Episode 5
城の中庭を、おろおろとした様子で右往左往している人物が一人。
衛兵の、「腰抜けカイン」こと、カインだ。
「おいおい。便所で格闘してる間に、何が起こったってんだ?」
周囲の人々は叫んだり、必死の形相で走っていたり、血と思われるものが衣服に付着した者もいる。
何かただならぬ雰囲気であることは疑いようがない。
カインが、定位置である城門まで戻ろうと足を動かした瞬間――突如、目の前に黒い影が降ってきた。
その影はどんと音を立てて、カインの目の前、中庭の石畳に着地する。
「ひえっ!」
後ろに尻もちをついたカインは、舞い上がる粉塵の中に目を凝らす。
降ってきた影――それは傭兵少年だった。
「え? あ。き、君はあの!」
傭兵少年は、後ろのカインを一瞥すると、すぐに正面へ視線を戻した。
視線の先――城の割れた窓から、ユノが降りてくる。
外壁の凹凸に手を掛けながら、まるでトカゲのような動きで。
「やっぱ、それじゃ死なないよね」
傭兵少年の前に降り立ったユノは、薄ら笑いを浮かべ、指の関節をぽきぽきと鳴らす。
「ククル王子は賊側。つまりあんたは、敵とみなしていいんだな?」
傭兵少年の目が細まり、その手が背負っている大剣の柄を掴んだ。
「お好きに」
びりっと緊迫した空気が、辺りを覆う。
ふと、傭兵少年の横に、手のひらが差し出された。
横目でそちらを見ると、カインが低姿勢になって、握手を求めるかのように右手を突き出している。
「あの。俺、君のファンなんです!」
空気が読めないとは正しくこのこと。
構わずカインは、とびきりに目を輝かせていた。
「おいあんた、ちょっと離れててくれ」
傭兵少年が呆れてそう言い終わるのと同時に、疾風のようにユノが迫ってきた。
すぐさま反応し、カインを押し除けながら、傭兵少年は大剣を一瞬で振り下ろす。ただし、刃ではなく、側面を下にして。
ユノが横に軌道をずらしたせいで、大剣は石畳を打った。
すかさずユノの蹴りが叩き込まれるが、傭兵少年は並外れた反射神経で、大剣を持っていない左手を使って蹴りをガードする。
だがユノは、にやりと笑った。
ガードされた足が、傭兵少年の左手にぬるりと絡みつく。
(極技か!)
悟った傭兵少年は大剣を手放し、体をユノへ向き直らせる。
しかしその隙に、ユノの手が、足が、傭兵少年の首と左肩に絡みついた。彼の全体重が、傭兵少年の左腕にのしかかる。
下手に動くと、肩の関節がいかれてしまいそうだ。
だが動かずとも、左肩はみしみしと悲鳴を上げていた。
その感触に、チャクラを全開にした身体にも極技は効果ありと、笑みを深めたユノだったが。
それでも――傭兵少年の経験と判断力は、ユノの一枚上手だった。
傭兵少年は即座に、絡んでいるユノの体ごと、腕を高く振り上げる。
「なっ」
ユノに選択の余地を与える間もなく、傭兵少年は自分の体ごと沈ませ、左腕を石畳に振り下ろした。
ごんっ――という鈍い音が響き、後頭部を石畳に強く打ち付けられたユノは、力を失いだらりと倒れる。
一瞬の間の、決着。
ユノの意識は、もうなかった。
「痛ってぇな」
傭兵少年はユノの手足を引き剥がし、左肩をぐるぐると回す。
そんな傭兵少年を、カインが尊敬と羨望の眼差しで見ていた。
「うおお。シチュエーションはさっぱりだけど、何かすげーもん見ちゃった」
傭兵少年の視線が、ぎろりとカインを捉える。
「あんた、この城の衛兵だな」
手放した大剣を背に収め、カインへと歩み寄る。
「へ。あ、はい、そうでごわす」
「急ぎの仕事はないと見受けた。悪いけど、俺を『マリアの森』ってとこに案内してくれ」
「え?」
「案内してくれ」
傭兵少年はその小さな体から、はいとしか言えないような威圧感を漂わせていた。
「は、はい!」
「頼んだ」
「うわっ!」
そして、大人のカインを、軽々と担ぎ上げる。
「すげえー」と、思わずカインは感心して唸った。
「どっちだ?」
「あ、あっち、っす」
傭兵少年は、石畳が削げるほど足を踏み込んで、カインが指差した方向へと駆けていった。
――玉座の間。
城の最上階、特別区画の中心に位置するそこには、選りすぐりの四人の側近に囲まれ、マギリアの王ガムルが玉座に腰掛けていた。
癖のある茶髪をぼうぼうに生やし、同じく茶色の乱雑に伸びきった豊かなひげを蓄えているその容姿は、堕落しているように見える。
