1-1 嶋吉真祐
目を覚ますと、そこにはいつもの見慣れた光景が広がっていた。
少しだけ戸が開いたままのクローゼット。テスト週間が近づくまで一向に片付く気配のない勉強机。
全てに見覚えがある。
寝起きの冴えない頭でもここが自分の部屋だとすぐに認識できる。
俺はベッド脇の携帯を充電器から引き抜くと、画面に映し出された時計を確認した。
やはり、いつものアラームよりも先に起きてしまったようだ。
一般的に勝負事に関して言えば、何よりもまず勝つに越したことはないのだが、アラームに勝ってしまうということほど素直に喜べないことも珍しいのではないだろうか。
このまま、また眠りについてしまいたいところだが、今までの経験上そのまま寝過ごす可能性が非常に高い。俺はアラームを解除するとおもむろに起き上がり洗面台へと向かった。
顔を洗って着替えを済ませてから一階に降りるとリビングではテレビが点いていた。
朝のニュースが流れていたが、それにはまるで関心がないかのように背を向けて妹の美優樹が黙々と朝食を食べていた。
美優樹は、いつもよりも早い時間に現れた俺を見て驚くと、口にまだ物をいれたままにも関わらずしゃべり出した。
はっきりと聞き取れたわけではないが、状況的にも「おはよう」と言っているだろうということは察せた。
しかし、美優樹はそのあとも続けて何かをしゃべっている。
すまないが、、、いくら長年過ごした仲とはいえ、それは聞き取れない。
妹が何を言っているか見当もつかないが、とりあえず俺は適当に返事をして美優樹の対面に座った。
テーブルにはすでに俺の分の朝食も置かれいた。あとは白飯だけか。
だが俺は台所に向かう前にテーブルに置かれた牛乳を注いで飲み干した。
美優樹はその間で口の中を空っぽにしたようで、どうやらさっきと同じ質問を俺にした。
「今日は早いじゃん。なんかあるの?」
「いや、何も? ただ朝から不本意ながら勝利してしまっただけ」
ただ朝からアラームに勝利したことを報告しても美優樹には何のことかさっぱりだろう。
自分でも意地の悪いことを言っていると思う。
「そーなんだ!それじゃあ、今朝から勝利の余韻に浸ってる最中ってわけね」
美優樹の予想外の反応に少し困惑した。
我が妹ながら朝からよくこんな元気があるものだと感心するが、自分から訳の分からないことを言った手前、無下にあしらうこともできない。
「余韻よりも勝因の方が気になるけどな」
「勝って兜の緒を締めよ的な?」
「どちらかと言うと緩めたいな」
「そのまま足元すくわれちゃうよ?」
「その時はその時だな」
「勝因も余韻いらないね」
俺は「そうか?」と呟くと、台所に白飯をよそいにいこうと席を立った。すると、「私も」という声とともに目の前に空になった茶碗が差し出された。
、、、相変わらずよく食べるやつだ。
朝食を食べ終えると、そのままいつものように出かける準備を始めた。もう少し家でゆっくりしようとも思ったのだが、なんとなく今日は早めに家を出ることにした。
家を出てしばらく歩くと近所の大きな公園に着く。最寄りの駅へはこの公園内を通ることで近道ができる。
公園には大きな池があり、その周りはランニングコースにもなっている。そこを自転車で颯爽と走って通学できたなら最高に気持ちがいいのだが、駅までは段差も多く芝生や砂利道あったりと、自転車での通学には少し不向きとなっている。
そんな訳で、そのランニングコースを不本意ながらも歩いている時、池の反対側の茂みの奥に何やら人影が見えた。
いつもなら気にせずにそのまま行ってしまうところだが、今日は時間にも余裕がある。
なんとなく茂みの奥をのぞくと、そこには誰かがしゃがみこんでいた。
よく見るとそれは見慣れた格好をしていて、俺が通う高校の女子制服を着ていた。
もしかして知り合いだろうか、と目を凝らしていると、ふいに振り向いたその人と目が合ってしまった。
俺はその人を知っていた。しかし、彼女はおそらく俺のことは知らないだろう。学校で見かけたこともあるし名前も知っているが、俺のことなど認知すらしていないだろう。何故なら彼女は学校では知らない人はいないだろうほどの有名人だからだ。
