うらら嬢の小さな報復
お久しぶりでございます。三条です。
やっとこさ、スクールが終わりまして、リハビリも兼ねて、ずうっとあたためていたお話を書きました。
出島さん視点の、変態満載なお話。楽しんでいただければと思います。
目の前に、世界で一番可愛らしいひとが立っている。
宇宙なんてものを旅したことはないが、この世に、たくさんの世界が連なって存在していることは知っている。そして、自分が知りうる中の世界で、彼女が一番愛らしい。
そんなことを満足げに考えていた出島浩平の思考が中断される。
「そ、そこ。どいてください」
消え入りそうな声で、彼女――黄本うらら――が言う。
「どうして?」
聞き返すと、うららは言葉に詰まって、視線を泳がせた。
出張に次ぐ出張で、ここのところまったくといっていいほどうららに会えていなかった。久しぶりに会った姿が、寝る直前のパジャマ姿だなんて、理性を外すなと言う方が難しい。またそのパジャマの可愛いこと。クリーム地に色とりどりのキャンディが描かれた上下。アメリカのお菓子のような色合いのキャンディは、見るからに甘そうで、でも、それを着ているうららの肌から薫る匂いの方がよほど甘いことに、出島は頭の端がくらくらするような思いをする。美味しそうなのは、甘そうなのは、うららさんの方ですよっ!と、床を転げ回り雄叫びをあげたい。
「出島さん」
夜も更けて、うららの弟はもちろんのこと、両親も床についてしまっている。少し遅く帰宅した彼に、ほうじ茶を煎れたうららが悪い。疲れて帰ってきて、頭があまり働いていない、理性の力が緩んでいるそんなときに、無防備な姿で優しくするうららが悪い。
いいや、違う。
悪くない。
むしろ、その反対だ。
ものすごく嬉しい。嬉しすぎて、どうにかなってしまいそうだ。
「なんでしょう」
内心の喜びを出さないように注意しながら、声を落として応じると、うららは意を決したように顔をあげた。真正面からこちらを見る。潤んだような瞳に、出島の嘘臭い笑顔が映る。
何か決心したはずだったのに、またもや迷った顔になって、視線が揺らぎ始める。真っ直ぐに見つめれば、固く閉じていたはずの唇が、春になって開き始める蕾のごとくそっと開ける。そこからのぞく前歯の質感。無意識に舐められた下唇が、廊下の電球を受けて鈍く光り、一瞬だけ見えた舌が、奥ゆかしく口内に引っ込んでしまう。
もし許されるのなら、彼女をどこかに閉じ込めてしまいたい。こんな、あどけなくも蠱惑的な仕草を無意識でしてしまうだなんて。
もし許されるのなら、彼女と高校生活を過ごす幸運な男子生徒すべてに、目つぶしをして回りたい。ああでも、それだと視覚が奪われるだけか。それではいけない。そのあと、聴覚も奪ってしまわねば。澄んだ小川のごとき声を、身近で、それも毎日聞けるだなんて、羨ましいのを通り越して殺意を覚えてしまいそうだ。
「あの」
やっとふんぎりをつけたのか、うららが口を開くのと、出島がふたりの距離をぐいと詰めるのとが同時だった。
「ねえ、うららさん」
うららには触れないぎりぎりの位置まで近付いてから、左手を彼女の後ろにある壁につける。顔の隣、髪に触れるか触れないか。右足は、うららの足の間に。驚いたうららは咄嗟に足を肩幅くらいに開けた。それが、どういう意味を示唆するのかも分からないままに。
ゆっくりと、顔を近付ける。本当は、今すぐにでも触れてしまいたいけれど、それでは面白くないから。背中を少しだけ屈めて、お互いの息が肌で感じられるまでになってから、瞬きを一度。そしてうららの瞳に映る自分を、鏡を覗き込むように見ると、ぼん!と音がしそうなほどにうららが赤くなった。なんて。なんて、可愛い。このまま、食べてしまいたい。このまま、剥製か何かにして日がな一日中眺めていたい。このまま、彼女を隔離して、誰にも触れられない場所に閉じ込めて、ふたりっきりで過ごしたい。でも、だめだ。だってうららは、生きているのが一番美しいのだから。ジレンマに、歯ぎしりしたくなる。
「聞きたいことがあるんです」
「な。な、なんでしょう」
本当は、声を出すのも辛いほどに緊張しているだろうに、律儀に返事をするうららは、それだけで人間国宝以上の価値があると思う。
