そう感じることはしょうがない
エッセイでいろいろ炎上したりするけれど、結局「そう感じることはしょうがない」が私の中の結論。
全ては外からの刺激に対する内側からの反応。外からの刺激もなしに何かが出てきたら、それはおそらく昔に仕込まれた刺激が発酵して出てきただけで、結局は外からの刺激に対する反応に違いない。
バタフライエフェクトという言葉があるけれども、こういった反応の連鎖が世界を形作っていると言える。
復讐劇は必要なのだろうか、なんて書いたところ否定的な意見も見受けらたわけですが、結局のところ、「私はそう思わない」「私はそう思う」という同じ刺激に対して違う反応が起こるのは普通に起こることで、むしろ一律の反応が起こる方が不自然。
で、結局多様性を認めましょうといった話にはなるのだけれども、一方で多様性を認めたくない人もいる。多様性を認めたくない人が感じる嫌悪感、それは感じてはいけないのだろうか。「そう感じることはしょうがない」と認められないのだろうか。
同性婚について嫌悪感があると表明した人が、LGBTの問題を理解していないと批判されるのが現在の状況。男性が男性を性的に愛していると感じていることを認めるべきと言うならば、その関係性に嫌悪感を感じることは認められないのだろうか。もちろん、同性同士が愛するべきでないと言えばNGだが、嫌悪感自体は否定されるべきものではないだろうと思う。
復讐劇やざまぁが嫌いだと感じることと、復讐劇やざまぁを書くなと訴える事は切り分けられているだろうか。ましてやフィクションの世界。ノンフィクションであれば復讐は現実に存在しているのにフィクションでは描くべきではないと言えるとは思えない。
青少年への道徳的影響という視点から見るならば、多くの作品がいい影響ばかりでないことは明らかであり、そんなものを気にしていたら小説は書けない。子供に見せたくないテレビ番組みたいな話で、そんなもの子供は見たいに決まっている。おそらく本能的に復讐は快感を得る行為だ。物語の中で悪を描きそれを打ち倒すのは多くの物語のロジックそのものだ。そして復讐は暴力によって行われる。それが快感であり「めでたしめでたし」なのだ。
現実ではそうはいかない。現実では復讐できない。復讐は正義にならない。それを物語に投影するとおかしな話になる。赤穂浪士はテロリストだ、と思うなら忠臣蔵はもう楽しめない。
「そう感じることはしょうがない」
だからヤメロは違う。
全人類が共通の価値観を持ち、万人が理解しあえる世界、そんなものは存在しない。
異なる価値観を許容し、許容できない人間とは距離を取るのが現実的対応だろう。
だって、そう感じることはしょうがないことなのだから。
アメリカが「リマンバーパールハーバー」と復讐を誓った言葉を残した一方
日本は「ノーモアヒロシマ」と復讐を含まない言葉を残した
私は後者の方が好きだ。