頬はこけ、体には生気がなく、一見まるで亡霊のようだ。
マギリア城が、何者かに襲撃を受けている。
数分前にこの事実を聞かされてから、ガムルの顔は一層真っ青になっていた。
彼は分かっているのだ。襲撃してきたのは、父であり、先代国王のジョーカーだ。
(あの手紙は、嘘ではなかった。信じたくはなかったのに)
ガムルは、ゼロの言ったとおり何もしていなかった。兵に指示も与えず、自らが逃げるということもせず。
城勤めのほとんどの者は、対立国「盟」から最も離れた場所にあるマギリア城が襲撃されるなど、本気では想定していなかった。
城全体がパニックに陥っている。王の指示や統率が必要だ。
しかし、ゼロが「牙を抜かれた」と形容したように、今のガムルには動き出す気力が感じられない。
とある出来事がきっかけで、ガムルはすっかり腑抜けてしまった。
(抵抗しても、無駄だ。何をしたところで、あのジョーカーに抗う術など――)
そんなことばかりが、絶望により考えることを止めたガムルの頭に、思い浮かんでくるのであった。
――セナ、エン、ゼロの三人は、王都を駆け抜け、「マリアの森」の暗闇に隠れていた。
「ゼロ! いたら返事をしてくれ!」
「マリアの森」に到達してから十数分――そんな傭兵少年の声が聞こえてくる。
「ここだよ!」
エンが、嬉々として暗闇から姿を見せた。
ゼロ、セナも後に続く。
彼らの姿を見て、傭兵少年はほっと胸を撫で下ろした。
「王子。無事に合流できて良かったです」
「何か」を担いだまま、傭兵少年はエンたちへと駆け寄る。
エンは首を傾げた。
原因は、こちらに尻を向ける格好で傭兵少年の肩に担がれている、カインだった。
「それ、誰?」
カインの尻を指差すエン。
「この人に案内を頼みました。城の衛兵です。――悪かった、ありがとう」
傭兵少年は、ゆっくりとカインを降ろした。
ぼーっとした顔つきで、カインは周りを見渡している。
「はーすごい疾走でしたー。しかし、何たってこんな森に――」
そこまで喋ったところで、暗順応したカインの目が、近くにいたエンを視認した。
「って、え、え!? エン王子!? う、セナ王女も!? ぎゃ、しかもお前は、夕方に来た不審男! な、な、何ですか、何なんですか、このメンツは!」
悲鳴に近い声をあげて、カインは大きく後ずさる。
「一般兵を巻き込んでどうするんですか」
眉をひそめたセナにそう言われ、傭兵少年は罰が悪そうに「一刻を争う状況だったので」と零す。
「それより、お兄さまは? 姿が見えないけど」
心配そうなエンの問いかけに、傭兵少年は一瞬だけ困惑したが――真実を伝えるために、すぐ腹を決めた。
「ククル王子を連れてくることは、できませんでした。……エン王子、セナ王女。お兄様のククル王子は、賊に情報を伝えてたんです。敵側の人間でした」
「えっ」
エン、セナ、ゼロの口から、同じタイミングで声が漏れた。
事情が飲み込めていない様子のカインは、横でぽかんとしている。
「ククル王子が、敵側? じゃあ、ジョーカーと裏で繋がっていたってのか?」
ゼロの言葉に、傭兵少年は黙って頷く。
反応を見るに、ゼロはククルの関与を知らなかったようだ。
「な、また突拍子もないことを! まさか、お兄様を連れてこれなかった言い訳に、そんなことを言ってるんじゃ――」
傭兵少年に詰め寄ろうとするセナを、するりと前に出てきたエンが制止する。
「付き人さん。本当のことなの?」
続けてエンは、傭兵少年の目を真剣な表情で見た。
心の奥底の隠し事まで見透かすような、そんな不思議な眼力だった。
「本当です」
傭兵少年が、いつも以上に真剣な表情で応える。
表情を歪め、エンは俯く。
「そう、ククルお兄さまが――」
「そんな――信じられません。もう何も」
セナは口を手で覆って、その場に座り込んでしまった。
今にも、泣き出してしまいそうだ。
「残酷なことを言わせてもらうが、絶望はもう少し後にしてくれ。この場所はまだ危険だ。王子たちが城にいないと気付かれたら、追っ手が来る」
ゼロはセナたちに近づいて、淡々とした口調で告げる。
「追っ手、だって? 何故わざわざ?」
傭兵少年がそう訊くと、振り向いたゼロは説明し始めた。
「ジョーカーが欲しているものは、三つある。一つはマギリア城。そしてあと二つは、ここにいるセナ王女、エン王子の身柄だ」
「どういうことだ?」
眉間にしわを作り、傭兵少年が再度問う。
