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すべての若き声豚どもへ

善良な声豚と今日までの自分と今日まで応援していた方たちへ愛をこめて。


・登場人物 名称

神瀬音雪:こうのせ おんせつ

大性:おおしょう

台薬:たいやく

本邸:ほんてい


 ■オープニングトーク


 声優・俳優『神瀬音雪こうのせ おんせつ』さんのお渡し会を最高の状態でむかえるために半年間『ごはんつぶたべたい』さんになりすましていた僕は、ごはんつぶさんの自宅を特定してアポを取った。

 特定は自分でやってみると意外と簡単だった。僕はごはんつぶさんが番組で採用されたおたより八年分を書き起こしてエクセルでまとめている。どんなに気をつけていても長年おたよりを出し続けていれば、ふつおたで個人情報がポロッとでるものだ。その情報の欠片を集めて組み立てればいい。

 仕事から帰って毎日四時間しか作業できなかったから、お渡し会の当日の今日までかかってしまった。



――――――――――――――――――――――

しゅが~んです。ごはんつぶたべたいさんに謝罪したいです。日曜日までに連絡がなければ申し訳ありませんがネットに個人情報を晒します。

――――――――――――――――――――――



 マンションの2、3階の全部屋にポスティングして、Discordに連絡をくれたごはんつぶさんは、スキンヘッドでサングラスで、Tシャツから筋肉質な太い腕が伸びていた。

 聞き取りして固めていたイメージ、三〇代後半でもメガネでもない。二メーターで男しかあってない。

 そして僕は名札を首から下げたまま、昼の一二時にごはんつぶさんに胸ぐらを掴まれる。山下公園の五輪の和のアーチへ押しつけられて、胸と背中の骨が軋み、地面から足の裏が浮いている。

 ここからボコボコにされるのだろう。

 僕はそうなるべきだ。

 僕をめいいっぱい殴ってくれ。

 僕はひねり出して言う。すみません、どうしても謝りたくて。

 丸みをおびたスキンヘッドが急接近して、岩石に殴られたような痛みと衝撃。気が付けばおでこと後頭部と尻に広がる痛みとともに、舗装された硬い道に尻もちをついて、アーチに背中を預けていた。

 右手首を掴まれて立たされ、親に強引に立たされた子供みたいになる。右手に巻いている包帯から少しだけ血が滲んでいた。治りかけていたのに、また傷口が開いたかもしれない。震えなくなっただけマシか。

 自衛と、この人を必ず連れて行くためにポケットに忍ばせていた、捨てる予定だった誰かの缶バッチの針を出すタイミングがない。

「オレのおたよりを自分がやったみたいに手ぇ上げて、おんせつちゃんから見てもらえて気持ちよかったか? なあ、犯罪者。お前みてえに頭ぁ赤くして、周りが見えてねえイカ臭いキッズがルールを増やしてくんだよなぁ」


【「ごはんつぶたべたいさん。いますかー?」】


 ある時は、R'sアートコート。

 ある時は、東京カルチャーカルチャー。

 ある時は、ライトキューブ宇都宮。

 ある時は、科学技術館サイエンスホール。

 ある時は、ある時は、ある時は……。

 認知ゲージが七三、七二、七一、何分か毎に下がっていく。

 これはなにかの呪いなのだろう。

 だが、オタクにはやらねばならない時がある。

 きっとこれが僕にできる最大限の禊で、自分のやったことに起こっている何かの正体なんだ。

 そう信じて、僕は言う。本当に申し訳ありませんでした!! だから、僕とお渡し会にいきませんか!!

 放たれた弾丸みたいな拳が僕の眉間めがけてスローモーションで迫ってくる。

 僕の頭が炸裂して、解脱するまであと三秒。

 二秒。

 一――――。


 最初は、R'sアートコートのこのイベントだった。


 壇上の皆さんが客席を見渡している。最前ドセンの席で、神瀬こうのせさんの清らかなお顔ごしに、昨日届いたメールの文面を僕は思い出していた。


【――厳正なる抽選の結果、下記内容にて当選されました。】

神瀬音雪こうのせ おんせつBD発売記念ブロマイドお渡し会――】


 お渡し会またはお話し会系、いわゆる接近戦のレポは、遠い彼方の惑星で行われているノンフィクション番組よりも心が動かされる。読めば読むほど行きたい。行って、僕も神瀬さんとお話ししたい。僕と神瀬さんだけの空間で、ライブやイベントの《《みんな》》へのファンサじゃなくて、「あ、しゅが~んさんだ」って言われたい。

 これまで一度もなかった神瀬音雪のお渡し会が生えたんだ。当選したんだ。もう無いかもしれないんだ。

 僕はまぶたを閉じる。

 半年後に、「あ、しゅが~さんだ」になるためには、僕にはなにがあるんだ。

 声優俳優の神瀬音雪を知って、四年。

 神瀬音雪が出演するすべてのイベントへ行って、四年。

 舞台、朗読劇、リリースイベント、声優イベント、作品のイベント、すべてに行って、ほとんどすべての最前のセンターになって、四年。

 フラスタ企画も、広告企画も大抵は僕がやった。僕は、Discordでフラスタ企画の進捗を報告し、報告し、報告して、そのたびにリアクションがついて、ニコリと笑顔になる。

 今回はありがとうございました!

 ツイッターのリプに対して、主催・企画で誰よりもデカデカと名前が載る僕は言う。

 こちらこそ、ありがとうございます。

 界隈で僕を知らないやつはいない。現場で赤髪を探してください。僕です。しゅが~んさんはスゴイって友達も言っているし、ツイッターでリプも来る。イベント現場では知った顔ばかりだし、僕が幹事をやっているし、イベンターノートの神瀬音雪の一位は僕。

 一位は僕だ。


【「続いてのおたよりは、『ごはんつぶたべたいさん』からいただきました。ありがとうございます」】


 神瀬さんの番組でファンサをもらえるチャンスは月に二回のタイミングしかない。何通も送っているのに、長いのも短いのもテーマメールも感想メールも、僕の変わりに読まれるのはどう考えても《《ヤツ》》だ。番組ゲスト回でも必ず読まれ、必ずだ、ありがとうございますとか、あらとか、笑ったりとかしてもらえている、《《ヤツ》》。

 伝説のおたより職人と言われている《《ヤツ》》はイベントに一つ残らず《《行ってない》》のに、僕は今日も五通中一通も読まれない。

 僕はブラックリストに入っているんだ。構成作家たちとヤツは癒着しているんだ。ブラックリストは構成作家間でGoogleスプレッドシートとかで共有されて、こいつとこいつとこいつは読むな、弾け。

 さもなけばオマエに仕事は無くなるだろう。

 いや、それは言いすぎかも……すみません。

 番組のコーナーで僕以外のファンのおたよりを三通読んで締めに神瀬さんは言う。


【「読み切れないけど、みんなのおたより全部読んでるので……」】


 構成作家が弾いて僕のおたよりは一度も届いた事はない。


【「ごはんつぶたべたいさん、いますかー?」】


 飛んでいた意識を引き戻すと、右手が震えていた。右手が何かをしようとしている。息が吸いづらい。頭蓋骨の前あたりがビリビリしびれて、イベント中に時々横切るありえない妄想の総集編が再生される。

 もしも、トーク中に壇上の崖に足をかけたら?

 もしも、ライブ中にこのペンラを投げ込んだら?

 もしも、無関係な僕が手を上げたら?

 右手がうずく。ギュッとまぶたを閉じて、開け、左腕でうずきを握る。神瀬さんは軽く首を動かしてテーブルの原稿に、あと〇・何秒かで戻りかけている。

 すると、何かが起きた。

 壇上と客席を隔てている見えない壁が無くなったみたいに女性声優のすべての瞳を感じる。ほわほわな笑顔の台薬たいやく、顔がよすぎる関西弁の本邸ほんてい、神瀬さんと仲が良すぎる大性おおしょう。その誰かのファンの拍手が、すべて僕に向いている。

 拍手、拍手、拍手が巻きおこり、イベントゲストの一人の神瀬さんの澄んだ瞳が、僕だけを見る。

 僕だけに笑いかける雲の合間から差し込む光。

 別名、『天使のはしご』。

 三秒くらいで拍手がやむと、いつの間にかヤツの文章が読まれていた。上げていた右手も戻ってきていて、可哀想にひざのうえで震えている。

 額に汗が滲んでくる。頭がじんじんして、深呼吸でマスクが口に張り付き窒息させようとしてくる。見れば、ただでさえ白い神瀬さんの肌がいつもより白っぽい。

 客電がない暗がりの全ての色彩が白っぽくなっている。

 世界が白いモヤに包まれていた。


  ■1部


 ある時は、科学技術館サイエンスホールで手を上げる。


 ごはんつぶたべたいのおたよりで僕が手を上げる。

 その笑顔に、僕はマスクを外して口角を上げ、片手を振る。顔は隠れないようして振る。最前ドセンだから光が近い。ランダムブロマイドの袋を開けるよりも短い時間が過ぎさり、雲が隠すように神瀬(こうのせ)さんは正面に向き直り、『ごはんつぶたべたい』の文章を聞き取りやすい素晴らしい発声で音読していく。

 真っ白でフワフワしている幸せな時間は引いていき、アゴのマスクを引き上げてほてる顔を隠す。そして、文章を聴くためだけに、一言一句聴き漏らさないように口の動きを見る。

 今日の《《ヤツ》》のおたよりはなんてことはない短い質問メールだ。今日のコーディネートのポイントを教えて下さいそしてよろしければ回ってください。僕は長く細く息を吐くと、力みが引いていく。

 長テーブルから立ちあがって壇上の崖っぷちに歩いてきた女性声優たちの姿に、とりわけ神瀬さんに、フウー! を声高に言う。

 今日も乗り切った。

 出口の列に並ぶと肩甲骨に強い衝撃があって、ウッ、息が詰まる。

「絶対認知されてるって!」隣に並んだのはオタク友達だった。僕は肺からすべての息を吐き出す。「あ、ごはんつぶたべたいさん、今日もいるって感じ出してただろ!」

 会場の外に出て『神瀬さん……会場だよ……』用に会場名の看板とアクスタを撮る。そして、僕と看板との自撮り。そして、ツイート。顔はスタンプで隠す。少しだけ顔の輪郭がはみ出すようにした。見ているかもしれないから。

 あんなおたよりでも読まれて草、ツイート。

 神瀬さんと目が逢った。神瀬さん……、ツイート。

 何度もスクロールすると、♡がたくさんつく。こんなに♡がつくのは友達が引用リツイートで僕の正体をバラしたからだ。『【悲報】伝説のごはんつぶたべたいイベンターだった』。バレないバレない。僕が四年追っててもヤツは来たことがないんだから。

 手を上げるたびに視界の端に現れるゲージが下から溜まっていく。よく来る人は覚えてしまうってどこかで言っていたから、この感覚とゲージの溜まり具合はウソじゃない。その日は上手く行かなくて最前じゃなかったのに、手を上げている僕をなかなか見つけられない女性声優の中でいの一番に神瀬さんは僕を見つけてくれた。

 赤髪だからじゃない。

 僕がわかるんだ。

 神瀬さんのグッツの合計七万五千六五〇円スクショをツイート。

 舞台のお弁当を差し入れできる企画の購入ツイート。

 番組生配信の枠が立った。楽しみです! 僕が最初に書き込んでからツイート。

 あ、神瀬さんの最新ツイート。速やかにリプ欄に書き込み、ツイート。


『@koukou_onse2 舞台、お疲れさまでした! 現地で神瀬さんのお芝居を観劇できて嬉しいです! みんなにぜひ現地で観てほしいですね!』


 君たちじゃない。僕だ。


【「続きまして、ごはんつぶたべたいさんです。ありがとうございます。舞台配信で拝見しましたー。あ、ありがとうーー!!」】


 一方の《《ヤツ》》は番組のコメント欄にすらこない。

 ライブのフラスタと寄せ書きと応援広告の端っこのどれもに、こう書かれている。

『主催・企画 : しゅが~ん』

 そして、そのどれもの僕のツイート、企画に、みんなはこう言う。

 @shuggn1228 ごはんつぶたべたいさん、全部買うマンだったんだ

 @shuggn1228 ごはんつぶたべたいが弁当の差し入れしてる。

 @shuggn1228 素敵な企画ありがとうございます! ごはんつぶたべたいさん!



  ■2部



【「大丈夫、ちゃんと注文は伝わってます。はぁいおまたせ、シーザーサラダ一五二個でーす」】


 ある時は、東京カルチャーカルチャーで観劇する。


「ごはんつぶたべたいさんですか?」

 終演後のエントランス。素早く周りを見回してしまったがすぐに向き直る。くるわけない。僕だ。この方は極太レーザーさん。彼もヤツと同様に声優番組おたより職人の一人だったのを思い出し、LIVERTINE AGE神瀬こうのせさんコラボTシャツを纏っている皮膚に汗が滲んでくるのを感じていた。

 キラキラしている目と、清潔感のある笑顔と香りが真っ直ぐに言葉をかけてくる。

 あ、そうなんですか。僕は繰り返す。

 だって僕はごはんつぶたべたいだけど、ごはんつぶたべたいじゃない。

 極太レーザーさんは言う。「毎回読まれてスゴイですよね。でも当然というか、ごはんつぶさんのメールは適度な距離感をたもっているんだけどこうエピソードとかパーソナルなところを触れて面白くしているのに失礼すぎないっていうかスゴイ、ですよねえ」

 どこに行っても誰かが伝説のおたより職人と話したくて僕のところに来るから、僕は訊くことにした。


 Q:僕ってどんな印象でした?


「スラングの感じでもっと年上かと思ってたんですが、若いっすねー。おじさんの心にちょっときてます」

「二メーターある」

「メガネでやさしい感じかなぁ。髪は黒。まさかしゅが~んさんだったんですね」

「生真面目オタク」

「犬飼ってそう」

「うーん……ガチ恋してる人ってイメージはなかったな。今日までは」

 ま、まあ、結構好きですから。神瀬さん。

「結構って。八年くらい送ってるじゃないですか」

 え? そんなに?

