零幕前編 現世の終演と次世代の幕開け
人も魔物も、今日を生きるために戦っている。
明日は今日も見えない……
ワタシの名前はマルレット・アムル。天才だ。
ワタシを取り巻く大人も子供も皆、そう褒め称えた。
ワタシも周りを見て、自分は天才なんだと思った。
ワタシは人の傷を癒し、命を助ける魔術…治癒魔術を人よりも遥かに、巧みに扱うことができた。
―――こんな力じゃなくて、未来を見ることができればよかったのに…そうすれば幸せに生きられたのに。
あの世へ旅立った今は、そう思う。
薄々感づいてはいた。持て囃されてばかりの軍学生生活を終えて世界に出てから、治癒魔術士として魔物と戦って…
ワタシは人という蛙でしかないのだと。
魔物の蔓延る、異国の雪山が、ワタシの墓地となった…
星誕暦695年 死肉雪山
なんとかまだ生きているけど…今日が峠かもしれないな、とうとう。
魔術士、マルレットはそう自らの終わりを悟り、安堵の気持ちさえ芽生えていた。
苦行のような旅路の果てに、彼女達はここにいる。
そして今もなお、苦行は続く。四肢の感覚が消え失せるほどの寒さの中、猛吹雪にうたれつつあるく足場は、凍りついていた。
―――――瞳を開いても、視界は白で塗り潰されている。
「マルレット、平気か」
長身の無機質な男が、小柄な彼女に声をかけた。声音からはさほど温かみは感じられない。
「…うん」
彼女もまた、冷たく返した。
平気なわけがない。こんな吹雪で先の見えない…晴れていれば雲に乗れそうな高さの雪山で、遭難して。
凍死、餓死、滑落死、いつどうやって死んでもおかしくない。少しでも気を抜けば死だ。
死者の導き手は観音様のようにあり、ワタシの体の側をうごめいて見える…
マルレットはそう、死を悟り苦しみの終わりを安堵しつつも、助からない己の命運に自棄してもいたのだ。
「あッ! うわあああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ………!!!!」
その前に、崖際を渡っていた人間が一人、落ちた。観音様の無数の手のひとつに引きずり落とされたかのように…
「あッ! うわあああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ………!!!!」
また一人、つられるように奈落の底に落ちる。悲鳴だけは吹雪の轟音を上回り、マルレットの神経質な脳裏にまで届く。
マルレットはその声を聞くごとに、死への恐怖は確実に増していた。
雪山に登ってから、もう全部隊の半数は雲に向かって落ちた。
マルレットは震えた。
―――どれほど痛いのか…怖いのか、苦しいのか。それとも死ぬ時は案外楽に、眠るように気を失い、意識が消え、安らかに死ねるのか。
なら私はなんのために魔術で傷を癒し、塞ぎ、治してきたのだろう。
国のためだ。魔物と戦う人間を減らさぬよう…傷を治してまた、魔物と戦えるように私は傷ついた人を癒やしてきた。
その人が死ぬまでそれを、続けてきたんだ。
悪魔のような…いや、悪魔の手先だワタシは!
