そつ無く生きられない僕は、空気になりたいと希う
僕はどうやら、生きているだけで他人を苛つかせてしまうらしい。
その場に居るだけで、他人を不快にさせてしまうらしい。
だったら、誰の目にも映らない“空気”になれたら良いのに、と思う。
存在が消えるわけではなく、ただ誰からも認識されなくなる、透明な気体に。
誰からも疎まれず、そこに居ることすら気づかれない、ただその場に漂うだけの“空気”に……。
以前から薄々、気がついてはいた。
僕は普通の人よりだいぶ、要領が悪い。雑な言い方をすれば、鈍臭い。
他の人間ならそつ無くスムーズに熟せることに、何故だか妙にモタついてしまう。
小学生の頃は、大縄跳びの中に入るのが苦手だった。
タイミングが掴めずに、何時までもずっと、縄の回転を見送ってしまう。
やっとの思いで飛び込めても、大抵は縄にぶつかり、流れを止めてしまう。
いつもいつも僕の所で閊えて、周りを苛々させていた。
成長した今も、何かにつけては閊えて、周囲に迷惑をかけている。
廊下で人を避けようとして、逆に“通せんぼ”してしまったり、レジで決済アプリを上手く起動できずに、後ろに列を作ってしまったり……。
我ながら、スマートさとは無縁の人生だと思う。
器用にそつ無く生きている他の奴等を見ていると、正直凹む。
彼奴らはきっと、自分が恵まれていることにすら気づいていない。
普通のことをそつ無く熟すことすら出来ず、不器用さに喘ぐ人間がいることに、気づいていない。
僕は、自分に自信が無かった。
普通のことさえ真面に熟せない僕は、明らかに“劣っている”と思っていた。
他人と自分を比べては、劣等感ばかりを育てて来た。
そしてそんな自信の無さが、余計に日常動作をぎこちなくさせた。
どうせまた上手く出来ない、どうせまた失敗する……そんな風に身構えて、焦って、余計に動きがモタついてしまう。
また周りに迷惑をかけないか、周囲を苛立たせないかと、人目を気にし過ぎて、無駄に何時でも緊張し過ぎる。
緊張すればするほど、出来るはずのことさえ出来なくなってしまうと知っているのに。
どうしようもない悪循環だ。
たぶんこの世の中は、器用過ぎもしないが不器用でもない“普通”の人間に合わせて造られている。
平均値からはみ出した人間は、いつも何かに急かされ、焦らされて、余計なミスをさせられる。
それが惨めで、居た堪れなくて、心が疲労困憊する。
きっと、この世界の動くスピードは、僕のペースにまるで合っていない。
何かにつけスローな僕は、何時も周りから遅れて取り残される。
何時も何かに追い立てられている気がして、気が休まらない。
誰でも自分らしく、ありのままでいて良いなんて、嘘だ。
世間は“普通”から外れた人間に、何時でも冷たい。
この世は所詮、弱肉強食の競争社会なのだと、人は言う。
弱い者、劣った者は淘汰されて当たり前――そう生まれついたのが悪いのだと。
それを言う者は大概、自分は淘汰される側になることなど無いと、高を括っているのだろう。
あるいは自分より弱い者、劣った者を見つけては「自分は彼奴より優れているから大丈夫」と安心しているのだろう。
凡人が優越感に浸り切って他者を見下す眼差しは、冷たい。
僕はそれを、厭と言うほど知っている。
以前はその目を恐れ、縮こまってばかりいた。
だけど、厭になって、飽き飽きして、そのうちに悟った。
彼奴らは、劣っているわけではないが、別段優れているわけでもない。
自分より劣った者を見つけて安心神話に浸りたいだけの“凡人”だ。
僕は、頭の回転や日常動作は他人より鈍いかも知れない。
だけどそんな僕を見下す彼奴らは、精神が平和呆けした可哀想な勘違い生物だ、と。
人間、一寸先は闇なのに、こんなちっぽけな優位性で安心しきって人生を油断するなんて、凡人にも程がある。
僕はずっと、自分より優れた他者に怯えて生きてきた。
上手く生きられない自分を恥じ、周りを羨んで生きてきた。
だけど、そうやって生きているうちに、ふと気づいた。
そんな風に怯えていた“他人”が、思うほど人生の勝者でも何でもないことに。
周りは僕が羨み妬むほど、祝福されても恵まれてもいないことに。
人生は、目に見える単純な弱肉強食だけでは決まらない。
きっと、目に見えて劣った僕だから、それに気づけた。
驕ることも油断することも無く、冷静に世界を見つめ続けてきたから、気づけた。
