3.沈黙の作戦
『ボヘミア王家の醜聞』…名探偵ホームズ、短編第1作。
かいつまんで説明すると、アイリーン=アドラーという、遣り手のプレイガール(死語)にボヘミア王子がまんまと引っかかった事件で、ホームズは王子の依頼をうけ、そのスキャンダルを揉み潰すためにアドラーと智慧のたたかいを繰り広げる…という筋立ての物語である。
けっきょくホームズはアドラーに「再犯の機会なし」と見抜いて彼女を見逃したが、スキャンダルをなんとか揉み消さなければならなかった。
ここまでが小説の内容である。
そしてその、揉み消しのためにホームズが思いついたシナリオは、スキャンダルの虚構化…。
ホームズは、無名だが実力のある作家をさがしだして、この事件を軽薄かつ面白おかしくリライトさせることによって、事件を収拾しようとしたのだ。
結果的にいうと、その作戦は成功したと言わざるをえない。
アイリーン=アドラーはこの件に二度と口を出さないという確証をホームズは持っていたがまさしくそのとおりで、この小説に現実世界から『異議』がとなえられることはなかった!
なかんづく、ホームズ自身が大喜びして、アイリーン=アドラーの描写をほめたたえていたほどだ。
(『うまいですよ先生、やっこさんも喜ぶんじゃないかな 』)
ホームズなりの計算は、匿名作家が実名をぼかしながら、あくまでもフィクションとして秘密を暴露することによって、依頼者を救い、アイリーン=アドラーの取り得る現実的報復手段を無効化する、という筋立てであった。
あのしたたかなアドラーに、いっぱい食わせるためにホームズはこの計画を立てたのだ。
この点にホームズには抜かりはなかった。また、ドイルもである。
人を食ったぼかし方はホームズが大変愉快がり、むしろ本人の新たな着想を生んだ。わたしは書きためた手記からいくつかドイルに提供する。
『ボヘミア王家の醜聞』に先行する形で、我々はホームズ小説をデビューさせた!
わたしは彼の文章は硬く、古臭くて読みづらいと思っていたのだが、例の『緋色の習作』をはじめとした事件をリライトしたものは、溌剌と躍動感にあふれ、スリルとサスペンスに満ち、ホームズという人間の息吹を、魅力を、行間にまざまざと描くとてつもない傑作となった。
『名探偵ホームズ』の誕生である。
ホームズの着想は、ここだった。これを利用し、つまり、数々の作品でホームズを一人歩きさせることによって、スキャンダル自体を虚構化することにしたのだ。
これには外交官であるマイクロフト…シャーロック=ホームズの兄が政治力を盾に裏で糸を引いたはずだった。
かくてホームズの名は売れすぎるくらい売れ、現実のスキャンダルを上回る知名度となり(ここで拍手喝采『さすがホームズ! 』)当初の目的は果たされた。
だがそれは、匿名で活動していた名探偵『シャーロック=ホームズ』が世間にさらされることとなった。
そして彼は、生死を賭けた戦いを繰り広げることとなる、モリアーティ教授と出会う。
この男は強敵だった。ホームズものの小説をすべて暗記し、それぞれの犯罪の日付を述べ「すべてわしが計画したものだった」とギロリとわれわれを見た。
また例のホームズぴちがいが来たか、とホームズを見返って、わたしは体液がすべて流れ出るかと思うほど驚いた。
ホームズは真剣な表情だった。わずかに冷や汗を浮かべて動揺していた。そして、言ったのだ。
「やっとあなたを引きずり出しましたよ、『軍師』…」
モリアーティ教授は鼻で笑った。
「世界三大探偵とよばれる、ピンカートンもデュパンも“L”とやらも無能な探偵だ。わしにたどり着いたのはきさまだけだ」
「ピンカートン、デュパン、L。全てぼくの変名です」
「えーっ⁉︎ 」わたしは叫んだ「それは色々とまずい、ホームズ! 」
手記ではこの部分をカットするように指示した。だからカットするように指示したのに。
ドイルとわたしたちが最後に会ったのはこの頃だった。
ドイル自身、妻のルイーズが結核をこじらせ長期療養を必要とする事態にせまっていた。彼はホームズと切れたがっていたのもある。ホームズの引き立て役にうんざりとしていたのだ。
そこに、わたしからの最後の手記が届いた。スイスの小里ライヘンバッハから、最後の冒険というタイトルの冠された、手記が。