マルレットは極寒の中、沸々と怒りの炎を胸に燃やしていた。長年仕えてきた帝国という祖国に対し。もっとも彼女はまだ14歳。長年といえど仕えたのは6年ほどだ。されど彼女の一生の中では半分に迫る。記憶の上では大部分といってよいだろう。
その記憶の大部分…彼女の一生は、天才治癒魔術士として戦場で魔物などと戦い負傷した兵士を、回復させることだった。
大半は死を先延ばしにするだけの行為は、どれほどの恨みを買っただろうか。マルレットはそれを考えないようにしていたが…いざ考えるのとなおも、震えた。
死んだ先は、地獄かもしれない。ならせめて死に方だけは、選びたい、な。
こんな雲の上から落ちるような死に方は、したくない。
マルレットはそう思いながら、無意味とも思える行進を続けた。
ただひとつ、彼女には最も避けたい死があった。
魔物に喰われるよりは、どんな死に方もマシだと思う。
たくさんそんな人を見てきたからか、脳裏に恐怖が焼き付いている。魔物に肉も骨も砕かれ、千切れては、ワタシでも助けられないから。そうやって死んだ人間の断末魔は、一際恐ろしく、心に残る。
けど、そんな感覚も…ぼやけてきたな。
凍死で眠るように、いつの間にか死にたいと、彼女は願い歩いていた。薄れる意識の中、安堵の気持ちは強まった。
今はただ麻痺した五感を無意識に動かして、ただただ前を進んでいる。見えない出口に向かって…いや、ここが終点だ。戦乱の世に振り回されて、巡り巡った末にここへやってきのだ。
既に死んでいるかのような、亡霊の行脚。それはここにわずかに残った部隊、ほぼ全員がそうだった。
ただふたりを除いて…
―――目的は一応あるみたいだけど…果たして何人生きられるんだろうか。皆死んでしまうかもしれない。
いや、サファイス。あなたは無事でしょうね。こんな環境でも、あなたは不死身のように強いから。
マルレットは無機質な大きな背中を見て、笑みを浮かべるようにして呆れていた。
だけど、ワタシや…ジャノメカは、きっと駄目。
自らのことは自虐的に、嘲った。
ワタシは死に瀕した人でさえ治すことも不可能ではないのに、ワタシ自身は不死身でもなんでもない、自らが瀕死になれば自分自身を治すこともできない、報われない存在…儚く、脆い生き物だ。
…無茶だったんだ、こんな計画は。
最後に吐き捨てるように息を吐いた。
「あっ!? …ああ、あああああッ!!?」
また悲鳴が上がった。
―――ワタシ達は崖際を渡り終えたが、後ろでまた一人、奈落に…
いいえ、男の情けない…悲痛な叫びは前から聞こえてきた。
マルレットは少し、目を開いた。
「絶対零度の白神龍だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
それを聞き、完全に開いた。
ただ頭は凍ったように機能を停止してしまう。
―――――え、どうして!?
部隊が…吹雪で聞こえるはずないのに、次々とざわつく様子が伝わった。雪や氷を踏む足音が変わる。
マルレットは恐る恐る…吹雪の空に赤く光るそれを覗くために、ようやく顔を上げ前を見た。
吹雪の隙間から、微かに見える…白銀の翼龍の紅い瞳孔が。やつはちっぽけなワタシを一瞥した。
天才魔術士は踏まれた虫けらがその場でバタつくように、その場でから動かずに、震えていた。
大型魔物…それさえも従え、喰らうという神魔級の魔物。
どうしてこんな時に…どうして、どうしてよぉッ!?
マルレットは悲痛にそう叫んだ。そしてへたり込む。
もう駄目だ、皆ここで死ぬ。殺される。
魔物は目障りな害虫を見つけたかのように小さく声を上げると、容赦なく羽ばたいた。
その風圧だけで…枯れ木のように疲弊した帝国軍の残骸はバラケ、山頂付近の嶺から飛んでいった。
もうどれが死の断末魔かも分からない程に、悲鳴が飛び交う。
次々次々次々次々次々次々次々次々、皆死んでいく。
断末魔の讃美歌が、吹雪の轟音をまったくかき消した。
「うおらぁぁぁぁぁッ!! 死んでたまるかよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!!」
「散り散りに山中の洞窟に隠れろッ!!! 絶対に諦めるなぁぁぁぁぁッ!!!」
ふたりとも…今更何を無駄なことをしてるのよ。
マルレットは諦めないふたりの戦友に苛立つ。
「もう早く殺して、早く殺してよもぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!!」
そうへたり込んだまま叫んだ。その叫び声はまるで外に響かない。独り言かのような無反応。
怒号も、絶叫も、悲鳴も吹雪も全てまとめて…
絶対零度の白神龍の凍てつく咆哮が、かき消し吹き飛ばした。
なぜ、ワタシ達は生き残ったのだろう…
