第13話 アタンシオン
アタンシオン視点です。一部、残酷な表現が含まれます。
僕の父は泥棒で、母は娼婦だそうです。
僕は覚えていませんが、村の人たちがそう言っていました。
だから僕が、みんなに無視されるのも、嫌われるのも仕方がないことなのです。
僕の村は少し変わった神様を祀っていました。
雨を降らせる神様です。
「もうずっと日照りが続いてる」
「やはり生贄が」
「しかし誰を」
「アレでいいんじゃないか」
"アレ"というのは僕のことです。
ある日、村の外れで不思議な紋章を拾いました。
金属の板に盾の模様が描かれたそれは、誰かの落とし物かもしれません。
拾った瞬間、チクリと、手に痛みが走りました。
何かに突き刺されたような痛みに、僕はその紋章を取り落としました。
何だか怖くなって、拾うのをやめました。
人のものに手を出そうとしたので、神様が罰を与えたのでしょう。
その晩、ひどく熱が出ました。
両腕に変な模様が浮かび上がって。
全身が熱くて熱くて、苦しくて。
死んでしまうかと思いました。
翌日、目が覚めると、僕は湖の前に立たされていました。
縄で縛られて、錘をつけられ、身動きができません。
「我らが神よ!どうか雨を」
どん、と押されて、僕は湖に沈められました。
諦めと共に、安堵もありました。
ようやく、こんな世界とさよならできるんだ。
僕は水の中で目を閉じました。
ごぼり。
肺から空気が抜けていきます。
苦しくて苦しくて、たまりません。
ごぼり。
鼻や喉にも水が入ります。頭が割れるように痛くて、耳の奥が殴られたような気がします。
ごぼり。
胃の奥も、目の裏側まで、僕の中は水でいっぱいで、苦しくてもがいても、縛られて動けません。
ごぼり。
肺に水が入ります。
苦しくて、苦しくて、目の前が真っ暗になります。
ああ、死ぬんだ。やっと終わるんだ。
……そう、思いました。
でも、終わりませんでした。
意識が途切れたはずなのに、
次の瞬間、また水を吸うんです。
止まったはずの心臓を、見えない小さな蟲たちが、無理やり鷲掴みにして動かすような感覚。
ギギ、ギギギ。
体の中で、何かが蠢いています。
壊れた内臓を、脳を、強引に繋ぎ合わされているようです。
死にたいのに。
体が勝手に、「生きろ」と命令するんです。
暗い、冷たい、湖の底。
僕は泥に埋まったまま、何度も死んで、何度も生き返りました。
◇
ある時、ふと気がつきました。
僕の手の中に、いつのまにかあの盾の紋章が握りしめられていたんです。
やっぱり、これは神様の罰なんだ。
ぼんやりと手を眺めていると、魚が来ました。
魚は、ふやけた僕の指をついばみました。
痛かったけれど、見ていました。
指がなくなって、骨が見えて。
でも、魚が去った後、指はまたニョキニョキと生えてきました。
ああ、僕はもう、人間じゃないんだ。
だから村の人たちは、僕を"アレ"と呼んだのかもしれません。
声を出そうとしても、泥が口に入ってくるだけ。
泣こうとしても、涙は水に溶けていくだけ。
一秒が、一年のようでした。
誰も助けてくれない。誰も気づかない。
ただ、冷たい水と苦しさだけが、僕の全てでした。
何もかもどうでもよくて、ただ毎日、少しでも早く死ねることを願いながら、僕はただの、呼吸する泥になりました。
…………。
◇
ザパァッ。
突然、光が差し込みました。
網にかかった魚のように、僕は引き上げられました。
「……いたぞ! これだ!」
「信じられん、この状態で生きているぞ!」
知らない大人たちの声。
ああ、神様が許してくれたのでしょうか。
手の中にある盾の紋章をギュッと握り締めました。
◇
次に目が覚めたのは、清潔そうな部屋でした。
嗅いだことのない臭い。
冷たい寝台。
カチャカチャと鳴る、金属の音。
「……素晴らしい」
低い声が聞こえて、見上げると、綺麗な服を着た男の人が立っていました。
逆光で顔はよく見えません。でも、とても優しそうな声でした。
「君は、奇跡だ」
彼はそう言って、僕のお腹に刺さった小さなナイフを動かしました。
ズブリ。
激痛が走ります。
「あ……が……ッ」
悲鳴を上げようとしましたが、声が出ません。喉を切られていたからです。
「痛いかい? すまないね」
男の人は、とても優しい声で、僕の内臓をかき回しました。
「でも、我慢してくれるかい。これは君のためなんだ」
僕のため?
