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Lostalgear  作者:
少女
46/47

 階段を下り、廊下を抜ける。冷えた空気を肺に溜めこめば、思考は自然と静まっていった。連日の軍からの呼び出しには辟易していたが、苛立って声を荒げようものなら彼らの思うつぼだ。ウィゼルにできることは、ただ、問いかけに対して最低限の答えを返すこと。それ以上でもそれ以下でもなかった。

 まっすぐに署の門へ向かおうとして、思い直し、踵を返す。レナードの相手には想定外の時間を取られたが、ついでにアネットの顔を見ていくだけの余裕は残っているだろうと思ってのことだ。

 やむを得ずアネットの傍を離れるときは、もっぱらナタリーに彼女を預けている。本人の希望とレナードの推薦に従った結果ではあったが、長い間世話を頼み続けるのも気が引けていた。与えられた部屋の連なる廊下に辿りついたところで、ウィゼルはふと顔を上げた。

「……アネット?」

 小さな人影が、ちょうど向かいの角を曲がっていったのだ。見間違いを疑った直後、件の部屋の扉が開け放たれる。外を覗いたナタリーは素早く左右を伺い、そこに求める相手のいないことを悟ってか唇を噛みしめた。

 彼女の様子から鑑みれば、駆けていったのがアネットであることは当然察される。ウィゼルはすぐにでも追いかけて行こうとする衝動を抑えつけ、ナタリーの名を呼んだ。

「何かあったんですか」

「ウィゼル君! アネットちゃん、……見て、ないよね」

「おそらく、さっき走っていたのがそうだと思います。アネットに何が」

 問いながら、横目で室内をうかがった。ベッドの上には、本や雑誌、新聞の類が散乱している。どれもアネットに語り聞かせようと運ばれたものだろう。幾度も同じことを試みたウィゼルには見覚えのある光景だった。どれも刺激にはなり得なかったのか、端々には片付けようとした形跡が見受けられる。

 ナタリーは悔いるように、くしゃりと顔を歪めた。

「あの子、私の手帳を見た途端に出て行っちゃって」

「手帳?」

「警察手帳」

 片手に握りしめたままの手帳を、ナタリーが広げて見せる。しわの寄ったページには、彼女が警察の一員であることを示す文言と、ナシュバの花をかたどった警察の紋章が刻まれていた。ウィゼルはそれを睨みつける。

「ナタリーさん」

「ごめん、すぐに人を呼んで探すから。あの子の足じゃそう遠くに行ってはいないだろうし、ウィゼル君も忙しいでしょう」

 個々の判断を尊重する特務課の性質上、彼らは職務室を離れる場合、通信機を持ち歩くことが義務化されているらしい。ナタリーは素早く腰元に手を伸ばしたが、操作を加えようという段になってウィゼルがそれを制した。

「署の中に、ナシュバが咲いている場所はありますか。できればアネットが見たことのある場所で」

「え?」

 ナタリーは怪訝そうに顔をしかめたが、ウィゼルの意図を優先したのだろう。眉を寄せて考えこむ。

「自生しているものはない、けど、多分、花壇や鉢植えならいくつか。署の入口と裏口、それから屋上、喫煙所」

 屋上に続く階段はひとつだ。アネットがそこを目指すのであれば、とうに衝突していてもおかしくない。彼女が走り去った方角をもとに、続けて喫煙所の位置を思い浮かべようとして諦める。

「入口と裏口はこっちであたります。他、お願いできますか」

「でも、きみは時間が」

「アネットより優先すべき事なんて無いんです」

 ――そのためにここにいる。待ち続けるためだけに。

 呆気に取られたナタリーに、お願いしますとだけ言って駆けだした。一段飛ばしに階段を下り終えると、開かれたままの署の門に手をかける。目を眩ませるような光に呑まれ、二度三度とまばたきを繰り返した。

 蹴り飛ばされかけた鳥たちが慌てて空へ飛び立ち、羽ばたきは土埃を巻き上げた。ウィゼルは息を整えながら視線をめぐらせていたが、やがて煉瓦造りの花壇に目を止める。点々と植えつけられたナシュバの花は、白い花弁を風に任せていた。