「キスしてもいいですか?」
「は、は、はいっ?」
思っていた通りの反応。いや、それ以上。上ずった声をあげるうららの喉にかぶりつきたいのを我慢して、出島は一層微笑んだ。
「うららさんの了承を得てからにしたいんです。だって、僕だけがキスしたいだなんて、そんなの、公平じゃないでしょう? だから、うららさんがそう言ってくれれば、キスしたいなあと思いまして」
案の定、返答に困っている。標本にされる前の、貴重な蝶々の煌めき。顔は赤いままだけれど、頭の中は今頃フル回転しているのだろう。出島の言ったことを反復して、その意味するところを理解して、そしてまた赤面する。
「いやですか? うららさん、僕のこと、お嫌いですか?」
冗談っぽく言えば、嫌いに決まってます!なんて答えが返ってくるに決まっている。だからこそ、惨めっぽい声を出した。情けなく、懇願するような声。そうすると、彼女は返答につまるから。望まれた答えは恥ずかしくて口には出せず、かといって、傷つけてしまうのではないかと、ひどいことも言えず。
そして、もどかしそうに悩むうららの姿を見ると、出島の心は満たされてしまう。あざとい演技をしてしまった罪悪感なんて、たちまちかき消えてしまう。
やめられるわけがない。手放せるわけがない。
「残念だなあ」
だめ押しに、ため息なんかをつけて呟けば、一層うららの顔が赤くなる。その火照った頬を見つめ、ともすれば口元に浮かび上がりそうになる笑いをこらえ、出島はせいぜい憐れ顔を保ち続けた。
「ここ、廊下ですよ?」
やっと口を開いたと思ったら、羞恥に顔を赤くして、そんな言葉が彼女から紡ぎ出される。何故か声まで落として、片腕をもう片方で抱くようにして、防御の姿勢を取るその姿が、出島の嗜虐心を更に煽るということを学ばないらしい。
「だから?」
その意図することがまるで分からないという体を装ってみれば、うららは口をへの字にして固まった。
「だ、だから……。お、お父さんたちが起きちゃうかもしれないし。たすくが、その、トイレに行くかもしれないし」
「じゃあ、うららさんのお部屋に僕がお邪魔すれば良いってことですか?」
「え、いや、あの、そうじゃなくて」
「では、どういう意味なんでしょう。今のうららさんのお言葉って、廊下でひとが来るかもしれないから、ここじゃ駄目だけど、どこかふたりっきりになれる場所でなら喜んで!ってことですよね? 違います?」
「ち、違いますっ!」
「じゃあ、嫌なんですか? うららさん、僕のこと、嫌いなんですか?」
「き、嫌い、じゃ……」
「嫌いじゃ?」
「じゃ……。じゃ、ない。です、けど……」
「嫌いじゃない?」
ゆっくりとうららの言葉を反芻して聞かせてみる。考えている表情を顔の上に乗っけて、出島はごく自然に、うららとの距離をつめた。当の本人は、出島が何か思案しているらしいと、その顔を見るのに必死になっていて、更に体が密着していることなど気付かないらしい。そっと、気取られないように足を動かすと、びくりとうららの体が強張った。直接触れたわけではない。ただ、彼女の脚をまとっているパジャマの生地が、パジャマの内側にある肌をかすめるようにしただけだ。それだけでも、ショックだったらしい。漸く、うららは、自分と出島との距離が先程よりも近くなってしまっていることに気付いた。
「ちょ」
ちょっと。近付かないでください。
そんなことでも言うつもりだったのだろうか。
「嫌いじゃない、って、どういう意味でしょう?」
彼女が言葉を言い切ってしまう、それよりも半瞬早く、出島は首を傾げてうららを覗き込む。
「どの程度の、嫌いじゃない、なんでしょうねえ。世の中にはたくさんの、嫌いじゃない、がありますから。こうやって、僕に近付かれても良いくらいには、嫌いじゃない? それとも、僕に触れられるくらいには嫌いじゃない?」
くす、と思わず意地の悪い笑みを浮かべてしまう。嫌な予感でもしたのだろう、うららが逃げようと体に力を入れるのを感じた。
そうはさせない。どこにも、行かせない。
「そう。こんな風に」
言いながら、顔の隣にあった手で、うなじを優しくなぞる。
「ひゃ!」
