恋のおわり
この小説はBL小説です。
特に性的描写はありませんが、同性での恋愛表現に嫌悪感を抱かれる方は閲覧をお控え下さい。
帰りの電車で腰を下ろした途端、居ても立ってもいられなくなって、携帯のアドレス帳から洋二の電話番号を探した。しばらくディスプレイを睨んでいたが、意を決してコールボタンを押す。
呼び出し音が一回、二回……三回。
四回目の呼び出し音がブツブツと数回音飛びした直後、突然電話は切れた。
義之はアンテナが圏外になったのを確認して舌打ちしたが、内心ほっとしてもいた。
洋二と別れてから二ヵ月、全く音信不通だったというのに、会社を辞めたと聞いて急に電話をしても、何を言えばいいのかわからない。まさか、どうだ元気にやってるかと聞くわけにもいくまい。なにせ、あれだけ派手な別れ方をしたのだから。
窓の外に眼をやると、蒼く沈んでいく空にぽっかりと白い月が出ている。そういえば、別れたあの日もこんな月を見たと思い出して、義之はやるせない気分になった。
「別れたい」
あっさりと切り出されたので、義之ははじめ聞き間違えたかと思った。テーブルの向かい側で、そう言った本人は厚焼き卵を頬張っている。
「なんだって?」
聞き返すと洋二は何でもない様子で繰り返した。
「だから。別れたいねん」
やっと聞きなれた関西弁がよけいに何でもないような風情を助長する。呆気に取られたまま、義之は飲みかけていたビールジョッキを机に下ろした。
「……冗談だろ?」
「いや、ほんまに別れたいねん」
洋二は義之の目の前にあるメニューに手を伸ばすと、俺もう一杯頼んでええかなぁ、と続けた。思わず、飲めよと答えかけて、義之は伸ばされた洋二の手を押さえた。周りを伺って、少し声を潜める。
「どうゆうことだよ? 俺、なんか気に障ることした?」
「ううん、何も」
「じゃあ何で別れる必要があるんだよ」
「俺が別れたいだけ」
洋二はメニューを取って開くと、もうビールは飽きたなぁ、チューハイにしていい?と、のんびり訊いた。義之は洋二の手からメニューを奪い取った。
「真剣に答えろよ。俺がなんかしたのか。それとも他に好きな奴ができたのか」
「だから、俺が別れたいだけやってゆってるやん。いいかげんわかれや」
「理由になるか!」
思わず、義之は周りの眼も忘れて洋二の胸倉をつかんだ。ジョッキが倒れてビールが床に零れる。隣の席の女が小さく悲鳴を上げたが、義之はかまわず低く恫喝した。
「別れたいだけって、その理由を説明しろって言ってんだよ。子供みたいにぐだぐだごねてんじゃねぇ」
「おまえこそ遠まわしにゆうてるうちに気ィつけよ。あほが」
洋二の言葉が終わるか終わらないかのうちに、義之は洋二の顎を殴っていた。一気に店内の客の眼が集中して、奥から店員が飛んでくる。
二人はそのまま店を追い出された。
結局洋二は、義之に別れる理由を言わなかった。
散々殴り合いをした後、もう一度だけ義之は何故だか尋ねたが、洋二は別れたいから別れるだけや、と答えたきりだった。いつのまにかぽっかりと昇った月の下で、義之は声を立てずに泣いた。洋二は義之の傍に倒れたまま、ごめんな、と呟いた。
それから二ヵ月、電話はおろかメールすらしていない。車窓に浮かぶ月をぼんやり眺めながら、義之は溜息をついた。
納得できたわけではないのに、と義之は自分を不思議に思う。男の挟持がそうさせたのか、それともただ単に忙しかっただけか。最近では考えること自体が億劫になって、考えないようにしていた。
携帯のディスプレイに視線を落とすと、アンテナは圏外ではなくなっていた。発信履歴を呼び出して、洋二の番号を見つめる。
もう一度、かけてみようか。
義之は手の中の携帯を見つめたまま、思いあぐねた。コールボタンに指を置く。その時、急に着信音が鳴った。反射的にボタンを押す。
「さっき電話したやろ?」
耳に入ってきたのは久しぶりに聞く関西弁だった。義之はできるだけ声がぎこちなくならないように気を付けながら、洋二か、と尋ねた。
「そや。久しぶりやなぁ。元気しとった?」
突き抜けたような明るい声が受話器の向こうから笑って答えた。二ヵ月が一気に吹き飛んだ気がした。
「おまえ会社辞めたんだって?」
「おう、今実家に帰ってるんや。やっぱ家はえぇなぁ、飯は勝手に出てくるし」
「なんで辞めたんだ? 俺にそうだ……」
俺に相談もせずに、と続けそうになって、義之は危うく踏みとどまった。別れた自分に相談する義務など洋二にあるわけがない。聞こえたのか聞こえなかったのか、洋二は質問には答えず、相変わらずの調子で大阪はええぞ、と言った。