わずか三人で歩くなかで、マルレットは最後尾を…徐々に離されるように、力尽きようとした。
部隊は消滅に等しく、彼女達だけが未だ吹雪ふき荒れる山中のどこかに落ち延びた。
けどどうせ、苦しむ時間がさらに延びただけ。無駄な悪あがきどころか、刑罰だこれは。
この世界で生きることは罰に等しい。
「ヴオォォォォォォォォォォォォォォォォン!!!」
声が聞こえた。人ではない。
魔物の咆哮! あの世からの使いがやっときた。これでワタシ達も…
マルレットはようやくと、また安堵した。しかしふたりの男は違う。持っている剣を抜いた。
「おい、今の…」
「ああ、風鳴りでは無いだろう…魔物だ、恐らくは犬型。ハイエナしに来たか」
居場所をつかめぬ敵にふたりは戦々恐々とするが、受け入れている少女は安らかな気持ちで待っている。
それは本来彼女が、一番望まぬ死のはずだ。
魔物に喰われるなんて、最悪な死に方だけど…三人一緒なら、こんな終わり方も悪くないかもしれないな。
そうひとり達観し、待っていたが。
「くそッ!! 結局俺達も…俺は死なねぇぞ、こんな雪山で魔物の保存食なんざ、御免だッ!」
「ああ、黙って喰われてやるつもりは毛頭無いッ!」
―――――そっか、二人はまだ生きていたいんだね。こんな世界で。
強いなぁ、男の子は。
ワタシは駄目だなぁ…もう生きていたくないよ。もう疲れたよ、休みたいよ。
もう死にたいよワタシはね。
年端も行かぬ少女は、少し上の男達を前に…打ちひしがれるような思いでその場に崩れた。
そこに、魔物が姿を現す。
「ヴォォォォォーン! ヴヴヴヴヴヴッ…!!!」
男達は戦慄する。
「こいつは、冥土の果てまで吠え続ける狼!?
こんな時に…命運尽きたか」
「まだだ…! マルレット、まだ魔術は使えるか」
無機質な男は崩れた少女を立たすように、声をかけた。
少女は、力なく答えた。
「―――――うん」
男の頼みに、少女は考え、言葉を発した。
「――――いいよ、その代わりに…約束してくれない?」
「ヴォォォォォォォォォォォォォォォン!」
―――――二人きりになっちゃったね、狼さん。
マルレットと冥土の果てまで吠え続ける狼は、吹雪の下ふたりきりで立っていた。男の姿はない。
少女は自らの体より数倍は大きな体の、牙を眺め、誰にも届かぬ声で呟いた。
「その血塗られた赤く鋭い牙で、残されたワタシをどんな風に食べちゃうのかな?」
「…こんな最後だなんて、夢にも思わなかった」
誰もがそのキャリアを羨んだ、天才魔術士は己の人生を悔いた。
散々天才だ神童だと大人に持て囃されたワタシは結局、大人の実験動物でしかなかった。最後は犬の餌だ!
一般兵同様、魔物と戦う道具に過ぎなかった幸薄く、あまりにも短い一生を…死を目前にした14歳の少女は、既に走馬灯を見ていた。誰よりも優秀な能力者は、誰よりも使い甲斐のある存在に過ぎなかったと…そしてその末路はあっけなく、上官の愚かな判断によってここで死ぬこととなってしまった。
自分が愚か者だと蔑んでいたような者たちのせいで、自分は死ぬことになったことを、少女は眼前の狼の魔物のように歯噛みした。
幸せな人生を送りたかった…送るに相応しい人間だったはずだ自分は!
「ヴァァヴッ!!」
うるさいなぁ…うるさいんだよ、化け物!
マルレットは魔物に牙を向ける。
どうして、ワタシは数え切れない程の人を救ったのに…何でワタシを助けには誰一人来ないのよ!
他の誰もがワタシのことに気がつかなくたって、神様は見てる。ワタシのこと気づいて、苦しむ姿を眺めて楽しんでるんだ!
この世界に神様はいる。冷酷で残虐な化け物だ!人でなしだ!!
だからこの世界は地獄なんだッ!!!
マルレットは魔物がいるこの世界を、呪った。
呪ってやる。向こうの世界で、この残酷な世界をいつまでもいつまでも………
もう聞こえないといいな。
「悪魔あぁぁ共おぉぉぉぉぉ!!!!! ワタジばぼばえらをぉ許ざないぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!! たどえジゴグの底に沈められよーども!!! ごの世界をえーえんに呪いつづげぇぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁうぎゃぁぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁぁ…※※※※※※※※※※※※※!!!!!」
ただひとりで吹雪に負けないほど、怒りと嘆きでマルレットは、絶叫した。
巨大な魔物の牙が華奢な体を砕き、バラバラになろうとも構わず、最後まで意志を貫いた。
果てまで哭き続けてやる。
この世界を呪う、魂心の大魔術だ!
