表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

罪人 ざいにん/つみびと

作者: 猫小路葵

 灰色の壁。艶の失せた床。

 表情のない窓にはブラインドが吊るされて、外の光を遮断している。

 殺風景を絵に描いたような四角いその部屋は、本当に四角くて、どこもかしこも定規で引いたように直線だった。

 唯一丸みのある形をしているのは、英介(えいすけ)がいま腰かけているパイプ椅子だった。

 背もたれに少し体重をかけると、椅子は小動物のような声を出して軋んだ。


「藤堂君さあ……お願いだから、ほんとのこと言ってちょうだいよ」


 愛想のない事務机を挟んで、向かいに腰掛けている先輩刑事が……否、元先輩刑事が英介に乞う。

 この人の下にいた頃、彼のスズメの巣のような頭を英介も散々からかった。

 その髪を元先輩刑事はくしゃくしゃと掻き、はあっと溜め息をついて腕組みをした。


「このままだとですね、アナタほんとやばいんですよ、藤堂君」


 パイプ椅子以外はすべて直角か、百八十度。

 この部屋にそれ以外の角度はない。


「ねえ……なんでこんな事になっちゃったのよ。僕ら、うまくやってたじゃない」


 いや待てよ……

 蛍光灯も円筒形だな。


「結果がどうなるかぐらい、アナタだって警察官なら嫌ってほどわかってたでしょうに」


 ああ、もう一つ丸い物があった。この灰皿だ。

 そんなことをぼんやり考えながら何気なく視線を上げると、こちらを見据える元先輩刑事と目が合った。


「アナタ僕の話聞いてますか?」

「聞いてますよ、大矢さん」


 はあっ……大矢がまた一つ溜め息をついた。


「ひと思いにさぁ、パーッと言っちゃいなさいよ、ホントのところを。御上(おかみ)にもお慈悲はありますよ?」


 とぼけた顔でそう提案する大矢に、英介はまるで、ついこの前まで職場でコーヒーを飲みながらしていたような、些細な世間話でもするような、のんきな声で答えた。


「ホントのところも何も。最初から俺は嘘なんか言ってませんって」

「違う!」


 声を荒げたのは大矢ではなく、後輩の柳田だった。

 大矢の後ろで調書を取るため控えていた柳田は、椅子から立って英介の方を向いた。

 怒っているのだろうか。

 鋭い眼光を若い瞳に(たた)えて、柳田は英介を睨みつけていた。

 硬い針金のような、容易には曲がらなさそうな後輩の視線を、英介は静かに受け止めた。

「藤堂先輩は自分だけが罪を被ろうとしてる! あなたは利用されただけなのに!」

「やなぎだくーん」

 大矢が間延びした声で、柳田の発言を注意する。

 しかし柳田は構わず、英介を責めた。

「どうして! なんでそんなにあの人を庇うんですか!」

「柳田君てば」

 今度の大矢の口調には、わずかな威厳が含まれていた。

 柳田は「……すみません」と小さな声で言って、自分の椅子に腰を下ろした。


「あいつは……」


 英介が、その日初めて自主的に口をひらいた。


(はる)は、なんて言ってるんですか?」


 大矢が、とぼけた顔を一瞬引き締めた。

 が、またすぐもとに戻して英介に言った。

「そんなことアナタに教えられるわけないじゃなーい。やだなあ、わかってるくせに」

 英介もフッと笑って同意した。

「ですよね」




 その日の取り調べが終わり、一同は殺風景な狭い部屋を出て、廊下を歩いた。

 部屋を出る前、英介の両手首に手錠をはめたのは柳田だった。

 英介の腕をとり、相変わらず怒ったような顔で、でも少し泣き出しそうな。

「失礼します」

 真面目で、律儀で、英介をとても慕っていた若い後輩は、英介が罪人となったいまも、そうやって礼儀正しく頭を下げて、英介の腕に手錠をはめた。


 両脇を元先輩と元後輩に固められ、見知った廊下をまっすぐに行く。

 すると、向こうからもう一人別の人間が――けれど彼の両手は、とても自由に体の横で振られながら、別の刑事に付き添われて歩いてきた。


 少年の面影を残す、あどけない風貌。

 艶のある髪には、天使の輪を被ったような光沢がある。

 髪は、歩みのリズムに乗ってふわふわと揺れている。

 目に掛かる前髪の陰から覗く目は、無垢で、純真で、幼い子どものそれだった。


 警察の、それも≪落とし物係≫などではない、特別な部屋が並んだ廊下。

 しかし彼はそんなことなど気に留めず、壁の掲示板を珍しそうに見たりしている。

 掲示板を過ぎれば、次はすれ違う女性警官を目で追ったり、かと思えば髪型が気になるのか、長袖から出ている指先で前髪を直したり。