「うふふ。うららさんたら。廊下だから、たすくさんたちを起こしてしまうかもしれないんでしょう? 駄目じゃないですか、そんな大きな声立ててしまっては」
「そ、それは! 出島さんが!」
「僕が? なんです?」
「出島さんが、さ、触るから」
「僕が、触るから? 大きな声を出してしまうんですか? 僕以外のひとに触られても、大きな声を出しますか?」
「そ、そんなことあるわけないじゃないんですか。出島さんみたいに変態じゃないです、あたし」
「へええ。ということは、誰に触られても良いのに、僕に触られると、大きな声が出ると。そうおっしゃっているんですね?」
こくり、とうららが頷く。それが内包する意味の甘美さに、気付いていないのだろうか。じっと瞳を見つめてみる。疑っているわけではない。ただ、これまでの経験上、女性というのは純真無垢を演出するのに、本能的に長けた生き物だと知っているから。うららが特別な女性だとしても、その性別が支配する本能的なものからは逃れられないのではないだろうか。そんな気がしたから。
でも、その瞳から、ねっとりとした女性らしさは感じられなかった。うららの同級生で、女性独特のともすれば下卑た色気を纏っている者だって多いはずなのに。汚れていないということを幼さだと揶揄されることもあるんだろう。そんな心ない批判にさらされているうららの姿を想像して、出島は自身の妄想の中の同級生に怒りを覚える。余計なことを。
侵してはいけない。侵させてはいけない。
このままにしておきたい。
なのに、自分のものにしてしまいたい。もっと、見て欲しい。もっと、構って欲しい。もっと、もっと。
いつから、こんなに強欲になってしまったんだろう? 再会出来たあのときは、忘れもしないあのバス停で彼女を見かけたあのときは、彼女が無視しないでいてくれたなら良いとだけ願っていたのに。それだけで良かったのに。
「慣れとは恐ろしいものですね」
「え?」
「独り言です」
にっこりと笑うと、怪訝な顔をしたうららは、はあ、とだけ返した。
「それでね、うららさん。話の続きなんですけど。うららさん、キスは嫌いですか?」
「は、はあ!?」
「試してみましょうか」
「え、えっ、えっ?」
有無を言わさず、笑顔で押し切るのは得意だ。今の役職についてから、少し強引にでも自分の意見を押し通す技を学んでしまった感がある。
体と体の距離はそのままに、顔だけを近付ける。ぎりぎりまでうららの瞳を、その中に入っている宝石を眼力で盗んでしまえれば良いのにと見つめれば、彼女はメデューサに魅入られた人間よろしく微動だにしない。出島にとっては好都合だ。
そっと、唇をうららの鎖骨に這わす。上下、どちらの唇にも伝わる、彼女の肌の質感。目で見ているのとは違う、手で指で触れているのともまた違う、その独特の衝撃。薄い皮一枚に隔てられてそこにある、骨の硬さ。毛穴のひとつひとつから匂い立つような、脳の奥深くに目眩を起こさせる、うららの香り。すべて、覚えている。触れるたびに、触れたたびに、その記憶を脳裏に焼き付けて、何度も反芻している。それでも、生きて、鼓動が脈打ち、手を伸ばせばすぐに届くその距離で触れるうららは、記憶のそれを軽く凌ぐ感動を与えてくれる。それも、毎回、だ。
いつ、慣れるのだろう。
否。慣れているのだろうか。
鼻腔を刺激する香は懐かしく、舌先で触れる骨の輪郭もまた慣れ親しんだ家具の手触りを思わせる。それでいて、五感で感じるすべてが新鮮で。ただいまと帰った家から、大輪の花の香が漂ってくるような。
「やっ、出島さ」
出島の行為に思わず上ずる声には、羞恥と狼狽が色濃く滲む。そして、いくばくかの興奮も。
「可愛いなあ」
本心から、そう告げた。なのに、うららは怒ったように口を尖らせる。
「あのですね!」
「なんでしょう?」
「こういうの、本当に、迷惑なんですから」
「こういうの? どういうのですか?」
「だ、だから」
「うららさんの太ももに密着している僕の脚ですか? それとも、首筋をなぞる僕の指? 今、うららさんの鎖骨を味わった僕の唇? それとも……、それでも逃げようとしないうららさんのことですか?」
うららの頬に、一層強く赤みが走る。優しくも、気の強いところのある彼女は、出島を睨め付ける。
