第八話 白蛇の夢
雨宮だりあ担当です。
篠突く雨に追われながら、優輝と慶は全力で走った。
行くべき先は、もちろん学校だ。
先導するのは慶。正確な場所は言えないものの、彼は入学当初に校内中を探検して、沼を見た事を思い出したのだ。
「ぜってぇお堂と近いんだよ! ただ、沼ったって大層なモンじゃなかったから、優輝の言ってる沼と同じかどうかも――」
風で、不安げに怒鳴る慶の声が掻き消される。
既に2人ともずぶ濡れだ。
ガタガタと揺れているお堂の、更に奥を目指す。学校と沙良の神社との敷地の境は曖昧だが、その辺りからは茂みに入り、進むのが難しい。
「慶、あれ!」
暗い上、雨の所為で地面が悪く、どこが沼なのか、水の気配を察することも叶わない。
しかし茂みに入ってすぐ、優輝はヒラヒラ木に掛っているタオルをキャッチした。
「それ、琉星のだ! ほら、この前、首に巻いてたヤツ!」
奪うように、慶がそれを広げた。数年前に流行した、今やレトロな戦隊モノのロボット柄。
――いくらなんでも、他のはなかったのかよ。
隠す事がメインテーマであり、そもそも、モテる割にはファッションに拘りがない琉星ではあるが。
さすがに突っ込んだ優輝に、彼は初めて柄に気付いたようだった。
――たまたま、タオルの棚の1番上にあったから。巻いてる分には、柄なんてわからないし。
――もーっ! 琉ちゃんは、いっつもどこか残念なんだよなーっ!
この処、ビクビクとシリアスになりがちだった琉星と、久し振りに笑い合ったのだ。
悔しそうにタオルを握り締め、優輝は先を急いだ。
ごぼ、と深く響く水音がして、2人は足を止めた。豪雨に負けない、明らかに雨とは違う音だ。
顔を見合わせ、そちらへ走る。風に煽られ低木を迂回し、既に方向感覚は失いかけているが、視界の端には、学校の明かりがきちんと見えている。大丈夫――
「琉星っ!」
これが、沼?
2人は思わず怯み、助けたい足を竦めた。
慶の記憶よりも遥かに成長した、黒々とした濃厚な空間。
今にも沈みそうな琉星は、その中央で完全に項垂れ、気を失っているようだ。支えもないのに、両腕を束ねられたように直立不動に浮き、身動きもしない。
「優輝、見える……?」
僅かにヒクついた慶が、後ずさった。
彼の言いたい事は、優輝にもわかっている。
白い、薄い光。
雨を透かすように脈打って発光する、友人に絡み付いた白い蛇――
「ど・どどどどうしよう優輝!」
呆然と立ち尽くす優輝の腕に、慶が縋り付く。ハッと我に返った優輝は、琉星の指先がピクリと動いたのを認め、水の中に足を踏み入れた。
「慶、手!」
察した慶が、強そうな長い蔦を捕まえ、優輝の手を握る。必死で手を伸ばすが、どう考えても届かない。
優輝は慶にジャケットの裾を掴ませ、更に大きく1歩、膝までの水深に足を延ばした。
琉星の指に、指が触れるか触れないかという瀬戸際。が――
「優輝、早く! 蔦……」
ミチミチと音を立て、蔦が千切れようとしている。あろう事か、足元までがズブズブと支えを失う。
俄かに蛇が大きく琉星を巻き取り、彼の体も下に沈んだ。タイミングを見計らうかのように、胸・首と、徐々に引き込まれていくようだ。
まさか。
ここは都心とまではいかずとも、立派に東京近郊の市街地だったはずだ。
優輝は必死で足の下を探り、地面を探す。
「ヤ・ヤバイ慶! 思い切り引っ張れ!」
「んな事、言ったって……っ!」
そんなまさか。ありえないだろ。
底なし沼だなんて……
「あぁっ!」
優輝が最後に聞いたのは、蔦がブツリと切れた瞬間の、慶の叫び声。
最後に見たのは、琉星を取り巻いていた蛇が、自分や慶にも尾を伸ばし、勢いよく引き込まれる光景。そして何故か、嵐に似合わぬ白い閃光だった――