名前は「嶋吉真祐」で学年は3年。そして、我が高校の生徒会長だ。
品行方正で才色兼備、おまけに文武両道で特に運動おいては男子にも引けを取らないほどの実力の持ち主だ。
その完璧さゆえに女子からの人気も高く、バレンタインデーには男子も含めた全校生徒の中でも最も多くのチョコを貰ったという逸話があるほどだ。
そして、かくいう俺も例外に漏れずそんな彼女に憧れを抱いていた。
しかし、そんな生徒会長がなぜこんな公園の茂みなんかでこそこそしているのか。
不思議に思っていたが、彼女の足元と持っている物を見て、簡単に推理することができた。
彼女の足元には段ボールがあり、その手にはペットフードのような袋を持っていたからだ。
どうやら、ここで捨てられている子犬か子猫にでも餌をあげていたのだろう。
生徒会長ということもあり、いつも規律正しく厳しいというイメージを持っていたが、まさか通学途中の公園でペットの面倒も見てあげているいう以外な一面があることに驚いた。
家で飼うことはできないが、かといって見過ごせないからこうやって朝の通学前に餌をやりにきているのかと思うと親近感が湧いてくる。
俺はこのまま目が合った生徒会長に何か一言掛けることもできたのだろうが、そんなことはできず、軽くお辞儀だけすると、さっさとその場をあとにしてしまった。
声を掛ける勇気は残念ながら今の一瞬では湧いて来なかったが、生徒会長の秘密を自分だけが知ったということだけでも今日は良しとしよう。
それにここはいつも通る通学路だ。また早起きして登校すればここで会えるかもしれない。
そんな甘い思いを馳せながら歩いていると、
「ねぇ!!」
と突然大きな声で呼び止められた。
別にやましいことなどを考えていた訳ではないが、急に大声で呼ばれれば誰でも驚く。鼓動が早くなるのが分かる。
何事かと声のする方を振り向くと、生徒会長が早足でこっちに向かってきていた。
それを見てさらに鼓動が早くなる。まさか追ってくるとは。
「はいっ、、、何でしょう?」
俺は目の前まで近づいてきた彼女にできる限り平静を装って返事をした。
相手は先輩なので緊張するのは当然だが、それが憧れの生徒会長となれば余計緊張してしまうのも無理はない。
「君、うちの生徒でしょ。この道よく通るの?」
「はぁ、えぇ、まぁ、、」
俺はせっかくの生徒会長からの質問にも歯切れの悪い返事をしてしまった。
突然のことで頭が追い付いていないことも理由ではあるが、そもそも何故彼女は俺を呼び止めたのかが気になっていた。俺のコンピューターがあらゆる可能性をはじき出した
可能性としては今思いつく限りでは二つある。
まず一つ目の可能性が、ここで見たことを誰かに口外させないようするためだ。
生徒会長の立場はよく分からないが、このことが学校にばれると面倒なことになる場合もあるかもしれない。それならば、同じ学校の生徒であろう俺に口止めするのは当然のリスク回避と言える。
そして二つ目の可能性は、俺にもあのペットの世話に関与させようと考えていることだ。
他にも可能性はありそうだが、とりあえずはこの二つのどれかもしくは両方だろうか。
前者の口止めなら、口外する気はあまり無かったので構わないが、後者の子犬の世話を頼まれたとなると面倒だ。
生き物に関することを安請け合いしたくはないし、もし、何より成長期真っ只中の青年から半永久的に睡眠時間を削るなど由々しき問題だ。たとえ生徒会長の頼みでもそれは聞けない相談というものだ。
あれこれ俺が考えていると、彼女は少し戸惑うように言った。
「、、、そっか。 じゃあ、お願いがあるんだけど、、、」
どうやら生徒会長の態度から見ると、これは口止めではなさそうだ。
となると、やはりお願いしづらいペットのお世話になるだろう。こういうのは最初に毅然とした態度ではっきりと断らなければならないとどんどん断りづらくなる。
俺は絶対に断るという鋼鉄の意志を持って彼女の次の言葉を待っていると、彼女も意を決したかのように口を開いた。
「今日の放課後、ウチに来てくれないかな、、、」
・・・俺の鋼鉄の意志が音を立てて崩れていった。