ホームズ、死んだか! ドイルは慄然とした。なぜなら、モリアーティ一味を除いて、この世でもっともホームズの死を祈っていた男はドイルだからである。その心をそのまま投影した存在がモリアーティなのではないか? ドイルは思い悩んだ。
(『自分がモリアーティだったのかもしれない』)
いずれにせよ、ドイルは長期休暇を手に入れる。ホームズ、あの男は死んだのだ。
外務省に問い合わせても、マイクロフト=ホームズ、そのような者は在籍してはいないと言われ身の危険を感じて追及をやめた。
そう、わたしも彼を注意深くマークはしていたが、念入りに彼との接触は避けていた。
ホームズの、そしてわたしの願いは、気の毒なドイル卿が我々のことを忘れ、平穏に暮らしてくれることだった。そのためには、巧妙に連絡を絶つ必要があった。
ホームズの脚本通り、ドイルは「この物語はフィクションであり、実在の人物、団体、事件とは関係ありません」で通し続けた。
そして、ドイル自身もほんの数回しか顔を合わせたことのないシャーロック=ホームズなる男を、自分の夢、白日夢であったと彼自身に言い聞かせなければならなかった。
ガス灯に浮かぶ鳥打ち帽。
くわえたパイプから紫煙がかすかに揺らぐ。
「簡単な推理だよ、ワトソンくん。知恵ある者は一滴の水から大河の存在を予測できる」
とうとうと語られる、推論のアクロバット。
名探偵シャーロック=ホームズは虚構のヒーローだ。
ドイルの筆によって語られ、悪を倒すために命を投げうった不世出の英雄、彼はもういない。長い間応援ありがとう!
そうして10年の歳月が流れ、時は一九◯三年八月、ドイルの家に速達便が届く。そこにはわたしの手記とホームズからの手紙 『できる限り早く発表したい。先生、なにとぞ頼みます。S・H』が封入されていた。
その手記こそ、シャーロック=ホームズの帰還こと「空家の冒険」であった!
それが昨日のことである、といったらそれがどれだけドイルを突き動かしたかがわかるだろう。
ドイルは、あの名探偵、シャーロック=ホームズを思い出した。その筆で。
「空家の冒険」は、トリックこそ貧弱で子供騙しだが、新しい設定がつぎつぎと開陳され、バリツ、モリアーティ一味の残党、チベット滞在などキーワードが羅列された、英雄の復活と親友の再会というテーマを、実に感動的に描きだしていた。
「空家の冒険」は、中でも凡庸の感は否めない。しかし、さながら『メシアのように復活するシャーロック=ホームズ』という『名探偵の神格化』がなされたこの物語は、幾多のホームズ作品のなかでも…のみならず、あまねく推理小説のなかでも強く光る魅力がある。
「先生、ありがとう」わたしは言って彼の手をにぎった「見事なお仕事です」
「よしてくれ」肩をすくませながら、顔は微笑んでいる「それよりも、なぜ今になってこれを書かせる? ワトソンの手記によるときみは、九年まえ、一八九四年にはロンドンに戻っていたのだろう? 」
「先生つまりこういうことですよ」ホームズは両腕を広げて微笑んだ「モラン大佐──この『空家の冒険』の黒幕の人物、こいつを先週、スコットランドヤードが捕縛しました」
「えっ? 」ドイルが狐につままれたような顔をする。
「危険な人物だったんです。モリアーティは結社コーザノストラと手を組み、政治の世界では為し得なかった『暗黒社会の世界的統合』を行っていた。モラン大佐については『空家の冒険』に書いてあった通りですが、やっこさん、今まで逃げ延びて隠れ潜んでいたんですよ。いやはや、十年越しでとどめを刺したわけです」
ドイルはホームズを静かな目でみた。
「ホームズ、いったいこの小説には何の意味があるんだね? 」
「御察しの通りですよ」ホームズは照れたように笑った「モラン大佐がホームズによって捕らえられた──この宣伝効果で残党に降伏を勧告するんです。これで僕の探偵としての役割はすべて終わったのです」
注釈
『空家の冒険』発表は一九◯三年。
またこの年は、アイリーン=アドラーがアメリカで死去し、ホームズが探偵業から引退した年でもある。
ホームズがドイルに空家の冒険を書かせたのは、コナン=ドイル作「シャーロック=ホームズ・シリーズ」に危険がなくなったことを確信してのことであった!