通貨供給量仮説
第二章 通貨供給量仮説
通貨供給量仮説。聞き慣れない言葉だろう。
そうだ。それは俺が作った用語だからだ。
ただし、概念自体は既知のものだ。
かつて、為替の教科書にはこう書かれていた。
「高金利通貨は買われ、低金利通貨は売られる」
それって、発展途上国の通貨が買われ、先進国の通貨が売られること? と思ったあなたは賢い。そう、発展性のある国に資金が入るのは当然だが、高金利国には高金利であるだけの理由があるのだ。長期にわたる金を貸すと貸し倒れの危険がある場合、金利は高くなる。そして、金利が高い通貨の国は、信用リスクからどんどん安くなって、投資した額を回収出来なくなるおそれもあるのだ。
そしてこれは、日本と米国の場合も違った。デフレ経済下の日本円が買われ、インフレ経済下の米国ドルが売られていたのだ。
これについては、為替取引の教科書では「国の信用度」という説明がなされていた。
けど、新たな国債発行が議会によって承認されなくてはならない米国と、政府・日銀の合議で円を発行している日本とでは、信用度は米国の方が高いのではないか、という疑問が常にあった。
そこで、たまたまバーで知り合った米国人経済学者にこの疑問をぶつけてみた。
「簡単なことさ。通貨の供給量で為替は決まる。利率なんてものは結果に過ぎない。欧米の投資家は、みんなそういう考え方をしている」
目から鱗だった。青天の霹靂というやつだ。頭を殴られたような気がした。
……今まで信じてきた「為替取引の教科書」って一体何だったんだ!?
さらに教えてもらったのは「通貨が供給される分野の景気がよくなる」という単純な真実だった。
「考えてみろ。金が入ったら酒を飲む。金がなくなったら貧乏になる。単純な話さ」
これが「分野別通貨供給量仮説」の根幹だ。
それを実感したのが、東北の大震災の次の週にに起きた恐ろしい円高だった。
平成二十三(二〇一一)年三月十一日、金曜日。東北の大震災は一四時一六分に起きた。
震災が起きたといっても、すぐに全容がわかるわけではない。詳細がわかるのは翌日以降である。
月曜の午前七時。恐ろしい勢いで円高が進行していた。
見ていて呆然とする勢いだった。
これには、二つの要因がある。
一つは、円安を予想した日本人投資家のドル買いだ。ただし、これには副作用がある。皆が円安を期待してレバレッジを効かせると、相場は円高に動くのだ。証券会社は損失回避のためにレバレッジ分を超短期で逆張りする。そして、市場では極端な円不足が起きる。
もう一つは、欧米や香港、シンガポールなどの機関投資家による円買いだ。これは「東京が放射能で汚染されて壊滅する」という噂、そして、それによる円発行の機能不全の予測があった。
為替取引の教科書によれば、信用度が低くなる国の通貨は売られるはずだ。にもかかわらず、それに逆行する値動きが起きていた。
「円が希少になる」=「円を買え」という、生き馬の目を抜く発想。
その時は、世界市場のえげつなさを実感したものだ。彼らは、災害に遭った国がどうなろうと知ったことではない。
この円買いは、東京が壊滅しそうにない、という情報が広まるにつれて沈静化した。
とにかく、この時の恐ろしい円高の動きには肝を冷やしたものだ。
さて、ここからは通貨供給量仮説をどのように為替取引で用いたのか、を説明しよう。
基本は、「日銀毎旬報告」と「FRB H41」である。
どちらも、通貨発行の、というかマネーの発行の総量を示している基礎情報である。
ただし、「日銀毎旬報告」は十日ごと、「FRB H41」は七日ごとの発表になっている。
これを時系列でエクセルのグラフにする。
そして、ヤフー!から取ってきた為替の日別情報と付き合わせる。
ここでやっかいなことが起きた。
うまく仮説が検証出来ないのだ。
そこで思い出したのが「遅延効果」だ。
綱はどれだけ押してもその先は先に進まない。
ただ、無理矢理押し続けていればダマになって最後には向こう側へ怒濤のように転がっていく。
経済政策でも、有効なはずの政策がすぐには効かないということがある。
やっきになってその政策を続けていると、今度は効果が出すぎて悪影響を及ぼしたりする。
このように、遅延効果はやっかいなものだ。
そこで、二単位前の「日銀毎旬報告」と「FRB H41」をベースに再計算をしてみた。
一対三くらいの確率で予測精度が上がる。
さらに三単位前の影響を考慮する。二単位前が三分の一、三単位前が九分の一くらいで直近のデータに加味してみると、ほぼ完璧な為替予測ができるようになった。
通貨供給量の変化が実際の為替相場に影響するのには、時間がかかるのだ。
同時に、DI(景気動向指数)と為替の関連性も調べてみた。これは無関係だった。
その過程で気づいたのが、米政府機関の閉鎖が噂されるようになるとドル高が起きるという現象だった。東北の大震災で円が買われたのと同様、「ドルの発行が起きない」=「ドルを買え」という発想なのだ。
さて。
このような急激な為替変動に対しては、まともな頭がある国では防衛策を講じている。
断固として戦うスイスは別格としても、普通の国は世界中の銀行とあらかじめ契約して、為替の急変に対しては対抗策を講じている。財務官僚がパソコンの画面にかじりいて操作しているなんてのは嘘っぱちで、寝ている間に自動的に防衛策が発動するのだ。少なくとも、民主党政権よりも前はそうしていると言われていた。
経済戦争を仕掛けられても何の手も打たなくなったのはいつ頃からなのだろうか。日本は平和ボケしてしまったのだろうか。
通貨供給量仮説の他に、謎の「平均回帰」という現象も為替には見られた。
本当は乖離率が異常に大きくなった時にだけ逆張りのポジションをとるべきだったのだ。が、毎日十万円稼いでいると、なんとなく取引をしてしまう。取引中毒だ。これがよくなかった。ちなみに元金はすでに二千万円は越えていた。レバレッジ五倍で、約一億円を動かしていたわけだ。
取引はドル円オンリーにしていた。情報がわからない国の通貨を扱うのはただの博打だ。為替屋を仕事にするのなら、リスクをとる必要はない。そういうのは趣味の冒険家のやることだ。
ちなみに、ユーロはドルと違ってFRBのような通貨全体の情報が把握出来るサイトがない。欧州各国がユーロを発行していて、その情報が集められ、報告されるだけだ。つまり情報が遅いのだ。そんな通貨は取引したくない。というか、一度挑戦してあきらめてしまった。
とまあ、通貨供給量仮説に基づいてどのようにトレードしたかの手の内は全て明かした。
もし、かつての俺のような専業トレーダーになりたいのなら、次のことは守っていただきたい。
一、レバレッジはかけるな
二、トレードは乖離率が高い時だけにしろ
三、思い込みや期待でトレードするな。政府はバカだ。
そして、せめてポール・クルーグマンの『マクロ経済学』と『ミクロ経済学』くらいは読んでおいてほしい。市販の「為替取引の教科書」は読まなくていい。




