6.真犯人
「そのとおり、僕はあなたに生殺与奪を握られている。ホームズが実在していようと、ワトソンが記述したシナリオであろうと、あなたが『ホームズ死す』と書けば僕は死ぬのです」
ホームズはパイプをふかした。
「なぜならあなたが書いたものこそが、ホームズものの『聖典』なのです。それ以外はパスティーシュ、すなわち二次創作です」
「あたりまえだ」ドイルはにやりとした「わたし以外にホームズは書けやしない」
「さて…」
ホームズは踏み込んだ。
「ぼくは考えた。あなたは何故『パスカーヴィル家の事件』を書いたのか? 書かざるを得なかったのか? 」
「ファンサービスさ」ドイルは苦笑した。
「選挙のためです」はらりと言った「あの『番外編』は、ぼくたちに無断で、ぼくたちを利用した選挙広告塔です」
ホームズの独断的な挑戦状に、わたしは目を見張った。
「ケンカ売ってどうするホームズ⁉︎ 」
ホームズはかまわず続けた。
「簡単な推理ですよ。あなたはぼくを書くのが、つまり低俗な軽薄小説を書くのがいやでいやで仕方ないのだ。なのに、あなたはぼくたちの力を当てにしなくてはならなくなった」」
「そうさ。ホームズの集客力、求心力は並ならぬものがある。わたしは売名にホームズを使った」ドイルはふてぶてしく笑う。
わたしは、あの日、震えながら『白魔の森』を持って現れたドイルの姿を思い出した。
ホームズと似たところがあって、極度な人きらいである事を思わせたドイルは、いまや人の上に立つことを要求されるようになっていた。
「そう、読者たちに、わたしとホームズを同一化させる必要性が生じたのだ。これが読者に対する裏切り行為であるとは重々承知だ」
ドイルは嬉しそうに笑っていた。嬉しそうに? そう、わたしにもわかるほどそれは皮肉めいて嬉しそうな笑いだった。
ああ、この男は、一貫して読者と、ホームズを侮蔑しているんだ!
わたしはホームズを振り返った。
しかし彼は、圧倒的な敵意と憎悪をもってホームズを睨みつける大敵を、いつもの涼しい笑顔で見かえしていた。
ホームズはむしろにこやかに言った。
「そうではありません。ホームズに出会うのはロンドン市民のよろこび以外のなにものでもありません。作者の意図と世間の評判は必ずしも一致しないのです」
「この自惚れ屋が」
ドイルは吐き捨てるように言った。
ホームズは笑って受け流した。
「ホームズはみんなのものである、と先ほど言いましたね。そうなんです。ホームズという存在は、わたしでもあなたの創り出した虚像でもなく、それぞれの中にいるホームズなんです」
わたしはその言葉に少し驚いた。自分自身と大衆の評判は違う、ホームズ自身がそれを言ったのだ。
わたしには分かった。1902年の西藏での、とある事件からホームズは英雄と自己との乖離について考察していた。考察というよりなやんでいるのを、わたしは目にしてきたからだ。
そう、『パスカーヴィル家の犬』の発表以来だ。
わたしはおもわず口を挟んだ。
「ホームズが悩んでいるのはあなたのせいなんだ、ドイルさん。あなたは勝手にホームズを使った。まあ、おかげで鉄壁のアリバイができたわけだが」
「アリバイだと? 」
ドイルは目を見張った。
「知っていたのか、ワトソン…」
ホームズは困ったように笑って、わたしを見た。
「簡単な推理さ、君じゃなくてもね」
「いい推理だが、大はずれだ。それにチベットでぼくが犯した推理ミスのことは、この件と無関係だ」
「本当に違うのかね、ホームズ? 」わたしは食い下がった。
「おおいに的外れだ、ワトソン君。すなわちきみは、ぼくがドイル卿をやり込めて出版を認めさせることを念頭においている」
ズバリと本音を突かれわたしはうろたえた。
「そんなの当然じゃないか! だってこの小説の目的は、モランの一味を追い詰めることにあるんだろう? それなら彼をへこませて出版を認めさせねばならない! 」
