第三十六話:Go away
注意:特にこれと言ってグロい表現はされていないと思うような気がしないでもないような感じがしますが、想像力豊かな人は読むのに注意してください。なーに、この作者の文章力なら大丈夫だろうと思う方は進んでください。
第三十六話
腕っぽい何かを川に放り投げた気がする志枝さんに近づくと鼻を突く血の匂いがした。
「あの、大丈夫ですか?」
「あのねー、あたしを誰だと思ってるの?」
「天田志枝さん。俺の……自慢の彼女です」
「いうねぇ、一時間前は他人だったのに」
「すみません。志枝さんが無事だったのが凄く嬉しくて」
ちょっとだけ嫌な感じがしたんだけれど、杞憂だったようだ。かすり傷一つ負っていないし、無理をしている様子でもない。
「ま、いいわ。百々はどうしたの?」
百々は別ルートでここに来ていたらしい。何となく、嫌な予感がしたとのことだ。
「今は周囲を見回してくれてます……逃げられたんですよね?」
「え? ああ、そうね。追っ払うことは出来たんだけど、とどめは刺せなかったわ」
ほら、あたしってか弱いから。志枝さんの言葉につい吹いてしまう。
「やっぱり、あの狼男は強いんですね。志枝さんが無理しなくてよかったです」
「無理は身体に毒だから。たとえこの近くに潜んでいたとしてももう、何も出来ないわよ。あたしの敵じゃないわ」
「それじゃ、帰りましょうか? 百々は合流したら先に帰ってくれって言ってましたよ」
「じゃ、先に帰るわよ」
戻るわよ、ではなく帰るわよと言ってくれたのがなんとなく、嬉しかった。
「終わったんですね」
「そうね。容疑者は逃亡しちゃったけど……ま、これからは冬治君の彼女だからいつでも護ってあげられるわ」
「お願いします」
「馬鹿ねー、ここは俺が護って見せますよって言うところよ」
「すみません」
もう此処にいる必要もないと志枝さんは歩き出し、俺も川の方へ視線を向け……固まった。
「志枝さ……っ」
「遅い」
一目散に狼男が駆けて行ったのは志枝さんの方……ではなかった。途中、フェイントを入れて両腕の無い狼男が俺に迫る。
志枝さんを守ろうと動いた身体をずらす事も出来ず、そのまま狼男がぶち当たってきた。
「少年っ……」
息を飲んで目を見開く志枝さんの顔を一瞬、確認出来た。
そして数度、バウンドし、転がってしまう。
「志えさ……ごほっ」
立ち上がろうとして、出来なかった。どこからか煙が出るときに聞こえてきそうな音が鳴り始めている。
腰のあたりの激痛を我慢しながら首だけを動かし、志枝さんを探す。
俺の頭の近くで砂利を踏む音が聞こえた。
「やっぱり、人間はまずいのぅ」
そこには狼男が立っていた。その目が俺を見ている……これまでの恐ろしいものではなく、どこか寂しそうな表情だ。
「悪かった、巻き込んで」
俺にしか聞こえない声が降ってきた。
もしかしてこの人は、志枝さんに……。
「……お前がまさかここまでするなんて思わなかった」
「さぁ? どうする?」
それはとても喜びにあふれた顔のようだった。
先ほどのような寂しそうな表情ではなく、長らく待った瞬間を望む顔だ。
「どうするも何も、こうするだけよ」
これまで聞いた事もない志枝さんの冷たい声が耳を打つ。
ひゅっ、と、志枝さんが持っている日本刀が鳴いた気がした。
ある程度の質量をもった何かが地面に落ち、俺の顔に液体が飛び散る。
「……少年っ」
暗くなりつつある視界の真ん中に、志枝さんの顔が入ってきた。
「……」
志枝さん、そう言ったつもりだが口の中から代わりに何か出てきた。液体っぽいな。何だろうか……?
「ねぇ、少年っ。こんなあたしでも本当に好きなの?」
もう言葉を発する事も困難な俺は首をゆっくり動かすしかできない。
痛みも何も、感じない。
首を戻すことが出来なくて、力が入らない。
あれ? 視界の隅に凄いもんがある……何だろうかと思えばそれは、俺の脚だった。
おいおい、右斜め前に足があるとかどんだけ凄い骨折してるんだよ。ああー、せっかく下ろしたばかりのカーゴパンツが汚れちまってる……こりゃあ、百々に怒られるな。
志枝さんも泣いてないで足の方を気にしてくれてもいいのになぁ……。
頭を引っ張られるようにして、何だか身体が軽くなった。
まるで、朝起きる時の感覚みたいだ。
そして思う。
何だ、夢オチかよ……と。