 声を張り上げて、アハハ、発声するおたより職人の高バサミさん。「私が七年なんですよ。だからすごい人がいるなあってことでよく覚えてるんです」

 四年目の僕は言う。な、長さは関係ないですよ。思いの強さじゃないですか、やっぱり。

 みなさんの話で出来上がったモンタージュの《《ヤツ》》は、三〇代後半でメガネで生真面目で犬を飼っている優しくガチ恋してない二メーターの男オタクらしい。

 オタクのイメージって。後頭部すらみたくない。神瀬さんとを隔てる、動く黒い障害物でしかない。

 でも話しかけてくださった人たちは、笑顔で……変わっている。

「貝柱が喉に詰まったってやつ面白かったです。あれ、本当だったんですか?」

 あれはちょっと盛ってます。答えると、なぜか心臓が一瞬だけ締め付けられた。

 読まれれば、こんなことをする必要はないんだ。


 ある時は、京セラドーム大阪でペンラを振る。


 プレゼントボックスにお手紙を入れる瞬間の写真をツイート。ハッシュタグを一応つけておく、見ているかもしれないから。

 現場の友達と打ち上げでグラスを合わせている写真をツイート。神瀬こうのせさんは今日もよかった。歌が、ダンスが、ユニットが、演出が、曲順が。

 オタクのツイートが目にはいる。

 帰ったか。

 来てないか。

 残念だな。

 人それぞれだよな。

 それはそうと、僕は大阪まで来て、すでに551の肉まんを五つは食べた。

 僕は『神瀬さん……油淋鶏だよ……』と、なるだけ友達の手が写っている写真をツイートする。

 ひとりが言う。「今日さあ、家虎と隣のやつがスゲーイキっててさあ。興味ないとこでスマホいじって、高い金払ってなにしに来てんのって感じで、うぜー」

 キラキラしている世界の栓を抜いたみたいに、皆んなが共有している隣りにいた妖怪へと話が移る。

「あいつら名を上げたいんだよ。『俺達しか騒いでなかったなw』って、でかい声で話してたもん。死ね!」

 移動費往復三万四千六二〇円、ホテル二万七千二〇〇円プラス宿泊税五〇〇円を払ってたどり着いた大阪の居酒屋で、日頃のイベの鬱憤を全て吐き出し、またどこかで! 次の日の有給消化日に新幹線に乗り込んだ。

 新幹線の数ミリだけ倒したリクライニングシートで神瀬さんの番組のメールフォームを開く。目を閉じると、暗闇で動き、周りのオタクより特別で注目されていると信じてきっている妖怪の奇声しか浮かんでこない。こうなると、初めての会場に微熱の中たどり着くくらいに感想を書くのが厄介になる。

 といっても、通常時でも『よかった……』以外でてこないんだけど。

 周りのオタクのために立ち上がり、スタッフにチクって、二万四千年ほどやつらを地中に埋めてもらうべきだった。

 やったことないけど、自身はある。あるよ。


【「続いてのおたよりは、ごはんつぶたべたいさんからいただきました。ありがとうございます。神瀬さん、こんばんは。先日のライブ、配信で見ました」】


 自宅のPCから書き込んだコメントは一つも読まれなかった。なんでだ。感想メールはひねり出した感が出てしまったから採用されないのはまあ仕方がない。一行の締めすべてに『神瀬さんが最高でした。』って、こんなの見え見えだ。

 ヤツのおたよりが読まれたときにコメントしようと試みた時期があった。

 コメント欄に『はい!』と打ち込み、クリック。

 クリックするだけなのに、何故かマウスが動かなくなった。そこを過ぎれば、いつも通りにスイスイ動く。

 何度目かで気がつく。マウスを持ち上げて横から見ると、右の人差し指が筋張ってカチカチに硬直している。ふいにマウスが落ちて、テーブルで弾ける。画面ではヤツのおたよりのターンは終わって、ゲームコーナーに突入していた。そして、六〇溜まっていた視界端の認知ゲージが五六になる。

 イベントでは手を上げれば《《ヤツ》》は僕になるが、身体情報の必要がない文章だけだと、《《ヤツ》》は依然として《《ヤツ》》でしかない。

 イベントよりも番組のほうが回数が多いっていうのに、《《ヤツ》》が送りつけた一文字一文字を神瀬さんが丁寧に発音させられていく様を、何もできない僕は画面の前で涙を流して眺めることしかできない。

 僕にそういう癖はない。

【お渡し会当選のお知らせ】のメールを読み返す。

 オタクは他の人種よりも《《やらねばらならい》》を感じ取る器官が異常に発達している。それは先人のオタクたちが虐げられ、戦いにさらされ、成長した抵抗の遺伝子が文化自体に組み込まれているからだ。

 三〇代後半でメガネで生真面目で犬を飼っている優しくガチ恋してない二メーターの男オタクをチャットGPTで画像化して、部屋に貼った。ヤツはイケメンで僕にないものをすべて持っている。

 どんな日だって仕事を片付けて直帰していく僕に、「変わっちゃったね……」とチワワみたいに上司が震えるようになったが、ニコニコちゃんねるの番組に会員登録をしている僕は、会員限定と表記されているアーカイブ動画を過去回からクリックして開ける。

 シークバーをクリックしていき、ブツ切れの音声に耳を澄ませ、『ごは』の音を拾い上げる。

 平日に数本、イベント待機列で数本、イベント帰りの電車で数本。配信があったイベのアーカイブはローカルに残してある。

 該当の部分を録画して、広告企画で培った動画編集スキルにより一つにつなげる。それからヤツの文章をGoogleキープに打ちこんで、いつでもスマホからカンニングできるようにした。

 完ぺきだ。

 これでもう受け答えもできる。きっと。

 ヤツは僕の一部となった。

 打ち込んでいるうちに内容もなかなか覚えた。思っていたよりもヤツの文章は……素朴。面白くもなければ、つまらなくもない。クスッとする。

 仕事はしてるだろうが、同僚の話がない。家族はいないだろう。住んでいる場所は……オタクが住んでいる場所を特定してなんの意味がある。

 ヤツのおたよりは、ほとんどが感想。ついで質問。ついで日常であったなんてことない笑い話。どれもこれも基本に忠実な平坦な文。『結論・理由・詳細・結論』の順で、最長で一分で読めるように短く書く。

 驚くべきことに読まれてない回もあった。よく読まれるただのファン。伝説なんて担がれてはいるが、ベールを剥がせばおたよりを送っている普通の人だ。

 僕とあまり変わらない、普通の。

 気遣いと好きに溢れた、普通の。

 視界端の認知ゲージは六五を突破。

 まだ別の番組にゲスト出演した回を見ている最中だが、今だ。僕が発見したGTMごはんつぶたべたいメソッドを使っておたよりを書けば採用される。

 もうヤツになる必要はなくなる。それどころかヤツのポジションを僕が奪って、ヒヤヒヤする必要なしに一番になれる。こんな産業スパイみたいな生活はもう終わりだ。


【「続いてのおたよりは、ごはんつぶたべたいさんです。ありがとうございます」】


 その日の番組は終わり、五通中〇通読まれたザコの僕は机に平手打ちして、布団にダイブして枕に唸る。

 数時間後にツイートした神瀬さんに、『お疲れ様でした! 今日もスゴく神瀬さんが一番輝いてて――』とリプだけして、寝た。


 ある時は、アリオ八尾一F光町スクエアで手を上げる。


 お見送りで『しゅが~ん』の名札を首から垂らし、手を振りまくって、長テーブル越しの神瀬こうのせさんの前を通り過ぎる。

 僕だけを見ている天使のはしご。

 数秒で通りぎていき、同じく登壇していた台薬たいやくさんのホワホワな笑顔に浄化されて、会場を足早に後にした。

 地下鉄に走り、在来線に走り、新幹線へ飛び乗る。

 最高。

 最高最高最高。

 最高最高最高最高最高最高~~~~~~!!

 完全に僕だとわかっている感じの反応だった。名札を見て、「ありがとう~〜」と言っていた。

 次のオタクにも言っていた気はするが、僕だった。僕だからの抑揚だった。僕ならではの感じだった。


 お渡し会まであと二ヶ月。


 ほぼイメージできる。

 神瀬さんが、あっ、てなるのが。

 自動ドアの上にある電光掲示板には、名古屋。東京についたら迅速に行動しなければ明日の仕事に間に合わない。

 思い切って行ってよかった。ネットによれば、神瀬さんのお見送り会は僕が推す前に少しあったくらいの激レアイベだった。

 視界端の認知ゲージは七〇。ゲージは本物で、ウソをついてはいないと確信が持てた。

 間近の神瀬さんは画面や雑誌の中の姿よりも綺麗で、神瀬さん……。

 優しく芯のある声の、ありがとうございます、神瀬さん……。

 ふいにため息がでて、隣に座る外国人の鮮やかな入墨の腕を気にする。通路側だから中央と窓側の二人を気にしなければならないため、テーブルを降ろさず、イヤホンの音量も最小限にして、折りたたまれた袋みたいになるしかない。

 大宮駅から徒歩になり、二三時五三分に家につき、リュックを放り投げてシャワーに。戻る。リュックは、積んであったグッツや雑誌やCDがミックスされた『捨てるゾーン』に突っ込み、山崩れを引き起こし、布団がその被害に飲み込まれていた。

 仕事から帰宅したらヤツの分析。土日はほぼイベと企画の準備。日々の生活が積み重なって地層ができあがるのもおかしくない。どれも写真を撮ってツイートしたあとに積んであった物だ。

 お渡し会まであと二カ月なんだ。

 そろそろ、整理しなければならない。

 月~木曜日はドロドロで仕事から戻り、声優グランプリ四月号十一冊、数字が印字されている紙に成り下がった抽選券三〇枚、CD一五枚、使用済みボタン電池六九個、ヤングドラゴンエイジ六冊×二、その他諸々の同じモノに見守られながら眠った。

 金曜日。明日は午後からイベだから整理するには今しかない。同じ絵柄、同じ音を奏でる円盤、同じ形をしているアクリル、それらを何度も何度も何度もビニール袋に入れる。

 小さいダンボールから出して袋をむき、神瀬さん以外のトレーディングブロマイドや、神瀬さん以外の缶バッチをつまむ。

 台薬たいやくのブロマイドと目が合う。「ありがとう~~」お見送りの声が再生される。友達にも、知り合いにも、ネットにも譲渡先はない。捨てられない。売りたくない。

 だが、ブロマイドホルダーには限りがある。ごめんなさい、ビニール袋に入れて指をはなすと、落ちて、カサッと小さく音を立てる。

 一度ゴミ袋に入れれば本邸ほんていの可愛いポーズも、あんた捨てんの? ごめんなさい。

 大性おおしょうのキメ顔も、まあ仕方ないよね。ごめんなさい。

 手放せる。

 感情をなくして、作業的に、舞台や朗読劇のトレーディングやらランダムやらガチャやらの、神瀬さん以外の方のお写真を目を合わせないで、すみません、手放していく。

 メルカリで売ればいいのに、お渡し会抽選券を抜いたBDが半額で売られているのを見てから、僕には出来ず終いだ。

 これは写真だ。商品だ。物だ。物体だ。

 なのに、ビニール袋にリリースして小さな音を聴くたびに心臓のあたりが重くなる。

 一度手に入れたらなかなか外せない呪いの装備みたいだ。

 これが後八二八回ある。

 父親の声が過去から響く。「お前はもう、どうして、そんなことも出来ないんだよ」

 そうこうしていると、そろそろ今日の番組が始まる時間になった。

 PCで配信ページを開き一番に書き込むと、アイコンの側に《《四五》》の数字が記される。番組開始から会員になっているから、《《四五》》。登録ナンバーは、《《二》》だ。

 君は一五か。へえ。

 君は三〇か。そう。

 君は四〇か。ほほう。

 僕は四五だ。

 片手間でスマホのソシャゲを起動すると、【ハッピーバースデー!】クラッカーのSEが鳴る。

 そうか、今日は僕の誕生日だ。ゲストの台薬たいやくが誕生日だから今日だ。

 誕生日ガールの台薬たいやくより先に、赤いイチゴの白いスポンジケーキを口に運び、白い口ひげで【「ん~」】と目を細める神瀬さん。

 おめでとうございます! コメントを打ち込み、ライトで白んでいるスタジオの映像を、ゴミ袋が点在して、切れかけの電球が明滅するワンルームで。

 キーボードの前に置いた丼から、遠征費捻出のために主食になっているもやしとサッポロ一番を口に運び、噛む、噛む、噛む。

 噛む、噛み、飲み込む。

 薄いもやしの味と、美味しくも不味くもない醤油味の麺が喉を通り過ぎて、僕の中の暗闇に消える。

 誕生日にこんな神瀬さんが見られて、僕は幸せだ。

『僕も今日誕生日です! 祝ってください!』とGTMでおたよりを送っているから採用されてほしい。

 ツイッターで『おぎゃあ』とつぶやくと、いくつかの♡と『ごはんつぶさん今日なんですね!? おめでとうございます!』のリプが数件きて、ニヤつく。


【「そんな、あなた私よりも若そうでしたよね!」】


 スマホからディスプレイへ。

 笑っている神瀬さん。

 コメントで『ごはんつぶさん、今日誕生日みたいです!』が流れてくる。

 いつもより瞼が上がって、冷たい何かが一瞬にして顔と頭を真っ白にする。

 シークバーで巻き戻して再生。

 ヤツのおたよりが読まれている。


【「台薬たいやくさん、お誕生日おめでとうございます。私はだいぶおじさんなので、もう何歳か忘れちゃいました」】


 神瀬さんが画面からこちらを見る。


【「そんな、あなた私よりも若そうでしたよね!」】


 息ができない。


【「うのせちゃん、うのせちゃん、この人も誕生日だって!」】

【「え! そうなの? おめでとう~~」】


 身を乗り出してコメント欄を凝視する。

 ヤツは書き込まない。

 ヤツは絶対、絶対、絶対に来ない。

 コメント欄には、『おめでとうございます!』がいくつも下から上に流れていく。

 凝視。

 いない。大丈夫。

 大丈夫。

 大丈夫。

 大丈夫。

 キーボードを打つ。ありがとうございます! エンターを打ちかけて、マウスが動かない。右手の指が引きつっている。

 下から登り続けていたコメントは速度を失い、二人がワイワイとトークする。

 僕はコメント欄を凝視して、凝視して、『ごは』のアカウントに気を配り、配って、コーナーが移り変わるのを願い、願い、願って、番組のフタが閉まったのを確認して、背もたれに力なく横たわって、丼がないことに気がつく。