●
「―――――部隊は…全滅を覚悟された方がよろしいかと、陛下」
閣僚はそう、閣議の場で皇帝に歯切れ悪く申した。視線の集まる皇帝は落ち着いた様子で、仕方ないと割り切っていた。
「そうか、へんに生き残りがいるよりは都合がいい」
「父上ッ! その反応が、国民の命を預かる者の在り方ですか!? それにあの部隊は、私直属の精鋭だったのですよ! 王国への遠征中に…なぜ指揮官の私を部隊から離し、皇都へ戻したのですか!」
議会の場でただひとり、皇帝の長子アレクサン・シャルルージュは声を荒げ、実の父を自ら糾弾した。
「アレクサン。部隊をあの場に残したのはお前の独断だ」
ほんのわずか静まり帰った場を、皇帝は冷淡な声で沸かす。
皇太子アレクサンは皇帝の命で、急遽として進軍中の兵の大半を置いたまま、帝国の中心地である皇都へと戻ることとなった。別方向から攻めてきた外敵の防衛にあたるために…
指揮官は他にもいるが、皇太子は父のことをよく理解し、これが自分への嫌がらせ…をも超えた妨害行為であると確信を持っている。
アレクサンは日頃から皇帝に、皇太子としては分不相応な労役など、理不尽な命令を受けていた。そしてこの日、不満が爆発した。
なおも、アレクサンは引き下がらない。議席から立ったまま、玉座に居座る皇帝に鋭い目を向けた。
「しかし…部隊は陛下の、お妃殿と合流されたと、お聞きしましたが」
その言葉に、冷静沈着な皇帝は少し眉を動かした。しかし…
「アレクサン殿、皇帝陛下のご嫡男といえど、お言葉を選ぶ必要がありますぞ」
閣僚のひとりが口を挟んだ。だがアレクサンは奸臣に対する侮蔑の色を隠すこともなく「黙れ」の一言で一蹴した。
「彼らが…私の部隊がなぜお妃殿のいた場所まで向かったのかは私のあずかり知らぬところですが、合流した事実を把握しておきながら…なぜ誰一人帝国に戻らぬまま、このような被害を起こしてしまったのか…父上の考えをお聞かせ願いたい」
「―――ジャンヌは、独断で愚行に走ったまでだ。そもそも私は出撃の指示すら出していない」
皇帝はそう、冷淡に述べた。身分違いの、側室の一人に過ぎないが皇帝は彼女に対し、もはや愛情を抱いているようには見えなかった。
アレクサンはそれの意図するところを察していたが、会議の場を扉の隙間から覗く少女は状況を理解できなかった。
アレクお兄様、凄く怖いお顔をされています。いつもは優しくて、笑ってばかりいらっしゃるのに。皇帝陛下は、今日も怖いお顔をされてます。
…しかしここにも、お母様はいらっしゃらないようですね。せっかくお父様達に怒られる危険を冒して、覗いてみたのに。
扉の隙間からでは、お部屋の隅々まで見ることはできませんから、はっきりとは分かりませんけど…
年端も行かぬ可憐な少女は、そっと母親を探していた。
外地任務で皇都を離れることが多かった母とは、なかなか顔を合わせる機会がない。
実父である皇帝と違い、母に会いたいと思ったいた。
「被害を被ったのはこちらも同じ。マルレットは帝国の直属魔術士。それをこの始末とは、お前こそ責任はとってもらうぞ、アレクサン」
皇帝は静かに皇太子へ反撃した。息子はすぐさま返す。
「ですが指揮官である私を現場から取り除いたのは父上です」
「お前の部下達が…勝手に進軍し、王国で愚か者と合流したかと思えばさらに遠く離れ、死肉雪山まで向かった挙げ句、消息を断ったのだろう。副官だった人間はマルレット含め…いまなお生死の確認はとれていない。他はほとんど死骸はあったようだが。副官がマルレットを唆したと考えるのが妥当だ」
「唆すとは…なにを目的として」
アレクサンは歯切れ悪く訊ねた。
「野心が芽生えたのかもしれん。愚か者の持っていた魔剣が消えていることからも、奪い取り帝国に刃を向けるつもりであったのだろう。結局、魔剣も未だ見つかっていない。副官とやつが懇意にしていた同僚の兵は、手配書を出しておけ」
「はッ!」
直ちに閣僚のひとりが場を警護する兵を動かし、外へ伝えさせる。
「お前との繋がりも、当然調べさせてもらうぞ」
「…なんなりと。この場は失礼させてもらいます」
アレクサンはこれ以上ここで何を言っても無駄だと悟り、抵抗の意志を示したまま会議の場を立ち去ることにした。