「逃げようとしてます。さっきから、何度も」
「でも、逃げていらっしゃらないじゃないですか」
「だから!」
溜まってきたフラストレーションを露わにして、うららが一際鋭い声を発したときだった。
「おい、くず河童。てめえ、誰の了解を得て、ひとの孫に手ぇ出そうとしてんだ」
地の底から這い出るような低い声。叫び声ではないのに、びりびりと周りの空気を震撼させて、こちらの肌をぴりりと刺激する。聞き覚えがある。どころではない。
「りゅ、龍神さま……!」
理性ではなく、本能が身体を操っているような感覚。咄嗟に、出島はうららから身を離すと、頭を深く垂れてその場に片膝をつく。両手は太ももの上に。はらりと流れた前髪の隙間からは、青光る龍神の足の甲が見えた。
うららの祖父であり、出島の上司であるそのひと、龍神は、
「うらら、大丈夫かよ?」
と声に心配の色を露わにして、うららに近付く。その際に、出島のこめかみを足蹴にするのを忘れなかった。ぐらりとバランスを失って倒れてしまいそうになるのを、ついている方の足だけで必死にこらえる。
「う、うん。ていうか、おじいちゃん、何してるの? こんなところに。こんな時間に」
直情型の龍神は、どんなに強く逞しく振る舞っているが人情脆く、時に人間よりも人間らしい顔をのぞかせるときがある。その龍神が、目に入れても痛くないほどに可愛がっているのが、孫のうららであるのは誰の目にも明らかなのだが、そこのところが、いまいちうららには伝わっていないようだ。怪訝そうな顔で訪ねるうららの言葉に、龍神はうっと返答を詰まらせる。
「な、何って……」
歯切れも悪く、龍神が口ごもる。
「まさかとは思うけど、おじいちゃん、ずっとあたしと出島さんの会話を聞いていたわけじゃないよね……?」
さきほど出島に対して顔を赤らめたのとは違う理由で、うららが頬を紅潮させて聞く。おそるおそる、確かめるように。首を横に振って欲しいのはありありと分かったが、龍神はこれも上手く誤魔化せず、またも意味のない音を発する。それは、う、や、お、に近い発音ではあったが、コミュニケーションを図るには原始的すぎたようだ。
「聞いてた、の……?」
「ち、違ぇよ。聞いてたんじゃねえよ。聞こえてきたんだよ。お、お前らがよ、でっけえ声でべらべら喋りやがるからよ」
「ど、どこから聞こえてたの?」
どもり方がそっくりなところが、血縁だなあと出島はほのぼの思う。
「ど、どこからってお前、う、うららがよ、ほうじ茶をあすこの色ボケ河童野郎に煎れてやってるときからだ」
きっと、茶を煎れてもらっている出島を羨ましがっていたのだろう。心の中でだけ、出島はほくそ笑む。そうだろうとも。羨ましかったろうとも。誰が煎れてくれたのでもない、うららが煎れてくれたほうじ茶だ。あれほどのもてなし、この世に存在するはずもない。優越感が、出島の全身を駆け回る。頭を垂れていて良かった。前髪が長くなってきていて、良かった。うららとの会話に手一杯の龍神には、出島の黒い微笑みを見る余裕などないだろうから。
「出島さんが帰って来たときからじゃない! 信じられない、ほんと、信じられない! じゃ、じゃあ、ずっと聞いてたわけ? その、出島さんが、その、あたしに」
「初めは口出しするつもりはなかったんだよ。一応よ、お前は、あすこにぼけっと立ってる、頭に皿乗っけた河童と好き合ってんだろうが」
自分は、髪も肌も真っ青な龍神のくせに。頭に皿が乗ってようが、隠せるのだから大した問題ではなかろう。
「す、好き合って、る、わけ」
「や、やっぱり違うのか? そ、そうだよなあ。そうだよなあ。うららがよ。俺様の孫であるお前が、あんなちんけな下等妖怪に惚れるわきゃねえよなあ。びっくりさせやがるぜ。さては、うらら。ずっとこの俺様をからかってたんだろう? でなきゃよ、接吻を迫られて、あんなに悩むはずねえもんなあ。ははは。そうだ、そうだ。やっぱり、俺様の勘は当たってやがったぜ。そうだよなあ。うららがなあ。俺様のうららが、あんな川水臭ぇ水妖なんぞになあ。いや、よ。俺様も迷ったんだ。出て行こうかどうかってよ? でも、お前がいくらたっても、あのくされ妖怪に接吻しようとしねえからよ。顔も真っ赤になってるしよ。ありゃあ、苛められてんだなあと思ってな。こうして出てきたってぇわけだ」
