エピローグ 廃墟に吹く風
わたしが絶句して、犯行の事実を認めると、ホームズは静かに微笑って驚くべき告白をはじめた。
「2年前の話です。英国軍は、東南アジアとロシア帝国下に強大化しつつある地下組織を牽制するために、新たな諜報機関の設立に取り掛かりました。その名は軍部諜報局略称MI。ぼくはその補佐官としてはたらくことになりました」
「なんだって⁉︎ 」わたしは叫んだ「それは初耳だぞ! 」
註釈 この機関の第6部門はMI6である。1909年、ロシアにおいて秘密結社として力を蓄えてきたポルシェービキに対抗するために作られた諜報機関であり、007号ことジェームズ=ボンドが所属したことで広く知られている。
「それはそうだよ。スパイである事を感づかれるほどぼくは藤四郎じゃない」ホームズは謎めいた微笑みを浮かべてわたしを見た「今はぼくはダブルオーワン・アルタモントという暗号名で活動を行っている。詳しいことは言えないけどね」
ともかく、とホームズは咳払いした。
「それがぼくの引退の理由の第一なのです。ぼくは『シャーロック=ホームズ』としての著名すぎる名が、今後の活動に邪魔になってきたのです」
ホームズは言って卓上のチーズクラッカーを口にした。
ホームズがなにか食べ始めるのは、事件の解決をみたときだ。すなわち、ホームズは目的を果たしたのだ。
「きみはいったい何のつもりだ、ホームズ」ドイルはホームズを怪訝そうなまなざしで見ていた「引退し名を隠すなら、なぜわたしに原稿を依頼した? 」
「ライヘンバッハの変奏曲ですよ」ホームズはバイオリンを弾く真似をしてみせた。
「変奏曲? 」
「あのとき用いた手段は、ぼくが小説上で死んだようにみせることによって、われわれの身に安全を確保したものです」
「うむ」ドイルは唸った。ホームズが実在していたならそれは有効な策となるはずだ、と納得がいったからだ。
「ところが、あなたは『ホームズ』を出してしまった。それはごく一部の、ホームズの敵にとっては見捨てておけない出来事だった」
ドイルは絶句した。それが、ドイルが独断で執筆したホームズもの『パスカーヴィル家の犬』をさすことは明白だ。ドイルは表情には出さなかったが、さぞかし肝が冷えていただろう。
「ドイルさん、あなたが大文豪になったように、ぼくもあの時のぼくではない。しかしあの時のぼくを、あなたは思い出して、それを小説にしてくれた。嬉しかった。だから、この件にけりをつけるために、ぼくはあなたに『空家の冒険』のリライトをたのんだのです」
「わたしが…」そのままホームズが黙ったので、ドイルは口を開いた「わたしがこの『空家の冒険』を書いたからどうだというのだ、…? 」
「『ボヘミア王家の醜聞』の手を流用することにしました。虚構を撃つには虚構をもって為す、すなわちホームズの完全な虚構化。それが、今後あなたにやってもらいたい最後の仕事です」
「ホームズの虚構化…? 」
「ぼくはアルタモントであってシャーロック=ホームズではない。ホームズはもともと、あなたの書いた小説にしか登場しないのです。ホームズの名を用いた小説のすべては、あなたに一任します。好きなように暴れさせてください」
ホームズはにやりと笑って、生かすも殺すもご自由に。…とつけ加えた。
「いいのかい、それで、ホームズ? 」わたしはやっと言った。
「いいのかもなにも。ワトソン、きみも来るんだ」
「え⁉︎ 」
「なんせ、きみはぼくを知りすぎているからね」ホームズはわたしにもにやりとしてみせた「ぼくときみが、完全にこの地上から消え去ること、それが唯一無二の解決方法なんだよ。ドイル卿にとっても、ぼくにとっても、そしてロンドンの愛すべきホームズ読者たちのためにも」