白い。
白い世界。
琉星の視界に、徐々に色が戻る。
緑が萌える、田畑が見える。
雲のように、風のように浮いて、眼下に広がる景色を眺める。
どこなのか、いつなのか、とにかく琉星の暮らす街とは違うようだが……
でも、学校に近い神社に似た、こんもりとした森と鳥居がある。歩く人は着物姿で、どうやら夢か幻の中にいるのだと、ようやく理解した。
カラスが啼き、空は夕暮れに近い。
他よりも比較的大きな平屋から、一人の男が出てきた。
きちんとした身なりはしているが、俯いて、酷く疲れているような動きだ。肉体の疲労というよりも、何かに酷く憔悴している風情にも見える。
彼が歩く姿がアップになり、追い抜いた形で、ようやく地に足が下りた。
湿った草と、すぐ脇にある、ごくごく小さな建物――否、お堂だ。
琉星の目の前に跪いた男は、お堂を見上げるために顔を上げた。
驚く事に、その目鼻立ちは、あまりに自分に似ていた。
あ……
思わず呟いたが、男は琉星ではなく、お堂をひたすらに凝視している。どうやら、琉星の存在は見えないようだ。
男は悔しそうに顔を歪め、誰にはばかることもなく、大粒の涙を零した。肩を小さく窄め、背を揺らし、顔を覆って体を伏して――
顔が似ているから、ではない。彼が全身で嘆く姿は、純粋に琉星の心を打った。
肩に手を載せてやろうか、言葉を掛けてやろうか迷ううち、突然全てが遠のいた。
引きずられるように真っ白い世界を逆走させられ、ただただ、呼吸も出来ない空気の渦に飲み込まれた。
その瞬間、彼は身体の中までも風が通り抜けるのを感じ、激流のようなそれに、意識を持って行かれるしかなかった。
「りゅ・琉星!」
慶の、涙声が聴こえる。
「しっかりしろ、目ぇ開けろ!」
優輝の、滅多にないテンパッた声も聴こえる……
ふぅ、と視界が戻った。
全身が、水に浸されている。ぐっしょりとした草むらに寝かされ、月を見上げていた。
月……?
そういえば、急き立てられるようにお堂に向かった頃は、嵐になりかけていた。
台風は、どこへ行ってしまったんだろう?
「優輝……痛っ」
起き上がるのを助けられたが、全身を打撲でもしているような痛みが走り、ままならない。
「無理すんな」
視界が変わった目の前に、沙良がいた。
気が付けば優輝も慶もずぶ濡れで、彼女だけが、まっさらな白い着物と赤い袴を身に付けている。
そして、何よりの変化……
辺りの気配が、前とはまったく違う。
入学当初より、お堂とその奥には、黒々とした気配が漂っていた。霊感の強い自分としては、絶対に近付いてはならない種類の場所だと、完全に敬遠していた。
が、今はまったく、アンテナに引っ掛かる要素がない。
ただの、茂みだ。
沼と思った淀みも、何故か消えている。
まだ何もかもを把握している訳ではないが、別世界に来てしまったような感覚で、しばらくは何も言葉が出なかった。
「大丈夫?」
背中を摩る慶。痛そうに握った掌から、血が滴っている。
「栗原が、助けてくれた。命拾いしたのかもな」
琉星の横で、疲れたように伸びをした優輝。ズボンの裾がビリビリに破け、蛇が巻き付いた痕が薄く残っている。
「ご・ごめ――っ」
コントロールが利かなかった所為で、大切な友人を危険に遭わせた。霊などまったく信じていない彼らを、巻き込んだ。
「起こるべくして起こった事」
思わず顔を歪めた彼に、沙良が凛と言い切った。
「琉星君の所為ではないわ。むしろ、いいタイミングだった」
「タイミングって」
徐々に覚醒する意識と、僅かな苛立ち。
沼に引きずり込まれる処までは、よく記憶している。あとはただ朦朧とした中で感じた、水の冷たさや慶たちの叫び。
それを「いいタイミング」と言われては敵わない。