うららの顔が赤くなり青くなり、果てには血の気をなくして真っ白になったりするのにも気付かず、龍神は安堵のためか乾いた笑いをもらす。得意げに腰に手をやってやれやれと首を振りつつ、口を閉じない龍神の背後の暗闇から、すうと伸びる手が見えた。
「うっるさいねえ。でかい声あげてんじゃないよ」
「いって!」
後頭部を思い切りはたかれて、龍神が頭を押さえる。憤怒に染まった恐ろしい目で振り返り、瞬時にその色を歓喜に変えると、彼は今さっきどつかれたばかりだというのに、嬉しそうに彼女の名を呼んだ。龍神にしっぽが生えていたら、今頃、それを引きちぎれんばかりに左右に振っていることだろう。
「絹!」
「だから、うるさいって言ってんだろう。この単細胞」
またしてもどつかれた。今度は、首の正面から手刀を打ち込まれて、龍神はむせて涙目になる。
「あんたは本当に、つくづく阿呆だねえ。うららの性格くらい分かってるだろう? あのこはね、キスしてくれって言われてほいほいキスするようなこじゃないんだよ。例え、したくてもね。女はね、あんたら男と違ってデリケートに出来てんのさ。複雑なんだよ、仕組みが。脳細胞の一個一個がアメーバみたいな、根本的に馬鹿に作られてる男と違って、女は考えたり迷ったりする生き物なんだよ。キスを迷ってるからって、あのこが河童のことを好きじゃないなんてのはね、短絡的過ぎんだよ。唐変木」
「げほ、ごほ、で、でもよう」
「でも、なんだい?」
うるさいと二度も窘められたからだろうか。むせて出そうになる咳を必死でこらえるために半身を折っていた龍神が、絹を見上げながら反論を試みた。しかし、水妖のトップのひとりであるはずの上司は、絹の威圧感のある言葉にいとも簡単に気圧されると、なんでもない、と蚊の鳴くような声で応えた。
「あんたもあんただよ、うらら。何だい、キスくらいで。してやりゃあいいじゃないか、減るもんじゃなし。この腹黒河童は、あんたがキスするくらいであんたの言いなりになる、ただの単細胞だよ? あんた、キス程度でこんなに恥ずかしがってるんじゃ、子供産むときはどうするんだい。昨今じゃ、旦那が分娩室に付き添うって言うじゃないか」
洗い立てのコットンのような顔色になって久しいうららは、絹の言葉に、漂白剤にまみれた洗濯物の顔色をなすと、遂にはその場に崩れ落ちてしまう。
「うららさん!」
「ありゃ」
「う、うららっ!」
龍神よりもいち早くうららの傍の位置を確保した出島は、龍神には触れられないように自身の身体を盾のようにして、彼女を抱き起こした。脈はある。血の気の引いた顔色はそのままだが、重体なわけではなさそうだ。
「気を失ってしまったみたいです」
「ふむ。言い過ぎたかねえ」
あまり悪気があるようには聞こえない声で絹が言うと、その背中に龍神が縋り付く。
「絹っ! う、うららは大丈夫なのか?」
「狼狽えるんじゃないよ。ただ、気を失っただけだって言ってんだろ。おおかた、あんたの言葉が刺激的過ぎたんじゃないのかい? それで、繊細なうららは倒れちまったってわけさ」
「お、俺様が悪いのか……?」
絹の言葉に、雷に打たれたように龍神の顔色がますます青ざめる。薄い青になりすぎて、肌の透明感というよりも透き通ってしまった肌のまま、龍神はよろよろと立ち上がる。ごつりとこめかみを壁にぶつけ、身体を壁に預けるようにして立つと、呆然と床を見つめた。
「ほら。あんたがうららを更に刺激する前に、帰るよ」
しれっと言いながら、絹が龍神の腕を取る。絹に促されるまま連行される龍神を従えて、絹がそっと出島の方を振り返った。その年齢に似合わない、子供のような笑顔を浮かべると、ぺろりと舌を出してみせる。
ありがとうございます。
声には出さず、口元に笑みを浮かべるだけにして、出島はうららを抱きかかえたまま一礼する。廊下の先に消えていくうららの祖父母を見つめ、その姿がすっかり見えなくなってから、腕の中のうららを見やった。
