第8話 善き領主
「……もう嫌だ! フカフカのベッドで寝たいよ〜う」
泥だらけの顔で茂みに身を潜めながら、エルケが死にそうな声で呻いた。
「……うるさいな、我慢してよ。こっちまで疲れてくる」
ロイズも疲労の色は濃いが、その目は鋭く周囲を警戒している。
西へ向かう旅は、想像を絶する過酷さだった。
道なき山を越え、ぬかるんだ谷を渡り、冷たい雨に打たれながら野宿を重ねる。
食料は常に枯渇し、腹の虫と会話するのにも飽きてきた頃、今度は野盗の群れが襲いかかってくる。
――まあ、そのたびに返り討ちにして、身ぐるみ剥いで路銀の足しにしたんだけど、さすがに疲労が限界だ。
そんなボロボロの俺たちの視界に、それは唐突に現れた。
鬱蒼とした森を抜けた先に広がる、広大な平野。
そこに鎮座していたのは、あまりにも場違いな“楽園”だった。
太陽を反射して輝く、白い石造りの城壁。
気味が悪いほど整備された街道は塵ひとつなく、青い屋根の家々が並び、街中を澄んだ水路が巡っている。
「……うわっ、なんだありゃ」
木陰から様子を窺っていた俺の口から、乾いた声が漏れた。
今まで通ってきた寂れた村や宿場町とは、明らかに格が違う。いや、次元が違う。
完璧な秩序だ。
「モルディアス領だね」
ロイズが冷めた声で呟く。
「西の要衝にして、大陸でも屈指の豊かな土地だと聞いたことがある。……虫唾が走るほど綺麗だ」
俺たちは顔を見合わせ、その場から離れようとした。
あんな警備の厳重そうな街、俺たちのような手配犯が近づいていい場所じゃない。
「迂回するぞ。関わり合いにならねえのが一番だ」
ダンが低い声で指示を出し、俺たちは音もなく森の奥へ戻ろうとした。
――その時だった。
「動くな」
背後から、氷のような声がした。
ハッとして振り返るより早く、草むらから現れた複数の影が、俺たちを完全に取り囲んでいた。
「なっ……!?」
いつの間に――気配が全くなかった。
統一された銀の鎧。無駄のない動き。
ただの衛兵じゃない。訓練された精鋭だ。
「抵抗すれば射殺する」
兵士の一人が、冷徹に告げる。
数本の槍と、遠距離からの弓が俺たちに向けられていた。
「……チッ、包囲されたか」
ダンが戦斧の柄に手をかける。
一触即発。俺も剣に手を伸ばし――
「待ちたまえ」
静かな、しかしよく通る声が、緊張を切り裂いた。
兵士たちが驚いたように動きを止め、一斉に道を開ける。
街道の方から、数人の護衛を連れた男が歩いてきた。
上質な深い青の外套を纏った、銀髪混じりの紳士。
年齢は四十代ほどか。整った顔立ちには、理知的で柔らかな笑みが浮かんでいる。
「……モルディアス卿!」
兵士長が慌てて敬礼する。
この男が、この領地の主、モルディアス。
「彼らに、乱暴な真似はしないでください。遠路はるばる訪れた客人に失礼でしょう」
「で、ですが閣下! こいつらは森に潜伏していた不審者です。手配中の盗賊団の特徴とも一致します!」
「もしそうなら」
モルディアスは、穏やかに、けれど断定的に言った。
「なおさら、私の責任です」
俺たちは、ぽかんとした。
何を言っているんだ、この男は。
「……は?」
「犯罪者が生まれるのは、統治がうまくいっていないからです。貧困、無知、環境……それらを取り除けなかった、私の不徳の致すところだ」
モルディアスは俺たちの薄汚れた姿を哀れむように見つめ、胸に手を当てた。
「民を悪の道へ走らせてしまったのなら、それは彼らの罪ではなく、守れなかった私の罪だ」
兵士たちが言葉を失い、恥じ入るように槍を引く。
「……え? やだ何こいつ、頭イカれてる〜?」
エルケが小声で呟いた。俺も同感だ。