「アレクサン、お前は人の上に立つ器ではない。私の下、前を見ていればいいのだ。皇帝の座はお前には務まらんよ」
会議の場を去る息子の大きな背中を見ながら、父親は突き放すように言った。
そして扉を開くと…
「…ッ! シャトリーニュ」
腹違いの妹である、皇女シャトリーニュと鉢合わせた。
「アレクお兄様…!」
シャトリーニュは二十ばかり年の離れた大きな兄の顔色見上げ、少し安心した。
よかった、アレクお兄様はワタクシを蔑むような目で見ない。
先ほど部屋を出てきた兵に対し、シャトリーニュは近くにあった燭台の陰に隠れたが、その様子を見る兵士の顔色は、侮蔑に満ちていたのだ。
シャトリーニュはここ最近、そんな城中の様子に義憤を募らせていた。
腹立たしい。
どうしてお城の方々は、最近ワタクシに冷たいのでしょう? 何も悪い事などしていないのに…
みんな蔑むような目で、ワタクシを見る。
悲しいですし、腹が立ちます!
お母様、お父様、何故なのですか? 怒らずにお話しになってください。
その答えを、両親に求めようとしていた。
―――お母様は、やはりお部屋にはいらっしゃらないようですね。
扉の前で見つかった小娘は、母が部屋にいないことを確認した。
「シャーニュ、何をしているんだ」
父である皇帝は娘に対しても、冷たく言葉を突きつける。
「お父様、申し訳ありません。…お母様のお姿を、もう何月も見ていませんから探していたんです。お父様は、ご存知ありませんか?」
部屋にいる人間は、皆ご存知のようだと、聡明な小娘は感じ取った。
「シャトリーニュ、お前のお母様は、火あぶりにでもあって死んだ頃だろう。お前もそんな所にいないで、この城を出る準備をしなさい」
●
嗚呼ぁ、暑い。
十字に縛られた女は、暑さに震えていた。
身動き一つ取れない状態で、異国民の大観衆が見張る中、彼女はそれらには目もくれず、斜め上を見上げている。
空を見上げ、心の内で祈り続ける。
―――蛮国たる王国の乾いた大地と灼熱の太陽が、我が身を焦がす。
しかし、きっとデウス様は太陽におられるに違いない!
祈りを捧げ、慈愛を信じ、ただ己の正義に忠実たれ! この苦難もきっと、デウス様がお与えになった受難。きっと活路を示してくださる。
これまでもそうだったし、今回もそうだった。
帝国から連れてきた兵はここへ来るまでに魔物に悉く喰われ、裏切りにあい…私も王国軍に捕まってしまった。未だかつてない窮地と言ってよい。
だからこそ祈る! 祈る! 祈る! ただ祈るのだッ!
ただ一心に! 一心にッ! 一心にッ!
陽で焼けた鎖に縛られ、処刑台には今まさに炎が放たれようとしている。だが! この手にはまだ十字が残されているではないか!
示すのだ、神への敬意を…!
女は空に届けんばかりの声量で、叫んだ。
「Oh! 万物の父母よ、天地を統べし唯一神たるデウスよ! 今まさに死に瀕する哀れな子羊がここにおります! 私です、ジャンヌ・シャルルージュでございます! 私はこの地に生を受けて三十六年、七十八の聖戦を栄光なる勝利へと導き、デウスの語る真の教えを、大地の民に広めて参りました! 前年は世界を滅亡へと導く悪魔の使い、『黒死の魔女』をも討ち果たし、この大地に永遠の平和をもたらしたのです! デウスよ! なぜ私は聖敵の捕虜となり、無慈悲な暴行に虐げられた挙げ句、数多の男から、不貞を貫かれなければならないのでしょうか!? そして今まさに、私は不貞の業と共に、炎で焼かれようとしているのです!! 思し召し下さい、その意図をッ! そして願わくばお救い下さい!! 我が敬愛なる父母デウスよおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!!!」
●
女に、炎が放たれた。
それにつれ女の声は、朽ちていくかのように嗄れていく。繋がれた状態でジタバタと、無駄なあがきも始めた。
鎖に封じられた、女の姿をした悪魔が、泣き喚きながら焼かれていく。
こいつは悪魔なんだ、何も可哀想ではない。
俺の息子も妻も親も、こいつに殺された。
聖戦、栄光ある聖戦とこいつはそう叫んで、何度も帝国軍を率いて俺達王国を攻めてきた。軍人も民間人も家畜も、関係無く殺した。
おかしな剣から見たこともない魔術を使って、俺達を苦しめやがったんだ!