切り刻むことが?
「君は死にたいのだろう?」
男の人の言葉に、僕はハッとしました。
どうして、分かるの。
「湖の底で、ずっと泣いていただろう。……可哀想に。死ねないというのは、どんなに辛いことか」
彼は、優しく、僕の頬を撫でてくれました。
頬に、血糊の感触が残りました。
「一緒に探してみよう。君がどうやったら死ねるのか。君の限界がどこにあるのか」
「これは、君を救うための“治療”なんだ」
ああ。
そうなんだ。
この人は、僕を助けようとしてくれているんだ。
だから、痛くても我慢しなきゃ。
僕が死ぬ方法を見つけてくれる、唯一の優しい人なんだから。
「……ありがとう」
僕は、再生したばかりの喉で、かすれ声で言いました。
「……いい子だ」
男の人は満足そうに目を細めました。
そして、ふと思い出したように聞きました。
「そういえば、君の名前は?」
名前……そんなもの、ありません。
「村では、“アレ”って……呼ばれてた」
「それは不便だね」
男は少し考えてから、近くにあったぶ厚い本を開きました。
「これから君とは長い付き合いになる。呼び名が必要だ。好きな言葉を選びなさい。それが君の名前だよ」
開かれたページには、たくさんの難しい言葉が並んでいました。
僕は文字が読めません。
でも、一つだけ。
なんとなく、気になった言葉がありました。
指を差すと、男の人が、それは異国の言葉で『注目』という意味だと教えてくれました。
――見てほしい。
――気づいてほしい。
――僕がここにいることを、誰かに知ってほしい。
泥の中で、ずっと願っていたことです。
「……これがいい」
僕が指差すと、男は口元に笑みを浮かべました。
「『アタンシオン』か」
「……ふふ。いいね。君に、お似合いの名前だ」
その日から、僕はアタンシオンになりました。
もう“アレ”ではありません。
僕の名前は、アタンシオンです。
◇
毎日、毎日。
切られて、焼かれて、溶かされて。
そのたびに、先生は優しく言ってくれました。
『頑張ろうね』
『まだ死ねないね。残念だ』
『次はもっと強くやってみよう。君のために』
辛かったけど、頑張りました。
いつか死ねると信じて。
でも。
いつまで経っても死ねません。
僕は早く死にたいのに。
先生も頑張ってくれています。
信じていないわけではありません。
『一つだけ、頼みを聞いてくれるかな』
先生がいうなら仕方ありません。
盗賊団を殺せというのです。
先生にとって彼らは邪魔なので。
死なない僕が行けば絶対に勝てるから。
そして僕は、希望に出会いました。
◇
僕は今、森の中を歩いています。
体中が焼けて、痛くて、とても気分がいい。
ライオ。
あの時の彼の目は凄かった。
先生のナイフよりも、黒い服の人たちの祈りより。
ずっと熱くて、強くて、衝撃が身体の奥まで届いた気がしました。
彼につけられた首の傷から、まだじわじわと血が流れ落ちて、治りません。
治らないのです。
ああ、きっと、ようやく死ねるのです。
もう苦しまなくていいのです。
ライオ、ライオ。
僕の神様。
もっと怒って。
もっと憎んで。
僕を見て。
そして
僕を、殺して。




