この国一番の賢者
おそらく2時間ほど経った頃だろうか。
椅子に座ったままふーっと息を吐き、体を伸ばした。
時計はあるにはあるが読み方の見当がつかず、どれくらい時間が経ったのかイマイチわからない。
針があるのは同じだが一本しかなく、数字も1から12ではなく文字が上下左右に4つしかないのだ。
私の感覚が正しければ今は午後3時頃のはず。
この世界も一日が24時間とは限らないが、昼食からそれほど時間は経ってないだろう。
(とりあえず、もう少し読み進めるか)
映画の見様見真似で使ってみた羽ペンにもようやく慣れた。
机の引き出しに入っていた紙に、推測ではどうしてみわからなかった単語を書き出していく作業をどんどん進めていった。
***
コンコン──。
誰かが扉を叩く音がする。
『私です。お話ししたいことがあるので、少々お時間いただいても構わないでしょうか』
頭の中にセハリスさんの声が響いた。
『いいですよ。どうぞお入りください』
そう告げると同時に私は椅子から立ち上がり、扉の前で彼を出迎えた。
立ち話もどうかと思い、コーヒーテーブルで話すことを提案する。
セハリスさんは朝会ったときと変わらぬ優雅な身のこなしで部屋に入り、ソファに腰掛けた。
『早速勉強を始められたのですね。感心しました』
にっこり笑いながらセハリスさんが言った。
『感心するようなことではないですよ。新しい言語を学ぶのは元々趣味のようなものでしたし。それに、ここに来てからは他にすることもないので』
『そうですか。なにか勉強に必要なものはありますか? それに、もしそうしたいのなら、自由に城内を探索していただいてもいいですよ。あなたの存在についてはすでに警備兵には伝えていますので』
『ありがとうございます。ここの本棚にある絵本を全て読み尽くしたら図書館に行ければいいな、と思っていましたが……近くにありますか? あとは、文字と発音の規則を学びたいのですが、たまにでいいですので、誰かお借りすることはできるでしょうか?』
『図書館は城内に三つありますので、必要になったときにまた案内しましょう。先生については、講師として相応しい人物に一人心当たりがあります。時間のあるときに頼めるか聞いておきますね』
(図書館が三つ!? 異世界と思っていたけど、もしかしてここは天国なの!?)
図書館は元の世界にいたときも世界で三番目に好きな場所だった。
ちなみに、一番は自分の部屋、二番目は大学だ。
『ありがとうございます。ますます学習が捗りそうです』
未知の知識の宝庫に出会えそうな気配に、思わずよだれが出そうになるのをなんとか抑えながら言う。
『それは良かった。他にはなにか──』
セハリスさんが続きを終える前に、夕食の時間を告げる鐘がなった。
『夕食の時間ですね。話し足りないこともありますし、もしよろしければ私の部屋で食べながら話しませんか?』
(……うーん、よく知らない男性の部屋に入るのはどうかと思うけど、大丈夫だよね。セハリスさんって中性的だし)
私は一つ返事で彼の申し出を受けた。
**
再び訪れたセハリスさんの部屋は、朝とほとんど変わりなかった。
しかし、昼間よりもかなり薄暗く、大きさの異なる光の玉が何個かぼんやりと浮かんでいる。
そのせいか、どこか怪しげな雰囲気を醸し出していた。
見る人によってはロマンチックとも言えるのかも知れないが、生憎そんな感情は持ち合わせていない。
食事は朝のように部屋中央のローテーブルがある場所で行うかと思いきや、先に部屋に入ったセハリスさんはそこを脇目も振らず通り過ぎた。
そして、私が座っていたソファのちょうど後ろにある大きなガラス扉を押し開く。
(こんな扉あったっけ……?)