 その脇に、ひとり。場にそぐわない少女が、しゃがみ込んでいる。

 彼女はウィゼルに気が付くと、顔だけを彼に向けた。黒い睫毛が上下して、その奥の瞳を揺らす。薄い唇が開いて、穏やかな笑みの形をとった。

「ウィズ」

「…………あ」

 呼びかけられて、彼女を呼ばうための名を持っていないことに気付いた。迷ったまま言葉を吐き出せずにいたウィゼルの前に、少女は滑らかな動作で立ち上がる。

「色々ね、忘れちゃったみたい。新聞の内容も、教科書の文章も、地図も、全部お姉ちゃんが持っていっちゃったから。耳も、目も、前より利かなくなったし。こんなに不便だったんだね」

 言いながら、それを残念がる様子は見せない。むしろ当然と受け入れているようだった。

 彼女が携えていた記憶能力も、人並み外れた知覚も、全て《アネット》に設定されていたものだ。埋め込まれた継力回路が動きを止めた今、脳内の回路を取りだして再起動を促さない限り、彼女がその能力を取り戻すことはないだろう。そして無論、ウィゼルには彼女の頭を切り開くつもりなどなかった。

「……帰って、きたの」

「約束だからね」

「憶えてる」

「大切なことは、ちゃんと」

 くすくすと笑って、彼女は腰に手をあてる。そのまま覗きこむようにしてウィゼルの顔を見上げた。

「ねえ、まだ呼んでくれないの?」

 からかわれている、と気付いたときには遅かった。じりじりと追い詰められる感覚に、ウィゼルは思わず顔を背ける。

「名前、……知らないじゃないか」

「あ、ひどい」

「昔のこと、思い出したなら分かるだろ。きみの本当の名前だって」

 うーん、とあごに指を寄せ、少女は考えこむそぶりを見せる。数秒後、晴々しい笑顔で首を振った。

「思い出せない。……どっちにせよ、私の名前はひとつだけだよ。お姉ちゃんとウィズがくれたものだけ」

 アニエスの作り上げた人格に、名付けを託されたのはウィゼルだった。十にも満たない子供に任せるにはいささか大務であったが、意図してか、それとも無意識にか、彼は姉に似た名を彼女に与えたのだ。幼子にとっては呼びやすかった名を、以来何度口にしてきたことだろう。ふいに去来した記憶を押し戻して、ウィゼルは唇を尖らせる。

「自分で分かってるならいいだろ。わざわざ今僕が呼ばなくたって」

「変なところで頑固なんだから」

「アネットに言われたくないよ、……って、」

 口にしてから溜息が洩れた。少女がしてやったりとばかりに顔をほころばせる。肩意地を張っていたのが馬鹿らしく思えて、ウィゼルは力なく首を振った。それを見はからったかのように鳴り響いた鐘に、げっと声を上げる。

 取り調べにと指定されたのは、ちょうどその鐘の鳴る時間だったのだ。ねちねちと嫌味を言われる未来を想像し、ウィゼルは小さく悪態をつく。

「それじゃあ出てくるから。ナタリーさんがきみを捜しまわってるから、ちゃんと謝っておいてよ。あと部屋が汚い。片付けておいて」

「ウィズに言われたくない……」

「何か言った?」

 なあんにも、と、アネットはわざとらしく口笛を吹いてみせる。ウィゼルは鼻を鳴らして街路へ飛び出した。その背に、思い出したように名を呼ばれる。怪訝に思ってふり向いた先で、満面の笑みが迎えた。


「ただいま、ウィズ。いってらっしゃい!」


 そこに重なる影は、もう消えていた。

 くり返し、何度でも。忘れないために、思い出すために――自分を繋ぎとめるために、名前を呼んで、いくつもの言葉を交わしていくのだろう。


「おかえり、アネット。……いってきます」


 笑って、ウィゼルは走り出す。ふたたび帰ってくるために。

 彼女の手を、握るために。

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