 丼は右の壁で真っ二つに割れて醤油スープがカーペットを茶色にし、短い麺が散らばっていた。

 丼を払いのけていたらしい。

 スマホを握ってツイッターのおぎゃあを消す。画面から小刻みに震える指を離すと、指紋付きの赤い点がついている。

 手の甲から人差し指にかけて、リボンを縦に巻いたみたいに血が伝って、滴り落ちている。

 そこら辺に落ちていたタオルを握ってシンクへいき、蛇口をひねると水がかかる。冷たい水道水で血が流され、皮膚から生えている小指の爪ほどの丼の欠片が晒される。

 Bluetoothイヤホンから番組の平和なBGMがしている。

 左手をクロスするように人差し指と親指で欠片をつまみ、引くが、どこかにつかえているのかなかなか抜けない。

 欠片を左右に揺らし、少しずつ、少しずつ、少しずつ動かす。クロスしているから引きづらくて、少しだけ皮膚が下に引っ張られ、中で《《上部》》に当たっている。

 舌の上で小さい悲鳴を転がしながら、引いて、引いて、抜けて、シンクのゴミ受けに思い切り投げた。

 冷水で細かく震える手。

 血が流されていくからか、頭の《《のぼせ》》が引いていく。

 いままでになかったことだ。

 ヤツが明確に自分を《《おじさん》》と言うことは、いままでなかった。ヤツのおたよりを全部読んだから間違いない。

 これはメッセージだ、僕への。


【「――皆さんのおたより、全部読んでますんで――」】


【「そんな、あなた私よりも若そうでしたよね!」】


 音楽再生リストから神瀬こうのせさんの声を再生して、笑顔になる。この間はそれどころじゃなくて聞き逃していたけど、神瀬さんが僕の話をしている。

 認知ゲージはいつの間にか八六をマークしている。ウソじゃない、八六だ。

 フラスタの進捗を書き込んでエンターやマウスを押すたびに、右手の包帯に血が滲んでくる。簀巻きのミイラみたいな右手を動かすと、手の甲の縫われた肉の線を中心にして、ソナーみたいにじんじんと痛みが何度も広がる時がある。


 ある時は、ばぐちかで手を上げる。

 ある時は、R'sアートコートでまた手を上げる。


 手を下げると、ヤツのおたよりを一言一句聞き漏らさないように言葉だけに意識を集中させる。

 ヤツのおじさん警告は、大したことはない。

 僕はお前なんだ。


 ある時は、ある時は。


 手を上げるたびに下げて、そこにいる誰よりもしっかりとヤツのおたよりを眉間のあたりにとらえる。

 聞き漏らすわけにはいかない。

 どこから来ましたか?

 正解は、横浜。神奈川じゃない。

 誰が推しですか?

 正解は、もちろんおんせつちゃんです。

 最近あった失敗は?

 正解は、階段で盛大にコケてケガをした。ヤツは電車通勤だ。

 きっと、神瀬さんのサインがかかった早押しクイズの心境はこんなのだろう。いつも手の中は汗で湿り、もう大丈夫だとため息を吐くまで集中は終わらない。

 会場から出て、こう思う。

 今日も最高だった。

 今日も乗り切った。

「あの、大丈夫ですか?」

 会場を出たところで、目を見開いて振り返る。

 この人は、お花企画に毎回参加してくださっているオロエイトさんだ。視線は僕の手にある。

 僕はボソッと言う。ああ、ちょっとやっちゃって。

「手を見てちょっと気になっちゃって……あ、次もよろしくお願いします」

 それだけ言ってオタ混みに紛れていった。

 あの人、ツイッターによれば打ち上げとかオフ系のイベントにあまり参加しないで一人で楽しむ系の方だ。なのにわざわざ声をかけてくれた。

 それだけこの手は目立っているのだろう。


 ある時は、アパホテル青森県庁通で打ち合わせをする。


 痺れる手でノートパソコンを開き、Discordのダイレクトメッセージの通話ボタンを押す。

 お花企画でイラストを担当してくださる絵師・bgpoop(ビージー・プープ)さんがイラストレーターの作業画面を共有してくださった。

 僕はしゃべって、ビジプーさんは画面で筆談。もう十一回以上お願いしているけど、声も姿も見たことがない。

 打ち合わせといっても、大体のラフを僕が投げているため、ビジプーさんが作業するために僕が監視しているだけだ。

 丸と線だけでホラー映画の子供の絵みたいな僕のラフが透過され、その上に描かれているビジプーさんのラフは魔法みたいに形を成している。

 やっぱ絵、いいっすねぇ。独り言ちると、丸みを帯びた文字がシャッと書かれる。

『きがちる』

 あ、すみません。

 線が増えて、神瀬さんの笑顔をよく捉えているイラストが出来上がっていく。工程をみているだけでも、お花の上に鎮座するパネルが光を放つ様子が目に浮かぶ。

 今日はライブに参戦して二時間歩いてホテルのベッドに身を投げている。

 今日も最高だった。神瀬さん……。

 神瀬さんは、誰よりも最高に輝いていた。

 僕はあくびして、メロイックサインを貰えなかった『メロイックサインして♡』うちわをリュックにしまう。

 ビジプーさんには気を張ってしゃべらなくていい。だがしゃべらないと、陰影のついた大きなウンチを描き始めてしまうから、適度に話を振る必要がある。

 僕は身体をロールさせて白く柔らかなベッドに仰向けになる。疲れで目を閉じないように言う。ビジプーさんはイベントとか来ないんですか。

『配信あるから』

 でも肉眼だと全然ちがいますよ。もう目が眩むっていうか、本当にいる! しかもキレイ! うわーってなります。

『とける ボキはピクチャーでいい』

 bgpoopさんは番組でも毎回イラストが紹介されている。名前がちょっとアレだから僕のアドバイスで『ビジプー』で読まれる。

 眠い。

 備え付けのデジタル時計は二二時二三分。

 包帯とガーゼを変えたばかりの右手がじんじんする。

 目を閉じる。

 まぶた裏の薄暗いスクリーンに今日の神瀬さんが投射される。

 赤や青のレーザービームが飛び交うまばゆいライブステージ、紫のインナーが入ったショートカットでレザージャケットにレザーショートパンツ。黒を基調としたカッコいい衣装で、力強く踊る。

 はあ……神瀬さん…………絵かければ……。

『もういうなそれ』

 でも僕もファンサもらいたいんすよ。すごいですねとか、カッコいいですねとか、いいですねとか。

『あかいですね』

 まぶたを開けると今日の神瀬さんは消え去り、無機質なクリーム色の天井になる。

 ヤツの警告が思い出される。

 おじさんは見ている。

『スクショとかはったりすれば~』

 まるで仕事開始時間に目が覚めたみたいに飛び起き、スマホで自分のツイッターを上から下に擦る。

 画像を一つ一つ確認していく。神瀬さんが写っているものは神瀬さんのものだ。違法行為っぽいことをしたら、僕は神瀬さんを直視できない。

『しんぱいすんな アナタはやってなち』

 僕はごはんつぶたべたいと呼ばれて、手を上げる時の真っ白になる感覚を思い出していた。

 スマホを枕に投げると、イラストの隣に神瀬さんのツイッターのお写真が並べられる。今日の自撮りだ。

 画面に、いままでやった赤や黄や青やらがミックスされたフラスタの写真が一つずつ出現する。全ての写真の端っこには、神瀬さんのミニぬい(発売されてないから自作だろう)が、同じ表情でぼやけて入り込んでいる。

 知ってる人が撮った写真もある。ピースしたり、アクスタで撮ったり。なんですぐにたくさん出てくるんだろう。それが神瀬さんの自撮りの周りを取り囲んでいく。

『HAPPY!』やけに派手で分厚いパチンコ文字みたいなのが中心に載せられる。主に黒と紫のフラスタに囲まれている神瀬さんは清らかな笑顔で、綺麗だ。

『HAPPY!』が『¥』に囲まれる。

『ダイハードファン・サトウがいるあいだは、ボキは食いっぱぐれないな』

 本名やめてください、神瀬さんにしか言わないって決めてるんですから。

 そう僕は発声して、たくさんの写真に囲まれて華やかな神瀬さんから目をそらし、仰向けになって、天井の丸い照明の強い光を見て、薄暗いスクリーンが降りてこないように見て、見て、見て。

 見て、見て。

 見て。


 僕は、六行会ホールをふわふわして出る。


 劇場から出るといつも少しだけ気後れして、腕時計を確認する。

 背景だけが暗くなっている明るい夜の都会で、空気の冷たさにコートのポケットに手をつっこみ、内側の布と皮膚をこすりわせる。右手が擦れて痛みで右の頬が上がる。冷水で縮こまる魚の肉みたいに空気の冷たさで頭が締められ、意識がクリアになってきた。

 数分前に行われていた神瀬こうのせさんの舞台のアフタートークを思い出す。

 横一列に女性キャストが並び、きらびやかな舞台衣装のままでトークを展開する。最前ドセンで僕は首を右に傾けて神瀬さんをセンターに捉えると、神瀬さんの澄んだ瞳が僕を見ていた。

 神瀬さんは〇・六秒ほど停止して口角が固まり、次の瞬間には綺麗なLラインをこちらに向けた。

 在来線に飛び乗って、隙間なく四方から密着してくる誰かと誰かと誰かの暖かさと鼻を突く香水の臭いを感じても、僕は一人でニヤつく。前に背負っているリュックのその前に女性の頭があったので、両手でつり革を掴む。

 あの反応はどう考えてもあれしか無い。

 特定のファンだけに反応しちゃいけないってやつ。

 神瀬さんは、僕を完ぺきに認知している。


 お渡し会まで、あと一ヶ月。

 認知ゲージは、八九をマークしている。


 お渡し会で何を言うのかまとめておかなければならない。チケット一枚三〇秒の持ち時間で、僕は二枚当選した。一分間で四年分の思いを伝えるにはどうすればいいのだろう。

 出だしは決まっている。しゅが~んの名札を見せながら僕は爽やかに言う。

 すみません、ごはんつぶたべたいは僕のペンネームでしたっ!

 驚く神瀬さん。そうだったの?! 言ってくださいよ~~。

 ドッ、笑う二人。

 だ。


 僕は、ライトキューブ宇都宮で手を上げる。


 拍手、拍手、拍手が巻きおこり、神瀬さんの澄んだ瞳が、僕だけを、僕だけを見る天使のはしごになる。

 大性おおしょうとやっている番組の三周年イベントの最前ドセンで、僕は手を下げて、下げていたマスクを上げる。

 神瀬さんは、完全に僕がわかっている笑顔だった。

 神瀬さんにいちいち小声で突っ込む面白さの欠片もない、認知ゲージ一のお前じゃない。

 神瀬うちわを胸に寝かせて神瀬さんがこちらを見る瞬間だけに命をかけてイベント内容に興味のない、認知ゲージ六のお前じゃない。

 神瀬さんの現場にいつも居ていつも青いバケットハットの、認知ゲージ四九のお前でもない。

 お前でもない。

 僕だ。

 僕が最初に書き込んで、ツイッターでリプして、陣頭指揮をとって、セッティングして、コメントの最後を締めて、イベンターノート一位で、認知ゲージ九〇オーバーで、どのイベントでもおたよりが読まれる、ごはんつぶたべたいの、僕。

 僕が一番だ。

 トップオタだ。


【「親戚と集まる日に、いい年していつまで独り身でいるのか、アンタはなにやってんのかと、寄ってたかって叩かれました。なにやってんのって、なに?!」】


 会場の笑いに僕が戻って来る。

 テーマメールのコーナーだった。確か、『私の神瀬さんに出会ったきっかけ』

 神瀬さんがおたよりを読み上げる声を眉間でとらえる。どくどくと、いつもより耳の裏がうるさく鳴っている。《《ヤツ》》は真面目な話をしたことがない。


【「これから生きていく自信が持てず、毎日アイスを食べてしまいました……毎日アイス食べてもいいじゃん、私はどうなるの?」】


 会場、笑。神瀬さんとしっかり目があって、僕は引きつって動かない頬をマスクごしに上げようと試みていた。

 この後どんな展開になるのか想像もできない。

 口内がカラカラで汗が何度も頬を伝っていく。時折こちらを見る神瀬さんの顔のよさが致死量注がれているせいで心臓は暴れ、世界が白んでくるが、スキニーパンツ越しに太ももをつねりあげて、僕が飛び立つのを僕は引き止める。

 たった今のヤツのおたよりの内容を反芻する。

 二〇ばつばつ年十一月十五日、ヤツは仕事帰りに劇場に掲示されていたポスターで神瀬さんのお名前を見つける。僕が《《こうなる前》》の朗読劇だ。ヤツは、感動するような物語ではなかったのに号泣した。


【「神瀬さんのお芝居と輝いている姿に生命力を感じたからだと思います」】


 わかる。

 僕も始まりは……どうだったっけ。

 きらめくこの笑顔に惹かれたんだ。

 すべてを浄化してくれるこの笑顔。

 柔らかい人柄を表したようなこの声。

 顔のよさ、だけじゃない。

 伸びやかに歌うかっこよさと、指先まで綺麗なダンスと、そう、お芝居も好きになったんだ。

 僕も応援したいと思ったんだ。

 ソナーみたいな痛みが五ヶ月間上げ続けた右手に広がり、見下ろすと、毛玉のついた包帯からじんわり血が滲んで、侵食するみたいに赤が広がっていく最中だった。


【「私はそれから応援しています。今は入院中ですが、勝手ながら神瀬さんに救われて今もアイスを食べられて――えっ?!」】


 神瀬さんが目を見開いている。大性おおしょうも。両隣からも視線を感じる。

 みんなが僕を見て、見て、見ている。

 僕は口を少しあけて、金縛りにあったみたいになっている。

 神瀬さんの紅色の薄い唇がスローモーションで開き、マイクで声が広がる。


【「だいじょうぶなんですか……? 入院中なのに……?」】


 見ている。最前ドセンで僕の喉の奥が、からからからと、悲鳴みたいに鳴っている。

 輝く瞳から目を離せない。

 そして、答えなければならない。

 そして、いつものように乗り切らなければならない。

 そして、五ヶ月間他人を装って手を上げていたことに気づかれなようにしなければならない。

 そして、入院しているはずの自分がなぜこの場に居るのかを説明できる端的で笑いを誘う言葉を、気の利いた面白いことを、あと五秒以内に、ひねり出さなければならない。

 ダメなら、そして、つまらない邪魔なやつになる。

 誰もが僕の次の言葉を待っていて、静寂が僕を逃さない。伝説のおたより職人ごはんつぶたべたいの面白い返しを期待して、発言権を許して、言葉を待っている。

 カラカラの口内でツバを集めて飲み、僕は神瀬さんの瞳から頬あたりに視線をそらす。

 僕の気の利いた回答まで、四、三、二、一。


【「言えないってこと?」】


 左右の手を持ち上げ、顔の前でクロスさせている僕は、首を激しく横に振る。神瀬さんと意思疎通ができている事実が僅かに脳を焦がし、そして震える身体で、目をつぶって尻上がりに声を張り上げる。


 ウソです!!!!