炎で焼け爛れた喉を引き裂いて泣け。
息子の様に、赤子みたいに泣き喚きながら死にやがれッ!
大観衆の、王国の民は一丸となって、燃えゆくジャンヌ・シャルルージュに石や刃物の雨を浴びせた。
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!! 不浄な体が、焼かれでいぐぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!! どうが…どうがお許じをぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!!!!」
次第に女は崩れていった…されど炎は収まらない、王国民の憤怒も。
燃えろ、もっと燃えろ。俺達の怒りも苦しみもこんなもんじゃない。さあ王国民の怒りの劫火よ、もっと悪魔を激しくじっくりと燃やして苦しめろ、そして殺せぇッ!!!
王国民は怒りに叫んだ。取り囲んで罵声をも浴びせるが…ジャンヌの叫びはそれを遥かに凌ぐものだった。
「猊下あぁぁぁぁぁ!!! 陛下あぁぁぁぁぁ!!! なぜ私をお見捨てになられだのでずぐわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?!?! 魔剣を、創世剣銀河を失ってしまったかだがらでずがあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!! ……ラぁああああクシィガあぁぁぁぁぁぁぁあああああ!!!!!
なぜわだじを裏切ったのだぁぁぁぁぁいやあぁぁぁぁぁ熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱いあぢぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ……………………!!!!!」
燃え続けた。
泣き怒り狂って…やがて悪魔は黒く燃え尽きた。
●
「お母様は、どうして亡くなられたのでしょうか? 火あぶりということは、敵に捕まったのでしょうか。ではなぜ助けには行かれないのでしょうか」
誰も何も答えてくれません。使用人は皆冷たい顔をして、ワタクシの前から離れていきます。
賢く忠実な奴隷を、お父様に買って頂いておくべきでしたね。
親しい者からはシャーニュと略される、シャトリーニュ・シャルルージュは自室へ戻るよう皇帝に促され、それに従った。
それから城を出るように、弱冠六歳の少女は言い渡される。
それに対し同情を見せるのは異母兄のアレクサンくらいのもので、残る者たちはただ冷たい視線を送った。
少女は憤りを募らせながらも、戸惑いはあまり見せなかった。このような日が来ると、どこかで予期していたのだ。
母が最後に城を出たあたりから、皇帝である父を始め、周囲の風当たりが露骨に冷たくなったと感じていた。
ただそれ以前から…少女が物心ついた頃には既に、一部の者達からは蔑まれ、使用人からも冷たい視線を感じることも、少からずあった。
もしかしたら、生まれたときからずっとそうだったのかもしれない。
そう、シャーニュは思った。
彼女は自らの置かれている立場というものを、聡明に察知していた。皇族という立場でありながら、アレクサンなどとはどこか違うと。
他との分かりやすい違いは、母親だった。シャーニュの母、ジャンヌから生まれた子供は、シャトリーニュしかいなかった。
ただシャーニュは母について、ほとんど何も知らない。
自分を生んだ母親であること以外、ほとんど知ることのできなかったのは…ジャンヌが常日頃、城を出て敵と戦っていたから。生まれた時しか一緒にいたことがないのではないかというほどに、シャーニュは乳母や使用人に囲まれて育ってきた。
だから母親がなぜ火あぶりになることとなったのか、そしてそれを皆が見届けている理由の見当が、つかなかった。
自室の扉を前にして、長く過ごしてきた使用人達を見上げ疑問を口にするも、知らない顔で自室で城を出る準備をするよう冷たい目で促す。