けど、周囲の空気は完全にモルディアスの「慈悲」に支配されていた。
「ですから、まずは話を聞きましょう。剣を収めなさい」
なんだこいつは。
聖人か? それとも本当に頭がイカれてんのかも。
◇
俺たちは、そのまま領主の屋敷へと「連行」――いや、招待された。
……「屋敷」なんて生易しいものじゃない。それは「城」だった。
手入れの行き届いた左右対称の庭園。
豊かな水を湛える噴水。
ピカピカに磨かれた大理石の回廊。
使用人たちは皆、幸福そうな顔で働いている。
「ギィイイ、場違いすぎてケツが痒くなるぜ……」
ガスが居心地悪そうにゴーグルを直した。
泥だらけの俺たちが歩くと、ピカピカの床を汚してしまいそうで足がすくむ。
『少し身支度を整えてまいります』と言ったモルディアスを待つために通された応接室では、最高級の茶葉を使った紅茶と、見たこともない繊細な菓子が振る舞われた。
ふわふわのソファに沈み込みながら、ミーナが警戒心丸出しで菓子をつつく。
「毒とか入ってないでしょうね?」
「ミーナ、行儀が悪いよ。……まあ、食べて死ぬなら本望ってくらい美味しそうだけど」
ロイズが嗜めるが、その目は全く笑っていない。
なのに、そんな俺たちのピリピリした空気などお構いなしの奴がひとり。
「……あむっ」
リザリアだった。
自分の顔くらいある大きなクッキーを両手で掴み、無心で口に運んでいる。ポロポロとこぼれるカスも気にせず、幸せそうな顔で頬張っていた。
「おい、お前……ちょっとは警戒しろよ。何が入ってるか分かんねえだろ」
俺が呆れて頭を小突くと、リザリアはもぐもぐと口を動かしたまま、不思議そうに俺を見上げた。
「だって、ライオがいってた」
「あ?」
「『とうぞくは、おなかがへったらうばってでもめしをくう』って。これ、うばわなくてもそこにあったから、たべてもいいとおもう」
俺は、ぐっと言葉に詰まった。
こいつ、この数日でもう盗賊の教えを吸収してやがる。
「……いや、そりゃ言ったけどよ! 怪しい奴が出してきたもんをホイホイ食うのとは訳が違うだろ!」
「あははっ! 言いくるめられてるじゃん、ライオ」
ミーナが吹き出し、ガスとエルケも腹を抱えて笑い出す。ダンでさえ、呆れたように鼻で笑っていた。
俺が頭を抱えていると、リザリアは自分の食べかけのクッキーを、俺の口元にすっと差し出してきた。
「……ライオも、はんぶんこする?」
真っ直ぐな、一点の曇りもない青い瞳。
俺は大きな溜息をつき、その頭をガシガシと乱暴に撫で回した。
「……しねえよ。全部お前が食え。もし腹が痛くなったら、ここの奴ら全員俺がぶっ飛ばしてやるから」
「……うん!」
リザリアはパァッと顔を輝かせ、再びクッキーと格闘し始めた。
俺は油断なく周囲を睨みつけながら、リザリアの小さな肩を自分の方へと引き寄せた。
カチャリ、と扉が開く。
着替えを終えたモルディアスが戻ってきた。男は従者を下がらせると、俺の正面の席にゆったりと腰を下ろす。
そして、俺の隣で幸せそうにクッキーを頬張るリザリアを見て、ふっと目元を和ませた。
「毒などは入っておりませんので、どうかご安心を。……お口に合ったようで何よりです」
――俺たちの警戒なんてお見通しってわけか。
ただの人の良い貴族なんかじゃない。底知れない、気味の悪さがある。
「お待たせしました。……ライオ君、とお呼びしても?」
心臓が跳ねた。
指名手配書にだって俺の名前は載ってないのに。
「……なんで名前を」
「情報は、貴族の命ですから。私の領内に近づいたものは、蟻一匹たりとも把握しています」
男は悪びれもせずに言った。
底が見えない笑顔だ。