すっかり青白くなってしまった肌は、しかし艶を失ってはおらず、上等の陶器を思わせる。いや。そんなものよりも上等なのだ。この女は。陶器のなめらかさはそのままに、彼女は生きているのだから。それが、何よりも素晴らしい。閉じられた瞳に、少しだけ寄った眉根。片手は彼女の首の後ろにやって、もう片方で皺を伸ばすように触れると、従順に眉がいつもの位置に戻る。
先が少し丸い鼻。光の加減で見える、頬の産毛。前回見たときよりも、微妙に形の変わっている眉。いつもは前髪で隠れている額。うっすらと血管が見える瞼。涙を流すと、一緒に濡れそぼる睫毛。への字口にしていると分からないけれど、こうして力を抜いている状態だとよく見える。本当は、口角が少し上がった口元。血の気のない顔色とマッチするように、今は青ざめたような唇の色。この場に顕微鏡があったなら、その毛穴のひとつひとつを愛でていたのに。
倒れさせるつもりなんかじゃなかった。それは本当だ。でも、このままでも良いかな、なんて思ってしまう。
どうして、眠り姫を前にした王子は、さっさと彼女の目を覚まさせてしまったのだろう? もったいないではないか。こんなに無防備に、己の姿を晒してくれる瞬間が、そう何度となく訪れるとでも? だとしたら、王子は待つということを知らない、ただの愚か者だ。
確かに具合は悪そうなのだけれど、このまま、いくらでも彼女の姿を見ていてられる。現に、眠っているうららの姿が見たくて、睡眠不足なのに早起きして彼女の寝室に忍び込んだこともあった。もちろん、うららはそれを知らないので、あのときの彼女の寝顔や寝言は、出島だけの宝物である。
「ん……」
半開きだった唇から、可愛いと称される小動物をミキサーで混ぜて固めたほどの愛くるしい声が洩れる。
「大丈夫ですか、うららさん」
起きてしまったのか。ちょっと名残惜しい。だけれども、動いているうららに勝るものなど、知らない。出島は、首の後ろに置いてある手を使って、うららのうなじを撫でながら微笑んだ。
「あ、れ……?」
「うららさんたら、神経まで細やかでなんてキュートなのでしょう」
「え……、どういう……」
「倒れられたんですよ。龍神さまと絹さまのお言葉は、そんなに刺激的でしたか?」
逃げられないのを知っていて、まだ動けるほどに回復していないのを見越していて、からかった。さっと、頬に血色が戻る。無論、それが回復したからでないのは、誰の目にも分かることだ。
「さて。ここではお体が冷えてしまいますからね。寝室に戻りましょうか」
反論されないように、とびきりの笑顔でうららの瞳を見つめてから、困惑したままの彼女の身体を抱えて立ち上がる。
「ちょ、で、出島さ、いい、いいですってば!」
出島にしてみれば、うららと同じ空気を共有できる空間にいられるだけで至福のときではあるのだが、そこへきて、うららに触れられる機会があるのなら、それを幸福と呼ばずして何と呼べるのだろう。うららに触れているすべてが憎らしく、羨ましい。洗顔後の化粧水すらも、嫉妬の対象だ。だから、こうやってうららを抱きかかえることが出来るなんて、どう考えても、日頃の行いが良かったに違いない。龍神がそこまで心の広い上司だとも思えないが、どこか違う方の神が、取りはからってくれたに違いないのだ。
なのに、うららは慌てふためいて、出島の腕の中で暴れた。そんなことをすれば、また具合が悪くなるのに。やだって言ってるじゃないですか、とうららは伏せ目がちに呟く。その付せられた目を縁取る睫毛一本一本が、アラブ富豪の身につけるダイヤの数百倍光り輝くものに見える。
何をそんなに恥ずかしがることがあるんだろう? 一度尋ねてみたことがあったが、あのときは、そう、ダイエットが何とか体重が何だとか言っていた気がする。何の話かよく理解出来なかった。
うららの全体重が自分の身体にだけかかっていると感じるのは、例えようもないくらいの喜びだし、落ちまいと必死にしがみついてくるうららも可愛い。手の平に伝わるうららの体温も心地良いし、たまに首にかけられる彼女の腕からふんわりと薫る彼女の匂いがたまらなく好きだ。歩く度に、一歩を踏み出す度に、うららの髪が揺れて、それが自分の頬に触れたりすると、もうそれだけで床に突っ伏して悶絶したくなる。
それくらい、良いことだらけなのに。何が嫌なんだろう?