ただそんな中、ひとりだけ熱さを宿した表情で、シャーニュの肩を鷲掴み、顔を寄せる下女がいた。
「それはね、母親がもう皇族ではないからよッ! お前もねッ!」
下女のひとりは今にも首根っこを掴みそうな勢いで、華奢なシャーニュを両手で捕らえる。他の下女達が数人がかりで引き離した。
「やめなさいよッ! こんなとこで」
しかし、シャーニュに寄り添うものは誰もいない。
シャーニュは自室へ逃げ込むように扉を閉め、鍵をかけた。
扉を背にした状態で、その場にへたれこむ。
女達はその場で、世間話を始めた。
「でもあの子、これからどうなるのかしら?」
「さあ、公開処刑でなければ…田舎にでも流されるんじゃない?」
「それ処刑と同じよ! 六歳の子供が外で一人、生きていけるわけ無いでしょ! その日に魔物に喰われちゃうわ」
「…ねぇやっぱり、ジャンヌが皇位を剥奪されたのって、魔剣を失ったからって噂。本当なのかな」
「それだけじゃないんじゃない。あの女、無茶な戦争で大勢の人を殺したわけだし……アタシ、弟をあいつに殺されたの」
「本当!?」
「魔女討伐戦争の時よ。黒死の魔女を倒すために深追いしすぎて、弟は魔女に殺されてしまった…あいつに殺されたようなものよッ! アタシ、あの母子は絶対許さないわ!!」
「それであんた、あんなこと…まあでも、結局戦争に行って捕まって、処刑されたんだから因果応報よね」
「戦争を起こせだなんて、デウス様のお告げだかなんだか知らないけど、今回従軍した兵も全滅したって話だし、本当…あいつこそ魔女よッ!」
「やめなさいよ。デウス教を信じる人だって、この皇都にも大勢いるんだから。信教派のお偉い様にでも捕まったら大変よ」
心底どうでもいい話も聞こえましたが、お母様が死んだ理由が分かりました。
お母様は魔剣を失って、戦争に負けて、捕まってしまったので殺されたのですね。
シャーニュはそう理解した。
―――しかし、下女達の怒りは言いがかりです。
従軍した兵は戦うために軍人になったのであって、戦って死ぬのは至極当然のことだと思います。母が兵を指揮したとしても、誰かがやらなければならないこと。
お母様が兵を起こさなければ、世界は平和だったのでしょうか?
シャーニュはそこは理解できなかった。
―――さて、お母様のことは分かりましたが、これからワタクシがどうなるかは分かりません。
ですがお父様は城を出る準備をしろと仰っていたので、とりあえず荷物をまとめましょう。
小さな体にはあまりにも広い、豪奢な部屋をゆっくりと、歩き始めた。
―――広い部屋に、大きな家具。使用人が居なくなると、却って不便ですね。ドレスのクローゼットにも手が届きません。
そう言うとシャーニュは、指揮棒ほどの杖を懐から取り出し、歌うかのように声音をワンオクターブ上げて、言葉を発した。
《《 支度の時間です、出て来て下さい 》》
魔術の詠唱…それと共にクローゼットの扉が開き、ドレスやコートが次から次に舞い踊る…のはいいのですが、ぐちゃぐちゃです。シワがついてしまいますし、そもそもこんなに出しても持ち運べませんよね。
結局せっせと、散らばった服を手づかみで拾いたたむ。
魔術の精度もまだまだですね。今後は魔術に頼る事が多くなりそうだというのに、もっと練習しないと。
シャーニュはこれからについて考え…息を漏らした。
―――出る準備が出来ましたら、戸締まりをしましょう。
シャーニュは窓を眺める。
広いお部屋に見合った、大きなステンドグラスの窓。綺麗な花模様に遮られて、綺麗な外の景色は少しも見えない。
…ここから外に、逃げ出しましょうか。
心の中で、少女は不吉な予感をよぎらせた。
あの様子だと、お父様はワタクシを人気の無い場所へ運んで、殺してしまうような気がします。
実の父親に対する温情を期待せず、母親のことを想うが…その思いも虚しいものであった。
…お母様、まだまだお話ししたい事がたくさんありましたのに。なぜお母様は、ワタクシに少しの興味も持たれなかったのでしょうか? たった一人の娘だと言うのに…お腹の中でお母様のお気にでも触れましたか?