「あなたたちのお陰で、邪魔な雑魚が気を取られてくれた。助かったわ」
沙良は素直に流れる黒髪を耳に掛け、琉星の目の前に跪く。黒い瞳が近くなり、吸い込まれそうなほど深い色だと思った。
「――あなたは、あれを見た?」
「あれ?」
「幻想、と言ってもいいけれど。この地の過去を」
「見……た、と思う。男が泣いていた。なんだか、僕に似てて……」
脇でへたり込んでいた慶が、サッと顔を上げた。
「それ、俺も見たかも。琉星が着物を着て、すっげぇ綺麗な女の人と歩いてたんだ。冷やかそうとしたけど、あんまり、なんつうか、ラブラブで……すぐ消えちまったから、夢だと思った」
優輝も、信じられないという風に、口を押さえた。
「優輝も?」
「ああ……多分、2人の結婚式みたいな場面を」
「まさか……あなたたちまで?」
沙良は、彼らとは別の意味で驚愕し、徐々に顔を綻ばせた。
「そう。良かった。資格は多い方がいい。きっと、琉星君と心が通じているからね」
「あ・あのさぁ、君は、一体ナニモノなの? どうしてここにいて、僕らを助けてくれたの? 道場でも、変な事を言っていたよね」
沙良は迷いなく琉星の手を取り、自分の手を重ねた。
ドキンとはしてみるものの、彼女の動きは、まるで子供にしてあげるような慈しみに満ちており、どこにも気恥ずかしい色がない。
「及川琉馬――あなたたちが見た男性の名よ。そして女性は、白蛇様」
慶が「ひ」と尻もちをつき、優輝も息を呑んだ。
ただ、琉星だけが怯みながらも沙良を見据え、了解の印に頷いた。
「琉星君は、かなり近い血の末裔。琉馬も周囲も家族の縁が薄く、あなたの家が、最後の血族。だからなのね、あなたがここに入学してからこっち、余計に騒がしくなった」
「あ・あの綺麗な人、あの蛇って事!?」
初の心霊体験を思い出してパニック気味の慶、真横の琉星に縋り付いた。
普段は琉星を「ビビリ」とからかっているというのに……と思わないでもないが、そこに拘っている場合でもない。琉星は諌めるように、彼の腕を叩いてやった。
「あなたたちを引っ張ったのは、雑魚の集合体よ。簡単に言えば、白蛇様を象る事で思い上がった、地縛霊のカタマリのようなものね。本物の白蛇様は、お堂で安らかに眠っている。ただ、年月で弱まった封印から、雑魚に力が流れ込む原因にはなっていたから、メンテナンスは必要だったけれど」
丁寧に、丁寧に、琉星の手の甲を指でなぞり、何かを書きながら。彼女の口調は、白蛇や琉馬への敬愛に満ちていた。
「今日の話、本当なんだな」
優輝しか知らない、祖母の昔語り。
白蛇と結婚した書家が、迷った挙句に妻を封印し、その後は不遇の人生を送ったのだ。
「嘘だと思った? ただの民話とか?」
「いや……わかんねぇんだよ。そんなに後悔するくらいなら、どうして封印したんだ? それに、白蛇には、雑魚に流れるほどの力があるんだろ? わかんねぇけど、人間になって結婚するほどの力が。なんで大人しく封印されて、今も安らかでいられんの?」
理解、できない。
時代が違うからなのか、自分がガキだからなのか……
「愛していたから」
スッパリと言い切った沙良は、大人びた笑顔を浮かべた。
「白蛇様は、永遠を生きるほどの力を持っていた。琉馬は普通の人間でしかない。白蛇様は、嬉しかったのよ。琉馬の書で封印されれば、永遠に彼の物でいられるんだもの。人を襲うなんて意味のない事、するはずがない……はい、出来上がり」
最後に琉星の手を一撫でし、彼女は立ち上がった。
「何をしたの?」
「おまじない。あなたは、紙で出来たお守りが嫌いみたいだから、直接肌に刻んであげたわ。万能ではないし、あなたの能力も消せはしないけれど、襲われる事はなくなるでしょう」
