもないことを言ってのけるリーリスの台詞に、魔王は相変わらずの苦笑を浮かべながらも、振り返る。
「いや、なに。お前のその口調を聞いていると安心するのでな」
「なんですかそれ? つまりあえて私の口から色々な言葉を言わせたいという事ですか? サディストですか。サドなんですね。魔王さんったらこんなうら若い乙女の口から何を言わせる気なんですかとんでもない!」
「いや、どう考えてもお前が勝手に喋っているだけ――」
「魔王さん! 細かい事を気にしていると、ハゲますよ!」
「ハゲ……」
「お夕飯を持ってきたので、冷めないうちに食べてください」
「……リーリスが喋るから冷めるのでは」
「なにか言いました?」
にこっと笑顔でリーリスが拳を握り締めて言うので、魔王は背中に悪寒と理不尽さを感じながらお盆の上に置かれたサンドイッチを手に取り、口にする。
たまには満天の星空の下で食べる夕餉も悪くないと思いながら、二口三口と頬張る。
リーリスは、傍にある小さなテーブルにお盆を置くと、備え付けられている椅子に腰をかけ、空を仰いだ。
「今日は雲一つなくてよく星が見えて綺麗ですね」
「うむ。たまにはこういう場所での夕餉もいいものだ」
「普段外に出ない魔王さんが唯一ぎりぎり外だと言える場所ですもんね」
リーリスはお盆の上に置かれたポットを手に取り、ティーカップに紅茶を注ぎ、魔王に渡す。
いい香りが魔王の鼻をくすぐり、一口飲んで、ほうとため息を吐く。
どこまでも澄み渡る夜空に、どこか儚さを感じながら、魔王はじっと遠くを見つめていた。
「……魔王さん、私に出来ることがあればなんでも言ってくださいね」
突然の言葉に、魔王は振り返りリーリスを見る。
「最近の魔王さん、あまり元気がないというか、ちょっと心配になっちゃいます。自分一人にあまり抱え込まないでくださいね」
心配そうな目で魔王を見やるリーリスの目は、少し潤みを帯びていた。
リーリスのその台詞と表情に、魔王は思わず驚いてしまう。
普段なら、悪態と刺のある台詞を口が開けば必ず出てくるリーリスの口から、本気で心配されている言葉と表情までと、いつもと違うリーリスに、戸惑ってしまっていた。
だが、今日のリーリスの態度を思い返してみれば、彼女は最初から心配をしていた。
裏を返せばそこまで心配させる様な素振りを露骨にしていたのだと、魔王は反省する。
「すまないリーリス。この頃思うところがあってな……。聞いてくれるか?」
「私に魔王さんの悩みを聞いても、力になれるかどうか……」
「いいんだ。我が勝手に喋っていることにしてくれ」
「……分かりました」
「うむ。リーリス。先に聞きたいが、今の世界はどう見える?」
「今の世界ですか? そうですねぇ……」
むむむと少し考え込むような仕草をするが、リーリスはあまり深く考えずに答える。
「平和――ですね。魔神族のみんなも、戦争の前のように殺気立っている雰囲気ではなくなりましたし。なにより、魔王さんがくれたお仕事に励んでいる今のみんなは、とても充実しているように見えます」
魔神族の生活は激変した。
ハールヴ歴時代は、魔王筆頭で戦争を起こし、人間族との抗争を激化させ、最終的に両種族は共倒れする形になり、終息していった。
だが、戦争が終結したが、戦争は終わってはいなかった。
各地でディアラグナの悔恨が猛威を振るい、戦災となって世界を常闇に染めていった。
飢えや疫病。数えればきりがない程の不幸の連鎖が蔓延り、ファリナス歴一、二年の間は、ディアラグナの亡霊と呼ばれる戦争に参加した兵士の生き残りが、各地で敵味方問わずに略奪を繰り返した時もあった。
ファリナス歴十六年が経過した今でも、《ダンジョンシステム》の枠組みから外れた敗残兵が徒党を組み、山賊の様な暮らしをしている者たちは少なからずいる。
それでも、この大きな傷跡は必ず癒えるはず。そう、魔王は確信している
――のだが。
「……リーリスよ。我は今どうするべきか悩んでいる。前魔王が残した負の遺産は、十六年経った今でも、未だ各地で小さな傷跡を残し、人々の心を蝕み、不安や恐怖を植え付けている。我が《ダンジョンシステム》を基盤とし、安定した雇用を確保し、民の生活水準を引き上げたのは事実だ」
魔王はティーカップをテーブルに置くと、曇った表情で夜空を見上げる。
「――だが、それは仮置き場に過ぎんのだ。戦争という一つの争いを、《ダンジョンシステム》という都合のいい解釈にすり替え、規模を収縮させただけのただのまがい物だ。形はどうであれ、戦争はなくなった。それでも、魔神族と人間族の争いはなくなってはいない。我は戦争という解釈を捻じ曲げ、迷宮という場所に、魔神族と人間族の争いを閉じ込めたに過ぎんのだ」
悲しみの感情を纏わせた魔王の言葉に、リーリスは胸を締め付けられた。
「でもっ、それでも戦争はなくなりました! 魔王さんが魔王になってから、小さないざこざはありますが、それでも昔のようなぎすぎすして、少し歩けば死んだ人たちだ無残に放置されているような、そんな……っ、そんな世界じゃなくなったんです! だから、だからっ――!」
