フレイムベント1ー3
その日の晩のことだ。リンカはモリヤの家を訪ねることにした。
用件は時計塔についてだ。昼間の件については不可思議な点があった。それを十年以上この町に住む彼女に聞いてみようと思ったのだ。
空を見上げれば無数の星が輝く。澄み切った空気にどこまでも広がる黒い空。いつでも手を伸ばせば届きそうなそれは、文明の進んだ大国では空気が澱み、見ることすら難しいらしいことをモリヤから聞いて知っていたが、リンカにとっては俄には信じがたい話だった。
家の場所は知っていた。時計塔の北東、町長の家や時計技師のジコウさんの家が並ぶ区域にある。そこへ辿り着く前に、時計塔の前を通り過ぎた。壊れた建物がすぐに直るはずもなく、瓦礫や木片などはまだそのままだ。入り口には大人が何人か立っていて何やら話をしていたが内容までは聞くことはできない。
「やっぱり、アレおかしいよなぁ」
あごに手を当て、歩きながらリンカは考えを巡らせていた。
魔物が町に入ってきてしまうことはそう珍しいことでもない。山で餌がなくなれば下山し、人の多い町へ来てしまうこともある。しかし、今回は人工的に生み出されたというリザードフライだ。野生の魔物ではないから餌を求めて……というケースは当てはまらないだろう。野生化したリザードフライが出た話など噂話ですら流れたこともない。
何より人の管理下にいるのが普通だ。それが一匹だけで迷い込むなんて考えられない。
それともう一つ。あんな立派な翼を持ちながらも、ミナトたちとの戦闘中一度も翔ぶことはなかったのだ。最初に遠目で見たときは確かに飛んでいたはずなのに、なぜ。
「もしかしたら、本当は飛ぶのが得意ではない……!?」
そうなると空を飛んで町へ入ってきたという見方もおかしくなる。とはいえ、地上を歩いて侵入してきたはずはないのだ。
入り口から魔物が入ってきたのならば、人々は入り口から奥へと逃げる。だが実際にはみんな時計塔を中心に遠くへ逃げていった。
ならば、あの魔物はどうやって侵入してきたのか。
時計塔と並ぶ家々を通り過ぎ、道は小川を渡る。手入れの行き届いた花壇が両脇にある小路を抜けるとそれまでとは雰囲気の変わった通りに出る。
その通りにある家はどれもが少しだけ大きく少しだけ綺麗だった。ただそれだけで、他とは違う人たちが住んでいるのだとわかる。
その一角、通りの中でも一際小振りな家がある。大きな庭つきの隣の家と比べるまでもなく小さい。そこがトキコ・モリヤの家だった。
リンカは扉の前に立つ。窓からは薄明かりが漏れている。在宅のはずだ。手の甲でノックしようとしてみる。二回叩いてみたが返事は来なかった。家の大きさからして聞こえていないとは思えなかったが、念のためもう一度ノックしてみた。しかしそれでも返事はない。
明かりをつけたまま出掛けてしまったのだろうか。魔法の明かりを使っているのか、蝋燭の火なのかはわからなかったが、不用心だなとリンカは思う。
いないのならば仕方ない、と帰ろうとしたところで、すぐ近くからする人の声に気付いた。馴染みのある声だ。咄嗟に顔がそちらへ向く。隣にある町長の家の庭だ。彼女の位置からでも庭にいる二人の影が見えた。
好奇心に駆られ、木々の間を抜けて庭へと入っていく。そこで予想した通りの人物を見つけた。
町長とミナトだった。
「いいかげん、勇者になるのは諦めなさい。何度言ったら……」
「いいじゃないか! 迷惑かけてるわけじゃないんだし!」
「そういう問題じゃない。おまえのためを思って言っているんだぞ」
町長の家の庭は、木々や雑草は生えているが手入れは行き届いていた。木々の向こう、家のすぐ脇にテーブルと椅子が置かれていて、二人はそこで話していた。リンカは木の影に身を隠しながら二人の会話に聞き入る。
「頑張ってなれるものなら応援する。しかし、おまえの場合は完全に不可能なんだぞ」
「そんなことない! きっとなんとかなるはずだよ! 父さんは……父さんは!」
「ミナトよ。デモンズファクトはそんなに甘くはない。侵された者は魔の瘴気を帯び、聖なる施しを全てはね除けてしまうと言っただろう。聖なる力を行使する勇者にどうしてなれると言える?」
デモンズファクト。リンカも聞いたことのある名前だった。魔族が調合したと言われる薬剤の一種である。使用者は服用することで一時の快楽と爆発的に高まった身体能力を得ることが出来るが、代わりに深い呪いをかけられることになる。
感情が高ぶると破壊衝動に目覚めてしまう。風貌も変わり、正に悪魔の様相となり、誰彼構わず襲うようになるという悪魔の薬だ。
ただ、一番の問題はそこではない。それはリンカも承知しているようだった。
「だって……違うよ。約束したんだ! 僕は勇者になるって! 父さんと約束したんだ! その父さんがそんなこと!」
「現実を見ろ。あいつは……おまえの父親は、家族がありながら、効果を全てわかっていながらアレを使ったんだ」
嘘。黒いものが腹の奥底で渦巻く。
父親も母親もリンカは覚えていなかった。物心つく前にこの町を出て行ってしまったからだ。顔も何も、抱き上げられた記憶すら残ってはいなかった。
それでも自分の父親がそんなことをしたとは信じがたかった。
なぜなら、デモンズファクトは禁忌の薬。一度飲めば解呪は出来ず、呪いは血へ染み込み、子孫にまで及ぶ。
中でも使い手の実の子には、明確に呪いは受け継がれてしまう。
「おまえの父親は咎人だ。いいか、人の一生は短い。なれないものはなれないと……」
「ちがうったらちがうんだ! 約束したんだ! 父さんは、父さんは……!」
そう言ってミナトは踵を返して駆け出した。制止する町長を振り切ってリンカの方へと向かってくる。
まずい。咄嗟に顔を引っ込めると全く気付かなかったらしい、そのまま通り過ぎていってしまう。ただ、駆け抜けていく際に彼の顔だけは見ることが出来た。
「ミナト、泣いてた……」
勇者になるのはミナトの夢だ。ずっと何年も聞かされ続けてきた。
けれど、それが絶対に叶わぬものなのだとしたら。努力し続けたとしても全部徒労に終わるだけなのだとしたら。それが実の父親のせいなのだとしたら。
彼女は一人思う。私はどうしたらいいのだろう、と。