 自然と口角が上がる。

 最適解だ。

 僕は四年で合わせて一00以上は声優イベに行っている。素人じゃない。そこで学んだ、壇上から話を振られた場合の最強の最適解は、できるだけ大声を出す、だ。

 大声を出せば、元気だねえとか、勢いでなんか面白い感じになって、場が収まる。

 僕は目をあけて、神瀬さんの瞳を再び見る。

 神瀬さんは目を見開いたまま眉間にしわを寄せ、小さく唇を開けている。

 うわ。後方から小さく声。温度が下がった。息をするのも憚られる(はばかられる)程に空気が冷えて、固まった。

 誰もなにも言わない。誰もなにも言えない。

 場の空気に縛り付けられて身じろぎできない。顔が暑くなり、意識が凍える。隣のオタクがマスク越しに息をするかすかな音が聴き取れる。

 終わってほしい数秒間が長く、長く、長く引き伸ばされていく。


【「ダメだよ。そういうのは、心配しちゃうからね」】


 神瀬さんの優しい声音が沈黙に放たれた。

 まるで静寂の海でカモメが一声だけ鳴いたみたいに、声はバラバラになって、静寂に消えていく。

 声を出したい。

 喉につっかえて声がでない。

 何ができる。


【「ねっ!」】


 睨みつけ、口角を上げ、声に合わせて小さく顔を震わせた神瀬さん。次の瞬間には、柔らかな笑顔になる。

 空調がゴオオと鳴っている。

 僕はわずかに顎を引いて、戻す。

 大性おおしょうがマイクを持ち直して、ボフッ、スピーカーで増幅された。


【「つまんねえウソだな!!!!!!」】


 ドッ、爆発した笑い声は緊張が溶けた音を伴っていた。大性おおしょうの声は僕の大声の《《流れ》》にのって、それよりも大きい叫びに近い声だった。

 拍手が巻き起こった。僕も動けるようになって、手を合わせてペコペコとジェスチャーした。

 大性おおしょうさん、ありがとう。

 イベントはいつの間にか終わって、ロビーに固まっているオタクたちの中で友達の後ろ姿を見つける。距離を詰めると、一人と目があって、わかりやすく、うわ、口を動かした。

 僕は輪の隙間から入って明るく、早く聴いてほしくて、言う。やばい、すげー滑った。

「あれはねーは」

 友達のひとりが言う。みんな目をそらしている。

 冷めたようにスマホを触っている。

 周りのオタクの楽しそうなトークだけがする。

 僕は場を冷たくする氷の固まりだ。溶けながら表面に水を滴らせる。

 友達の一人が言う。「ごはんつぶたべたいって、ほんとなの」

 え。

 また別の一人が言う。「配信で見てますって、メールで言ってるのに、現地に居るし……入院中なのにいるし」

 僕は、瞬きをする。

 またまた別の一人が言う。「トップオタになりたいって……ねえ……」

 僕は、違う、と言いたい。言えない。

 言えばいい。でも、言えない。

 友達が僕を取り囲んで、見ている。

 いつまでここにいるんだ。

 早くどこかいかねぇかな。

 同族だと思われる。

 気まずい。

 僕は、表情筋が引きつった笑顔を作るのを感じながら、イベントが始まる時は友達だった人たちから離れて、早く歩いてロビーと外をつなぐ自動ドアに向かう。

 ありえねー。ガラスのドアが開く瞬間に背後から声がしたような気がして、僕は早く歩いて赤信号を渡って駅の登り階段でつまずき、倒れ、コンクリートの段差に右手を突き、痛えと一人で叫んだ。



  ■3部



『滑って草。』


 打ちつけて縫い目が緩んでいたらしい。医者は雑にテープを何枚も貼って、無理はしないでくださいと冷たく言い放った。

 早退したし、手がじんじんするからアパートに帰る。

 捨てられるのを待っているグッツに囲まれた布団に横たわると、スマホに通知がきていた。神瀬こうのせさんのツイートだ。タップすると、土曜日のライブの告知だった。

 リプするためにタップして書き込み、ツイートボタンを押せない。

 まただ。指が固まっている。

 癖でツイッターのホームボタンに戻ると、下の通知欄に五00+と表示されているのが目に入ってしまった。


 ――あの日。


 ライトキューブ宇都宮のイベが終わり、電車の吊り革に捕まってツイッターを見た。

『キモいキモい』

 リプは来ないが僕だ。

『毎回手上げてすげーうなずいたりして最前ドセンですげーって思ってたけど、うわー……』

 もしかして、何とかしないと。

 何もしちゃダメだ。

 何を言っても叩かれる材料にしかならない。

『あー……。あの赤いやつか。複垢とか金で買って最前ドセンに毎回いるんだよなあいつ。赤い頭あるとあいつがいるなって冷めるんだよなあこのまま消えてくれー』

 みんなが僕を見ている。

 ツイート欄に文字を作って、着火の瞬間を思い浮かべる。

 ♡のカウントがみるみる増えていき、リツイートのカウントがみるみる増えていき、僕は色んな人からツイートを見られる。

 見たこともない数字だ。神瀬さんのツイートくらいの数字がついている。

 すごい。

 僕はまぶたを強く閉じる。

 ダメだ。

 確実にこの言葉は火種になって、すぐに僕の周りは大炎上だ。

 帰宅してドアを閉め、スマホを開くと、リプの通知が画面の上に束になっていた。

 ツイートした覚えはないのに、時間的に僕は電車でツイートボタンを押し、『滑って草。』を発信していた。


 ――布団に横たわって、『滑って草。』をタップして眺める。


 エヒッ。覚えていないとは言え、あの場で滑った自分と、帰り道で滑って転んだ自分をかけて、端的に言い表したセンスのある単語だった。

 見たこともない数字が『滑って草。』についている。

 スマホを下から上に擦れば擦るほど数字が増えていく。擦れば擦るほど、僕の作品『滑って草。』にリプでコメントがついていく。

『外から失礼。「他人の頑張りを踏みにじるような行為」をやっていいいとでも思っているのでしょうか?』

『地獄やね』

『【悲報】神瀬音雪こうのせ おんせつ自称トップオタさん、おたより職人になりすましてしまう』

 大半が単発の感想だ。♡をつけたいのをこらえる。

『ごはんつぶに迷惑かけんな。覚悟しとけよ』

『お前がいるとおんせつちゃんに迷惑かかんだよ!! 変なの居ると起用する側が嫌がるだ!! もう現場くんな!!』

 業界に詳しいらしいオタクが何かを論じて、自分がいかに正常で正義なのかを周りにアピールしたりもしている。

 たったこれだけの僕のツイートで、みんなが怒って、真っ赤になっている。僕を中心にして背の高い炎がいくつも上がり、その熱気で暖められた中心部のステージにいる僕は、赤や青のレーザービームが飛び交う中でメガホンを手に歌い、オーディエンスを煽る。そんな光景が浮かぶ。

 暗闇で塗りつぶされている舞台袖に誰かがいた。僕にはわかる。横切る光でちらりとみえるあの笑顔を、僕はできるだけ意識しないで会場を。

『しゅが~んもういい、休め』

『死ね』

『お花企画の参加を取り下げさせてください』

 擦り続けていれば、所詮はいつか爆発する。

 ニヤケが引っ込んで、ツイッターのDMアイコンが真っ赤に染まっているのを認識した。通知の数はタップするまでの数センチの間でも十二、十三、増えていく。

 どれもこれも、取り下げ、取り下げ、取り下げ、取り下げ、もうお金は払ってもらっているから取り下げされても、集金サイトから口座に振り込まれてからじゃないと返金ができない。

 もう発注も済んでいる。

 フラスタが置かれるのは今週末だ。

 皆さんのお名前は協賛者パネルにぎっしりと、あいうえお順で並んでいて、その最後尾にはもちろんこう書かれている。

『主催・企画 : しゅが~ん』


――――――――――――――――――――

 参加の辞退が多数のため、お名前パネルを撤去させていただき、後日所属事務所様へ参加者一覧を送らせていただきます。今回は私の不祥事により、ご迷惑をおかけ()て申し訳ありませんでした。

――――――――――――――――――――


 僕は、Kアリーナ横浜のフラワースタンド鑑賞列を目指す。


 スタッフの背中を追う。牛歩で進む列を肩が当たるスレスレの距離で、ファストパスみたいに追い抜く。

 一様に同じ高さにそろえられたフラワースタンドが立ち並んでいる。切り揃えられて一列に並ぶ彩り豊かな花壇のようで、このフラスタのお花畑をみるたびに自然とすげーと口にでる。

 アイドルキャラと声優が手を繋ぐパネルが目を引く、青いフラスタ。

 アイドルキャラの名前を花でこしらえた、赤いフラスタ。

 アイドルキャラの衣装を再現した、形をなしているフラスタ。

 どれもこれもそれぞれの工夫と好きがある。

 花の甘い香りがミックスされた列を進み、僕のは中間にあった。

 ライオンのたてがみみたいに猛々しく花が広がっている、アイドルカラーの燃え上がるレッドとクールなブラッグを基調としたフラスタ。散りばめられた電飾が光って、小型ディスプレイで神瀬さんとアイドルのお名前が点滅して、サイバー感を見事に再現してくださっている。

 いつものお花屋さん、本当にありがとうございます。

 そして何より目を引くのは、アイドルと神瀬さんのパネルだ。背中合わせになって、肩越しに互いが目線を合わせて微笑んでいる尊いイラスト。

 今回も本当にありがとうございます、ビジプーさん。 右下にスゴく小さくウンチが描いてあるのは目をつむります。

 こんなに完成されている作品なのに、下部に設置されているお名前パネルを、何もしていない僕はこれからむしり取らなければならない。

 目が熱くなる。

『滑って草。』が作品?

 ふざけんな。

 列を割り込みして、花の香りに包まれながらA4ポスターくらいのお名前パネルの両側を親指とその他の指で挟む。

 しゃがんでパネルを引っ張るとなにかに引っ張られ、引っ張られたフラスタ全体が前後に揺れる。花びらが数枚ふとももに落ち、ビジプーさんが描いてくださったイラストパネルの神瀬さんが数ミリだけ傾く。

 パネルはワイヤーでフラスタの骨組みに固定されていた。三年間フラスタを出し、半年間手を上げていた主催しゅが~んはそんなことも知らない。

 スタッフに見守られながらパネルを外して列から外れると、じゃがいもから手足が生えたみたいな男オタが詰め寄ってきた。

「お前、しゅが~んだろ」

 僕は右手みたいに、固まる。

 青いバケットハット、白地に『音雪』の太文字が刻み込まれているパツンパツンのTシャツを着ているじゃがいもは、口の端から泡をだし、甲高く何かをまくし立ててくるがそれどころじゃない。

 風呂に入っていないのだろう、酸っぱくて臭い。

 ピピッ。

 感覚。僕の顔の皮膚に生ぬるいエキスが付着している。

 泡だ。

 僕は反射的にパネルを挟んでいる右手を足の横に下ろし、左腕を顔の前にやる。

 それが僕の攻撃の予兆に受け取ったのか、一瞬、じゃがいもは眉をハの字にしてビクつくと、マシュマロみたいな手で突っ張りをくりだした。

 トラックに跳ねられたみたいに僕は背後に飛んで、背中と後頭部と右手を硬い床に、ガバンッ、打ち付ける。パネルがツルツルの床を滑って二メーターくらいの距離で止まる。

「なんで来てんだよ! おんせつちゃんの周りに来んな!! 髪赤くていると気分悪くなんだよっ!! 消えろよぉお!!」

 英雄の咆哮。

 おしゃれなロビーに響き渡り、笑顔でガヤガヤしているオタクに一瞬の静寂をもたらす。

 公憤。

 思い出した。この青いバケットハットは現場によくいる。このじゃがいもは神瀬音雪イベンターノートランキング二位の『T.Y.@おんせつちゃん推し同担拒否』だ。

 呪文みたいに長いプロフィール欄で、ため口で神瀬さんのツイッターにリプをする火力の強いオタクだ。行ってきました! ブロガーみたいな文章が特徴的で、間違ったオタクを見つけ次第、正義的なツイートで処する。

「いい加減、消えろよおお!!」

 じゃがいもは白いタイヤのオバケみたいな腕で、パネルを山折りに折って、谷折りに折って、

「邪魔なんだよ!」

 何かに呪われているように小さな目に正義を宿して、踏み抜く。

「邪魔なんだよ! 邪魔なんだよ! 邪魔なんだよ!」

 欠片は割れ飛び、

「邪魔なんだよ! 邪魔なんだよ! 邪魔なんだよ!」

 お名前は発泡ポリスチレンのバラバラなゴミ屑になって、

「邪魔なんだよ! 邪魔なんだよ! 邪魔なんだよぉぉおおお!」

 床に落ちた銀テープみたいに散らばる。

 それはやりすぎでしょうと詰め寄るオタクにじゃがいもは小さな瞳を丸くした。先ほどがウソみたいに、人差し指をあわせ、子供のようなつぶらな瞳が忙しなく動く。

 じゃがいもは粉々のパネルを一瞥して、小走りで人混みに紛れていった。

 僕はゴミ屑を拾う。這いつくばって、みなさんのお名前の欠片を拾い、リュックに入れる。右手が痺れて何度も落としてしまう。

 詰め寄ってくださった法被のオタクが来る。「大丈夫ですか?」

 僕は言った。僕、炎上してるんです。

 詰め寄ってくださった優しい法被のオタクは、言葉の意味がわからないのか固まっている。

 僕はできるだけ笑顔になる。燃えちゃいますよ。

 友達だった人が遠くから僕を笑っている。

 僕は神瀬さんの舞台を思い出していた。


【『それでも私は赦さない……。ヤツは裁かれるべきだ!!』】


 悪人には何をやってもいい。

 世の中はそういう《《しきたり》》になっている。

 Kアリーナ横浜から一週間が経って、僕がツイッターとDiscordに投稿したパネル撤去に関する謝罪文は、ツイッターで万バズした。


『謝ればいいということではないかと。この件は詐欺罪、虚偽罪に当たる可能性があります。法の裁きを受けてください』『草』『こいつKアリで臭いオタクに跳ね飛ばされてた』『笑 笑 笑』『捨てるからだよ』『ビックリした。ご迷惑をおかけ《《れ》》て申し訳ありませんでしたって書いてあるのかと思った』『そうですね!』『添削くらいしたほうがいいですよ』『おいらは事情しらねえけどよ、もう行かないほうがいいんじゃないか?』『おんせつちゃんの現場にもう来るな次来たらころす』『声オタこわ』『56すはつよい』『AIで書いてないだけ好印象』


 ♡とリツイートが1万以上。インプレゾンビが発生している。僕のツイートや写真から住所を特定したと喜んでいる人もいる。検索してみるといい、じゃがいもに張り倒されてお名前プレートを守れない赤髪のカスの動画もある。

 アイコンを大性おおしょうさんや台薬たいやくさんや、神瀬こうのせさんにしているアカウントが僕に罵声を浴びせてくる。カス、もう来るな、キモい、4ね、お前さあ、いつもイベントくるよね、おんせつちゃんだけ見ててさ、さすがにアタシも気分悪いよ? 毎回最前ドセンとか演者から見てもなにかやってるって見え見えだからね、反応に困るんだよねそういうの、やめられる?

