遅刻だ!
タイトル「遅刻だ!!」
深い微睡みに飲まれていた私は、階段下から聞こえる獣の唸り声で目を覚ました。
最初は狼かと思ったが、耳を澄ますとそれは祖母の声だった。
毎朝のように響く、狼と豚を掛け合わせたような、不協和音の鳴き声。
綺麗さとは無縁で、耳の奥にべっとり貼りつく。
「起きなさいよぉ……また遅れるよぉ……」
祖母の声は警報よりタチが悪い。眠気は吹き飛んだが、不快感は残った。
時計を見ると、とうに起きるべき時間を過ぎていた。
心臓が警笛を鳴らし、脳が「急げ」と叫ぶ。
私は慌ててコンタクトを押し込み、ほぼ失明寸前のまま部屋を飛び出した。
ドアをバーン!と開けると、太陽が「おはよう」と無邪気に照りつけている。
間違いなく遅刻だ。
(なにを青空で光り輝いてやがる)
世界平和を語るガンジーでも絶句する理不尽な怒りを吐き捨てる。
階段を三段飛ばしで駆け下りると、祖母がいた。
私の足に踏まれた瞬間、老婆は「グギャアァァアーー!」と人間とも動物ともつかぬ化け物の咆哮を上げた。
だが私は見なかったことにして、そのままリビングと玄関を突風のように駆け抜けた。
車に飛び乗り、バックギアに無理やり入れる。
猛牛のようにタイヤが悲鳴を上げ、父がバックミラー越しに「アーーッ!」と叫んで吹っ飛ぶ。
「気のせいだ」と自分に言い聞かせる。気のせいであってほしかった。
車内の時計は冷酷に7時43分を示していた。
「遅刻ですよ」と無言で告げるその数字に、私は祈るしかなかった。
「どうか車が来ませんように!」
視界の端に巨大なダンプが迫る。
運転席の男が窓から身を乗り出し、めちゃくちゃ口を動かし、手を振り回し、全身で怒っている。
だが私には何も聞こえなかった。
「きっと応援してくれているんだろう」と都合よく解釈し、アクセルをさらに踏み込む。
コーヒーを口に含んだ瞬間、酸味とえぐみが凶器のように喉を襲う。
「何日前のやつだ!?」
窓から放り投げた……つもりが、閉じた窓に叩きつけられて跳ね返り、自分の顔にぶちまける。
黒いスーツは、もはや前衛芸術のキャンバスと化していた。
助手席に落ちたカップを、誰もいないのに祖母の声が追撃するように頭に響いた。
「片付けなさいよぉ……」
私は「人生とはこういうものか」と悟り、笑いが止まらなくなった。
しかし止まれない。いや、止まってはいけない。
今ならギリギリ間に合う──そう信じて右へ左へと通勤路を駆け抜ける。
だが景色は無限ループ。信号も交差点も、安っぽいビデオの再生のように繰り返される。
ブレーキは効かない。ハンドルも無反応。ドアも開かない。
時速80キロのまま固定。世界が私をからかっていた。
タバコを取り出す。一本しか入っていない。
吸い終えて箱を閉じると、また一本入っていた。
「サービス精神旺盛だな」
皮肉を呟き、火をつける。煙が車内を満たし、世界は霞んでいく。
私は祈り、後悔し、過去を反芻し、またタバコを吸った。
水も食料も要らず、ただタバコだけが補充される。
拷問か、神の悪ふざけか。
数十年が過ぎ、数百年が過ぎても終わらない。
祖母の化け物じみた叫び、父の「危ないだろうが!」、ダンプ運転手のサイレント怒号──そのすべてが、私の脳内でBGMのように繰り返されていた。
──やがて、考えるのをやめた。
299年と364日23時間59分が経ったとき、時計の針が一分だけ動いた。
世界が静かに切り替わる。
私はついに解放された。
場所は、会社の駐車場だった。
腕を組んだ上司が待っており、開口一番こう告げた。
「おはよう、君、遅刻だよ」
三百年の悪夢より、その一言の方が、よほど残酷だった。
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