十一話 凄い人
食堂では既に多くの生徒が卓に着いていた。野菜や香辛料のいい匂いがふわりと漂っている。
「それでは坊ちゃん。少し待っていて下さいね」
ヒナはそう言って頭を下げ、厨房へと駆けていった。生徒に同行した世話係は寮での仕事として炊事を義務付けられている。個々の食べたい物を別々に作るのは効率が悪い為、決まった料理を皆で手分けして作る。ヒナもレンと合流する直前までは仕込みを手伝っていたのだった。
「おやヒナちゃん。レン君とは無事に会えたみたいだねぇ」
「料理長さん!」
ヒナは厨房奥でせっせと鍋を振る大柄な男性に頭を下げる。
男子寮食堂の料理長、ボナペティ・ボナパルトだ。豊かな腹と口髭を揺すりながら慣れた手つきで鍋とフライパンを宙に舞わせている。
「君の皮剥きは丁寧だったね。薄く剥いてあって。おかげでたくさん食べられるよ」
「勤め先で教わったんです。食べ物は高くても安くても大事に扱えって」
ヒナはそう言いながらスープを皿によそいパンとステーキを盛り付ける。
「そりゃあいい心がけだ。みんなにも見習って貰わないとな。ねえみんな?」
「ウオッス!ボナペティ親方!」
ボナペティに並んで窯に向かい合う男たちが威勢良く答える。日に200人を超える男子生徒達の料理を作る集団は、止まっている姿を見る者がいないと言われる程に隙間なく動き回っていた。
「というわけだ。これからもよろしく頼むねヒナちゃん」
「はい!それでは失礼します!」
ヒナは料理を盆に乗せて厨房を出て行った。
「さ、もう一仕事だみんな。これからが正念場だぞ。気合い入れて行こう!」
ウオォーーーーッス!
厨房からはいつも通りの熱気と活気といい匂いが溢れかえっていた。
「お待たせしました坊ちゃん!」
「わあ、美味しそう!いただきま……あ、そうだ。ミゲルと約束してたんだ」
レンは食べ始めようとして、夕食時にミゲルと会う約束をしていたのを思い出した。顔を上げて探そうとすると、ちょうどテーブルの対面にミゲルが盆を持って座ってくるところだった。
「よお。すぐ見つかったぜ」
「ミゲル。良かった。それじゃあ食べよっか。ヒナは?」
「私はもう済ませました。坊ちゃんはお友達とお食事をお楽しみ下さい」
ヒナは他人の前というのもあり、いつもより慇懃な口調で話すと、邪魔をしないよう食堂の壁に控えた。
「…………」
それを寂しそうに見つめるレンを見たミゲルは優しく微笑んだ。
「普段は随分と仲が良いみたいだな」
「うん。分かるの?」
「お前は分かりやすいからな。少し見れば分かるよ。いつもより遠くに感じたんだろ?周りの目を気にしてなるべく上下関係をはっきりさせておかないと、主人のお前が安く見られると考えたんだろうよ」
「むむむ……そうなのかな?よく分かんないや」
「そうだな。俺も誰かの下に付いたことはないからはっきりとは分からない。けど、そうまでして仕えたいと思わせる程の凄い奴なんだよお前は」
「え〜?僕そんなに凄くないよ」
「そうか。まあ、気になるなら本人に訊いてみることだ」
話しているうちに2人は食べ終え、食器を返却棚に預けた。ミゲルと別れ、レンとヒナは自室に戻る。
「ねえヒナ」
食後の茶を淹れていたヒナに、レンはふと声をかけた。
「なんですか坊ちゃん?」
「僕って凄いのかな?」
「はい」
即答だった。ヒナを見ると、当たり前のことを言った風な様子でカップに茶を注ぐ。あまりにあっさりとした返答に、レンは目を丸くして固まった。
「そっか……そうなのかな」
「そうです。坊ちゃんは凄い人なんです」
「どの辺りが?」
「あらゆる所がです」
「ええー?それじゃ分かんないよ」