 漫画のキャラがなにか言ってるスクショ。

 アニメのキャラがなにか言ってるスクショ。

 声優番組でなにか言ってるスクショ。

 映画のなにか言ってるスクショ。

 僕が感情移入して共にストーリーを歩んだキャラクターたちに、オマエは間違っているこの世のクズだと言わせる。

 コイツラは許されてどうして僕は許されないのだろう。

 今まで僕はそこんところ、脅されてもやらないって決めてたのに、コイツラと僕とでは一体何が違うのだろう。


 お渡し会の当選メールを確認する。

 あと二週間。


 おしっこが出そうなのに身体が重くて布団から起き上がれず、数十分我慢してから便器にまたがる。

 昨日、神瀬さんは自分へ宛てられたフラスタのお写真をツイートしていた。

『お花もありがとうございました☆』

 リプ欄に書き込み、右指はやっぱり固まる。

 僕が主催したフラスタもある。ピースしている神瀬さんは黒いニットで私服だろう。ネイルが可愛い。フラスタ下部にはしっかりとお名前パネルはない。いまだにリュックの中でバラバラだ。

 神瀬さんのツイートがもう一つある。今週末にイベがあるからだ。チケットはとってある。もちろん最前ドセン。父親名義のアカウントが仕事をした。

 弟よりできの悪い僕を無視していたのに、こういう時だけは役に立ってくれる。


――邪魔なんだよ! 邪魔なんだよ! 邪魔なんだよ!――


 カスでゴミでキモくて4ねで神瀬さんばかり見ている草の僕でもわかる。

 いけない。

 いずれイベンターノートも世界二位になり世界三位になり、いずれは他界する。

 右手の包帯をかえる。四センチほどの皮膚の傷口は縫われ、ぐじゅぐじゅして痒い。

 寝よう。寝れば、これが夢だったと目覚められる。


 僕は、科学技術館サイエンスホールの玄関前で立ち尽くす。


 どうしてここにいるんだ。

 父親のアカが当てた紙チケもある。マスクで、神瀬さんKINGLYMASKコラボTシャツに、スキニーパンツに、赤髪。認知されるための同じ服装。

 今日は、神瀬さんゲストイベだ。

 イベンターノートのランキングなんて見るべきじゃなかった。じゃがいもに回数で負けたくなくなった。

 僕は道を戻って、武道館から九段下駅に向かう道端で、UOを無断で売っている人を見つけると、そいつがかぶっているマンチェスター・シティと刺繍されている水色の帽子を三〇〇〇円で買って赤髪にかぶせた。

 一般チケを七七〇〇円で買って最後尾の席、『た-6』に座って、今日ばかりはヤツが読まれないでほしいと、膝に乗せた手を握って祈った。

 定刻になり、今日も神瀬さんはお美しい。

 今起こっているリアルがどうでも良くなってくる。

 トークにゲームに、見知った仲間たちとハシャギ弾け、笑う神瀬さんに、僕は表情筋が緩むのを抑えきれない。

 笑わなかった分を今日すべて取り戻している。

 女性声優最高。

 生の神瀬さん最高。

 やっぱり、ここがすべてだ。

【「それではみなさんからいただいたお便りを読んでいこうと思います」】

 本邸ほんていさんはA4の紙をスタッフから手渡される。僕は首を傾け、右手を見下ろす。可哀想に、膝でぶるぶる震えて怯えている。

【「それでは…………」】

 採用された人の名前が読まれるまでの〇・五秒ほどの隙間で息を呑み、読まれるなと祈って指先をさらに皮膚へ食い込ませる。

 僕ではないとわかると、前歯の隙間から細く息を吐く。

 一人、また一人。そのたびに僕は緊張して、緩和される。

 皆さんがしゃべりすぎたため三通でコーナーが終わった。帽子をとって額の汗を袖で拭う。やった、次のコーナーにいけ。

【「次のコーナーに行く準備ができていないみたいなので、もう一通読みます。ごはんつぶたべたいさん、いますかー?」】

 真っ白になる。

 誰も上げない。

 当然だ。ヤツは絶対に来ない。

 本邸ほんていが呼びかけ、神瀬さんは手を日差しにして客席を見渡している。

 右手は震えてズキズキと痛み、瞬きを何度もする。探されている事実に脳に甘いなにかが広がっていく。

 あと数秒。数秒だけ耐えろ。

 視界の端っこにゲージが表れ、九八をマークしている。

 あと二。

 奥歯を噛み締めるとギリリッと鳴る。

 わかってる。わかってる。わかってる。

 わかっているんだ。

 そんなもの存在しない。

 ずっとわかっているんだ。

 僕はただのATMで、神瀬音雪こうのせ おんせつはそこから金を引き出している芸能人だ。

 タレントだ。

 応援お願いしますとアピールする神瀬音雪は、壁が薄く冷えたワンルームで田舎のアパートで毎日モヤシとサッポロ一番じゃない。

 都心にあるオートロック付きの鉄骨造マンションで、もしかしたらもしかしてウーバーイーツで東京の美味しいご飯に舌づうみを打ってから暖かな床暖房の上で男とよろしくヤッている。

 ああ、それはキモいオタクだね。

 で、音雪。今日もいいかな。

 その時同じくして、肌色でやけに柔らかい筒と一人でヤッてる犯罪者で赤髪の乞食でATMで孤独な成人男性は、僕だ。

 わかっているんだ。

 でも、《《何か》》が僕を掴んで離してくれない。

 掴まれているのは僕だけじゃないだろ?

 違うなんて言わせない。

 そこで足を組んで頬づえついてカッコよさをアピールしている君もそうだろ?

 君もそうだろ?

 そうだよな?

 神瀬さんが、テーブルの台本に顔を傾ける。

 その一瞬に入り込み、僕はマスクを下げて、震える右手を上げる。

 僕がやってきたことをやる。

 数人が僕を見ているような気がする。

 拍手も少ないような気がする。

 神瀬さんは、いつものように笑顔で僕を見てくれる。天使のはしごが僕に降り注ぐ。じわりとした気持ちよさが頭を痺れさせてニヤけてしまう。

 おたよりが読まれていく。右手を下ろし、下げていたマスクを上げて、下げていた帽子をかぶる。

 ごはんつぶたべたいさんのおたよりを読み上げていく。

【「僕の懺悔したいことは、とあるイベントで入院しているとウソをついてしまったことです。僕じゃなくて犬でした。主語を間違って書いてしまったようです」】

 神瀬さんが最後尾の僕に向かって何か言っている。

 会場、笑。

 僕のおたよりじゃない。

 僕はこんなに人を楽しませられない。

 僕はいつも同じ服で赤髪で神瀬さんの視線を僕のものにしたい孤独異常独身男性でしかない。

 おたよりを読んだ後のトークを感じながら、隣の人に断りを入れて前を横切って、会場から出る。出て、右に折れ、小道のベンチに腰を下ろして、太ももの間に顔を挟みこんで叫んだ。

 家の玄関ドアを開け、神瀬さんの『今日はありがとうございました!』のツイートに♡を押す。

『難しいんですよね……こういう問題は』

 番組構成作家のツイートがリツイートされてくる。

『おたよりを考えて出すというのは、それなりに根気のいる作業ですし、その人の人生や愛がこもっていると僕は思っています。だから、軽んじてはいけないのですよ……』

 スマホを握る手に力がこもって、どこかに投げると、硬い音が返ってくる。

 元はと言えばお前が選ばないからだろ。

 ごはんつぶたべたいばかり贔屓しやがって。

 ごはんつぶたべたい。

 僕が本気出してお前のおたよりを、全てを隅々まで見返せばお前の家はいつだって特定できる。

 僕をこんなふうに《《追いやったヤツ》》。

 同じ顔をしている捨てられるだけのグッツを蹴り飛ばし、投げ、腹の底から沸き上がってくる声をガラガラと吐き出す。壁ドンされた壁を蹴って、蹴って、キッチンへ走り、長らく使っていない柄が白い包丁を握る。

 次のイベントは、お話会だ。

 この構成作家も来るだろう。

 試しにやってみよう。壁ドンしてきやがった隣の部屋のドアを叩いて、包丁の切っ先を見せつけてやろう。

 いや、やっぱり人間に飼いならされた家畜どもを。

 いや、やっぱり、まて、魚屋で新鮮でピチピチしているサバとかを。

 いや、やっぱり、やっぱり、やっぱりだ、このポスターだ、そうだ、それがいい。壁に貼ってある神瀬音雪のA1ポスターに僕は包丁を小さく振りかぶって、振りかぶって、清らかな瞳と目が逢う。

『しゅが~んさん応援ありがとうございます!』の直筆マジックの文字と目が逢う。

 ぎゅっとまぶたを閉じ、斬る。次にまぶたを上げたときには、白い歯で微笑む神瀬さんの、瞳と瞳、の間に傷ができた。

 僕は黒板を引っ掻いたような声を上げる。

 こすっても消えない。せっかくサインが書いてあるのに、なんて事をしてくれているんだ。

 僕か。

 手をみる。右手で持っている包丁の白い柄は白カビで、小さく悲鳴をだして包丁を離す。包丁は床に突き刺さり、刺さる間に僕の小指の側面を一ミリくらい斬った。

 うずくまって赤ちゃんみたいに鳴き声をあげる。

 人を襲う勇気もない。

 炎上を止めるすべもない。

 イベントにもいけない。

 お渡し会にもいけない。

 僕に人権はない。

 額を床に打ち付けると痛い。痛いから何度もやる。脳みそがシェイクされてふらつく。ふと見ると、包丁が床に突き刺さったままで、っぶね、引き抜いて、投げる。

 布団に転がると薬の紙袋が手に当たる。

 この薬を全部飲んだら痛みは消えるのだろうか。酒で飲むとよく回るらしい。

 この家に酒も酒を買う金もない。枕に顔をつっこんで、赤ん坊のように丸まり、おそろしく声を上げた。


 二通あるお渡し会当選通知の文字を目で撫ぜる。


 ライブ前にロビーで張り手されてからもう一〇日も立つ。

 お渡し会まではあと六日。


 ダルくて起き上がれず、風邪をひいたことにして仕事を休んだ。コロナの検査を一応してほしいと上司から言われていたのを一二時頃に思い出し、アディダスジャージとスエットで何とか玄関のドアノブを回す。

 締め切っていたから太陽が眩しい。仮病を使った昼下がりの平日の町は平和そのもので、空気が冷たく、四人しかすれ違わない。車も少ない。歩いているだけで心が穏やかになる。

 薬局で最安値の検査キットを買って、一度も入ったことのない公園のベンチに腰を下ろした。

 アディダスジャージのポケットからスマホを取り出し、戻す。今すぐ見ても、どうせ炎上しているのだから変わりはない。

 右手の傷口はよくなってきている。時々痛いが震えもなく、穏やかに眠っているみたいだ。

 鳩が首を振って横切るのをぼんやり眺めていると、神瀬こうのせさんを追いかけた日々の総集編が脳内YouTubeで再生される。

 行ったことのない土地、劇場、箱。

 知らない文化、オタク、エンタメ。

 どこにいても神瀬さんは画面よりも綺麗だった。

 どこにいても神瀬さんは神瀬さんだった。

 お世辞にも面白いとはいえない、アンケにお気持ちを書いた朗読劇や舞台でも神瀬さんだけは輝いていた。

 リプのやつらが言うように僕は目立ちたいだけだったのだろう。

 輝いている神瀬さんに認知されれば、僕も光っていると錯覚していたんだろう。

 そんなわけないのに。

 神瀬さん……、よかったなあ。

 神瀬さんに会ってお話ししたかった。

 神瀬さんのおかげで色んな場所に行けたと言いたかった。

 神瀬さんのおかげで四年前よりも世界が広がったと言いたかった。

 神瀬さんに活動してくれてありがとうございますと言いたかった。

 スマホを取り出す。

 Discordとツイッターとイベンターノートをいまここで終わらせよう。隔絶しないと再犯する自信しかない。

 僕に巣食う呪いとうまくやっていく自信はない。

 画面のDiscordアイコンを長押しして、アンインストールに持っていこうとするが、指が止まる。

 これは僕の意思で止めた。

 フラスタの収支報告をやっていなかった。

 人様からお金をもらっているのだから、それはやらなければならない。

 収入と支出と返却する分をGoogleキープにメモして、間違えがないか推敲して長押ししてコピー。

 お花企画のDiscordサーバーをタップすると、五十一人いた参加者が九人になっていた。

 え。驚くべきことにまだ残っている人がいる。辞退する方は僕にDMだけしてサーバーを抜けるようにアナウンスしていたのに。

 @everyoneで計算した結果を貼り付け残っている九人に知らせた。それから、ビジプーさんにDMして謝罪と今までの感謝を告げて家に帰った。

 カーテンを閉め切り布団に横になり、神瀬さんがモブで出ているアニメを流す。あ、今のだ。ものの二、三秒の声とお芝居で笑顔になる。

 明日は仕事にいかなければ。これ以上誰かに迷惑をかけるつもりはない。

 エンドクレジットで神瀬音雪こうのせ おんせつの文字をスクショして、クラウドの神瀬さんフォルダに入れる。

 これから僕はどんな生活を送っていくだろう。

 ライブもイベントも舞台も行けず、早すぎる余生の始まりだ。

 スクショの通知をスワイプして消す。通知が溜まっていた。取り下げのDMは出尽くしたはずだけど、タップ。

 文の冒頭でわかる、お気持ちだ。

 だがしかし、このDMは様子がおかしい。

『貴方がやったことは間違ったことだと思います。でも、しゅが~んさんにはとてもお世話になっています。次もよろしくお願いします』

 何度も文面を確認してしまう。

 もう一つ来ている。

『飲み会で介抱してもらったのほんとうに助かりました。ちょっとよくないことしたかもですけど、頑張ってください!1 オレはアニキの優しさわかってます!! また会いましょう!!』