ドイルは既視感を覚えた。自分とその妻のために、ホームズが死んでくれた『最後の事件』の草稿が届いたときのそれを、たった今のことのように感じた。
「ホームズ。きさまは本当に、二度とこの世にはあらわれないというんだな? 」
「そうです! ドイルさん、ここであなたの『ホームズを憎む理由』を思い出してください。ぼくの見立てでは、それであなたがホームズものを廃棄する理由はなくなるはずなのです」
確かにそうであった。ドイルはホームズものを書くこと自体が、本当に嫌というわけではないのだった。
『ザンマイ』のためである。
ドイルが、何の束縛もなく、面白おかしくホームズものを書き続けることが互いのためなのだ。
「どうです、こんなところで、条件を飲んでもらえますか? 」
「考えさせてくれ。どうかわたしに、考える時間をくれ! 」
ドイルは絞り出すように言った。この質問にうなずくことが、目の前にいる二人の人間を地上から抹殺することになる、それがためらいの理由であった。
ホームズは困った表情をチラと浮かべたが、思い悩むドイルを背にサイドテーブルからブランデーグラスと琥珀色の瓶をつまみだし、卓上にならべた。
「サー・アーサー=コナン=ドイル、先生、乾杯をしましょう。とっときの、カミュ聖堂院の最高級品です」
「まだ、考え中だ」
「答えなどいつでもかまいませんよ」
ホームズはそれぞれのグラスに、ほんの一口分ずつ、琥珀色の液体を注ぎ分けた。そして手のひらで蓋をして香りが立つようにしながら、ドイルの前においた。最高級品ブランデーへの敬意を払った態度だった。
「カミュか…」ドイルは言って、ブランデーグラスに鼻を差し込むようにその芳醇な香りを楽しもうとした。
うっとドイルは呻いてグラスを取り落とした。ブランデーとは似ても似つかぬ強烈な刺激臭であった。
それはブランデーどころか、揮発性の高いエチルエーテルであった! それをうっかり吸い込んでしまったドイルはたまらず、ソファに沈むように倒れた。
「きさま、ホームズ…! 」
「さようなら、先生。次回作、あなたの本当の、オリジナルのホームズに、期待していますよ」
ドイルの脳裏に、ホームズの微笑みが残った。
それが最後の、名探偵の記憶であった。
廃墟に風が吹き込んでいた。
ドイルは自分が、古ぼけた廃屋の一室にいることに気がついた。
それは今までいた書斎に酷似していたが、埃がつもり、幾年もひとが出入りしたことのない形跡を呈した空家の部屋であった。
「ホームズ…? 」
めまいから来る吐き気を抑えながら、ドイルは、辺りを見回した。
夜の冷たい空気が、窓から流れ込む。
月夜だった。
さやかな月光が、窓の前に人影を浮かび上がらせる。
鳥打ち帽と、パイプの、特徴的なシルエット。
「ホームズ、きみか? 」
その影がうなずくように揺れた。
だがそれは、人形だった。うすっぺらい、紙細工の、だが精巧なシルエットは、夜風に揺れ、黙ってみていればホームズそのものの姿に見えた。
『空家の冒険』本編内で、悪漢モラン大佐にいっぱい喰わせた囮の人形であった。
ドイルは呆然と夜風に踊る人形をながめていたが、そのとき、不意に彼の脳内に着想の火花が炸裂した!
悪の建築業者による隠し部屋の設定。ホームズもののプロットとして上出来な、人を食った仕掛け!
「これなら、書ける! 」ドイルは感極まって叫んだ「おもしろい! 書けるぞ! 」
月明かりの下、快哉の声を上げながら、ドイルは一人ゲラゲラと笑い転げた。
註釈
1903年10月「ストランドマガジン」10月号に『空家の冒険』掲載さる。
1903年11月、同「ストランドマガジン」11月号に『ノーウッドの建築業者』掲載。
1903年12月、同「ストランドマガジン」12月号に、『踊る人形』掲載。
変奏曲『空家の冒険』 了