「おまえ、大阪来たことある? なぁ、なんやったら今度の連休遊びに来ぇへん?」
「遊びにって……」
「ええやん、俺んち泊めたるし。遊びに来いや」
別れたことを忘れたような口ぶりで、洋二は熱心に誘った。それにつられるように、義之も昔の気安さのままで、思わず、ああ、と答えていた。
「じゃあ、土曜の朝一でな。駅着いたら電話してくれ。迎えにいったるから」
「あ、おい、洋二」
「なに?」
「ほんとに行ってもいいのか」
一瞬の間の後、少し改まった声で洋二が答えた。
「ええよ。待ってるから」
それだけ言うと、向こうから電話は切れた。
義之は息をついて携帯を耳から離した。緊張していたのか、電話を握った手にうっすらと汗を掻いていた。義之は流れる車窓に眼をやった。窓の外はすっかり闇に沈んで、月ばかりが明るく輝いていた。
新大阪の駅に現れた洋二は、短い髪を学生のように明るく染めていた。
ジーンズに黒のタートルネック、その上に何の変哲も無いダウンジャケットを引っ掛けただけの姿は、東京にいた頃と何ら変わりはなかったが、髪が黄色いだけで五歳は若く見える。照れたように鼻の頭を掻いて、ひさしぶりやなぁ、と笑った。
言いたいことが山のようにあった筈なのに、義之の口から出たのは、ありきたりの言葉だけだった。
「なんだよ、その頭」
「似合うやろ。惚れ直した?」
「何言ってんだ」
勝手に歩き出した洋二の後について歩きながら、義之は軽い混乱を感じていた。いつのまにか洋二のペースに飲み込まれて、何もなかったかのように平然と軽口を叩いている。義之には、自分が平静を装っているのか、それとも本当に平静なのか、それすらもわからなくなっていた。
「さ、こっから俺の愛車で行くで」
洋二は、駅の外に無断駐車した軽自動車の扉を開けると、義之のボストンを後部座席へ放り込んだ。それから乗った乗った、と急き立てて、助手席に義之を押し込む。運転席に乗り込むと、洋二はエンジンを回しながら歯を見せて笑った。
「さぁ、どこ行こか」
屈託のない笑顔は以前と全く変わっていなかった。
大阪城を回って、道頓堀で昼飯を食べ、別に他に行きたい場所もなかったので、二人はいったん洋二の実家に帰ることにした。車が止まったのは、小さなラーメン屋の軒先だった。車から降りた洋二は義之のボストンをつかむと、ラーメン屋の引き戸を何の躊躇も無く、乱暴に開けると、おかん、と中に向かって怒鳴った。
中から、年は相応に取ってはいるが、すっきりとした痩せ型の女性が顔を覗かせた。細い顎のあたりが洋二にそっくりで、すぐにそれが洋二の母親だと知れる。
洋二の母親は、あきらかに慌てている様子で割烹着を外すと、レジの横にあった鞄をつかんで、二人の傍まで走り出て来た。
「洋ちゃん。いいところに帰ってきた。お母ちゃん、今からちょっと出かけてくるから、店見といて」
「なんや、俺ら今から通天閣見に行こうと思てたのに」
「紘一の具合がちょっと悪なったらしいねん。そんなたいしたことないらしいけど。すぐ帰ってくると思うから、な、ちょっとだけ店見といてな」
その言葉に洋二が息を呑むのがわかった。義之の顔をちらりと伺うと、店を出て行こうとする母親に、ほんまに大丈夫なんか、と尋ねた。
母親は大丈夫や、と答えると、義之には、ほんま悪いね、ゆっくりしてってな、と笑顔を見せて出ていった。昼間の白っ茶けた光の中、残された二人は言葉も無くその後姿を見送った。やがて、母親の後姿が道の角に消えると、洋二は取り繕うように、うちのおかん、いつもあんなんやねん、と笑った。
紘一、という名前に義之は聞き覚えがあった。確かそれは洋二のふたつ上の兄の名前だ。具合が悪いとはどういうことか。勤め先で倒れでもしたのだろうか。それにしては、母親の慣れた感じがそぐわない。義之は不審に思った。
「おにいさん、どうかしたのか」
椅子に腰を下ろした洋二の笑顔がわずかに強張った。それに気づかれまいとするように、洋二は再び立ちあがり、義之の視線から顔を逸らした。
「や、ちょっと入院しとるんや。おまえ、ビール飲む?」
店の奥に入って、冷蔵庫を開けると、話題を逸らすようにビールの瓶を掲げ持って見せる。義之は、もらうよ、と返事を返して、カウンターに座った。
洋二がグラスの用意をする間、つけっぱなしのテレビがどこかの芸能人が結婚したことを、かまびすかしく放送している。二人はしばらく、洋二が出してきた塩茹でした枝豆をつまみに、ビールをもくもくと飲んだ。