 片手で顔を拭ってから、まぶたをパチパチしてみる。

『いつかやると思ってたw せきにん感じてるなら次もやれw 犯罪者()』

 オロエイトさんは相変わらず文章だとデリカシーがなくて助かる。ではなくて、この人たちは聖人なのか? Discordサーバーと見比べる。謎のメッセージをくださった方たちは、まだ残っている九人の一人だった。

 急に音が鳴ってうわっと震える。ビジプーさんの通話が来た。僕の文面を確認したんだろう。

 赤い受話器ボタンの上で指を彷徨わせる。

 言うべきことはわかっている。

 ゆっくり吸って吐いて、ボタンを押す。

 ポコン、軽い通話開始SEが鳴ると、ガサガサ、マイクを擦る音がする。

『あーあー。君は私に仕事をくれた。納期が遅れそうだったらお花屋さんと調整して逐一報告してくれた』

 初めて聴くビジプーさんの声。女性の落ち着いた低い声。ダウナーな、お、お姉さんだ。陰影ウンチばっかり描くから、僕よりも年下で二〇代くらいだとばかり。

 僕は言う。え、あの。

『作業にも付き合ってくれた。青森からでも通話してくれた。いいイラストがかけるようにと、本当にいろいろしてくれた。だよな?』

 低い声で淡々と言う圧に、僕は相槌を打つことだけしかできない。

『ネットの奴らはな、アナタがなにをやってきたのかとか、知んないの。ほんっとさあ、おんせつちゃんの写真勝手に投稿したり、アイコンにして叩いてるやつもアナタを叩いてんのよ? 信じられる? まあ、アナタは確かにすごーくキモいことしてた。でもボキは二年お世話になってんの。アナタのおかげでイラストの仕事来るようになったけどさ、ココまでやってくれる人、他にいないからね? 振り込みもマジで早いし、わかってんの?!』

 あの、なんでキレてるんですか?

『キレんだろ』音割れして耳が痛い。『適当こきやがってよお~~、なにもやってねえくせに、もうやらない方がいいかと? もう近づくな? コイツラはしゅが~んのキモさに嫉妬してるだけだからな。あれ、アナタ今日お休み? まさか炎上したから休んでんの?!』

 まあ、そんなところですけど。

 ボフフフー……、マイクに風がかかる音がする。『ツイッターをいますぐやめろ。飯食って寝ろ。いまだけでもネット解脱しろ。社会生活しろ。それと、アナタはこれからもボキに仕事をよこすこと。いいな』

 いやあ、それは……。

『いいよな!!』

 あまりの剣幕になのだろう、シークエンス発動。

 一、喉の奥が締め付けられる。

 二、目が熱くなる。

 三、鼻の奥がにえたぎる。

 発射。

 抑えきれなくなった鼻水と涙がたくさん飛び出し、ひいーっひいーっと掠れた声が出る。

『えっ? ゴメン! 大丈夫?』

 僕はメソメソして声を詰まらせる。なんかっ、よくわかんないんですけどっ、ビジプーさんが、すごくこわいのがっ、うれしいっていうかっ。

『あ、え? こ、こわかったか。ごめんなさい、こうなるからしゃべらないようにしてたんですが……』

 いえっ、すごいっ、いい低い声ですっ。

『え、ありがとう。始めて言われた』

 通話ごしに神瀬さんの歌声が微かにする。

『えー。なんて言っていいかスゴく気まずいけどまあ、次のフラスタとかのぼりのレギュ出たらまたよろしくお願いしますー』

 最後だけ社会人っぽい甲高い鼻声になり、一方的に通話が切れる。

 僕は椅子の背もたれに背中をあずけて、一人ぼっちで涙を流し、嗚咽を出す。Discordの通知がきていて、タップすると収支報告に手を合わせているスタンプが九個になっていて、突っ伏して声を上げる。

 わけがわからない。

 でも、涙が止まらない。

 僕だけが目立ってトップオタになるための足がかりにしていただけなのに。

 自分のためだけにやってきたことに、何かが起きている。

 肌を焦がしてくる炎上の火柱ではなく、穏やかな灯火が僕をさりげなく暖めてくれているみたいな。

 水分が出きったのか冷静になってくる。風呂場の洗面所で顔を洗って鏡を覗く。まぶたが腫れて鼻の下がカピカピ。頬は火照って赤い。見事なまでに泣きましたという顔で、笑う。

 世間体は完ぺきに崩壊して修復不可能だ。

 皆さんには謝った。

 でも、まだ一人いる。

 三〇代後半でメガネで生真面目で犬を飼っている優しくガチ恋してない二メーターの男オタクだ。

 僕はPCを立ち上げ、全てのおたよりをまとめているEXCELを開く。僕はヤツ――ごはんつぶたべたいさんのおたよりの内容と、番組に投稿された写真をくまなく見る。

 謝ろう。

 僕にはできる。

 犯罪者で、ごはんつぶさんを一番知っているのだから。



  ■4部



 ――――秒。

 一秒、秒、秒、秒……秒?


 再び硬く平らな道に尻を打ちつける。

 どういうわけか僕の頭は炸裂して、解脱していない。

 かわりに、禿げた小太りのおじさんがスキンヘッドを羽交い締めにしている。

「バカ!」禿げたおじさんが言う。「なんで来てんだよ!」

「こういうヤツは叩いてやらねえとダメなんだよ!」

「お前じゃ潰れちゃうのよ! ごめんなさい! 早く!!」

 勇敢な禿げたおじさんは、アゴを動かして逃げろとジェスチャーする。

 僕はぽかんと口を開けて、這うようにして離れる。アディダスジャージとスキニーパンツで来てよかった。足を支えにして立ち上がり、勢いのまま走ろうとする。待って! おじさんに止められた。

 止まって、首を捻って背後に向くと、ごはんつぶさんがこちらに歯をむき出しにしている。禿げたおじさんはその屈強な肩に手を置いて、まるでクマをなだめている熟練の飼育員みたいだ。

「しゅが~んさんですよね? すみません、ごはんつぶです。ごはんつぶたべたいです」


 僕らは、ジョナサン 馬車道店のボックス席に座る。


「いやぁ……恐ろしいな」

 僕はドリンクバーの四角い氷を額に当て、対面のごはんつぶさんは腕組みして青ざめている。左のスキンヘッドは浅く腰掛けてふんぞり返り、首だけ上げ、は? の形で口を開けている。

 横浜在住、電車通勤で駅まで一〇分。神瀬こうのせさんの番組で一年前に採用されていた、家から撮ったという電線に並んでとまっているスズメの写真が決定的で、隅っこに映り込んでいる建物の位置からマンションを特定できた。

 ごはんつぶたべたいさんは、五〇代くらいだろうか。小太りでメガネ。ユニクロか無印っぽいベージュのズボンに、濃い青のポロシャツ。髪の毛は側面に産毛程度にしか生えておらず、地肌の部分のほうが多い。簡単に言えば禿げている。

「警察だろ、これは」

 スキンヘッドが僕を雑に指差すと、ごはんつぶさんが手をヒラヒラ振る。

「大丈夫、大丈夫だから、おまえはしゃべんないでいいから」

 へっ! タバコにジッポの火を近づけるが、禁煙の文字によって咥えるだけになるスキンヘッド。

 僕の視線に気づいたのか、ごはんつぶさんが言う。「すみません、こいつぼくの友達なんです、大学からの。ちなみに、しゅが~んさんが特定したのはコイツの家なんです。あの写真はコイツの家に遊びに行ったときに撮ったやつなんですよ。ぼくんちもまあ近所ですが」

 スキンヘッドがサングラスをずらして睨んでくる。僕は一瞬だけ、どうやったら最短で出入口にたどり着けるかのシュミレーションをした。

「それでしゅが~んさん、謝りたいってことでしたけど……」

 優しいがハッキリしている声に話しを振られて、僕は声に出そうとする。喉が締め付けられる。本人に向かって懺悔するのは今しかないというのに。

「本当に、すみませんでした。貴方がこうなったのはぼくのせいです」

 ごはんつぶさんはピッタリと額をテーブルにくっつけ、蛍光灯でほのかに光っている頭頂部を僕に見せる。僕は、え、え、とバカみたいなリアクションをするしかない。

「ぼくがイベントのおたよりで、『入院しています』って書いたのがよくなかった」ごはんつぶさんは頭を上げる。「ちょっとしたイタズラだったというか……まさか読まれるとは思っていなくて……酷いことになってしまって、本当に申し訳ありませんでした」

 やっぱり、僕がずっと手を上げていたのは……。

「配信があるものは見ていますからね。ビックリしましたよ。間違いかなと思っていたんですが、ずっとだから、まあ、わざとだなと」

 今度は僕がテーブルに額をつける。本当に、すみませんでした! 神瀬さんに認知されたいという気持ちが暴走してしまって絶対にイベントに来ないごはんつぶさんを偽っていましたもう絶対にやりません! 申し訳ありませんでした!

「これからも続けてくれませんか」

「おいおいおいおいおい」火のついていないタバコを灰皿でもみ消しながらスキンヘッドが言う。「しゅうちゃんなあに言ってんだよ……!」

 これはどういう意味ととればいいんだ。

 皮肉なのか。

 でも、そんなトーンじゃない。

「ぼくは感謝していたんですよ。良い身体が手に入ったと」ごはんつぶさんは小さく笑い、手を広げた。「禿げで小太りの小さいおじさんなんです、ぼくは」

 情けない。僕は何も言えずに、ごはんつぶさんの瞳に影が指したのを見ていることしかできない。

「二八歳の女の子を五一歳の禿げた小太りのおっさんが、ねっとりと、ニヤニヤして、見ているんですよ。そんなの、どう見てもキモいじゃないですか」

「だから」スキンヘッドがテーブルで拳を握りしめる。「歳なんて数字だろ。オレとしゅうちゃんより上の人だってたくさんいるんだって……! 現場いけばわかる……!」

「ぼくはテツヤのようには考えられない」

 組み合わせた手をテーブルに置いて、ごはんつぶさんは言う。

「おじさんはおじさんなんだよ。だから、しゅが~んさんみたいな若い人が、ぼくのかわりに《《ぼくになってくださって》》安心したんです。ごはんつぶさんは、禿げたいい年したおっさんだったんだって、神瀬さんに不快な思いをさせる必要はなくなったんです」

 僕は、僕は、僕は。

 僕は、なんて言えばいいんだろう。

 ごはんつぶさんは言う。「おたよりが読まれると、何かになってるような気になるんですよね。こんなに綺麗で素敵で人気な人がぼくを知ってくれた……認知してくれている、なんて思っちゃって」

 ごはんつぶさんは言う。「結構採用されて、じゃあイベントに行きたい、ぼくですって手を上げればもっと知ってもらえる」

 ごはんつぶさんは言う。「……禿げたおっさんが居るわけですよ。それで、おんせつちゃんにイヤな顔されたら、ぼくはもう、耐えられない。それこそ、死にます」

 ごはんつぶさんは言う。「それにカラオケパートが始まっても曲がわからないんですよ。最近はイエモンの『JAM』バッカ、聴いてますからね。ハハ、最近の曲なんて特にわからないんです。おんせつちゃんが歌ってても……あまり」

 僕は言う。じゃ、じゃあ、なんで、おたより送っているんですか?

