第十二話 穏やかな午後に
雨宮だりあ担当です。
沙良は、知っていたのだろうか?
それとも、さすがの彼女にも、想定できない事があったのだろうか?
琉星は急に秋めいた空を見上げ、小さく溜息を吐いた。
最後に彼女と話した翌日、琉星は「明日になればわかる」という言葉の意味を知った。
優輝も慶も、お堂に寄せられた花や絵馬を「くだらね」「超ウケる」という言葉で片付けた事に、まず驚いた。
そして沙良の話を出した琉星に、キョトンとした2人。危うくアタマの病気を疑われて、必死に取り繕った。
そういう事か……と思った。
出席簿にも連絡網にも、転入生のために書き加えられた欄がなくなっていた。机も下駄箱のネームプレートにも、とにかく彼女がいた痕跡が一切ない。
辻褄が合わない部分すらなく、過去の存在から掻き消えてしまったのだ。
こんな事ってあるのか……?
数日後、優輝が祖母と会ったという神社に赴いた。
ガランとしていながら、神聖な空気。
大きな社の裏手の住居? どこだよ、そんなのないじゃないか……
狐につままれた気分。
でも、それが潔さなのかもしれない。
彼女は、一切合切を消去して、自らも消えた。存在理由こそが、お堂、そして白蛇を守る事だったのだから。
余計な物は要らないって?
なら、この胸だけに残った記憶は、一体どういう訳だ? 彼女の口ぶりでは、琉星も忘れると断定していたとしか思えない。
繋がっているから? それとも、彼女が実は望んでいたから?
わからない事だらけなのに、真実を訪ねるべき人は、この世に1人もいない。
なら、自分で決めてもいいのかな?
自宅へ戻りながら、そっと、掌に残った指の感触を辿る。
と、耳鳴りがした。
この感覚、例のアレだ……
行く先の路地から、黒い影が膨れ上がった。まるで毒の霧が漏れ出すように、向こうを透かして増長する。
ダメだ。強く。強くなるんだ。
ウォークマンのスイッチを入れ、イヤフォンを耳に掛けた。アップテンポの曲に足取りを合わせ、気楽に足を進める。
――オイデ
聴こえない。僕は聴こえない。聴こえても、無視すればいい。
霧が白抜きに、笑顔を作った。
目を留めてはダメだ。見ると影が濃くなるの、知ってるじゃないか。
ゾワゾワと鳥肌が立ち、手汗がジットリと湧く。このまま進むとぶつかるけれど、ガードレールがあって、避けるにも避けられない。
「おかあさーん」
琉星を追い越した子供が、何も知らずに影をすり抜けた。
「早くジュース買って!」
「はいはい」
急いで子供を追った母親も、同じくすり抜けた。
僕に出来ない理由があるか? 自分に言い聞かせ、気合を入れてガシガシと歩く。
見ない。見るのは向こうの景色だけ。
こうなれば、チキンレースと同じだ。ブレーキを掛けてたまるか……
まるで取り込もうとするかのように蠢くそこに、一気に身体を突っ込んだ。
ゾクンと全身を襲う冷たさ。
大丈夫だ。実害はないと言われたじゃないか。大丈夫……
一切のリアクションを排除し、彼は数歩でそこを抜けた。
日向の光が、暖かい……
内心だけで安堵しながら、角を曲がる。つい、1歩戻ってさっきの霧を確かめた。
ギョッとして脇を通った時、狼狽して足を止めた時、そういう存在は酷く喜び、増長していた。後を追われる事もあった。
なのに今は、子供が通り過ぎた時と同じように浮遊し、他の誰かを待っているかのようだ。
僕が狙われていたんじゃない。気付いてくれる人間ならば、誰でも良かったんだ……
手を開き、彼女の刻んだ何かを思う。
斎木とは違うけれど、これもまた強さの1つ……
拳を握った所為で、くっきりと爪の痕が残っていた。
それ以外、見える物は何もないけれど、彼は薄く微笑んだ。
ゴロン、と優輝はソファに寝転がった。
鼻歌を歌う、ウザい姉。
「何が楽しみなんだよ。あんまり傷付けんなよな」
「あら、何がぁ?」
「慶だよ」
「わかってないわね、お子様は」
化粧は万全、秋物のワンピースは、最近父親に強請って買ってもらった物だ。ツインテールは解き、ヘアアイロンでスーパーストレートに整えられている。
サラリ、と手で感触を確かめた優子は、弟からみても……まあ、自分と似ている分を差っ引いても、客観的に綺麗ではあると思う。
「お子様の意味わかんねぇし」
チャイムが鳴り、優子は無言で玄関を指差した。
「ったく」
仕方なしに腰を上げ、扉を開ける。
赤面で立っていた慶が、優輝を見るや、崩れる勢いで壁にもたれた。
「ぶはーっ! 超キンチョーするよっ!」
慶にしては、相当頑張ったのだろう。ワックスで髪を無造作に立ち上げ、メンズ雑誌をコピーしたようなプリントTシャツと革ジャン、ブーツカットのデニムも新調したらしい。
気合い、入り過ぎだろ。
でもそれが慶らしいような気もして、少し微笑ましい。
相手がアレじゃなきゃ、いくらでも応援するんだけどな。
「どうしよう俺、全然眠れなかったよぅ」
「映画で寝るなよ?」
あれ……?
