第三十八話「名前」
目を潤ませながらアインを真っ直ぐ見つめるリヴ。その瞳にアインは釘付けになる。
名前。
それは意図的にアインが避けてきたもの。
二百年前、一度あきらめた。
一週間前、希望を抱き打ち砕かれた。
二度と会えない女性と瓜二つのリヴを直視していると胸が苦しくて仕方がなかった。
目の前の女性はヨミではないといくら自分に言い聞かせても、心のどこかでヨミを求めてしまう。
もしかしたらこの女性は本当はヨミで、自分と同じく魔王に何か呪いをかけられただけではないのかと、ありもしない妄想に縋った。
だからこそ、リヴの名前を呼ぶことだけはどうしてもできなかった。
そうしてしまえば目の前の女性はヨミではないと完全に認めてしまうことになる。
リヴに謝罪をしておきながら結局は形だけ。そんな自分が堪らなく気持ち悪い。
「俺は……」
絞り出したアインの震えた言葉。
その嗚咽しそうな表情と言葉でリヴは全てを悟ってしまう。
リヴは目を閉じ、一粒の涙が彼女の思いと共に落ちる。
「そう……ですよね」
自分に言い聞かせるように小さくつぶやき、リヴは顔を手で隠す。
アインの気持ちも考えずにどうして思い上がってしまったのか。
どうして許されるのが自分ではなくアインの方だと思ってしまったのか。
その結果があのアインの表情を招いた思うと自分が憎くて仕方がない。
底なし沼に沈んでいきそうな雰囲気を崩したのは、またしてもアインの言葉だった。
「リ……ヴ」
魔王に立ち向かった時よりも勇気を振り絞った言葉は、小さな小さなものだった。
何も知らない人からすれば呼吸音にしか聞こえないかもしれない。
でもリヴにだけはちゃんと伝わる。
アインがどれほどの思いで発したのかも痛いほど解る。
顔から手は退けられない。こんな顔はとても見せられない。
いつの間にかアインの瞳からも涙がこぼれており、拭っても拭っても止まらない。
ヨミを乗り越えたことは悲しみなのか、そうでないのか、まだ分からない。
「リヴ」
二度目の呼びかけは誰が聞いても確かなものだった。
「……アイン」
返すリヴの言葉はリヴ自身の泣き声でかき消され、アインには届かない。それでも本当の意味で初めて会話ができたと確かに感じるリヴだった。
それから数分後。
「ふぁああ。まったくよく寝たよ」
重いまぶたをこすりながらジークがようやく起きてくる。
お腹をすかせた様子で席に座るが、涙も乾ききらぬただならぬアインとリヴの様子に思わず息を呑む。
「まさか君たち……」
真剣な眼差しで二人を見つめるジーク。ジークが同じ建物内に居たことなど完全に忘れていた二人は、先ほどまでのやりとりを聞かれていたのではないかと動悸が止まらない。
「……したのかい、キッスを」
「しませんよ!!」
顔を赤らめながら告げるジークの言葉を、リヴは部屋全体が揺れるほどの大声でかき消す。とっさに耳を塞いだアインは事なきを得たが、間近で聞いたジークはしばらく耳鳴りが収まらなかった。
完全に帰るタイミングを失った二人は、馬にまたがりながら草原を駆け回る。
「風が気持ちいいですね〜お腹すきましたけど」
「馬は素晴らしいだろう?腹が減ったけれどな」
会話にもならない会話をしながら、二人は腹の虫を草原で鳴かせ続けた。