「大好きなんですよ」

 ごはんつぶさんは言う。

「彼女たちは応援しないと突然消えるんです。なんでもない平日に起きたら、『応援してくれている皆さんへ』が出てそしたら、もう二度と、二度と会えなくなる。見れなくなるんです。歌も芝居も声も笑顔も、これから一生」

 スキンヘッドがサングラスを外して目を手で覆っている。

「ぼくは本当におんせつちゃんに頑張ってほしい。大好きなんです。すごくすごく。物凄く。幸せになってほしい。だから応援のつもりでおたよりを送っています。グッツも買ってますよ。宛名入りのチェキのやつとかも。本名で。サイン入ってるのは二一枚くらいになりました。舞台の差し入れもしてます。本名だから誰もわからないと思いまが。おんせつちゃんも」

 目を細くすると目尻に笑いじわが幾つもできる。そして言う。

「でも、ぼくは禿げたおっさんなんです。だから、これからも《《ぼくになって》》神瀬さんに会ってほしい。炎上していますが、ぼくが声明などを書けばそれなりになるでしょう」

 この人も何かに呪われている。

「もっと早く出会っていればね」


 僕はビジプーさんを思い出していた。

『ネットの奴らはな、アナタがなにをやってきたのかとか、知んないの――』


「だからお渡し会は……」

 この人は何かを勘違いしている。

 みんなに言われたように、今度は僕が言う番だ。

 ごはんつぶさんのおたより、僕は階段で転んじゃったやつが好きです。

「あー、あったな」スキンヘッドが額にシワをよせて笑う。「もう歳なのに走んなって話しだよな」

 ごはんつぶさんの頬が少し赤くなっている。

 僕は続けて言う。あと、横浜生まれは神奈川じゃなくて横浜っていいます、って取引先の人に言ったら険悪になったやつとか。

 あと、知らない外国人の履歴書添削したやつとか。

 あと、動物園にいってただただ楽しかったやつとか。

 あと、貝柱が喉に引っかかったやつとか。

 あと、あと、あと。

 僕はごはんつぶさんのおたよりを無尽蔵に知っているし、何度も笑った。どれもこれも素朴で、くすっとくる。

 スキンヘッドは大口を開け、腹を抱えて笑っている。友達だからなおさらウケるのだろう。いいな。

 ごはんつぶさんはメガネに指を滑り込ませて、顔を抑えて、笑っている。

 僕は、笑いが起きる会場の温度を思い出していた。

 僕は、ごはんつぶさんのおたよりで笑う神瀬さんを思い出していた。

 やっぱりお渡し会、行きましょう。

 何か言いかけたごはんつぶさんを遮って、スキンヘッドがその肩をバンバン叩く。「だな。うん。オレが連れて行ってやる。どこで何時からだ」

 お台場で一五時三〇分からです。

「車で四〇~五〇分ってとこか。二〇分で行くぞ」

「いや、ちょっとぼくは……!」

「八年間もこんなにおもしれえおたより出してんだ、おんせつちゃんも会いたがってるよ。おんせつちゃんのお渡し会があるって、オレにLINEしてきたくせに」


 僕とごはんつぶさんは、日本科学未来館の自動ドアをくぐる。


 新車みたいにピカピカなレッドのスポーツカーから、ふらふらして降りる。横浜から約二五分で到着した。

 スマホのロック画面は一五時二一分。ガラスで構成されたみたいな綺麗な建物に、夕日が反射して薄いオレンジに染まっている。

 あと九分でお話し会は開始する。

「観念して楽しんでこい。しゅが~ん、これを渡しておく。魔法の紙にするかは、お前ら次第だ」

 スキンヘッドは自称法律に詳しい人間らしく、これを出せば譲渡いけると紙とボールペンを受け取った。

 赤髪カスの僕にもわかる。どんなイベントでもお話し会レポでも、『自分が取ったチケットを分配機能を使わずに譲渡する』人を視たことがない。

 僕とごはんつぶさんは自動ドアをくぐり、何度もブリッジしている渓流のようなエスカレーターを乗り継いで七階へ向かう。

 僕は二通あるお渡し会の当選メールを目で撫ぜる。それから、ごはんつぶさんの小さい背中を見上げて言う。どうして来てくれたんですか。

「しゅが~んさんのフラスタとか参加してますからね、テツヤと一緒に」

 え……?

「状況が状況なのもあったし、それにぼくも会ってみたかったんですよ。いつもお世話になっています」


神瀬音雪こうのせ おんせつBD発売記念ブロマイドお渡し会】


 案内板は、コンファレンスルームの一室を指していた。部屋の前には長テーブルの受付があり、列を見ると手に汗がにじみ、呼吸が怪しくなってくる。

 ここまで来てしまった。

 僕はスキンヘッドから貰った紙を広げる。A4の紙の上部に、委任状の文字。

 隣のごはんつぶさんは胸に手を当てて呼吸を確かめている。

 待合場所のテーブルで委任者のところに『佐藤 唯人』とボールペンで書き込む。

 ハンコがない。知らないが署名だとたぶん、弱い。ごはんつぶさんが肩をポンポン叩いてくる。仕方ないよ、みたいに。帰りたさすぎるだろ。

 僕はアディダスジャージとスキニーパンツのポケットを探る。腹のポケットで固く丸い何かの輪郭をなぞった。缶バッチがだ。捨てる予定ゾーンから拾ってきた缶バッチの絵柄は、綺麗に笑顔を作る神瀬さんだった。

 ごめんなさい神瀬さん選別ミスです。布を効率よく貫通させるために鋭く尖らせてある針を引き出す。先端を指先にあてがって生唾を飲む。スマホの時計によれば開始まで三分ない。

 チクッ、丸い血が小さく指の腹にふくらむ。

 本名の隣に押すと血の指紋になる。缶バッチの神瀬さんは綺麗に笑っている。

 血液検査されないのを祈って、『代理人 國米○○』の隣にも押そうとすると、手を掴まれた。

 ごはんつぶさんは針の先端をハンカチで拭き取る。「ここまでやってもらって、行かないとかもうない、よなぁ……くうぅ!」

 イっ……! 血の指紋を押した委任状を涙を目尻にためて僕に差し出してくる。

 僕と、ごはつぶさんさんの本名と血液が押された書類ができた。

 血判入りの委任状を列がなくなった受付に差し出す。受付は眉間にしわをよせたまま目を見開き、文面を目でなぞる。

 僕は二通の当選メールの画面を受付に向け、口を開く。

 スパークするみたいに、神瀬さんがくださったイベントの笑顔が眼前に広がる。

 一分あれば。

 右手を強く握って、縫われている皮膚を引っ張って、僕自身に僕が痛みを与える。

 それで僕は言える。二枚を譲渡させてください。


 遠くで拍手がする。

 家族連れの雑踏の中で、小さく、小さく、とても小さく、《《優しく芯の通った声》》がする。

 僕はうつむいて、意識が耳だけになる――みんな、前説で笑ってね。スタッフさんやウケだったって落ち込んでたよ――確かに、絶対に、確実に、どう聴いても、そう言っている。

 まぶたを上げると、ごはんつぶさんが眉間にしわをよせ、うつむき、パーにした手をパラボラアンテナみたいにして耳に付けている。

 ごはんつぶさん。僕は筋金入りの神瀬音雪こうのせ おんせつファンに呼びかけた。

 小さく、あっ、と。メガネごしに上目遣いで、うずらの卵みたいにテカる頭をかく。いやー、ほのかに顔がピンク色になっている。

 僕とごはんつぶさんはコンファレンスルームから引き離され、渓流みたいなエレベーターを見下ろせる開かれた通路の隅っこで、責任者と対峙していた。

『STAFF』の名札を下げている小太りで背広の責任者は、魔法の紙になりえる委任状から視線を上げる。「これは、血判ですか……?」

 僕は包帯が巻かれ、指先がティッシュに包まれているボロボロな右手を少しあげて、頷く。

 口を歪める責任者。大の大人が普通に引いている。

「申し訳ございませんが……委任状よる分配はお受けいたしかねます」

 そして、委任状に再び視線を戻す。

 血判は逆に強すぎたみたいだ。明らかにこいつらやべえって警戒されている。

 僕は野放しの犯罪者だ、やべくて当然だ。

 僕は床に両膝をつけ、おでこをつけ、その冷たさを受け入れる。

 神瀬音雪のオタクに笑われるだろう。

 神瀬音雪自称トップオタさん、土下座してしまうと書かれるだろう。

 僕は責任者にあらためて言う。これからずっと出禁で構わないです。この人に神瀬さんに会ってほしいんです。二枚とも譲渡、お願いします。

「いやぼくじゃなくて」背中にごはんつぶさんの手が置かれる感覚。「この人に行ってほしいんです。これはぼくの提案です。メールもぼくのです。え? 二枚?!」

 僕は冷たい廊下に額を当てたまま言う。土下座中です、バレちゃいますよ。

「いや、だって、一枚ってことでしたよね?」

 一枚三〇秒なので、一分お話しできます。ごはんつぶさんは八年も神瀬さんのオタクやっているんですから、たくさん話してください。

「時間は関係ないですよ、おんせつちゃんもよく言っているじゃないですか。それに、それにブルーレイ一枚八八〇〇円で、抽選ですよね。いったい何枚買ったんですか……?」

 僕にはその権利はないです。自分が一番大好きなネットお墨付きの赤髪のクレイジーサイコ犯罪者なんですから。

「ごはんつぶさんって……ごはんつぶたべたい、さん……?」

 スニーカーのつま先が僕の指先に当たる。おもてを上げる。責任者は手のひらを前に向けている。僕はカメみたいに首をひねる。僕の背中に手を置いて膝立ちになっているごはんつぶさんに、責任者の手のひらの先が向いているのを確認する。

「はい? はい」

「うそ……いらしたのですか?」責任者の目は、鮮やかな夕暮れの加減なのか、輝いているみたいだ。

「まあ、色々ありまして、しゅが~んさんに諭されまして来ました」

「あ、そうか……!」

 責任者が機敏に僕を見下ろし、肩に手を置いて優しく僕を立たせる。

「いつも神瀬がお世話になっております」

 見ると、ごはんつぶさんも僕を見ている。

「わたくし、神瀬のマネージャーの山田と申します。お恥ずかしい話ですが、本日は人員が不足しておりまして、わたしが現場責任者を務めております」

 もう一度目を見合わせる僕ら。

 マネージャーさんが、《《僕ら》》を知っている。

「そうか。お二人はお知り合いでしたか。そうか、そういうことですか……」

 自分と会話して納得している。

 僕を知っているってことは、炎上のことも知っているだろう。

 こうして一緒に来ているってことは、ごはんつぶさんはグルだって思われているんだろう。

「ぼくがしゅが~んさんに頼んで変わりをして貰っていたんです」主語もなく言う。「お恥ずかしながら、この歳になっても神瀬さんに会うのが怖かったのです。それがちょっと、齟齬とともに広がってしまったといいますか」

 僕が口を開けようとすると、背中にそっと手が触れる。静止されたんだって4んだほうがいい僕だってわかる。

 アゴに手を当てているマネージャーさんは、んー、と唸って、「お二人には、とてもお世話になっております。ですが……それを通すわけにはいきません」

 マネージャーさんの背後、コンファレンスルームにつながる右の通路からオタクが一人出てくる。ウエゴボッ、えづいて、息を細く吐いて横切り、渓流エレベーターを下っていく。マネージャーさんは、お渡し会を終えたオタクを背伸びして見送る。

 僕は手を握りしめる。

 腹のポケットにある缶バッチの輪郭を確かめる。針は尖っていて簡単に皮膚を貫通することは僕の指で実証済みだ。

 これを使って、この人の。

 この人の前で何度でも僕の指を突いて、血判で委任状を埋める。

 血判の手形を作る。

 血みどろの手で何度だって、何度だって、何度だって交渉する。

 その手でマネージャーさんの顔を最悪触ってもいい。

 血は服についたらなかなか落ちない。

 オタクにはやらねばならない時がある。

 マネージャーさんが手のひらを僕に向けてきて、僕は青ざめる。知っている……? 差し出すべきか……?

「もう一度メールを拝見してもよろしいですか?」

 メール? 僕はおそるおそるスマホを手のひらに置く。

「少し触らせていただきます」人差し指で画面を触る。

 そして、スマホを手に顔を上げる。

「これはメールの設定ミスですね」

 はてなマークを出すのを抑えきれない。

 きっと出ている。

「お二人が購入された分のメールが一つにまとまっているようですね。お二人はお知り合いなんですよね?」

 まるで、それで合ってますよね? と確認するように。

 ありえない。

 どんなに親密だって、メールアドレスを一つのメーラーに集約させることなんてあるか。

 でも、これはきっと、《《そういうこと》》なんだろう。

 僕は口を意味もなく動かして、ひねり出す。知り合いです。でもそれは。いい切る前にごはんつぶさんが言う。

「気が合うんですよ。半年とちょっとですが」

 ごはんつぶさんは、軽く笑みを僕に見せた。

 僕は小さく口を開けて固まって、それから小さくため息をつく。小さく頷いて、頷いて、僕もできるだけ微笑んで見せた。

「あの、もう一ついいですか」

 表情を硬くさせるごはんつぶさんに、マネージャーさんは笑顔で言う。

「駅の階段は滑りやすいですから、走らないほうがいいですよ。足の怪我はもう治りましたか?」

 ごはんつぶさんにも何かが起きたみたいだ。


 僕とごはんつぶさんは、コンファレンスルームで自分の番を待っている。


「マズイ」ごはんつぶさんはメガネをかけなおす。「なんて言えばいいんだろう。三〇秒ってどれくらいですか」

 すみません、それの提案なんですが、僕らは一五秒にしましょう。一言話すくらいの時間しかないですが、他の人達に申し訳ない。

「あ、そうか。別に三〇秒……一五秒ぜったいに使い切らなくてもいいんですよね。それくらいならぼくでもやれそうだ。うん」

 しゃべらないのは無しですよ。

「くう~~!」

 室内は、並べられた椅子の列が前から順に列を作っていて、最後尾の列の最も端っこに僕らは並んで座っている。

 僕は頭をたれて、ふととものスキニーパンツの谷を手のひらでスリスリして布の肌触りを確かめる。

 二枚は譲渡不可だった。

 個人的にごはんつぶたべたいさんファンの責任者からそう言われてしまった。ごはんつぶさんの赤く火照った何とも言えない表情は当分忘れられないだろう。


 緊張してるんですか。


 額を上げる。椅子の列の最前は白いパーテーションで長く区切られていて、待合室と向こう側とを分ける役割を果たしている。

 端から端まで伸びている白い壁。

 オタクとお話ししている声がその白い壁を難なく飛び越えてくる。できるだけお二人だけでお話できる空間から神瀬こうのせさんの肉声が漂ってくる。

 手のひらを広げてみる。真っ白。鼻で笑ってしまう。血がかよっていない美白。

 すごく練習してきたんだろうなって人の思いの洪水が白い壁を飛び越えてくる。右から出てきて、全身の酸素をすべて吐き出すくらい息をはいて、ドア枠をくぐって消える。

 大抵は、一人で三〇秒。

 一人、また一人が立つ。

 立つたびに、誰かの持ち時間が三〇秒減っていく。

 立つたびに、誰かの三〇秒になる。

 心構えも、内容もまとまらなくとも、左の壁沿いにできている白い壁の向こう側へ続く最後の列に並べば、飛ぶしかなくなる。


 見に来てくれてありがとうございます~~!