「はる……」

 ほんと、落ち着きがなくて。

「まったく……」

 それじゃあ、まるっきり子どもだよ。

 晴。


 髪を直していた手を、晴が下ろした。

 そのとき、その澄んだ両目が、正面から来る英介ら三人を認めた。

 柳田は無意識に、晴から英介を遮るように半歩前へ踏み出す。

 大矢も相手方の刑事と目配せをしながら、互いの距離は狭まっていった。

 英介の腕を持つ柳田の手には、まるで英介を守ろうとするかのように力が入った。


 そのとき出し抜けに――


 それはそれはうれしそうに、晴がにっこりと英介に笑った。


 柳田が、声にならない怒りを示した。

 心底呆れたというような、蔑むような顔をして、晴を憎々しげに睨みつけた。

 けれど、晴は柳田のことなど一切見ていない。

 そこに余白など存在しない。

 ただ、ただ、晴は、英介のほうだけを向いて全力で微笑んでいた。


 間もなく、双方はすれ違った。

 誰ひとりうしろを振り返ることなく、何事もなかったように、各々の目的地へと歩みは進んだ。

 柳田が床を睨みつけながら、誰にとも判断のつかない問いを投げた。

「どういうつもりなんですか……あいつ」

「これこれ柳田君。あいつは無いでしょ、あいつは。彼は容疑者でも何でもありませんよ」

 大矢の常識的な忠告はしかし、柳田の鼻先で完全に拒絶され、弾かれた。

「あいつは自分じゃ手を汚さないで、先輩を利用したんです」

 怒りを抑えた若い声が、歩く道々、三人の足もとに低く吐き捨てられてゆく。

「生まれて一度も、ナイフ一本触ったことがないって顔で、あいつは先輩を唆したんです」


 悲しそうに涙をためて。

 藤堂さんに会えただけで僕は幸せだよ、なんて台詞も言って。

 だからもういいんだ、ありがとう、藤堂さんってにっこり笑って。


「先輩が放っとけないの見越して、あいつは付け込んだんです……本ボシはあいつなんです。そんなこと大矢さんだっておわかりのくせに!」

「柳田君」

 大矢がぴしりと、年若い部下の、次第に音量を増す不穏当な声を制した。

 そしてまたすぐ、いつもの軽い物言いに戻った。

「証拠はひとつもないんです。ただのひとつもね」


 大矢の言うことは、どうしようもなく道理に適い、公平で正しかった。

 柳田自身、自分でも嫌になるほど理解しているその正当さを、できるならいますぐこの手で握り潰して、踏みつけて、跡形もなくしたいのに――

 柳田は歯痒い思いを持て余し、隣の英介に目をやった。

 すぐに目をそらすつもりだったが、柳田は思わず英介の横顔に見入った。

「先輩……?」

 訝しげに眉をひそめ、英介に尋ねる。

「……何がおかしいんですか?」


 両脇を大矢と柳田に捉われながら、英介はひとり、口の端を綻ばせていた。

 笑うまいとすればするほど、口角は上がって笑みがこぼれる。

「ふふっ……」

 柳田がいままで一度も、いや、大矢でさえ聞いたことのない笑い方で英介が笑った。


「俺、晴見てると、それだけで笑えちゃって……」


 柔らかな表情で、英介は笑っていた。

 まるで、これからとても楽しいことが待っているとでも言うように。

 定規で引いたような、まっすぐな廊下の行き着く先は、賑わう街でもなければ、陽の差す野原でもないのに。


「晴、元気そうですね。心配だったんですけど、よかったです……なんにも変わってなくて」


 俺だけを見つめてくる、あの澄んだ目も変わってなくて。

 仕草も。髪も。


「よかったです……」


 思いがけず英介に会えて、ちょっとびっくりしてから、うれしそうに笑う素直さも変わってなくて。

 華奢な体で一歩踏み出す、その歩幅が案外大きい潔さも。

 今日はこのあと、ついでに楽器屋に寄って、新しいピックを買ったりするのかもしれない能天気さも。


 そして――


 その内きっと、英介という人間がいたことなんて、すっかり忘れてしまうのだろう、青葉のように生き生きとした柔軟さも。




 長い廊下を英介がそうして歩いていたと同じとき、晴は警察署の玄関を出た。

 よく晴れた、穏やかな日だった。

 目の前の階段を、石蹴りでもするような軽快なリズムで晴は下りた。

 そして髪を撫でる風をひとわたり眺めたあと、空に向かって大きくひとつ伸びをした。

 空を仰いだ晴の髪は、まるで陽光を抱いたように艶やかで、しなやかで、無垢な両目はどこまでも澄みきって、清らかだった。



 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