5.遍在する英雄
「薄気味が悪い。君たちはまるでシャーロック=ホームズ読者のなれの果てだ! わたしに何としてでも、あの、いやなホームズものを書かせようとし続けている、マニアたちと同じではないか! 」
ドイルは青ざめてさけんだ。
わたしは口籠った。指摘はもっともであった。
ホームズもうなだれていた。
「そのとおりですよ。あなたが僕たちを呪い殺したいほど憎んでいたのはわかっていました。だから、僕たちは死んであげたんです」
ドイルはホームズの告白に、かえって落ち着きを取り戻した。
「やはりそうだったのか」
「寂しい別れでした。でも、僕たちはもう、違う道を歩むべきだった。モリアーティ教授の残党、生徒たちといった『実在する悪の結社』からあなたをなんとかして切り離さないといけなかった」
ホームズは読書机の小箱から、とてもいい香りのするインド産タバコ葉をとりだして、パイプに詰めなおした。
「あれでお別れでした。じっさい、その目論見は成功し、わたしたちはまんまと、きのうモランが逮捕されるまで、コナン=ドイルと、悪の美学の集大成たるモリアーティの生徒たちを偽装しきれた。ワトソンの手記。先生の想像力のつばさ、シドニー=バジェット画伯の素晴らしい構図の挿絵。そうして作られたホームズは、宿敵モリアーティ教授と相打って斃れた。ロンドンは英雄を失った。イギリス人は、心の友の死を知った。世界は、正義の使徒を喪失した! 」
ホームズはパイプを盛大にふかした。
「あ。先生もおやりください。こいつは最近出かけてきたインドで買い付けた、グダンガラムという丁子のタバコです」
「道理で、さっきから甘ったるい匂いがすると思ったよ。では一服、あやかろうか」
ドイルはスーツのポケットから原始的な吸煙具を取り出し、葉を詰め込む。
その一服のすすめは、怒鳴りつけようとしたタイミングを制された感じであった。
ふうっと煙を吐いてドイルはホームズをにらんだ。
「そのまま死んでいてくれればよかったものを」
「それはこちらの台詞ですよ、アーサー卿! 」ホームズは笑った「つまり、なぜ『パスカヴィル家の犬』を書いたのでしょうか? 」
「あれは、わたしが実際に関わった事件のフィクション・ドキュメントだったんだよ。あのケースでいえばホームズ役にあたるアンドリュー卿と発表前に仲違えしたのだ。彼の名で原稿のプロットを完成させていたわたしは、とっさに、ホームズ物語のキャラクターを思い出しながら書いたのだ。君たちを許したという意味ではない」
わたしは深く頷いた。さもあらん、彼がホームズを好きなはずはない。彼は本質的にはモリアーティ教授と同じはずなのだ。なにしろわたしの手記では、モリアーティ教授のモデルは、コナン=ドイル自身のつもりだったのであるのだから!
そしてドイルは、「ボヘミア王家醜聞事件」の時と同じようにホームズを広告塔にこの事件を「虚構化」している。
あのころの青二才の面影はもはやない。大文豪アーサー=コナン=ドイルは、世紀の名探偵ホームズに押しも押されぬ、ひとかどの人物となっていた。
そう、本質的に、ドイルとホームズは敵同士のようなものなのだ。
激しくにらみ合う二人の姿に誰が介入できるだろう。彼が圧倒的な大敵であることを、わたしはあらためて思い知った。
ドイルは酷薄な笑みを浮かべた。
「この原稿と手記は焼き捨てる。発表は許さない。今後ホームズものが描かれたら盗作として提訴する」
ひたとホームズを睨みつけていった。
ドイルはホームズに挑戦した!
この男が「空き家の冒険」を握りつぶしたら、それっきりだ! ホームズは敗北する!
「旗色が悪いよ。ホームズ」
「いいんだよ、ワトソン」ホームズは深い沈痛の表情で言った「この人の言っていることには筋が通っている」
「相変わらず強がりだな」ドイルはにやりと笑った「ホームズ本人だからこそわたしに勝つことはできない。小説とは名義上の作者に著作権がある。わたしが書いたものを公開しようが葬ろうが自由なのだ」
「全くもっておっしゃる通りです」ホームズは膝に肘をついていう「ですが、法的なもの、思想的なもののほかに、あなたがお忘れのことがあります。それは『ホームズはみんなのものになってしまった』ということです」
「ほ、ホームズはみんなのもの、だって⁉︎ 」ドイルはおうむ返しに呻いた「ホームズはわたしのものだ! 」