「どうして? だってうららさん、今さっきまで失神されてたんですよ? 意識をなくしていらっしゃったんですよ? 僕はそういううららさんを見放題だったんですよ?」
「ちょ、ちょっと待ってください。最後の一言が気に食いません! なんですか、見放題って。見てただけですか?」
「見てただけですよ?」
「う、嘘! だってあたし、起きたときに、出島さんの手が首にあったもの」
「ああ。あれは、その場に崩れ落ちかけたうららさんを支えようとしたときの手です。僕が支えていなかったら、うららさんたら今頃、頭をぶつけていらっしゃったかもしれません」
「あ……。ありがとうございます……」
「どういたしまして。本望です。何だったら、これからは倒れるかも~ってときには、遠慮なく僕を呼んでください。喜んで駆け参じて、うららさんを触ります」
「は? 触る?」
「いえ。支える。です。言い間違えました」
「なんか、やましそうなんですよね、出島さんが言う支える、って」
「やましくなんてないですよ」
「本当に?」
「やましい方がお好みでしたか?」
「そ、そういうことじゃありません!」
「じゃあ、どういうことなんでしょう? 見ていただけなら、何もないとでもお思いですか? 見ていただけだからといって、触ってはいないからといって、物理的にはやましいことは何もないからといって、それでうららさんは安心なさるんですか?」
「うっ。な、なんですか、その含みのある言い方は」
「いえいえ。なんでもありません。見ていただけなら、触っていないなら、それで良いとうららさんがおっしゃるんなら、僕だってそれで構いません」
「な、なんなんですかっ。何をしたんですかっ! ていうか、絶対何かしてますよね!」
「いえー? だから、見ていただけですってば。うららさんのおでこは前髪に隠れていて正解だなあとか、そういうことを思っていただけです。うららさんのおでこって、それだけで世界征服出来そうなくらいパワーがありますもんね。前髪があって正解です。これからも、前髪はなくさないでください。でないと、そのおでこで戦争が起こります。うららさんのおでこって、多分、三種の神器が束になっても勝てないと思うんですよね」
「起こりません! 世界征服なんて出来ません! おでこは、武器じゃありません! ていうか、何の話をしているんですか、気持ち悪いですよ」
「そんな気持ち悪いひとに抱えられて、うららさんは寝室に到着です」
「う、えええ?」
慌てて体勢を崩しかけるうららを抱え直すという名目で、出島は更に肌の密着度を増す。それに気付いたうららが赤くなるのをちらりと一瞥して、足でふすまを開けると、天使の笑顔を浮かべてやった。
「おや。もう、お布団を敷いてらっしゃったんですね。これは、好都合」
「どういう意味ですか」
「他意はありません。もう時間も時間ですし、お布団で寝ていただこうかと思っていたところに、すでに寝床が用意されていたわけですから」
「お、降ろしてください」
「もちろんです」
下手に逆らわず、素直にうららを床に立たせる。ちゃんと立てるまでは、手を腰に回していたが、案外しっかりと立てるようだったので、腕を引いた。襟元を直しながら、うららが出島を不満そうな顔でちらちらと見てくる。
わざとそれには気付かないふりをして、出島はきびすを返すと、
「では、おやすみなさい。うららさん。よく眠ってくださいね」
「で、出島さん!」
「なんでしょう?」
背中にかかった声に、声だけで返す。可愛い。可愛すぎる。このまま、背骨が軋むほど抱き締めて、息が出来ないほどキスをしたい。その衝動をぐっと堪えて、出島はよそいきの笑みを象ってから、うららの方へ振り返った。
「ちゃんと反省、してるんですか」
「反省?」
なんのだろう?