「そういうことだろう? 」ドイルは含み笑って足を組み替えた「そしてわたしはもはやテコでもホームズ譚など書かない。別れを告げに来てくれたことを歓迎するよ、ホームズ」
そしてドイルは、ゆったりとワインを飲み干した。
「これまでに判っていることは…」ホームズは沈鬱に語りはじめた「ドイル卿、あなたはホームズを、ホームズ読者を、嫌い抜いているということです。そのうえで、あなたはホームズものを書くときにこの上にない『三昧境地』に入ることができる」
「ザンマイ…? 」
ドイルはその異国の言葉をおうむ返しに発音した。
「痛みや苦しみ、はたまた世の善悪、公序良俗のタブー、世間に蔓延する不条理、現世に存在するありとあらゆる苦痛や欲望をはなれた精神状態です」
ホームズの解説に、ドイルは吐胸を突かれたように詰まった。
「そのようなものがあるか。いや、たしかにわたしは小説を書くとき、ことにホームズものを書くとき、とてもリラックスするのだ。それは、炭酸で割ったワインを飲みながらスティーブンスンの『宝島』を読むように、わくわくと軽快として小説を書いている」
そして書いた後に悔やむのだ、とドイルははきすてた。
「悔やむ? 」思わず私は言った。
「小説とは、個人的に興味を持ち感動したことの、読者との共感覚を追求するものだ。激しく心動かされた事柄に関して書くからこそ、読者は心動かすのだ。そうでなくてはならないのだ。それがない作品は、わたしは認めたくなかった」
わたしは呼吸が詰まる思いがした。
じぶんが書いてきたホームズのシナリオが、音を立てて崩壊していくような感覚を覚えたのだ。
「ドイル卿、わたしは誓って、おもしろいとじぶんが信じるものを書いてきたのです! 」
「ワトソンくん、ドイル卿は、きみ以上にホームズものを楽しんで書いていたのだよ」
ホームズが冷たい目でわたしを見ていた。その目にはわたしはいくども遭遇していた。だが、その目が自分に向けられているのははじめてだった。
『しょくん、この事件の犯人を紹介します』
わたしは仰天して言った。
「ホームズ、きみが何を言い出すんだ。ドイル氏はわたしが書いたものをそのまま」
「小説というものはね、いや、ありとあらゆる表現は、テーマを描くものなのだ。テーマとは、じぶんの感動だ。きみが面白いと思って書くホームズ・レポートを精査し、ドイル卿がリライトした時点で、それはドイル氏の感動を表現した小説になっているんだ。ぼくがはじめてドイル氏に会ったときに言ったことを覚えているか? 」
わたしはハッとした。そして思い出したのだ、『白魔の森』を読んだときの、ホームズの感想を。
「この物語は史実に基づいた実話を再構成したものですね? 」
「そして、あなたなりに歴史の真実にせまった、そういった作品ですね! 」
ああ、ドイルがホームズを殺したいほど憎み、いずれはホームズ自身がドイルに別れを告げなくてはならなくなった、その原因は…
『ドイルはわたしの作品を、我慢ならなくなっていた』ことだった!
ホームズ殺しの犯人は、わたしだったのか!
「わたしが何を企んだというのだ、ホームズ⁉︎ 」
「きみは何も企んでいない。何かを企んでいたほうがよほどわかりやすい」
「未必の故意…」ホームズは言い放った「つまり善意による事実の改変、それがきみの犯した罪だ。きみはつねにホームズへの愛着によって事実を改変してきた、それが今のとてつもない乖離を生んだ。ぼくが言う。きみの書いたホームズはホームズではないのだ」
わたしはソファに崩折れた。わたしは、わたしは一体なにを書いていたのだろうか?
「たとえばきみはぼくの特異点表を克明に記していたね。これは、作家ならぬきみの目を通してみたホームズと仮定すると、ぼくへの愛着の表現、それに他ならない」
ああ、それは…
やっと自分の動機がわかって、わたしは満面に苦笑した。
「わたしが…、わたしがホームジアンだったのか! 」