2本目のビールの栓を抜きながら、洋二があきらめたように、うちの兄貴な、と話を切り出した。
「肺癌やねん。中学ん時から煙草吸っとったから、そりゃ癌にもなるわな」
空のコップに手酌でビールを注いで、洋二はそれを半分まで飲み干した。視線をコップに注いだまま、しばらく黙っていたが、やがて苦笑いと供に呟いた。
「けっこう進行しとってな、もう三ヶ月持たへん言われてる。俺んち親父おれへんし、おかん一人じゃ店やっていかれへんやろ」
やっと全部が繋がったようで、義之は顔を上げた。
「だから会社を辞めたのか」
「そうや、どうなるかわからんからな。有給だけじゃ足りん」
弾けていくビールの泡を見つめながら、洋二は、別に仕事が楽しかったわけやないし、と声を立てて笑った。その乾いた笑い声に、義之は何故だか悲しい気持ちになった。
「兄貴が死んだら、俺この店継がなあかん。おかん放って、俺一人東京おられんし」
「別れるって言ったのもそのせいか」
洋二は顔を上げた。泣きたいような笑いたいようなどっちつかずの変な表情で、洋二はかなわんなぁ、と残りのビールを飲み干した。
「なんで、その時そう言わなかった? 俺は理由を説明しろって言っただろ。あの時言ってりゃ、なにもこんな」
「俺が別れられへんようになるやんか」
ぽつりと呟いて、洋二は微笑った。
「言い訳したらそれに自分が負けてまう。そんな情けないこと俺はしたくない」
「別れたくないのに、なんでそんなこと」
詰め寄った義之に片手を振って見せて、洋二はまぁ、ええやんか、と笑った。
その仕草にカチンときて、義之は洋二の肩を捕まえた。
「なんでも、まぁいいで済ますなよ。真面目に答……」
「じゃあ、俺が一緒に大阪来てくれゆうたら、おまえ来てくれるんか!」
洋二は急に煽られたように大声を出した。びりっと空気が震え、義之は思わず言葉を失った。テレビのコマーシャルの音だけが、場違いに明るい歌を歌っていた。
洋二は興奮してしまった自分を宥めるように深呼吸を数回して、それから取り繕うように笑って見せた。
「ああ、もうええやん。こんなことゆうとったら、辛気臭くなるばっかりや」
飲も、と洋二は義之のコップにビールを注いだ。
洋二が怒鳴った言葉がまだ胸に突き刺さっている。ここで何を言えばいいだろうか。別れたくないと告げた所で、ではどうするのだと洋二は訊くだろう。それに答える答えを義之は持っていなかった。胸の中に渦巻くもどかしさと嫌悪感を飲み下したいばかりに、義之は手の中のビールを一気に飲み干した。
洋二はええ飲みっぷり、とおどけて自分のグラスにもビールを注いだ。
その夜、二人は洋二の部屋に布団を並べて敷いて寝た。電気を消した六畳の狭い部屋に、窓の外の街灯の明かりだけが、射し込んでいた。
「俺、明日帰るよ」
洋二はそうかと答えただけだった。暗い天井を見つめたまま、義之はいいしれないもどかしさとまだ戦っていた。本当は、すぐ隣の身体を抱きしめて、一緒に連れて帰ると言いたかった。刹那的な衝動が、どうかすると一気に零れそうになるが、義之はそれを苦しい息と供に飲み込んでいた。隣で横になった洋二はどうなのだろうか、義之同様天井を見上げたまま、少しも身じろぎしなかった。
長い沈黙の後、突然洋二がなぁ、と義之を呼んだ。
どきりとして顔を向けると、洋二はまだ天井を見つめたままだ。
「また、来いよ」
そう言うと、洋二はいきなり顔をこちらに向けると、にこりと笑った。義之はどう答えたらいいかまるでわからず、洋二の顔をみつめ返した。
付き合っている間は、なんの変哲もない顔だと思っていたが、こうしてみると愛おしく懐かしい顔だ。少し広めの二重の瞳。小さいがすっきりした鼻。時々酷薄そうにもみえる薄い唇。
よく見ると洋二の唇の端が細かく震えていた。 ともすれば崩れそうになる笑顔を必死で耐えている。衝動が零れて、義之は思わず洋二に腕を伸ばした。しかし、洋二はそれを避けて、あかん、と呟いた。
射し込む街灯の光に反射して、瞳がかすかに光っている。
「次は夏にでも。天神祭り一緒に行こうや」
「…………洋二」
「俺ら、友達やろ」
祈るような表情の洋二に、義之は頷くしかなかった。
頷いた後、耐えられなくなって義之は洋二に背を向けた。
背後で洋二がごめんな、と呟くのが聞こえた。
謝られたのは二回目だ、そうぽつりと思って義之は眼を閉じた。
どうしてこんなバッドエンドにしたのか、自分でも納得いきません。読み返すと、義之がそうとうへたれです。でも、みんなこんなもんじゃないでしょうか。