ふと、奇妙な感覚が走る。
「なあ、チケット見せて」
「え、いいけど」
慶の出した前売りチケットには、アイドルの笑顔とタイトルロゴが描かれている。当然まだ半券は切られていない。
どこだろう……?
どこかで俺は、この半券を握った気がする。
映画のシート。つまらなくて、眠たくて、気付いた時、飲みかけのコーラは気が抜けかけていた。
「どうしたの?」
「あ……いや、何でもない、返すよ。優子呼んでくる」
「うっ、うんっ!」
独りで「どーしよう」「うわー」などとブツブツ呟いている慶を置いて、一旦中へ戻る。
「優子、早くしてやれよ!」
「わかってるわよ、もうちょっとだから」
言葉と状況の割に、まったく急ぐ気配がない。
リビングを覗くと、彼女は上着まで着て、姿見の前で全身をチェックしているだけ。
「何してんの?」
「心の準備は必要でしょ?」
「準備なんて要らねぇだろ」
「慶君に、必要なのよ」
はぁ? 何? シンキングタイムを与えてるって事?
「やっぱり優輝は、まだまだ子供」
「うっせぇよ。とにかく、マジな相手を弄ぶのはヤメロ」
さて、とバッグまで持って、彼女はスルリと優輝の横を通り過ぎた。
「別に弄んではいないわよ? 年下のカワイイ子を、私好みの男に仕立て上げようとしてるだけ」
余計、性質が悪いって。
優子といい、マリといい、やっぱり女は怖ぇ。
「お待たせ」
「うっ・あ、キャサリンさんっ! ききき今日は、また・一段とっ!」
玄関ドアを開けた向こうで、慶がリンゴみたいに赤くなっているのが見えた。
「褒めてくれる気なら、ハッキリ言ってね」
語尾にハートでも付いている口調だが、実はキツいツッコミ。
「きき今日も・最高に、綺麗ですっ!」
「そ? ありがと。慶君も今日は素敵ね」
「そそそんな! あ・ありがとうございますっ!」
まるで道場の中のような大声で、優輝の方が恥ずかしくなる。
バタン、とドアが閉じ、やっと平和な休日の始まりだ。
ヤレヤレ、と肩を竦め、またソファに身体を沈める。
朝から姉が煩かったから、ゆっくり二度寝に耽るのも悪くない。
まどろみの中、ゆっくりと夢が始まった。
琉星がいて、なんだろう……叫んでいる。チケットのアイドルと、翻る白いスカート、水の冷たさや雨の音……
「わっ」
質の悪いうたた寝で、ズルッとソファから落ちかけた。
無意識に時計を見ると、長い夢を見ていたようで、ほんの5分という処。
何だったんだ?
妙に気分が落ち着かない。こういうのは、自分としては珍しい状態だ。
ケータイを手にして、琉星の番号を表示させた。
胸騒ぎがするほどリアルな夢の中で、彼は確かに、濁った水に消えようとしていた。
こういう感じを放っておくのは気持ち悪い。どうしても気になるなら、確かめたっていいよな?
でも、何を? 何を確かめたらいいんだろう?
優輝はフラップを閉じ、テーブルにゴトンと置いた。
「バカバカしい」
下らないバラエティに毒されて、お堂に絵馬なんて置く奴がいる。
ハッキリしてもいない、ただのデジャヴやちょっとした夢の内容を誰かに話すなんて、それと同じくらい愚かしい。
デジャヴから自然とお堂を連想していたが、その理由だって必要ない。
お堂は、普通にあそこに在るだけでいいんだ。
うまくは説明できないけれど、それでいいと知っている。
「寝直すか」
どうでもいいようでいて、そこに在るのが大事。
静かに佇むお堂を思い出したら、今度はうまく寝られそうだ。
慶には、初デートの結果を報告させなきゃな。
優輝は長い睫毛を伏せ、今度こそグッスリと眠った。
黒く長い髪の残像を、またしても不思議に思いながら。