「第一王女セナ、第二王子エン。この二人は、特別な力を持ってる。本人たちは知らないかもしれんが」
「特別な力だと」
傭兵少年は、セナとエンを交互に見た。
セナは座り込んだまま、何を言ってるのかわからない、というような顔でゼロを見つめている。
エンも訝しげな表情を浮かべていた。
「何にせよ、ジョーカーが二人を狙っているのは事実。逃げるならもっと遠くに。王都を出て、できれば隣国『盟』までは行きたい」
「『盟』ですって?」
セナが反応する。
「危険すぎます。戦時中に敵国へ行くことのリスクがどれほどか。――それよりも、城に戻ってみませんか? 賊はもう捕まっているかもしれない」
「残念だが、それはない。ジョーカーが連れてきた四人は、正真正銘の化け物たちだ。――見てみろ」
ゼロが右手を掲げると、袖から三日月状の四つの刃が飛び出てきた。
「自分で言うのも癪だが、俺だって化け物だ。純粋な戦闘能力だったら普通の人間と次元が違う。一般兵の百や二百なら、無傷で返り討ちにできる。――だが、敵のうち少なくとも二人は、確実に俺より強い。他の奴だって俺と似たようなモンだ。今のマギリア城の兵力じゃ、一人も討ち取れないだろう」
セナはただ沈黙を続け、ゼロの話を聞いていた。
「それと、『盟』のマイナスなイメージは、この国の情報操作のせいもある。王族のあんたらに言うのは筋違いかも知らないけど。――多少の仄暗い部分はあれど、あそこは良い国さ。少し前までの情報だけどな」
セナの視線は、城へと移っている。
この角度から見ると、びっくりするほど普段の城だ。
王都の方角も静かで、襲撃を受けている国とは思えない。
「ジョーカーは、襲撃を秘密裏に完結させるつもりだ。マギリアの国民たちにも騒がれずにな。その為もあって、ククル王子たちに根回ししたんだろう」
刃をしまったゼロは腰を落として、座り込んでいるセナと同じ目線になった。
「ジョーカーたちを倒せるのは、あんたらしかいない。あんたらなら倒せる。俺は、そう思ってる。だから逃げてほしい。今はどんなに辛くても、悔しくても、受け入れ難くても」
セナはまだ、沈黙している。
自分自身と戦っているかのように。
「付き人さん、あんたはどうなんだ?」
ゼロが、傭兵少年に問いかける。
「――俺は、セナ王女とエン王子に従う。せっかく付き人に任命されたんだ。半端に放り出したくはないからな」
傭兵少年は無骨に、だが逞ましく、そう応えた。
この状況でも「付き人だから」と考えられるのは、傭兵少年が愚直な仕事人間だからか、優しさからか、それとも馬鹿だからか。
――いずれにしても、頼もしいことに変わりない。
「セナ姉さま。今はゼロを信用して、とにかく逃げよう。城が無事だったら、後で帰ってくればいいだけだし」
エンの言葉に、立ち上がったセナはこくりと頷いた。
そして、一度大きな深呼吸をする。
「そうですね、分かりました。すみません、泣き言ばかり発しちゃって。少しパニックに陥ってました。――私は、この国の王女。覚悟くらいはしないとね。ゼロは本当のことを言っていると、信用します。ね? エン」
「うん!」
セナがエンヘ笑いかけると、エンも安心したようにふにゃりと笑んだ。
「よく言ってくれた。ありがとう」
笑顔は伝染し、ゼロも立ち上がる。
「あのー」
細々とした、儚げな声が聞こえてきた。
皆が振り向いた先に、ぺたりと座り込んだままのカインが。
すっかり蚊帳の外といった雰囲気だ。
「私は、どうすればいいのでしょうね?」
「ああ、無理やり連れてきて悪かった。それと、改めてお礼を言う。――しかし、城に戻ると戦火に巻き込まれる可能性があるが、あんたはどうしたい?」
傭兵少年が答えると、カインは申し訳なさそうに口を開く。
「あのー、それなら、私も同行しても構いませんかね? 事情は分かりませんが、城が襲撃されているんでしょ? 王女たちは逃げてきてるんでしょ? なら、王女たちを守るのが、私の取るべき道じゃないかなーって。……あっ、怖くて城に戻れないわけじゃないですよ! そうではないですから!」
傭兵少年とゼロが、目を合わせる。
ゼロは「どっちでもいい」とばかりに肩をすくめている。
軽く頷いた傭兵少年は、カインに向き直った。
「わかった、一緒に行こう。頼りにしてるぞ、衛兵さん」
「腰抜けカイン」の「ひえっ」という小さな悲鳴が聞こえた。