モルディアスは紅茶を一口飲むと、静かに切り出した。
「君たちは、今――世界の危機に巻き込まれている」
室内の空気が、一変した。
バンッ――、ダンが手のひらでテーブルを叩いた。
「……ずいぶんと耳が早いこって」
ダンの低い声が響く。
「ただの田舎領主が、よく知ってるじゃねえか」
「ええ、ある程度は」
モルディアスはダンの威圧を柳のように受け流し、俺の胸元――服の下に隠した御守りの位置を、正確に見据えた。
「君は“剣”だ」
背筋が凍った。
こいつ、完全に核心を知ってやがる。
「……な」
「そして、そこのレディは"ランプ"ですね」
「驚かなくていい。私はただ、古い文献や伝承を研究するのが趣味でしてね。君たちの特徴、行動……符号が一致しただけのことです」
「……」
「そして、君たちが『死なずに済む方法』を探しているということも知っている」
「……そんなことまで」
何もかも見透かされていて、渇いた笑いが漏れちまう。
モルディアスは立ち上がり、窓の外に広がる豊かな街並みを見下ろした。
「世界を救う英雄。……そう呼ばれる存在が、こうして私の街に来てくれた」
「英雄? 笑わせんな」
俺は吐き捨てた。
「俺たちはそんな立派なもんじゃねえ。ただの……」
「ええ、分かっています。まだ若い、迷える子供だ」
モルディアスは振り返り、俺たちの目を真っ直ぐに見る。
「支援します」
そう、はっきりと言った。
「資金、情報、人手、書庫への立入許可……すべて、君たちに提供しましょう」
さらに、男は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、テーブルに置いた。
そこには、俺たちの手配書と、領主の印章が押された書状があった。
「それに、この領内における君たちの『指名手配』を、私の権限で凍結します」
俺たちは息を飲んだ。
資金や情報も魅力的だけど、今の俺たちにとって、それは喉から手が出るほど欲しい「安全」だった。
「……マジか」
「西に何かを探しに来たのでしょう? 私の庇護下にある限り、兵士が君たちを追うことはありません。ゆっくりと旅の疲れを癒やし、目的を果たせばいい」
あまりに都合の良すぎる、けど、断るには惜しすぎる提案だ。
俺より先に、ダンが口を開いた。
「タダより高いもんはねえって教わって育ったんでな」
ダンが疑いの眼差しを向ける。
「俺たちは世界中から追われてる大罪人だぞ。匿えばあんたの立場だって危うくなる。……何の得があってそんな危ない橋を渡る?」
モルディアスは、少しだけ目を細めた。
その瞳には、聖人のような慈愛と、どこか冷徹な理性が同居しているように見えた。
「世界が滅ぶことに比べれば、危ない橋を渡るくらいどうという事もない。当然でしょう」
男は静かに言葉を続ける。
「それに、未来ある若者が、泥にまみれて苦しむのを黙って見ているのは……大人の怠慢だ」
「それだけですよ」
その言葉に。
張り詰めていた胸の奥が、少しだけざわついた。
ずっと敵ばかりだった。
世界中が俺を殺そうとしていると思っていた。
……こいつは、違うのか?
――いや、信じ切るな。
俺は拳を握りしめた。
こんな綺麗事、吐く奴ほど信用できないと相場は決まっている。
だけど、今の俺たちに選択肢はない。
この男の庇護を断れば、またあの泥と野宿と、逃亡の日々に逆戻りだ。
「……いいだろう」
俺はダンと目配せをし、覚悟を決めて顔を上げた。
「あんたが何を企んでるかは知らねえが……使えるもんなら使わせてもらうぜ、領主様」
モルディアスは、満足げに微笑んだ。
まるで、聖人のように穏やかな笑みだった。




