第三話 標的
昨夜の夜更かしのせいで半分眠っている僕の頭のように、土曜日の朝は街もどこか気が抜けたようにのんびりとしている。
まだ九月に入ったばかりの陽射しは夏の気配を残しているけれど、あれほど騒々しかった蝉の声もいつのまにか聞こえない。
ロータリーのケヤキは朝日を背にしてモノトーンのシルエットを見せているし、バスから降りてくる人は数人だけ。そして、昨日の夜とは打って変わってタクシーが三台、列を作っていた。
会社へ向かうための改札は、今日も乾いた電子音で迎えてくれた。
僕が所属する「よつばエステート」仙川支店は市の中心部にある。賃貸と販売部門があって、物件を見にくるお客さんが多いからという理由で土日も休まず営業をしていた。
企業向けの賃貸部門に所属する僕も、今日は交代での出社日になっていた。
個人向けとは違って現地内覧の予定はないから、のんびりとした気分で行きたいところだけれど、あの男も出社予定だから足も重い。
それに昨夜のミキとのチャットもずっと心の片隅に引っ掛かっていた。
*
『交換殺人、してみる?』
この人、いきなり何を言ってるんだろう。
まぁシャレのつもりなんだろうけれど。
「テレビドラマではたまに見るけれど、交換殺人がほんとに成功したら面白いね」
『でしょ? やっちゃおうよ』
マジか。ミキってただのヤバい人なのかも。
面倒なことにならないようにうまく答えないといけないな。
以前、逆ギレされてチャットルームでストーカーされたことが頭をよぎった。あのサイトは使わないようにして断ち切ったけれど、気をつけなきゃいけない。
ちょっと探りを入れてみよう。
「ミキには殺したいほど嫌な奴っているの?」
『もちろん。だからここに来てるの』
そう言われればそうか。
みんなわざわざ苦労してこの闇サイトに辿りついているんだから。
「相手はどんな奴なの?」
『爺さんなんだけれどね。一日も早く死んで欲しい』
「僕みたいに、ここでぱーっと吐き出しちゃいなよ」
しばらく間が空く。
言いたくない? それとも誰もが知っている人だったりして。そんな訳ないか。
『今日はこれから用事があるから、また今度チャットで話してもいい?』
こんな夜遅い時間から用事?
明らかに嘘っぽいな。チャットが出来る状況ではなくなったってことか。
まぁ深く考えずに答えておこう。
「OK」
『それじゃ、そのときに交換殺人の相談だね』
「妄想なら何でもありだしね」
僕の最後の書き込みには反応せず、ミキは退室していった。
いきなり話を一方的に終わりにしちゃうし、なんか変な感じだ。
*
あの時はノリであんな風に言ったけれど、また《《会う》》ことなんてないだろう。特にチャットだと、それっきりという相手も少なくない。
それにしても――いきなり交換殺人なんて言い出すとは思ってもみなかった。
あの都市伝説は噂じゃなかったのかも。
もし僕が同意していたら……。
そんなことを考えてるうちに仙川駅へ着いてしまった。
ホームから階段を上って広いコンコースを通り、改札を抜けるとペデストリアンデッキへと向かう。
同じ土曜日でも、ここは朝から人通りが絶えない。
駅前の百貨店を通り過ぎてからデッキを下り、二分ほど歩いたところに会社が入っているオフィスビルがある。
エレベーターで三階に上がった。今日は穏やかに過ごせればいいなと思いつつ、扉を開けた途端にあの男の怒声が響いてきた。
「こんなもんじゃ資料にならねぇだろうが! 一体、お前は昨日一日かけて何をやってたんだよ、あぁん? ったくクソの役にも立たねぇな」
賃貸部の部長、佐々《ささ》が背もたれの高い椅子にそっくりかえっている。今にも両足を机の上に乗せるんじゃないかというほどに。背が低いからコントのワンシーンみたいだ。
まだ四十歳くらいなのに部長職についているのは社長のコネだという噂がある。
本人はお洒落を気取っているらしいけれど、小太りだし髪も薄くなってきているしスーツもネクタイも眼鏡も要はブランド物で固めているだけ。決して趣味がいいとは思わない。
佐々部長の目の前に立って罵倒されているのは藤崎君だ。
相撲をやっていたのかと思うほど背も体の幅もある彼が、うつむきながら眼鏡を上げてしきりに汗を拭いている。一年後輩で、昨夜も一緒に残業をしていた。
彼も僕と同様、あの男の攻撃対象となることが多い。
真面目だけれど外見と違ってちょっと内気な感じで気弱そうだから、反撃されないと思っているのだろう。
藤崎君が怒ったり、口答えしている場面を見たことがないし。
僕も人前で誰かに文句を言うことなんてできないからよく分かる。
あの男の狙う標的にピッタリなんだ。
「残業代もカットだ、カット! これじゃ何もしていなかったのと同じだからな。泥棒!」
目立たないようにそっと席へ着こうとしたとき、佐々部長が机を叩いて大きな音を出したので思わず顔を上げてしまった。
目が合っただけで火の粉がこちらへ掛かってくるかもしれない。
幸いにも、あの男の目は藤崎君へ向けられたままだった。
にらみつけながらわずかに残っている髪をかき上げている。シャツの袖口からのぞく腕時計が、いかにも高級そうなゴールド系でウザい。
「まったくいつになったら一人前の仕事ができるようになるんだ? 金もらってんだから、その分ちゃんと働けよ」
「……すいません」
「部長、もうその辺で。資料の修正は私も手伝いますから」
大声でわめいていたあの男と彼の間に水野が割って入った。
学生時代にはテニス部だったとかで、背も高くいかにもモテそうなイケメンだが、今の藤崎君の目には天からの使いに見えているかもしれない。
ヤツは唯一の同期だけれど、僕から見ても仕事ができるし如才ないというか人当たりが良いというか。
こういうタイプにはうるさく言わない。
それでも不承不承といった態度で席を立ち、藤崎君をさげすむように一瞥すると佐々部長は部屋を出て行った。
イライラを解消しにタバコでも吸いにいったのだろう。
藤崎君は水野に肩を軽く二度叩かれると、黙って頭を下げた。
定時を過ぎると、珍しいことにあの男が誰かを怒鳴りつけることもなく、静かに帰っていった。
何の用事があったか知らないけれど、毎日がこうあって欲しい。
「山瀬、今夜は何か予定あるか」
帰り支度をしていると僕の机へ水野がやって来た。
「べつに。飲みに行く?」
「さすが、話が早い。こいつを誘って気分転換しないか。お前も昨夜、部長にやられたって聞いたぞ」
ヤツの後ろには藤崎君がついてきていた。