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第9話 楽園


 泥を落とすための温かいお湯。肌触りのいい清潔な服。

 三食必ず出てくる、温かくて美味い飯。


 モルディアスの屋敷での生活は、俺たちの常識を根底から狂わせるのに十分だった。


「……えへへ」


 ふかふかの絨毯が敷かれた客間で、ミーナとエルケがリザリアを囲んではしゃぎ回っている。


「ほーら、やっぱり似合う! 私の目に狂いはなかったね!」

「ヒュ〜! お姫様みたいじゃん、リザリア!」


 モルディアスが用意させたという、上質な絹で仕立てられた真っ白なワンピース。

 今までサイズの合わないボロ布を纏っていたリザリアは、自分の姿が信じられないように、フリフリの裾をそっと摘んで戸惑っている。


「……あの、おかしくない? へんじゃ、ない……?」

「変なもんかい! すっごく可愛いよ!」


 上目遣いで聞いてくるリザリアに、ミーナたちが自分のことのように胸を張る。


 リザリアの頬が、ぽっと赤く染まった。

 そして、照れ隠しのように両手で顔を覆いながらも、指の隙間から嬉しそうな笑顔を覗かせた。


「……えへへ」


 その顔を見た瞬間。

 ここでの生活も、悪くねぇって気がしてきた。

 親に捨てられ、飯もろくに食えなかったこの小さなガキが、年相応の顔で笑っている。


 泥の中で怯える日々より、ずっといいんじゃないかと思える。

 あの領主が何を企んでいようと、この笑顔を守れるなら、少しは信じてみても――。


「……あまり浮かれるなよ、お前ら」


 水を差したのはロイズだった。

 部屋の隅にある巨大な本棚の前に座り込んでいる。


「身の丈に合わない贅沢は、判断を鈍らせる。タダでこんな生活を提供してくれるなんて、どう考えても裏があるに決まってるだろ。いつでも逃げ出せるように、荷物はまとめておくべきだ」


 ロイズは眉間に皺を寄せ、理路整然と苦言を呈する。……まあ、それ自体はいいんだけどな。


「言いながら、お前が一番満喫してんじゃねえか」

「なっ……!?」


 俺が呆れてツッコむと、ロイズは慌てて手元の分厚い本を隠した。

 口では警戒しつつも、こいつの目は先ほどからずっと本に釘付けだ。


「し、仕方ないだろ! ここは大陸有数の蔵書を誇る書庫なんだ! 流石に1000年前の本なんてあるわけないけど、でも、後世の人間が書き残した伝承や考察の類は山ほどある! ライオが死なずに済む『第3の選択肢』のヒントを探すためには、読めるうちに読んでおかないと……!」

「はいはい、マジメくん。馬鹿な俺たちの分までお勉強頑張ってくれよなぁ〜」

「図星突かれて早口になってるぜ、ギヒヒ」


 エルケとガスにからかわれ、ロイズは「うるさいな!」と顔を真っ赤にして本に視線を戻した。


 俺はふと窓枠に寄りかかり、磨き上げられたガラス越しに外の街並みを見下ろした。

 眼下には、整備された水路と、笑い合いながら歩く領民たちの姿があった。飢えている者も、怯えている者もいない。


 ――『犯罪者が生まれるのは、統治がうまくいっていないからです』


 昨日、あの領主が言っていた言葉が、頭をよぎる。

 俺は、剣だこだらけの自分の掌を見つめた。

 俺たちは、物心ついた時から奪って生きてきた。そうしなきゃ餓死していたからだ。


 でも、もし。

 もし俺たちが、問題を全部解決して、そうしてこの街で生きていけたなら。

 盗みもやめて、真面目に働いて、そうしたらこれから先、眼下の奴らみたいに笑って生きていけるんだろうか。


 ――『未来ある若者が、泥にまみれて苦しむのを黙って見ているのは……大人の怠慢だ』


 モルディアスの言葉が、甘い毒のように脳裏にじわりと広がっていく。


 もし、あいつの言うことが本当なら。

 この綺麗な世界を、俺たちも享受していいのだとしたら。

 今までずっと逃げ回ってきた俺たちの人生も、ここでなら――


「……あまり気を抜くんじゃねえぞ、ライオ」


 心地よい空想を切り裂いたのは、低く、重い声だった。

 部屋の最も暗い隅。

 ふかふかのソファには見向きもせず、硬い床の上であぐらをかいていたダンが、研石から顔を上げた。


「美味え飯にフカフカのベッド。タダで甘い餌をくれる奴はな、最後には必ず獲物の首を掻き切るもんだ」


 ダンは、ギラリと光る戦斧の刃を親指でなぞった。


「あの男を信用するな。ここは『家』じゃねえ……ただの綺麗な鳥籠だ」


 低く冷たい声に、部屋に満ちていた温かい空気が、しん……と凍りついた。


 ダンの言葉は、正しい。

 痛いほど、正論だ。

 それは、盗賊として生きてきた俺たちの血肉に染み付いた、絶対に忘れてはならない生存のルールだ。


 でも、だからこそ――今の俺には、その正論がひどく息苦しかった。


「……んなこと、言われなくても分かってンよ!」


 気づけば、俺は苛立った声を荒らげていた。


 楽しそうに服を褒め合っていたミーナやエルケが、ビクッと肩を揺らしてこちらを見る。

 リザリアも、不安そうに青い瞳を揺らした。


「ライオ……?」

「悪い、なんでもねえよ。……ちょっと、顔洗ってくる」


 俺はリザリアの頭を一度だけ乱暴に撫でると、逃げるように背を向けた。


「おい、ライオ!」


 ロイズの制止を背中に浴びながら、俺は客間の重厚な扉を乱暴に押し開け、廊下へと飛び出した。


 バタン、と。

 分厚い木の扉が閉まる音が、やけに大きく響く。


「……クソが」


 分かってる。ダンの言う通りだ。

 タダより高いものはない。俺たちみたいな薄汚れた人殺しが、こんな場所で真っ当な人間みたいに扱ってもらえるはずがない。


 でも、みんなが幸せそうなんだから。

 少しくらい夢見たっていいじゃねえか。


 俺は行き場のない苛立ちに任せて大理石の壁を蹴り飛ばし、宛てもなく、広すぎる屋敷の廊下を歩き出した。


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