女王として
セントーリア王国は、風土に適した作物を栽培しつつ酪農も盛んで、特にヒレーネ山脈から吹き下ろす風は特産品である生ハム作りには最適だった。
近隣諸国から商人達が買い付けに訪れるおかげで国全体にも活気があり、弱小国家ながらも細々と繁栄している。
ドゥーガルドと名乗った青年は、今まさに目の前で特産品の生ハムと赤ワインを楽しんでいた。
「リリーローゼ様も召し上がります?」
「お気遣いありがとうございます。けれど今は、食欲がないので」
リリーローゼとしてはなぜこんな状況になっているのかを問い質したいのだが、いかんせん気が弱いために作り笑いを返すしかできない。提供した側が感謝を述べるという不思議な状況だ。
「そうですか? おいしいんですがねぇ」
そもそも紅茶とお茶請けを用意するつもりだったのに、巧みな誘導に乗せられ酒まで出してしまったのが敗因だろう。
リリーローゼは現在、私室の応接間にドゥーガルドを招き入れていた。
もちろん部屋の隅には侍女が控えており、二人きりではない。彼を急な来客として扱うよう頼んだ彼女達には、細かな事情は伏せていた。
とはいえリリーローゼ自身、彼について説明する言葉を持たないのが実情だ。
それでも、捨て置いていいとはどうしても思えなかった。彼を無視できない。改めて詳しい話を聞くべきだと。
その判断だけは間違っていなかったと思う。
「あの、ドゥーガルド様。先ほどのお話ですが」
「リリーローゼ様、私はあなたの部下なのですから、敬語は必要ありません」
どうしよう、話が通じない。
なぜドゥーガルドと膝を付き合わせているのか、根本的なところから分からなくなってきた。やはり間違っていたかもしれない。
緩く頭を振り、リリーローゼは気を取り直した。
「あなたが何者なのか、信頼してもよいのか、わたくしには判断できません」
「リリーローゼ様、敬語」
「……分からないなりに考えてみたのですが、あなたはもしや先ほどおっしゃっていた、精鋭の内のお一人ではございませんか?」
つかみ所のない彼の主張は聞き流すことにして、リリーローゼはソファから身を乗り出す。
至極真面目に推論を披露したのに、向かいに座るドゥーガルドには、一笑に付されて終わった。
「私の言葉を信じてくださるのは嬉しいですがね。私があのやたら個性の強い精鋭の一員だなんて、不名誉すぎる誤解です」
「……あなたも十分くせが強い、」
「不名誉です。そしてリリーローゼ様、敬語」
そういうところだ、と思ったけれどリリーローゼが本心を告げられるはずなどなかった。
「リリーローゼ様。ここからは、あまり人に聞かれたくない話になります」
暗に、侍女達を下がらせろと言っている。選択を迫られているとリリーローゼは直感した。
こんなにも胡散臭い彼を信じて、二人きりになれるか。なれないなら話もそこまでだと。
ーーそうしてきっと見限るんだわ。その程度の決断もできないような人間には、用がないと……。
震えそうになる膝を、つま先にグッと力を込めてねじ伏せた。
強ばった顔ではまともな笑顔は作れなかったけれど、何とか平静を装いながら侍女達を振り返る。
「あなた達、ここは結構です。下がってください」
彼女達は訝る様子もなく、静かに退室していく。ただ一人、最後尾のメイドが一度だけ振り返った。
彼女は、十年以上仕えてくれているリリーローゼ付きのメイドだ。
どこか夜のような雰囲気をまとう美女で、不安げに下げられた目尻のほくろが艶っぽい。
心配させまいと頷き返してみても、彼女はますます愁眉を寄せるだけだった。
扉が、ゆっくりと閉じられる。
リリーローゼは改めて青年と向き合った。
彼の底知れぬ笑顔は相変わらずだが、どうやら及第点はもらえたらしい。
いつの間にかこちらが採点される立場になっていたことに首を傾げていると、彼から口を開いた。
「何者かも分からない上、嘘をついているかもしれない。ーー私が恐ろしくありませんか?」
「……正直、怖いです。できることなら、すぐにでも相談できる誰かを呼びたい」
先ほどのメイドや、実の親のように慕っている宮廷魔導士。リリーローゼにも少ないながら、信頼できる相手はいる。
彼らを頼らなかったのはひとえに、笑顔の奥に冷淡さを宿したドゥーガルドの緑瞳が、安易な道を選ぶことを許さなかったためだ。
「まずはあなたの話を聞いて、信用できるか見極めます。あなたのおっしゃる精鋭や未来について、詳しく教えてください」
彼は、くつろいだ様子で足を組み換えた。
「生憎、私は精鋭らとは付き合いが浅く、通り名で呼び合っておりました。それぞれ『黒剣』、『凶刃』、『闇医者』、『陽炎』です」
リリーローゼの弱気が、すぐ顔を出した。何だか物騒な通り名が多すぎる。
「たとえば顔を確認すれば、どなたが精鋭であるのか分かるのですか?」
「もちろん、と言いたいところですが、『陽炎』だけは顔も声も分かりません。ですが他の者は知っているので、兵力を集める手伝いはできるかと」
「兵力だなんて、そんな恐ろしい」
単語だけでも不穏で、リリーローゼは体を震わせた。彼の言葉が全て正しかったらと思うとーー。
「三年後、王国が危機に陥るというのなら……わたくしにできることなんて、首を差し出すくらいじゃないでしょうか?」
速やかに国を譲り渡してしまえば、国民には被害が及ばない。