声を荒らげ、涙目になったリーリスを慰めるように、魔王は優しくリーリスの頭に手を置く。
「すまん。辛いことを思い出させてしまったな……」
魔王はその手で不安を取り除くかの様に、リーリスの頭を撫でる。
「リーリス、お前の言うとおり、前の時代の日常的に起こっていた惨状はもう終わった。だが、戦争がなくなったとは言えん。いずれまた、我が死に、そして時が数百年と経たないうちに、魔神族と、人間族とが種としての数を増やした後に、必ず戦争は起こる。これは、そうなるだろう等と言う憶測ではない。そうなってしまうのだ。もはや、この世界の運命の輪に意図的に組み込まれているかの如く……な」
悲観的な魔王の発言で、リーリスの顔が曇る。
確かに、今の現状は戦争が終わってたった十六年しか経っていない。
今は魔神族も、人間族も、戦争によって人々の数は少ない。大規模な戦争を起こすほどの戦力が、両種族共足りてはいないからだ。
リーリスも、それは分かっていた。だが、認めたくはなかった。
戦争はもう二度と起こらない。と。
だがそれは、自分の生きている間には起こらないという確率が高いだけであって、時代が進むのに比例してその確率は下がっていくという事にほかならない。
リーリスは、自分の考えが、それこそ自分自身が嫌っていた自分さえ良ければそれでいいという自己中心的で、身勝手な発言だったと、一層顔をしかめる。堪えていた涙が、一粒頬を伝う。
魔王はそれに気づくとそっと、その涙を魔王は指先ですくう。
「リーリスが悪いわけではない。世界が生まれた時から今に至るまでに即位した魔王たち全ては、戦争を止めようとはしなかった。魔神族の長がむしろ進んで戦争をしていたのだ。お前のせいではないよ。我もこの様な言い方しか出来無い身だから、リーリス、お前を傷つけるつもりはなかった。すまない」
鼻をすすりながら、リーリスはこくこくと頷く。
分かってくれたことに魔王は安堵し、自分に素直なリーリスを愛でる様に優しく微笑み見る。
もちろんリーリスも分かっている。この魔王がそういう人である事を。
「だがな、我は戦争は再び起こるとは言ったが、それを分かっていて見過ごすとは言ってはいないぞ?」
「え?」
「《ダンジョンシステム》はほんの始まりに過ぎん。ディアラグナを経験した今の時代だからこそ、戦争という何も生み出さない悲劇を、そのような愚行を繰り返させはしない。今は魔神族と人間族との戦闘を《ダンジョンシステム》によって閉じ込めているが、数が増えれば外での戦闘が起こり、その延長戦に戦争がある。それを阻止するには、両種族が疲弊している今しかないのだ」
リーリスの頭からそっと手を離し、魔王はおもむろに立ち上がると、テラスのへりに腕を乗せて月明かりに照らされた景色を見て言う。
「夢物語だと笑ってくれても構わん。我は創りたいのだ。いつか、魔神族と人間族が共に笑い、共に助け合い、共に生きる。戦争も差別もない、お互いがお互いを本当に認め合う、真に平和な世界を」
振り返り、リーリスの目を見る。
「リーリスよ。この様な現実ではなく夢を語る魔王に、ついてきてくれるか?」
ああ。と、リーリスは理解した。
それはもしかしたら無理なのかもしれない。
本当に夢で終わり、この世界の負のサイクルの歯車は回り続け、繰り返し、繰り返される。それは自然の摂理で、それは自然な、流れの一つのはずだ。
……はずだった。
この人は、その当然の自然の摂理を、不自然だと牙をたて、小さい。本当に小さい牙なのかもしれない。だけれど、誰もが夢物語だと指を差されて笑われたとしても、この人は――魔王は、本気で、真剣で、けど、なぜだろう。本当にこの世界を変えてしまうんじゃないか。
なぜだろうか。そう思ってしまう。
――そう。だからこそ。だからこそ、私はこの人を……。
がたっ。とリーリスは勢いよく立ち上がると、魔王の傍に行き、その手を両手で握る。
「もちろん。もちろんですっ! 私でよければ――いえ。私はっ、魔王さんといつまでも。いつまでも一緒に、あなたの夢を支えていきますっ。それが例え夢物語だとしても、いつかあなたなら叶えてくれると、私は、信じていますから……」
まだ目頭に涙が残っているままで、リーリスはその思いのたけを魔王にぶつけた。
魔王はリーリスのその顔を見ると、顔を赤らめながら、優しく微笑んだ。
【リーリスの後日談】
夜も更け、ベッドに潜り込むリーリス。
今日一日は凄い日だったと思い返す。
「魔王さんは、世界を本当に平和にするつもりなんだ……」
普段魔王が過ごしている書斎のテラスでの出来事を頭の中でなぞる。
「そっ、それよりも、私、わっ、私、なんてことっ……///」
「魔王さんのこと《あなた》とか、《いつまでも一緒に》とか、勢いとはいえ、なななななななぁぁぁぁぁ~~~///」
その日の夜、思い返してはベッドの上で恥ずかしさのあまり転がりまわるリーリスだった。
余談だが、翌日から数日間、まともに魔王の顔を見れなかったのは言うまでもない。