ノリが良くて笑いも取れるクラスの“人気者”が、空気を読めずにやり過ぎてドン引きされる様を、冷静に見てきた。
部のエースとしてイキっていた“天才”が、たった一度の不運な怪我で全てを失う様を、冷静に見てきた。
人生の勝敗は、空気や時代を上手く読めるかに左右され、時の運にも左右される。
生まれつきのスペックや、手持ちの実力などでは決まらない。
もっと複雑怪奇で、読み難くて、恐ろしいものだ。
弱肉強食が世の理なら、驕れる者は久しからずの“盛者必衰”も、また世の理。
隣にいる誰かより、ちょっと優れているくらいで安心しているなんて、怖いもの知らずにも程がある。
僕も彼奴らも、未来を約束されていないことに変わりは無い。
きっとこの世は、誰にとっても修羅だ。
見せかけの優劣に意味なんて無い。
――だけど、そんな悟りを開ける人間など、きっとごく僅かだろう。
冷静に世の中を見つめていると、絶望的なまでに気づかされる。
人間は、なんて優劣や序列が好きな生き物なのだろう。
自分に“優”を付けたがり、他人に“劣”の烙印を押し、一つでも上の順位に昇りたがる。
見るからに不器用で格好悪い僕のような人間は、格好の生け贄だ。
昔から、馬鹿にされるのには慣れている。
嘲笑われ、下に見られるのにも慣れている。
慣れてはいるが、心は馴れない。
そうやって、意味の無い順位付けに安心する彼奴らの方が愚かだと、今では心の中で、逆に見下せる。
それでもやっぱり、静かに心が沈んでいくことは、止められない。
僕が世の中にいくら悟りを開いてみたところで、周りもそれを悟ってくれるわけではない。
僕が「優劣なんてくだらない」とどんなに嘆いてみたところで、周りが優劣を棄ててくれるわけではない。
この世は変わらず、五十歩百歩の違いで他人を見下す、くだらない修羅の世界だ。
僕は、僕を見下し馬鹿にする奴等のことを、好きにはなれない。
意味の無い優越感のために他人を踏みつける者たちに、好意など抱けない。
好きになれない人間だらけのこの世界で、それでも人は人の中でしか生きられないのだと、先人は言う。
実際のところ、学校は何かと集団行動を強制してくる。
グループ学習に、グループごとの自由行動、調理実習の班分け……体育の準備運動さえペアを組まされる。
あからさまに「迷惑だ」「お荷物だ」という顔をされて、それでも僕は彼奴らと行動を共にせざるを得ない。
せめてメンタルが強ければ、愛想笑いの一つも出来ただろう。
だが僕の表情筋は、心と裏腹の表情を上手く浮かべてはくれない。
結局僕は、人づき合いという、人生で最も重要な場面でさえ、そつ無く器用に生きられてはいない。
僕のこの不器用な生き方は、そうそう直るものではないだろう。
そしてこの世の中も、そうそう優しい世界に生まれ変わってはくれないだろう。
十数年間この人生を生きてきて、手に入れたのはそんな悟りめいた諦観のみだ。
僕はきっとこれからも、こんな僕のまま、この修羅の世を生きていく。
死にたいわけではないが、時々何もかもに厭気が差して、全てを放り出したくなる。
ただただ全てが煩わしくて、生きているのが面倒臭くなることがある。
優劣に意味など無いと心に言い聞かせても、他人の冷たい目を見れば、厭でも劣等感が目を覚ます。
誰も彼もが僕を卑下し、否定してくるような気がして、堪らなくなることがある。
そうして他人の目にわけも無く苛立ったり、他人の言動に無性に不快感を覚えたりする。
人はどうして、自分の心ひとつ、器用にコントロール出来ないのだろう。
この世界でありのまま、自分のペースで生きるには、人目が邪魔になり過ぎる。
気にしなければ良いだけだと言われても、実際にそういう視線が有るのに、無いようには振る舞えない。
生きづらくて仕方の無い世界だが、それでも消えてしまいたいわけではない。
優劣つけたがりの凡人に見下されたから消えたくなるなんて、そんなの僕が勿体ない。
ただ、時々無性に、空気になりたくなる。
誰からも見られず、優劣も区別もつけられない、透明な空気に。
誰からも煩わされず、誰を煩わすことも無く、ただありのまま、そのままでいられる――そんな空気になって、この世界に在れたら良いのに……そんな風に、希う。
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