2.批評
ホームズは「空家の冒険」を熱狂的に読んでいたが、
「ふむ」
彼はわたしを振り返ってとんでもないことを言った「ねえ、ワトソン。僕バリツなんて言ったかねえ」
「言ったよ! 」
「言いました! 」
ドイルとわたしは声をそろえて言った。
「日本のバリツ? どういう意味かねえ? 」
「日本語では拳闘のことを武術って言うが、それのことじゃないか? 」
「ふうん? まあこれはこれでこのまま出しましょうか」
ホームズは納得のいかない様子だ。
「いい加減なものだ」
と、ドイルは毒吐く。
あんたこそだい、とわたしは思った。
ホームズは驚くべき速さでその200枚の草稿を読み切ると、傍らのペン立てから抜いた速記用の鉛筆でページ数と文体ミスをいくつか書き込み、一緒に書類鞄に戻した。
「見事な傑作です、アーサー=コナン=ドイル卿。あなたはやはり天才だ」
「わたしも拝見」わたしはうずうずと手を震わせながら、10年振りのわたしたちの活躍をしるした小説を手にとった。
「ほめられても嬉しくないよ、これは低俗な娯楽小説だ。わたしは純文学が書きたいのだ」
言いながら、ドイルは満更でもなさそうだ。書いたものを率直に褒められて嬉しくない作家がいるだろうか。
それに、先ほどホームズが看破した通り、ドイルは小説を書くのが楽しくて仕方がなかったのだ。
通常ならペンだこの神経痛はひどいもので、書く最中何度も指を冷やさなくてはならない。しかし、書いているうちに興が乗ると、その痛みを超越した境地に達するのだ。
痛くても、この物語の続きが知りたい、それを書けるのは自分だけだからだ、作者とはすなわち最初の読者である。
娯楽小説を一番の娯楽としているのは、作者そのものなのだ。
わたしにはそれがよくわかる。なぜなら、わたしはワトソンだからだ。
わたしは『空家の冒険』の原稿を、丁寧にめくった。
われわれの付き合いは実に10年ちかくにもおよぶ。ことの発端は、ボヘミア王家のスキャンダルを、真実をもって打ち消すために、事件を公にする必要が生じたことによる。
ホームズは、わたしの手記をリライトしてくれる作家を、新聞で公募して募ったのである。
そのころドイルは開業したての外科医であったが、大変に困窮していた。来院患者は、金のない傷痍軍人ばかりだった。しかしドイルは国に貢献した兵士たちを実に丁重に扱った。それというのも、ドイルにとって彼らは、しばしば着想のもととなる様々な情報を提供してくれる存在であったからだ。わたしつまりワトソンが軍医であるという設定は、この体験から生まれた。
しかし彼の書いたものは売れなかった。世の中に小説があふれるなか、本当の傑作はごくまれだ。「じぶんは傑作を書いているから売れなくて当然なのだ」という、若者に特有の自己の肥大を彼はかかえていた。
だから、世の中の売れていると評判の軽薄な小説などを読み捨てるたび、
「こんなものじぶんでも書ける」そう思っていた。
1893年、ストランド・ジャーナル紙の記事の一角に、ドイルは風変わりな募集をみた。
『真実の代弁者、求む。先着一名。われわれの手記をリライトしてくれる人物、但し読み物として面白い、軽薄な小説であることを条件とする。習作を持参すべし。成功報酬1000ポンドなり。S・H』
それは破格の金額だった。
しかし、ドイルはこの奇妙な募集の、『習作を持参すべし』というやつに惹かれた。
「作品を見てもらいたい」
面接場所は、ベイカーストリートの住所が記されていた。
彼は、書き始めた。
ホームズは暖炉にあたり、来客の作品を読みながら、
「はいボツ」
「はいダメ」
「はい帰って」
「はいつまらない」
「はいきたない」
「はい爆発」
と面接者の選別を行なっていた。
ホームズにとって必要なのは、そこそこ読ませる文章を書く、無名の人物である。
その上で、真実を的確に選別して描写をおこなう作風であることが求められる。
青ざめたような若い青年紳士が、わたしとホームズの前に現れたとき、彼は極度に緊張した状態であった。
「書いたものに自信はあるんですが」ドイルは言った「誰にも見せたことがありません」
「結構です」ホームズはにこやかに言った「ご作品を」
ホームズの選別法は単純だ。面白いか面白くないか。驚くべき速読で原稿をめくり、あっさりと見切っていく。
ドイルの原稿を手にしたときも、わたしは、似たようなものだろうと思った。
『白魔の森』と題するその作品は、ナポレオンがロシアで体験した、戦闘よりも恐ろしい「寒さ」をテーマに、傷病兵から収集した実地的知識による生々しい描写とともに、わかりにくいが捻ったトリックで物語を着地させている、なかなかに凝った力作であった。
ホームズははじめて原稿のすべてに目をとおした。そしてさらに二度、おそろしい速さで読みなおした!
熱狂的なすがたであった。ペン立てから鉛筆を抜いて速記帳に「修正箇所」を示し、原稿とともに書類かばんの上に丁寧においた。
「いやあ、まったく脱帽です、アーサー卿」
「と、申しますと…? 」
「面白いです。この物語は史実に基づいた実話を再構成したものですね? 」
「わかっていただけましたか! 」ドイルは思わず席を立った。
「そして、あなたなりに歴史の真実にせまった、そういった作品ですね! 」
「ああ、そうなんです。もし合格しなくとも、ここにきた甲斐がありました」
ホームズに言われて、ドイルはもはや感涙せんばかりだった。
「本当なのかい、ホームズ」
「まあじっくり読んでみたまえ。名文だ。実に読ませる…先生、合格ですよ。あなたの『作風』に賭けましょう」
ホームズはドイルの手をかたく握った。
こうして、わたしたちは『ボヘミア王家の醜聞』に関するレポートをドイルに手わたした。