シャトリーニュ・シャルルージュは母、ジャンヌ・シャルルージュとこれといった面識すらなかったのだ。
いつもお母様は、お城の外に出ていましたね…外の世界とは、それほど魅力的なのですか?
知りたいです、この世界の全てを…頂上で見ていたい。
そうシャトリーニュは心から願った。
その願いも虚しく…
扉は開き、長兄アレクサンに続いて多くの兵が、シャトリーニュを取り囲んだ。
「シャーニュ…悪いがこれしかないんだ」
そのままシャトリーニュ・シャルルージュことシャーニュは、どこかへ連れて行かれて…消えた。
●
たったふたりとなった軍隊は、魔のはびこる雪山を下山しようと、モメていた。
今までの苦労は…ここへ来た選択はなんだったのかと、男のひとりがくらいつく。
しかし無機質な大男は、びくともせずに言い放った。
「意味ならある。魔剣がここにないことは分かったし…もう俺達の他に生き残りはいない。俺達の行方が帝国に届くこともないだろう。」
「てめぇ…!」
もうひとりの男、ジャノメカは絶句した。しかし彼は、無機質な大男、サファイスに続く道を選んでここにいるのだ。
一人残ったマルレットは、無惨に死んだ。
ここで自分がすぐに死ねば、それこそ彼女があそこで死んだことは無意味になる。
そう思うと、彼はそれ以上反論することはできなかった。
しかし彼は否定した。
「俺は…一人で降りる。ここでお別れだ。お前とこれ以上、行動を共にはできねぇよ」
「好きにしろ。元より山から降りれば、そのつもりだった」
最後まで無機質な男は、冷淡な語り口だ。
この未だ吹雪やまぬ…永遠にやむことのないような極寒の山を、せいぜい死なずに降りろよと言わんばかりの仕草で、ふたりはそれ以上語らず、それぞれの道を下った。
幸運というか悪運が強いのか、ジャノメカは下山することに成功した。サファイスの行方は分からない。
これからの、自分の行く先さえ当てのない状況だ。
当てがあるとすれば故郷の、実家か…ここ王国は彼の郷土であり、過酷な地だが土地勘は充分あった。
死んだ想い人の元へ舞い戻ることも一瞬よぎったが、何を今更と男は故郷へ走った。
俺はあいつを殺した…あの男と同罪だ!
WANTED!
この顔を見たら役場まで
懸賞金 20G
なお生死問わず
その通り、彼は罪人として。賞金がかけられていた。
…俺とあいつの顔が、道中に、街中に、故郷に、実家に、一月分の給料程度の値段で売りに出されている。
所属していた帝国軍による手配書は、異国の王国へも、彼が故郷へ走っている間に届いていた。彼は不安が募る。
家族は無事なのか…?
―――家族も敵なのか?
実家には普通、こんなに俺の手配書を貼らないよな。
俺の名前が表札から消えているのが、いい証拠だ。
そうあっけなく、田舎だが比較的裕福な家の門を開けることなく、ジャノメカは諦めた。
…俺はこれから、何処に行けばいい。
しかしジャノメカにひとつ、新たな行き先が出来た。
あいつは、どこ行ったかな…
●
自室で大勢の兵に囲まれた中、弱冠六歳の少女シャトリーニュはその言葉を聞き絶望した。
―――ワタクシがそんな、どうしてそんな…
元皇族の少女に、帝城で拒否権などはない。
それを伝えた義兄、アレンクサン・シャルルージュは悲痛な面持ちを見せた。だがそれすらも少女にとっては腹立たしく、憤りの色を隠せない。
彼女が誰よりも憎んだのは、皇帝でもない…実の母、ジャンヌ・シャルルージュであった。
伏すようにして床についた手を、絨毯を千切らんばかりの力を込めて、まだ乳歯な歯を砕かんほど食いしばる。
魔剣がここにあれば…ワタクシの手元にあれば、こんなことにはならないのに。
しかしそれが無いからこそ…母の手元から無くなったからこそ彼女はこの命令に従うほかなかった。
零章前編をお読み頂き有り難うございました。
初めての投稿なので色々拙い部分があるかと思いますが、随時対策、改善していきますので今後ともよろしくお願いします_(._.)_