属国となってセントーリア王国の名は消えてしまうだろうが、リリーローゼの命一つで誰もが救われるはずだ。
決死の覚悟で口にしたのに、ドゥーガルドの失笑を買うだけだった。
「やれやれ。首を差し出すなんて、物騒なことをおっしゃいますね」
他人事のような言い草が少々不満だった。誰のせいでこれほど思い悩んでいると思っているのか。
「わたくしだって恐ろしいに決まっています。けれど、王女としての教養しか受けていないわたくしにできることは、とても少ない。悲しいですが、それが一番簡単な解決方法ではないでしょうか?」
「あなたも前向きなのか後ろ向きなのか、弱虫なのか豪胆なのか分からない方ですねぇ」
ドゥーガルドは嘆かわしいとばかり首を振った。
「ですが、あなたが首を差し出したところで北方帝国の強攻姿勢が切り替わるとは思えません。現在は第七王子が失踪しているらしいので、侵略行為自体は比較的緩やかになっておりますけどね。次期皇帝と言われる第五皇子は冷酷で、人の命を奪うことに何の痛痒も感じないとか。彼が指揮を執っているなら、セントーリアは蹂躙され尽くすでしょう」
ごくり、と喉が鳴った。
リリーローゼが選択しないことによっても、人が死ぬかもしれない。そんなことを言われて平静でいられるはずがなかった。
「そんなことおっしゃられても、わたくしに、この、何にもできないわたくしに、国を救えるはずなどないでしょう!?」
「ものすごく投げやりなのにご自身が正確に見えていらっしゃるのは、果たして長所なのか短所なのか。ーーですが」
ドゥーガルドは適当に相槌を打ちつつも、不意に声音を低くした。緑の瞳が切れそうに鋭さを増す。
「それとこれとは別です。あなたにしかできないことは、厳然としてある」
「首を、差し出すこと以外で?」
「そろそろ首から離れましょうか」
彼は銀縁眼鏡をきっちりとかけ直した。
「あなたには未来の部下達を探す以外にも、帝国と交渉ができる程度に成長していただく必要があります。つきましては、この国の歴史や社会情勢など、様々な知識を詰め込ませていただきますので、そのおつもりで」
しばらくは、とにかく女王として勉強漬けの日々ということか。
なぜか自然と彼の指示通り動くことになっており、リリーローゼは慌てて立ち上がった。
「待ってください! わたくし、あなたの言葉を信用したわけではありません! 大体、何でわたくしばかりこんなに次から次へと……」
この先どうすればいいのかなんて分からない。考えたくもない。
けれどだからと言って、この何者なのかも分からない青年に先行きを決め付けられたくはなかった。
涙目で震えながら問うも、彼は素っ気ない視線を返すばかりだった。
「それは、神にでもお聞きした方がいいのでは?」
ドゥーガルドもまたソファから体を離すと、テーブルを回り込んでリリーローゼの傍らに立った。
銀縁眼鏡の向こうの瞳は深い森の色合いだ。灰色を帯びた緑の瞳は美しいのに、やはり闇を覗き込んでいるような心地になる。
胡散臭い笑みを浮かべて、冗談としか思えないことばかり言うけれど。
怖い人だ、と思った。計り知れない人だとも。
「仮に女王の義務を放棄したいとおっしゃるのなら、それでも構いません。ですが、一般常識さえない者が無一文で放り出された行く末など、面白いものではないでしょうね。素顔が知られればモルダンジア兵に捕らえられる可能性だってありますし」
仮にも王女を、彼は無一文で放り出す気だ。
ドゥーガルドにそんな権限はないと心の中で反論しつつ、けれど彼ならば有言実行してしまいそうな空恐ろしさを感じる。
「あなたが選ぶべきは、私を信用するかしないかではありません。国が滅びるのをただ座して待つかーー運命に抗うか」
春の日射しで温かい応接間が、常冬のように底冷えして感じた。まるで彼がこの場の支配者だ。
眼鏡が反射してドゥーガルドの表情は窺えない。それでもはっきり弧を描く唇に、寒気を感じた。
彼が指示したのは、女王として身に付けねばならないことが大半だった。精鋭を探す以外は、全て。
ドゥーガルドは、信じなくてもいいと言った。
ならばリリーローゼは、最善を選びたい。
あらゆる可能性を考え、将来に備える。国を背負う者として大切なことだ。
ーーそれなら、わたくしは……。
リリーローゼは間近で見下ろす恐ろしい青年を、真っ直ぐに見返した。
「分かりました。あなたを信用したわけではありません。けれど、しばらくはあなたに従ってみようと思います」
「頑張って勉強いたしましょうね。マナーや社交術は問題ないでしょうが、帝王学や近隣諸国の産業や歴史、王国との関係などはもう一度学び直していただきます。早急に完璧に仕上げましょう。私ももちろん補佐いたします」
「……分かりました」
従順に頷くと、彼は満足げな笑顔になった。
鼻歌でも歌い出しそうな足取りでワインの元へと戻っていく。
まず、経歴不詳のドゥーガルドの立場を確立するところから始めなければならない。先行きが思いやられ、リリーローゼは頭痛を感じた。
「――あぁ。思い出しました」
ドゥーガルドはワイングラスをくゆらせながら、ふと口を開いた。
「精鋭の一人、『闇医者』。彼は確か、グレスティと呼ばれておりました」
「グ、グレスティですって……!?」
グレスティ。
それは、王国が誇る最高の宮廷魔導士。
そしてリリーローゼにとってはーー実の親のように慕っている男性だった。