ふと、扉の両端を見ると、朝閉められていたカーテンがそこに纏められていた。
カーテンがあったせいで朝は気付けなかったのだろう。
扉の先には、城下を一望できるテラスがあった。
ダイニングテーブルを置いていてもスペースが余るほど広い。
まわりは白い柵に囲まれており、きらきらと光る夜景がとても美しかった。
『どうぞ、タマキ。こちらへ』
まるで自分の意思を持つかのように椅子がひとりでに引かれる。
セハリスさんは私の手を取り、その椅子へ座らせた。
私がお礼を言うと、彼はするりと自分の椅子に腰掛けた。
それと同時に、扉を誰かがノックする音が聞こえた。
セハリスさんは一向に返事をする様子がない。
しかし、扉は勝手に開かれ、食事を乗せたカートとともに、グレーの給仕服姿の女性が部屋の入り口に姿を見せた。
そして、なんとも不思議なことに、次に私がセハリスさんのほうを見たときには、カートにあったはずの食事が全てテーブルの上にきれいに並べられていたのだ。
給仕服の女性は深くお辞儀をしたのち、カートだけを持って立ち去った。
『ああ、すっかり忘れていました』
彼はそう言って、テーブルの中央に部屋の中に浮かんでいた同じ光の玉を発現させる。
『さて、いただきましょうか』
目の前で続く驚きの連続に、私は言葉を失ったままだった。
*
『セハリスさんって、一体何者なんですか』
やけに難易度の高そうな魔法を軽々と行使し、他者と言葉を介さず会話することもできる。
この世界の人がどれほど魔法が使えるかは知らないし、セハリスさんとも接した時間は短いが、この人がこの世界でも異色な存在であることは薄々と感じていた。
『なにを言っているのですか? 私はしがない賢者。それ以上でもそれ以下でもありません。少し魔力が膨大であることと、この国の王に助言を与える立場を任されるほどあらゆる分野に精通していることを除いては、あなたが今日食堂で見たローブ姿の者たちと大差ない存在だと思っていただいて間違いはありません』
『……大差しかないじゃないですか』
『全くなにをおっしゃるのか。私の心はいつでも見習い賢者の頃のままですよ』
『こんな見習い賢者いたら嫌ですよ』
『私にそんなことを言うのは、あなたとクリフォードくらいのものですよ』
セハリスさんはクスクスと笑った。
『さて、冗談はこのへんにして、改めて自己紹介させていただきます。私はこの国の王付き賢者を任されている、セハリス・ロウヘルムです』
『王付き賢者、というと王様直属の賢者ということですよね。王様の方針に助言するような立場ということは、もしかして王族の方たちの次くらいに地位が高いのですか?』
『そうなりますね。ここは貴族制度もなく、完全実力主義の国。地方はそれぞれの地域を代表する優秀な役人たちが管理しており、国に関わることは国王と中央機関の役人が取り仕切っています。王族は国家の象徴として崇められていますが、実権を持つのは国王ただ一人です。なので、実質私がこの国のナンバー2になりますね』
上質な赤ワインが入ったグラスを片手に、セハリスさんはにこりと微笑む。
この人は本当に賢者なのだろうか。
実は魔王だと言われても、今ならごく自然に受け入れられる気がする。
『そうなんですか。実力主義ということですが、役人の方たちはどのように選ばれているのですか?』
私は、きれいに盛り付けられたローストビーフのような肉料理を口に運びながら聞く。
『すべての役人は国王、中央機関のそれぞれの部門を管轄する代表者、そして私によって最終的に決定されます。決定する際は、部下やそれぞれの地方で暮らす住人からの評価、功績、人柄などの要素を総合的に見て判断しています』
『私がいた世界では役人はその地域や国に住む人の投票によって決められていましたが、公平に選ぶことが出来るなら、その方法も素晴らしいと思います』
『公平に、ですか……。確かに賄賂を渡すなどして上に選んでもらうことは可能です。私の目を掻い潜ることができれば、の話ですが。成功率は限りなく低いので、この国では不可能だと断言しておきましょう。ということですので、公平さは私が保証しますよ』
セハリスさんの笑顔が黒い。
『ところで、あなたはいつになればセハリスと呼んでくれるのですか? 私はこんなにも親しげに接しているというのに』
拗ねたような顔でセハリスさんが言った。
『国王の次に権力がある人を呼び捨てることなんてできませんよ! それに、こう見えても私はもう十分親しく話しているつもりなんですよ』
『そうなのですか? 敬語も止めていただいてもいいのですが……』
『そもそもセハリスさんが敬語じゃないですか』
『私はこういう仕様です。それに、敬語のほうが大賢者感が出ていいでしょう』
(他者に与えるイメージを気にしている事実で大賢者感が台無しになっているような気がする……)
『タマキ、失礼ですよ』
少しむくれたような表情でセハリスさんが言う。
不毛な言い争いはしばらく続いた。