「やっぱり! あのですね! そもそも、おじいちゃんやおばあちゃんが出てきたのだって、出島さんのせいじゃないですか。それに、最初からあたしは、廊下なんて、誰が起きてきちゃうか分からないって言ってたのに。あんな恥ずかしいところ、おじいちゃんに一部始終聞かれちゃうし」
最初の剣幕もどこへ行ったのか、言いながら色々と思い出してしまったのだろうか。うららは、最後は力のない声になって、唇を尖らせて出島を恨めしく見やった。
「僕のせいですか?」
「出島さんのせいじゃなかったら、誰のせいなんですか!」
素直に、キスをしてくれなかったうららのせいだと思う。なんて言ったら、すでにご立腹の様子のうららは、怒髪天を衝くのだろうなあ。
「そうですね。僕のせいですよね。ごめんなさい。反省してます」
「本当に?」
正直、そこまで悪いことをしたとは思えないが、それでうららが恥ずかしい思いをしたというのなら、謝ろう。たしかに、あの場に龍神がいたのは、出島としても少々計算外だった。どうせなら、あそこでがっつりキスのひとつやふたつ見せつけてしまえれば、龍神も出島のことを認めざるをえないと思うのだが。でもまあ、絹のあの調子を考えれば、そう遠くない未来に、その願いは叶うのかもしれない。
頭を垂れてしおらしくしていると、うららがため息をつく。
「もう」
今のを現代科学の粋を集めた録音機器でもってして永久保存したい。そしてそれを出張中に絶えず聞いていたい。それくらい、心を鷲掴みにする愛らしさだった。
謝っている最中でなかったら、ぐわしと肩を掴んで、今のもう一回言ってくださいなどと詰め寄るところだが、生憎それは今は不可能だ。
世の中とは、かのように不条理なのか。く、と唇を噛み締め、臍をかんでいると、うららが動く気配があった。
「…………」
「え、何ですか? 聞こえませんでした」
何を言ったのだろうと、思わず顔を上げようとしたその瞬間、うららに引っ張られた。襟の近くを両手で持って、お世辞にも強いとは言えない力で、彼女の方に出島を引っ張る。どこか躊躇いがちに、でも、何故か意志の強さは感じる力で。うららに無理矢理引っ張られたわけではない。その場に踏ん張ろうと思えば、簡単にそうできるはずだった。ただ、そんな彼女の行動が少し意外だっただけだ。だから、何となく、このまま、彼女の好きにさせてあげよう。そんな気になった。
そして。
固く引き締められたままの唇が、そっと、ほんの一瞬だったけれど、出島のそれに触れた。
とん、と出島を軽く突き放すと、うららが出島の目を真っ向から見る。してやったりという顔の中に、隠せないほどの羞恥を現しながらも、うららは微笑んだ。はにかみと屈辱、それから満足感。それらがないまぜになった微笑みは、いつものうららからは想像しにくく、それでいて、とてもうらららしい微笑みだった。
「仕返しです」
目の前に、世界で一番可愛らしいひとが立っている。
宇宙なんてものを旅したことはないが、この世に、たくさんの世界が連なって存在していることは知っている。そして、自分が知りうる中の世界で、彼女が一番愛らしい。
そんな愛くるしくて、可愛らしくて、美しくて、出来るものなら食べて、舐めて、味わって、閉じ込めて、抱き締めて、自分のものだけにしてしまいたいうららが。今。自分から。出島に。キスを。
それから後は、覚えていない。
目の前が真っ白になって、霞んでいく意識の中、うららの声だけがはっきりと耳に残り、うららの唇の感触だけが生々しくリフレインされ、うららの香だけが鼻腔をいつまでも刺激し、うららの笑みだけが幾度となく脳裏をかすめ、よぎり、そして、いつしかそれすらも消え失せた。
ただ、ひとつ。
自分は何て幸せなのだろうと、それだけを思いながら。