4.引退
わたしもさすがに冷や汗をかいていた。ホームズは探偵業を辞めるのだ。
「アーサー卿、今まで誠にありがとうございました。もう僕は、探偵である理由も、必然性もなくなったのです! 」ホームズは帽子をとって華麗に一揖した。
ドイルは絶句した。
ただ、グラスをとり、ボウモアをダブルできっちり注ぐと、ぐっと呑んだ。
「きみが、探偵でいたわけとは…? 」
「僕はいままで、モリアーティ一味を壊滅させるために行動していただけですよ」
「し、しかし全く関係のない手記がほとんどではないか! 」
「あ、あれはですな」わたしはあわてて言った「わたしが書いたシナリオなんです! 」
「なんだと! 」ドイルは怒鳴って、勢いのあまり咳こんだ。
「ホームズの事件のレポートの大半は、わたしがこっそり書いていたシナリオの脚本だったんです! ごめんなさい! 」わたしはおそるおそる帽子を取った。
「な、なんだとっ⁉︎ あれは、ではあれはきみの小説だと言うのかっ⁉︎ 」
「モリアーティに関係のない大半のシナリオは、ね」
ホームズはパイプに吸い付けながら言った。
「これだけはちゃんとバラしておかなくてはならなかった」
ドイルはカンカンに怒った。
「なにが真実の代弁者だ! これではまったくのペテンではないか! 」
ホームズはカラカラと笑った。
「『パスカヴィル家の犬』」
「……! 」ドイルは黙りこんだ。
「一昨年のことですな。びっくりしましたよ」ホームズは言った「僕たちの身に覚えのないことが書いてありましたねえ」
「計画が大幅に狂ったよ、ドイルさん」わたしも苦笑した「ホームズは死んでいるが、知られざるところで生きていたんだ。生きていると感づかせてはいけなかった」
そう、ドイル氏は、この男は、なぜだかシャーロック=ホームズの冒険を書いてしまったのだ。
「堪能しましたよ。ワトソンくんのシナリオよりずっと良かった」
「なんだと! 」今度はわたしが叫んだ「あんなの軽薄なホラー小説じゃないか! 」
「軽薄なホラーだと⁉︎ あの犬たちの正体も知らないで」ドイルは憤然としてどなった。
「まあまあ、ふたりとも。この際それは無しにしましょう。ドイル卿はルールは守っている。すなわち『ライヘンバッハ以後のホームズを小説に書いてはいない』…。テキはワトソンのシナリオだと信じ込んだろうよ」
ホームズが仲裁したが、ドイルは今度はホームズに牙をむいた。
「あれはわたしの小説だ! 」
「そうですとも、もちろん! ちゃんと『著作権・アーサー=コナン=ドイル』と書いてあるではありませんか! 」
「そういう事ではない! 」
「たいへん面白かった、大傑作でした」ホームズは笑った「このワトソンは嫉妬しているんです」
ホームズがわたしをにらみつける。まったくその通りで、わたしはこの紳士の怒りの火に油を注いでしまったのだ。
「きみが生きているんだったら、アイデアをくれたロビンソンの取り分を回さなければならんな。ワトソンくんに」
ドイルは憮然としていった。
「いえ、みごとな傑作でした」わたしは褒め言葉を探していった「わたしの描写より面白かった」
注釈
『パスカヴィル家の犬』は一九◯二年、最後の事件以降『空き家の冒険』以前に書かれた唯一のホームズものである。四長編随一の傑作と誉れ高い。ただ、この作品も共著ではある。
「しかし、あの『パスカヴィル家の犬』は素晴らしい話でした。ぼくたちが虚構に追い込まれたようなものだ。本当のぼくたちはあんなに格好良くない」
ホームズは照れたように頭に手をあてた。
「わたしが書いたのだから当たり前だ。いままでのホームズものは全てワトソンのシナリオだと⁉︎ ふん、シナリオなら、そうと言っていればもっとマシなものが書けたぞ! 」
「先生、これは目くらましなのです。物語のどこかに、実在の人物、団体、事件、あるいは名称を折り込んで、『ホームズは知っているぞ』とにらみを利かせるわけです」
唐突に、ドイルは憤然と立ち上がると、何か言おうとして絶句し、再びフラリとソファーに座った。
ドイルは、長い、とてつもなく長いペテンの存在を知ったのだ。
さながら、ドイル自身が『赤毛連盟』の構成の中にいるようなものだったのだ。
「わたしは、ダシに使われていたんだな」ドイルはこんどこそ憤然として立ち上がった「ホームズ物語として暗号文を書かされていたわけだ! 」
「ごもっともです、先生。しかし誤解をひとつといておきたい」ホームズは可笑しそうに言った「敗北したのは、僕たちのほうだったのですよ」
「敗北だと⁉︎ なんのことだ」
「ホームズ物語が面白くておもしろくて仕方がなくなったんです。ドイル先生に、この男にホームズ物語を書かせたくなったんです」
「ホームズ。きさまほどの男がじつに非理論的な事をいうじゃないか」ドイルは目を光らせた「それが動機だというのなら、そこには理論的なものがない」
「そうですね、ホームズ物語はミステリ小説です」ホームズは頷いた「しかしその根底に『この人の作品は面白いからもっと読みたい』という、まことに、真に純文学的な動機を持つようになったんです。それが『名探偵ホームズ』という作品が持ってしまった魔力なのです。それは、ドイルによってのみ可能だった、コナン=ドイル以外の何者にも書くことはできなかった」
「ホームズ文体というものは非常に『書きやすい』んだね。プロットが貧弱でもホームズとわたしに依頼人を加えれば形にはなってくる」
得意になってわたしが口を滑らせると、ドイルに向こうずねをしたたか蹴られた。
ホームズはわたしを睨んでいった。
「同情はしないよ、ワトソン君。こんな時に口を滑らせるのはいかにも君の役割だ」
ドイルは心底ギョッとした。こいつらも、世にいうシャーロキアンとかホームジアンだとかいうホームズ馬鹿と同じではないか!