 心臓が大きく脈動する。

 あと四列、時間にして約一七〇〇秒。


 隙間を埋めないと神瀬さんの声がかわいすぎて4ぬ。僕はうつむいたまま話を振る。答えられる範囲でいいんですが、貝柱が喉に詰まった話って……。

「ああ、あれ。あれはちょっと盛ってます」


 快活な笑い声がする。


「ちょっと盛ったほうが面白いですからね。素人のエピソードなんてたいしたことないですから、楽しんでもらうためにはちょっとウソをついた方が良い。作家もわかっているでしょう」

 そんな。僕ちょっと感動しちゃいましたよ。

「でも、禿げたちっちゃいおっさんって思ったでしょ」

 ……チャームポイントです。

 大声で笑って、すみませんと小さくなる禿げたちっちゃいチャーミングなおっさん。


 白い壁の向こう側から友達だった一人が出てくる。

『あれはないわ』

 隣りにいるごはんつぶさんを一瞥して、ドア枠に消えていく。


 あと、三列。


 僕は俯いたまま言う。おたより、なんかコツとかないですか。

「読みやすさとか、距離感を意識するのはありますが、やっぱり運ですかねえ」

 運だけとは言えないですよ。実力では。

「いやいや、言うほど採用されてませんよ。むしろ、極太レーザーさんのほうがすごいんじゃないかな。でもねえ、結構出してると辛くなるときもありまして――」


 今日なに食べたの?

 あと、二列。


「フラスタ毎回すごいですよねー。どうやってまとめてるんですか、ああいうの」

 ライブポケット使っとけば結構楽ですよ。何回も進捗とか告知して、個別に対応していくだけですかね。

「なんというか、真面目ですねえ。ぼくにはそういう細い作業とかまとめ役とかできないなあ。イラストレーターさんとかも、やりとしなきゃならないんでしょう?」

 あの人はウンチ描かないように見張っておけば大丈夫です。


 あと、一列。


 神瀬さんのお芝居はやっぱり間近で見たほうがいいですあの人はなんというかお芝居だけじゃなくて周りの空気がピリッとするというか役そのものになっているのに自分自身というかその塩梅が生で見るとまたすごくて。

「配信越しでも結構わかるなあそれ番組の朗読もあれすごいですもんねえ生でやっているとは思えない芯のしっかりした声で聞き取りやすいのにちゃんとしているし」

 そうそうそうなんですよ神瀬さんってお芝居とか可愛さに引っ張られがちなんですけど発声一つとってもスゴイ綺麗で良いなっていうか鼻濁音が特によくて。

「それわかる~~~~わかりますわ~~~~」

 あ、それ、わかりますわってリアルに言うんですか。


 僕らの前に誰もいなくなり、隣が一人立って、隣の隣が立って、時間にしてあと一二〇秒になる。


「やっぱり、帰ろっかな……。いや、すごく怖いですよお」

 何か言おうとしたが僕も右手が震えているからそれどころじゃない。

 久々だ。

 可哀想に、怯えている。

 僕は名札を首から下げる。ごはんつぶさんは突っ張り棒みたいに手を膝について頭をたれ、頭の汗を拭っている。

 名札ないんですか?

「そりゃあ、拉致されたようなものですから」

 スキンヘッドと僕は、この人を連れて行く事で確かにあの瞬間だけは通じ合っていた。

 僕は名札の角を指で転がす。

 これがあれば数秒だけ長く話せる。

 謝って、それから何かあるかもしれない。

 僕はまぶたを強く強くしめて、思い切って開ける。

 名札から名前を書いた紙をつまんで抜く。紙の裏にボールペンで書こうとすると、止まる。

 人差し指がピンッと棒みたいになっている。

 僕は口の中で言う。これは違うよ。僕はしゅが~んだ。

 人差し指を二回軽く曲げられる。お許しが出た。僕は『ごはんつぶたべたい』と書いて、名札を差し出した。

 これ使ってください。名乗る手間が省けるので、長く話せます。

「いや、それは」

 注射されそうな子犬のような瞳だ。僕はなにも言わずに、言えずに見つめる。

 できるだけ目を見開いて、顔が歪まないように表情筋を固定して見つめる。

「……ぼくは赦すとか、赦さないとか、貴方にそういう気持ちはないのですよ」

 ごはんつぶさんは力なく指で挟む。引っ張ると、僕の首が引っ張られる。首掛けをかけたままだった。

 未練がましいそれを僕は首から離して手渡す。

 これで合ってるんですよ、たぶん。

 僕は立って、パーテーションへ続く列へ歩いて、最後尾の背中の後ろに立つ。

 息が浅い。

 一歩進む。

 まるで体温を感じるくらいに、近くで優しい声がする。

 一歩進む。

 右手が震える。

 一歩進む。

 金髪のスタッフにメール画面を向けて、後ろの人も、と言う。ごはんつぶさんは目を><にし(強くつぶって)て、なにやらブツブツ言っている。

 金髪のスタッフは名簿ボードの紙を一枚めくり、僕らの委任状をさらす。そこの右下には小さく『山田』と書かれていた。

 金髪のスタッフは小さく頷き、どうぞと手で促される。

 一歩前に出て、境界の向こうをのぞく。

 パーティションの向こうの壇上の前。オタクが話しているのを綺麗なLラインのアゴを引いて、引いて、引いている。

 神瀬さんがいる。

 次は僕だ。

 視界の端に認知ゲージが出てくる。ゲージは二七。

 デカデカとして、くっきり浮き出たパチンコみたいなフォントで、イベント発生とでてくる。

 四年間の思いを伝えたら一恒河沙(ごうがしゃ)ポイントゲット。

 右手の震えは最高潮に達する。

 コイツは怯えているんじゃない。

 震えて、包帯を巻かれて、血をにじませることで、自分がここにいるのを知らせているんだ。

 見て、見て、見て。

 見て。

 そうだ。僕はそうだ。

 四年間の思いを言えば、僕は今までにないくらいに最高になれる。

 認知されてトップになれる。

 そうだ。

 ここまで来たんだ。

 言え。

 僕だけに微笑んでくれる天使のはしごが、手の届く距離で僕に降り注ぐ。

 どうせ。

 どうせ、神瀬こうのせさんは僕のことなんて知らない。

 言え。

 言って、あ、しゅが~さんだ、を身体中に浴びればいい。

「だ、だいじょうぶ?」

 肩越しに後ろを見ると、この右手よりも震えているごはんつぶさんがいる。

 僕を見ている。

 僕が一枚の譲渡を、三〇秒の譲渡をしたから。

 自分のためだけにやってきたことに、何かが起きたから。

 僕は前に向き直る。

 顔を上げると、オタクに手を振る神瀬さん。

 金髪のスタッフに手でどうぞとされる。なんとなく数秒だけ待ち、壇上に、白い壁の向こうに、できるだけお二人だけでお話しできる空間に、神瀬さんだけがいる空間に足をかけ、身体を持ち上げた。

「こんにちは~~。は~い、どうぞ~~」

 差し出されたブロマイドを名刺を受け取るように指で挟んで、僕のほうに引く。

 顔を上げる。

 認知ゲージと一恒河沙ポイントのパチンコ文字で何も見えない。

 言え。し、しゅが~んです。

「あっ、しゅが~んさん! いつもありがとう~~」

 え?

 言え。僕は……ぎっ、ごっ……ごっご。

 言え。

 言え!

 言おう。

 はんつぶたべたいさんをなりすまして今までイベントで手を上げていました騙していて申し訳ありませんでしたぁーーーー。

「……ああ~~。そうじゃないかなぁ~~って思ってた」

 頭をあげる。

 神瀬さんがいる。

「しゅが~んさんとごはんつぶさんのおたよりって、やっぱり印象ちがうよなぁって思ってたんだよねぇ。スッキリした!」

 え……おたより……?

 神瀬さんはいつものように笑う。「いつもいってるじゃないですか~~。ぜーんぶ読んでますよ。喋りすぎちゃうせいで、いつもぜんぶ読めなくてごめんなさい」

 立ち尽くす。

「意外と見てるからね、私。お花も差し入れとかも、いつもありがとう」

 目が熱い。

「えっ、えっ、あっ、大丈夫?」

 おっ、おーえんじでまっ。

 神瀬さんがヒラヒラ手を振っているのを振り切って、右へスライドして、パーテーションから飛びだす。

 ドア枠をくぐり会場をでて、待合スペースの椅子に尻を下ろす。

 止まらない涙と鼻水をジャージの袖で擦る。

 これまでが溢れてくる。

 すべて届いていた。

 僕は椅子から落ちて、丸くなって子供のように声を上げて泣きじゃくる。

 足音がする。後ろから両肩を掴まれて優しく起こされる。

 見えづらい水中みたいな視界の中で、ごはんつぶさんが目尻に笑い皺を幾つも出して太陽みたいな笑顔で僕を見ている。

 肩をひかれ、背中に両手が回る。僕も回す。

「ありがとう……ほんとうにありがとう……」

 暖かい体温と、心地よい少しの加齢臭に僕はさらに声をあげた。



  ■エンディング



 ある時は、R'sアートコートの座席でカレンダーを確認する。


 十一月十六日『神瀬音雪こうのせ おんせつBD発売記念ブロマイドお渡し会 【三部】東京都内某所』

 一月十九日『カラオケイベ神田明神ホール』

 中略。

 五月一〇日『イベばぐちか』

 中略。

 八月二日『アールズアートコート』が、今日。


 マンチェスター・シティの水色の帽子を取って、黒髪をイベント会場に晒す。

 グーグルカレンダーに手打ちで予定を書き込むと適当すぎて思い返すのに工程がいる。今日に至っては会場名しかない。後々おたよりや手紙を書くであろう未来の僕が困ることだろう。イベンターノートで誰かが作ってくれていた日程に助けられていたことを今更になって実感する(僕もやってたけど)。

 一般先着でとった後ろから二番目の席で会場を見渡す。

 友達だった人たちは一人残らずいなくなった。特定のオタクのせいで《《他界する》》ことはよくある自然の摂理だ。

 今までもいたのだろう。

 傾斜になっている通路を登ってくるオタクと目が合う。少し微笑み、会釈される。僕も顎を引く。極太レーザーさんだ。

 会話はしない。でも知っている。

 今や彼がフラスタや広告の陣頭指揮をとっているから知っている。

 パワポで作った資料を渡してだいたい教えたから、知っている。

 彼はルールを守ってくれる良い人だ。僕が表立ったことをやらなくなってから、極太レーザーさんからやり方を教えて欲しいとDMをもらった。

 教える条件は、僕に話しかけないでください。

 やるのなら、僕がかかわってちゃいけない。

 右手は包帯がとれ、傷は肉が盛り上がったままテカテカしている。芋虫が皮膚の下に入り込んで冬眠しているようでも、『1』のようでもある。

 注意事項に『委任状等をお持ちでもチケットをご購入され、ご当選されたご本人様だけが――』の文言が時々入るようになった。

 青いバケットハットも、もういない。

 T・Y。

 神瀬音雪のトップオタを名乗ったじゃがいも。

 カスの赤髪がお名前パネルを粉砕されている動画が拡散されれば、じゃがいもの張り手も拡散される。

 アイツがやったことは赦されなかった。

 違う。

 アイツは。過去の悪事っぽい行為をすべて晒し上げられ、モンタージュのマグショットが作られることに、アイツは、耐えられなかった。

 僕は。僕は耐えられた。

 アイツは自分がいままでやってきたことに、何かが起こらなかったようだ。

 通知が画面の上にくる。タップしてツイッターが開かれると、海外イベの通知だった。どういうわけか通知を切っても数日後にはスマホが震えて通知される。

『オタクためされてる』

 リプ欄を見てしまい、電源ボタンを押す。

 代休と有休消化の口実で連休にしてゆうちょの定期貯金を少し崩せば、僕は右手の『1』を押す。

 痛くはないが皮膚の裏側を直接触っているような感覚に思考が止む。気持ち悪いニワカな僕には関係のないことだ。ランキングはもうない。

 接近戦はもういい。

 大好きな人を目の前にした後に、呪いを感じたくない。


【「ごはんつぶたべたいさん、いますか~~?」】


 イベント中にまた読まれるごはんつぶさん。

 僕はマスクを下げ、上げる。

 誰も手を上げない。

 当然だ、いないから。

 僕も上げないから。

 認知ゲージは四六をマークしている。

 またか、そんなわけない。『1』を押す。消える。

 僕は開演前に、動く人差し指でDiscordのDMを送ったのを思い出す。

『僕のおたより読まれたら来てくださいよ』

 ……gohan2Btabeta1130が書き込んでいます……。

『よかった。今後も行かなくてすみそうです』

 この人はとにかく冗談が好きだ。

 僕はまた《《神瀬さん談義》》をしたくて、マスクの下で笑みを隠しきれない。

 ごはんつぶさんのおたよりで会場が笑う。

 僕も笑う。

 神瀬さんも笑う。

 気がついている人は周りより笑い声が大きい。僕も。貝柱が喉に詰まった話の後日談はズルい。

 清涼感のある笑顔。

 あまねく全てのファンを救済する慈悲深い笑顔。

 僕だけに向けられることは、もうない笑顔。

 ずっと見ていたい。

 ずっと。

 これからもおたよりを送ろう。

 手紙を送ろう。

 見えることのない、《《全部読んでます》》側の、僕がやれる範囲の応援を送ろう。

 僕は腕組みして、後方から神瀬さんを眺め、やっぱりいいな、言葉を飲み込んだ。


【しゅが~んさん、いますか~~?】


 名前が呼ばれる。

 誰も手を上げない。

 僕。

 僕だからだ。

 僕はわずかに震える右手を上げる。

 すると何かが起きた。

 拍手、拍手、拍手が巻きおこり、神瀬さんの澄んだ瞳が、天使のはしごになる。

 みんな僕を見ていない。

 僕は双眼鏡でその後ろ姿にズームする。

 最前ドセン。

 青髪。

 真新しい包帯がしっかり左手に巻かれている。

 手を上げている。

 神瀬さんをとらえる。瞳と瞳、と目が合う。うわっ、双眼鏡を外す。もう一度覗くと、神瀬さんは頭を下げてありがとうございますと、そいつに言っている。

 僕がやってきたことに何かが起きた。

 僕のおたよりの内容を読み上げられ、うなずき、うなずき、うなずく青髪。

 僕は心臓の鼓動を感じながら、下げていたマスクを上げて、吹き出す。二列目の端でこちらに振り返り、青髪を指差してるスキンヘッドへ向けて手刀を左右に振る。

 本当にありがとう。

 君の呪いはどんな形をしているのだろう。

 これから僕にみせてくれ。

 君のも。

 手刀にしていた右手をパーにして、『1』を向こう側においやり、手のひらを僕に向ける。

 震えている。震えて、震えて。

 震えて、震えて。

 震えて。

読んでくださってありがとうございました。

楽しんでもらえていたら嬉しいです。

もしも貴方にこの小説が痛いほど刺さったのなら、考えすぎないで、そして幸あれ。

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