「そうですねえ……それじゃあ、私が最初に坊ちゃんを凄いと思ったことから話しましょうか」
ヒナはそう言うと、レンとヒナが初めて出会った日のことを語り出した。
☆
空を見なくなって何日経っただろう。
今の私に見えるのは、地面とその上を通り過ぎて行く通行人の足元だけだ。
貧乏な家に産まれた私は、小さな頃から家の手伝いをしていた。苦しかったが、毎日が充実していたように思える。
しかし、ある年の飢饉は凄まじく、家族5人が食っていく為にはまともな方法で稼いでいては追いつかなかった。
身売りは私が自分から言い出した話だ。だから、後悔なんてない。そう思いながら、5年間歯を食いしばって耐え凌いだ。
そのはずなのに、視界が滲みだす。遠い異国の地に飛ばされ、些細なミスで追い出され、行くあてもなくいつの間にか貧民街に辿り着いた。
ふと、もう二度と会えないであろう家族の顔が脳裏に浮かぶ。大好きなみんなの為と思いながら、辛いことも苦しいことも必死で耐えてきた日々を思い出すと、涙が後から後から溢れ出てくる。
それももう、終わる。
もう何日も食べていない。水すらも、雨水が最後だった。この涙が、私の中に残っている最後の水だと思った。
フラフラと亡霊のように彷徨い歩き、何処とも知らぬ場所で力尽き、倒れ込んだ。
私の人生、こんなものなんだろうか。
「──────」
声。子供の元気な声が辛うじて鼓膜を揺らす。兄や姉の声色もこんなだっただろうかと、記憶を辿る気力すら失せかけていた。
「────ぇ」
視界が暗くなる。目の前にぴたりと揃った両足が映る。
「ねぇ。お姉ちゃん大丈夫?」
気付いたら、見上げていた。
指一本動かす体力も気力も無かったはずなのに。その声に、自分の中の何かが勝手に反応した。
眩しい光に目を瞑るかのように。
美味しそうな匂いのする方に振り向くかのように。
「…………」
小さな男の子が私を覗き込んでいる。心配そうに眉を垂らし、両膝を地につけて顔を近付けてくる。大きな宝石のような目に写る私は、なんともか弱く、今にも消えてしまいそうな顔をしていた。
「──────」
わたしは、だいじょうぶ。
かすれた喉からは音が出ない。唇もまともに動かなかった。
「大丈夫なわけないじゃん!」
男の子の大きな声が鼓膜を震わせる。その声が、私の中の何かを熱くさせた。
枯れて、冷めて、止まって、終わっていくはずだった私の身体に力が戻っていくのを感じる。
「待ってて。すぐ母さんのところに連れて行くから。絶対になんとかするから」
名も知らぬ男の子は、名も知らぬ私を背負って走り出した。つま先が何度か地面に擦れる。それくらい小さな子が、私を背負ってくれている。私の命を抱えてくれている。
男の子は私を背負いながら何度も声をかけてくれた。
「死んじゃダメだよ。お姉ちゃんはまだまだたくさん生きられるよ。楽しいこと、これからたくさんあるはずだよ。ここで終わったらもったいないよ」
枯れたはずの私の目からは、大粒の涙が溢れていた。
☆
「──あそこで坊ちゃんに出会えなかったら、きっと私は死んでいたでしょう。そして坊ちゃんやママがいなかったら、私は今ここでこうして坊ちゃんの世話係として学校にいることはなかったでしょう。坊ちゃんは、私の命をもう一度輝かせてくれたんです。だから坊ちゃんは凄い人なんですよ」
ヒナは思い出しながらハンカチで涙を拭う。
「そっか。それって凄いことなんだね」
レンは当時の様子を語るヒナを見て、自分の行動が周りに与えた影響の大きさを考える。
「うふふ。坊ちゃん。今日は久し振りに一緒に寝ましょうか?」
「うん!」
レンはいつものヒナに戻ってくれたことを嬉しく思い、笑顔で答えた。