手が、じんわりと温かい。
濡れた後に冷えた処を、何度も撫でられたからなのか。
それとも、刻まれた「お守り」のお陰なのか。
「答えてくれてないよ。君は誰なの? どうしてそんなに、色々知ってるの」
片眉を上げ、沙良は溜息をした。
「琉星君は、誤魔化されないのね。さすが優等生」
「からかうなよ」
琉馬にそっくりな視線に、彼女は一瞬、たじろいた。
「そうね……今日、ここにいたのは、あなたを助けるため。そしてこの機に、白蛇様の封印を強固に戻すため。私がナニモノかは――お堂の取り壊し計画が消えたら、ヒントくらいならあげるかも」
「な・なんだよソレ……っ」
まだジリジリと不思議な感覚の残る手を逆で握り、琉星は俯いた。
「いいんじゃない? あなたはもう襲われない。無闇に淀んだこの地も、すっかり浄化された。私の方が、今は怖いわ」
優輝が、チラッとお堂を見遣った。
「取り壊しの事?」
「ええ。ここを浄化するには、リスクもあったの。だから極力、私も手を入れずに済ませようとしていた。今までは、工事の人間でも入ろうものなら、雑魚が勝手に退治してくれていたけれど、これからは放っておけなくなったから」
要するに、雑魚とお堂は表裏一体って事か……
優輝は、沼があったはずの水溜りを見詰めた。
白蛇の気配でウヨウヨしていた雑魚が、この辺りの空気を淀ませていたが、結果的には取り壊しから守ってくれていたんだ。
ただ、琉星の入学や、弱まった封印でバランスが崩れ、放置する事も出来なくなった、と。
慶が、立て続けにくしゃみをした。
濡れた服に夜風が当たり、急激に寒気が襲ってくる。
「風邪をひくと、つまらないモノを呼ぶわよ? 早く帰った方がいい」
優輝と慶が両脇から琉星を支え、学校に向かって戻る。
沙良は背を向け、挨拶もなしに去ろうとしている。
「栗原は?」
「私は、こっちだから」
神社は確かにそっちだが、明かりもなければ道路でもないというのに。
しかし屈んで琉星を支え直し、今一度、彼女の行く先を見ようとした優輝に、その背中は見えなかった。
暗い所為なのか、他の理由からなのかは、わからなかった。
「なぁ、俺、思ったんだよね」
慶が、大きく空を仰いだ。
「何?」
あまりの格好に、3人は電車やバスを諦め、幹線道路を歩いていた。
大した距離ではないが、琉星に合わせているため、歩みは鈍い。
「いやー、ああいう生き方も、アリかなって。って、琉馬の話。
そりゃ、テレビもケータイもないし、今の生活とは比べられねぇけどさ。なんか、メッチャ幸せそうだったんだ。どこかからの帰りに、野菊っつうの? いいオトナが片手に花束持って、夕暮れに手を繋いで家に戻るんだ。妄想しちゃうよなーっ」
彼の中では、当然の如く、優子と手を繋いでラブラブデートが繰り広げられているのだろう。にへら、と笑った顔は、どこまでも締まらない。
「まぁ、同じ生活をしたいとは思わないけど、確かに……」
結婚式で紅を引いた女は、素直に、とても綺麗だった。
三三九度をする琉星――と思ってしまった書家は、キリッと表情を引き締めていた。
「僕は、お堂を守るよ」
寒さと痛みに震えながら、琉星は強く言い放った。
「慶たちは幸福な場面を見た。僕だけが、封印して泣く彼を見た。その意味を、さっきから考えていた……
僕は、あんな風に泣きたくはない。彼が泣いたのはずっと昔なのに、彼を、泣かせたくない」
支離滅裂だと、自分でも思う。
しかし優輝と慶は顔を見合わせ、深く頷いた。
「お前なら、そう言うんじゃないかと思ったよ」
「琉ちゃんて、熱いね~」
からかいながら、2人も同じように感じていた。
白蛇を内包したお堂を、壊されたくないと――